「定時前の小さな手助けと、すべてを見ていた社長」
「定時前の小さな手助けと、すべてを見ていた社長」
午後4時40分。
あなたは専務室で今日の仕事を一通り終え、パソコンの画面を閉じた。
「……よし。今日の仕事は、ひとまず終わりかな」
時計を見る。
定時までは、あと20分。
「まだ少し時間があるな。ほかの部署で困っている人がいないか、見て回るか」
あなたはそう呟くと、専務室を出た。
廊下を歩きながら、各部署の様子を確認していく。
営業部では、社員たちが最後の確認に追われていた。
経理部では、書類の整理をしている人がいる。
企画部では、明日の会議に向けて資料をまとめているところだった。
「皆さん、忙しそうだな……。邪魔しないようにしよう」
あなたは軽く会釈をしながら、静かに廊下を進んだ。
そして、ふと足を止めた。
そこにあったのは、美咲さんの机。
さらに、その隣には――。
さくらさんの机があった。
「……えっ?」
思わず声が漏れそうになった。
二人の机には、書類が山のように積み重なっていたのだ。
美咲さんの机には、確認待ちの企画書と顧客向けの資料。
さくらさんの机には、部下から提出された報告書や、翌日の会議で使う資料が大量に置かれていた。
二人ともパソコンに向かい、黙々と仕事を進めている。
美咲さんは何度も時計を確認していた。
さくらさんも、いつもの穏やかな表情を保っているものの、少しだけ疲れが見える。
あなたは廊下の陰で立ち止まった。
「……あれ、今日中に終わるのかな」
声を掛けようか。
いや、二人とも集中している。
それに、手伝いを申し出たら、きっと遠慮するだろう。
あなたは少し考えたあと、静かに頷いた。
「よし。気づかれないように、できるところだけ手伝おう」
もっとも――。
あなたは、この時点ですでに気づいていなかった。
廊下の向こう側から、部長と社長がこちらを見ていたことに。
1.誰にも気づかれないはずの作戦
あなたはまず、自分の専務室へ戻った。
机の引き出しから付箋を取り出し、必要な書類の種類を思い出しながら、小さなメモを作る。
「美咲さんの企画書は、数字の確認が中心。さくらさんの報告書は、提出先ごとに整理すれば確認しやすくなるはず……」
もちろん、勝手に内容を書き換えるつもりはない。
あくまで、二人の仕事が少しでも進めやすくなるようにするだけだ。
あなたは必要な資料を確認し、担当者の承認が必要なものには手をつけず、整理や照合など、自分が責任を持ってできる範囲を見極めた。
そして、誰もいないタイミングを見計らって、再び二人の机へ向かった。
「美咲さん、さくらさん……頑張ってるな」
小さく呟き、まずは美咲さんの机の端に置かれていた資料を確認する。
数字の照合が必要な部分を整理し、間違いがないかを確認する。
そのうえで、確認済みの箇所に付箋を貼り、残りの確認項目を簡潔にまとめた。
次に、さくらさんの机へ。
「……さくらさんの資料、これだけあるのか」
思わず苦笑いする。
いつも完璧に仕事をこなしているさくらさん。
周囲から頼られ、困っている社員がいればすぐに助け、教育係としても誰より丁寧に指導している。
そんな彼女だからこそ、気づけば仕事が集まってしまうのだろう。
「……いつも、ありがとうございます」
誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
そして、報告書を提出先ごとに整理し、添付資料の不足がないか確認する。
最後に、さくらさんがすぐに作業を再開できるよう、確認が必要な書類を一番上に置いた。
「これで、少しは楽になるかな」
あなたは満足そうに頷いた。
その時だった。
「……ふふっ」
背後から、小さな笑い声が聞こえた。
「……え?」
振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
「気のせいか……?」
あなたは首を傾げ、足早に専務室へ戻った。
その直後。
廊下の角から、社長と部長が顔を出した。
社長は腕を組み、楽しそうに笑っている。
部長は、呆れたように額を押さえた。
「社長。あれは、完全にこっそり手伝っていましたね」
「そうだね。しかも、自分の仕事を終わらせてからだ」
「専務になっても、まったく変わりませんね。自分の仕事だけでなく、周囲の社員まで気にかけている」
社長は、あなたが消えていった廊下を見つめた。
「……あの子のいいところだよ。誰かに褒められるためじゃなく、困っている人を見つけたら自然と動く」
「ええ。ただ、一つ気になることが」
「さくらさんの机を見た時だけ、少し様子が違いましたね?」
部長の言葉に、社長はにっこりと笑った。
「よく見ているね」
「社長もでしょう」
「もちろん」
二人は顔を見合わせた。
そして、ほぼ同時に呟いた。
「「……これは、本人たちには内緒にしておこう」」
ところが。
「……何を内緒にするんですか?」
二人の背後から声がした。
振り返ると、そこには書類を取りに来た美咲さんが立っていた。
社長と部長は、ぴたりと固まった。
「い、いや。明日の会議の話だよ」
「そ、そうそう。会議の準備だ」
「……?」
美咲さんは不思議そうに首を傾げた。
2.机の上にあった、小さな優しさ
午後4時55分。
美咲さんは、ふと自分の机の上に目を向けた。
「……あれ?」
