「その指輪を見た日、僕は少しだけ諦めようと思った」
「その指輪を見た日、僕は少しだけ諦めようと思った」
朝から、僕はいつも通り仕事をしていた。
昨日、間違えて送ってしまった本音のメール。
さくらさんに恋心が知られてしまったかもしれないという恐怖で、朝から何度も彼女の顔を盗み見ていた。
けれど、さくらさんはいつも通りだった。
「おはようございます。昨日のメールの件、少しお話ししたいことがあるのですが……」
「は、はいっ!」
思わず声が裏返った。
さくらさんは一瞬きょとんとしたあと、微笑んだ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。お仕事が終わってからで構いませんから」
「わ、わかりました!」
(終わった……。絶対に終わった……)
僕は心の中で頭を抱えた。
しかし、今日の業務は待ってくれない。
午前中は自分の仕事を片づけ、午後は先輩社員の資料作成を手伝い、さらに別部署から頼まれていた確認作業まで終わらせた。
気づけば、時計は定時を少し過ぎていた。
「よし……終わった」
僕は書類を整え、さくらさんのデスクへ向かった。
「さくらさん、本日の業務報告です。依頼されていた資料の確認も終わりました。別部署の件も、先方に確認して対応済みです」
「ありがとうございます。確認しますね」
さくらさんは書類を受け取り、目を通し始めた。
「……はい、問題ありません。今日もお疲れさまでした。ずいぶん頑張りましたね」
「いえ、皆さんのおかげです」
「ふふっ。そういうところ、あなたらしいですね」
その笑顔を見た瞬間、胸が温かくなった。
やっぱり、好きだ。
仕事を頑張れば、いつかもっと自然に話せるようになるかもしれない。
そんなことを考えていた、そのときだった。
さくらさんが書類を机に置いた。
その手が、僕の目に入った。
薬指に、指輪がはめられていた。
「…………え?」
一瞬、時間が止まったような気がした。
細くて、上品な指輪だった。
仕事の邪魔にならないような、シンプルなデザイン。
でも、僕にはそれが何を意味するのか、すぐにわかってしまった気がした。
(……指輪?)
(薬指……だよな?)
(え、待って……)
僕は慌てて視線をそらした。
さくらさんは書類を片づけていて、僕の様子には気づいていない。
けれど、僕の頭の中では、いろいろな考えが一気に駆け巡っていた。
(既婚者……なのかな)
(そりゃ、さくらさんなら……そうだよな)
仕事ができて、優しくて、困っている人を放っておけなくて。
笑顔が素敵で、誰に対しても丁寧で。
そんな人に、大切な人がいても不思議じゃない。
むしろ、いて当然なのかもしれない。
(……僕、何を期待していたんだろう)
昨日、間違えて送ってしまったメール。
そこに書かれていた、隠しておきたかった本音。
もし本当に既婚者なら、なおさら知られてはいけなかった。
僕はぎゅっと拳を握った。
(もう、諦めたほうがいいのかな)
胸の奥が、じわじわと苦しくなった。
それでも、目の前のさくらさんには、いつも通りに接しなければならない。
「……では、僕はこれで失礼します」
「あれ? もう帰るんですか?」
「はい。ちょっと、用事がありまして」
嘘だった。
今日は何の予定もない。
ただ、これ以上さくらさんの顔を見ていたら、今まで通りに笑えなくなりそうだった。
「そうですか。では、気をつけて帰ってくださいね」
「……はい。お疲れさまでした」
僕は頭を下げ、足早にデスクを離れた。
いつもなら、帰る前に庭へ寄る。
さくらさんと少しだけ話せるかもしれないから。
でも、今日は行かなかった。
廊下を歩きながら、何度も自分に言い聞かせた。
(大丈夫)
(仕事は仕事だ)
(さくらさんは僕の教育係。それ以上を望んじゃいけない)
それなのに。
指輪を見た瞬間の衝撃は、なかなか消えてくれなかった。
翌日――少しずつ変わる距離
「おはようございます」
翌朝、さくらさんがいつものように声をかけてきた。
「お、おはようございます!」
僕は必要以上に大きな声で返事をした。
そして、すぐにパソコンへ視線を戻した。
「……?」
さくらさんは不思議そうに首をかしげた。
以前なら、朝のちょっとした雑談にも付き合っていた。
昨日見つけたゲームの話。
庭から見える景色の話。
仕事がうまく進んだときの、何気ない報告。
ほんの数分でも、僕にとっては楽しみな時間だった。
でも、今日からは少しだけ距離を置こう。
そう決めた。
「昨日のメールの件ですが、今日のお昼休みに少しお時間をいただけますか?」
さくらさんが尋ねてきた。
「……メール、ですか?」
「はい。昨日、送ってくださったものです」
心臓が跳ねた。
(ああ……そうだった)
僕はあのメールのことを、すっかり忘れたふりをしていたかった。
「すみません。あの件は……もう大丈夫です」
「もう大丈夫、ですか?」
「はい。忘れてください」
さくらさんの表情から、笑顔が消えた。
「……わかりました」
静かな返事だった。
それが、かえって胸に刺さった。
昼休み。
いつもなら庭へ向かう時間だった。
僕は社員食堂で昼食を済ませると、そのまま自分のデスクへ戻った。
誰とも話さず、午後の資料に目を通す。
すると、少し離れた場所から声がした。
「さくらさん、今日は庭に行かないんですか?」
同僚の女性が尋ねている。
「……ええ。今日は少し、気になることがありまして」
「珍しいですね。いつもなら、あの子とお話ししているのに」
「そうですね……」
僕は聞こえないふりをした。
さくらさんが、こちらを見ているような気がしたから。
午後三時。
資料を届けるために、僕はさくらさんのデスクへ向かった。
「さくらさん、こちらの資料です」
「ありがとうございます」
書類を受け取る彼女の手が、また視界に入った。
やっぱり、指輪がある。
僕は思わず目をそらした。
すると、さくらさんが小さく息をついた。
「……あの」
「はい?」
「私、何かしてしまいましたか?」
「えっ?」
「今朝から、ずっと避けられているような気がするんです」
「そ、そんなことありません!」
慌てて否定した。
けれど、さくらさんは僕の目をまっすぐ見ていた。
「では、どうして目を合わせてくださらないんですか?」
「それは……」
言えない。
あなたの指輪を見て、勝手に失恋した気分になりました。
あなたに大切な人がいるのなら、これ以上好きにならないようにしようと思いました。
そんなこと、口が裂けても言えるわけがない。
「……少し、疲れているだけです」
「そうですか」
さくらさんは、それ以上追及しなかった。
けれど、書類を受け取ったあと、ぽつりと言った。
「私、あなたとお話しする時間を、楽しみにしていたんですけどね」
「…………え?」
「いえ。何でもありません」
彼女はいつもの笑顔に戻った。
でも、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
僕は何も言えなかった。
好きな人を傷つけたくないと思って距離を置いたのに、結局、自分の気持ちを隠すことで彼女を困らせている。
そんな自分が、少し嫌になった。
夕方――庭で見つかった勘違い
定時を迎え、僕は誰よりも早く仕事を終えた。
今日はもう、さくらさんと顔を合わせたくなかった。
けれど、帰り支度をしていると、同僚が声をかけてきた。
「そういえば、さくらさんの指輪、昨日から新しくなったんだって?」
「……え?」
思わず振り向いた。
「ほら、薬指の。あれ、アクセサリーらしいよ。なんか気に入って買ったんだって」
「…………アクセサリー?」
「うん。結婚指輪じゃないって、さっき本人が話してたよ。デザインが気に入って、つける指も自由にしてるんだってさ」
僕の頭の中が真っ白になった。
(え?)
(結婚指輪じゃ……ない?)
(じゃあ、昨日から僕が勝手に落ち込んでいたのは……)
ただの勘違い?
丸一日、勝手に失恋して。
さくらさんを避けて。
彼女が楽しみにしていた時間まで、なくしてしまって。
「…………あああ……」
僕は机に突っ伏した。
恥ずかしい。
とにかく、恥ずかしい。
でも、同時に胸の奥が少し軽くなった。
(……よかった)
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、僕は慌てて顔を上げた。
(いや、何がよかったんだよ!)
(そもそも、さくらさんが誰を好きでも、僕には関係ないだろ!)
……それでも。
まだ、諦めなくていいのかもしれない。
そう思ってしまった自分を、もう否定できなかった。
僕は気持ちを落ち着けるため、いつもの庭へ向かった。
夕日に照らされた木々を眺め、ベンチに腰を下ろす。
「……本当に、何やってるんだろうな、僕」
すると。
「何をなさっているんですか?」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、さくらさんが立っていた。
「さ、さくらさん!?」
「こんばんは。……やっと見つけました」
「え?」
「今日、一度もゆっくりお話しできなかったので」
彼女は僕の隣ではなく、少し離れたベンチに腰を下ろした。
そして、僕の顔をのぞき込む。
「それで……私、本当に何かしてしまいましたか?」
「い、いえ! 何も!」
「本当ですか?」
「ほ、本当です!」
さくらさんは、しばらく僕を見つめていた。
それから、ふっと微笑んだ。
「……では、ひとつだけ聞いてもいいですか?」
「はい……?」
「私の指輪、何か気になりました?」
「――っ!?」
心臓が止まるかと思った。
(な、なんで!?)
(見ていたの、バレてた!?)
「え、えっと、その……」
「昨日から、指輪を見るたびに目をそらされている気がしたので」
さくらさんは自分の左手を見た。
薬指には、あの指輪。
「これ、気に入っているアクセサリーなんです。結婚指輪ではありませんよ」
「…………っ!」
顔が熱くなった。
僕は何とか平静を装おうとした。
「そ、そうなんですね……!」
「はい。……もしかして、何か勘違いをされていましたか?」
「い、いえ! 全然!」
「ふふっ。そうですか?」
完全に見抜かれている。
さくらさんの笑顔が、いつもより少しだけいたずらっぽく見えた。
「でも、よかったです」
「……え?」
「あなたに避けられているのかと思って、少し寂しかったので」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
僕は視線を落とした。
「……すみません」
「どうして謝るんですか?」
「それは……」
あなたが大切だから。
あなたに嫌われたくないから。
あなたのことが好きだから。
言えない言葉ばかりが、喉につかえていた。
「……ちょっと、自分の中で考え事をしていました」
ようやく、それだけ答えた。
さくらさんは、無理に聞き出そうとはしなかった。
「そうですか。では、考え事が終わったら、またお話ししてくださいね」
「……はい」
「明日も、いつも通り話しかけてくださるとうれしいです」
彼女は立ち上がった。
そして、帰り際に振り返る。
「それと……昨日のメールのことも、まだお話しできていませんからね?」
「…………あっ」
忘れていた。
いや、忘れたかった。
さくらさんは、柔らかく微笑んだ。
「逃げないでくださいね?」
「は、はい……」
彼女が去ったあと、僕はベンチに座ったまま、両手で顔を覆った。
(……危なかった)
(指輪ひとつで、一日中避けてしまうなんて)
けれど、ひとつだけわかったことがある。
僕は、さくらさんのことを思っていた以上に好きになっている。
だからこそ、少しのことで傷ついてしまう。
そして、彼女が寂しかったと言ってくれたことが、どうしようもなくうれしかった。
「……明日は、ちゃんと話そう」
そう決めて、僕は立ち上がった。
ただし。
昨日のメールの話だけは、まだ何とかして先延ばしにしたかった。
なぜなら、さくらさんはまだ知らない。
あのメールに書かれていた、たったひとつの本音が。
僕の中で、今も消えずに残っていることを。
そして翌朝――。
「おはようございます。今日は、昨日のメールのお話をしましょうか」
さくらさんは、逃げ道をふさぐように僕のデスクの前に立った。
「……お、おはようございます」
僕の一日は、またしても波乱の予感しかしなかった。