さっきまで、確認しなければならない項目がたくさん残っていたはずだった。
ところが、書類の一部がきれいに整理され、確認済みの箇所には付箋が貼られている。
「えっ……これ、誰が?」
美咲さんは周囲を見回した。
「さくらさん、すみません。ちょっとこちらを見ていただけますか?」
「はい。どうしましたか?」
さくらさんが顔を上げる。
美咲さんは、自分の机の資料を指差した。
「これ、さっきまで整理できていなかったんですけど……いつの間にか、すごく分かりやすくなっていて」
さくらさんは資料を確認した。
そして、すぐに気づいた。
「……この付箋の貼り方」
「え?」
「確認する順番が、私たちが普段使っている方法と同じです」
さくらさんは、整理された資料を一枚ずつめくった。
確認項目の書き方。
書類の並べ方。
そして、最後に添えられた小さなメモ。
そこには、こう書かれていた。
『確認が必要な箇所は残しています。お二人とも、無理をしすぎないように。』
さくらさんは、そっと目を細めた。
「……もう」
その口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「さくらさん? 誰がやったか分かったんですか?」
「……ええ。おそらく」
「誰ですか?」
さくらさんは、少しだけ頬を赤くした。
「……秘密です」
「ええっ!? 気になります!」
美咲さんが身を乗り出す。
さくらさんは書類を胸元に抱えるように持ち、いつもの丁寧な口調で言った。
「でも、きっと……優しい方なのでしょうね」
「……はい。そうですね」
美咲さんも笑った。
その後、美咲さんは整理された資料のおかげで確認作業を順調に進められた。
さくらさんも、報告書の確認に取りかかる。
二人の表情には、先ほどまでの疲れだけではなく、少しだけ明るさが戻っていた。
そして、さくらさんは誰にも見られないように、小さく呟いた。
「……ありがとうございます」
その声は、とても優しかった。
3.定時のチャイムと、専務の独り言
午後5時。
定時を知らせるチャイムが鳴った。
あなたは専務室でパソコンを閉じ、椅子の背もたれに体を預けた。
「……よし。今日も一日、お疲れさまでした」
軽く伸びをする。
そして、ふと思い出した。
「そういえば、美咲さんとさくらさん……少しは楽になったかな」
あなたは窓の外を見つめた。
「さくらさん、いつもみんなのことを気にかけてくれるからな……」
少しだけ笑みが浮かぶ。
「たまには、さくらさん自身も誰かに頼っていいと思うんだけど」
そこまで言って、あなたはハッとした。
「……いやいやいや!」
勢いよく首を振る。
「何を考えているんだ、僕は! 別に、さくらさんだけ特別に気にしているわけじゃ……!」
そこで、あなたは口を閉じた。
数秒の沈黙。
「……いや、気にしてるな」
認めてしまった。
「だって、好きなんだから……」
小さな声だった。
誰も聞いていない。
そう思っていた。
しかし。
専務室のドアの向こうでは、社長が書類を持ったまま立ち止まっていた。
その隣には部長。
二人とも、目を丸くしている。
社長はゆっくりと部長を見た。
部長も、ゆっくりと社長を見た。
そして、二人は声を出さずに口だけを動かした。
『今、何て?』
『聞こえましたよね?』
『聞こえたね……』
社長は口元を押さえ、笑いを必死にこらえた。
部長は天井を仰いだ。
「……社長。これは、聞かなかったことにするべきでしょうか」
「もちろんだよ」
社長は即答した。
「ただし」
「ただし?」
「……今後の二人の様子は、少しだけ気になるね」
「社長、それはもう完全に面白がっていますよね?」
「否定はしないよ」
その時。
ガチャッ。
あなたが専務室のドアを開けた。
「……あれ? 社長? 部長?」
二人は、びしっと姿勢を正した。
「お、お疲れさま!」
「お疲れさまです、専務!」
「……? 何をしているんですか?」
社長は書類を持ち上げた。
「書類を届けに来たんだよ!」
部長も頷く。
「そ、そうです。大事な書類です!」
あなたは二人の様子を不思議そうに見つめた。
「……そうですか?」
「そうだよ!」
「はい!」
「……?」
何かがおかしい。
しかし、あなたは深く考えないことにした。
「では、お先に失礼します」
「うん、お疲れさま!」
「お疲れさまでした!」
あなたが廊下を歩いていく。
その背中を見送りながら、社長はぽつりと呟いた。
「……まったく。いい子だね」
部長も頷く。
「ええ。だからこそ、応援したくなりますね」
「そうだね。ただし、本人たちの気持ちを大事にしよう」
「はい」
二人は笑顔で頷いた。
4.帰り際、さくらさんからの一言
会社の玄関へ向かっていたあなたは、後ろから聞こえた声に足を止めた。
「……あの、専務」
振り返ると、さくらさんが立っていた。
「さくらさん? まだお仕事だったんですか?」
「いえ、ちょうど終わったところです」
さくらさんは、あなたの前まで歩いてくる。
そして、少しだけためらったあと、にこりと微笑んだ。
「今日は、ありがとうございました」
「……え?」
心臓が跳ねた。
ドクン。
「な、何のことでしょうか?」
「ふふっ。何のことでしょうね?」
さくらさんは、いつもより少しだけいたずらっぽく笑った。
「おかげさまで、予定していた仕事をきちんと終えることができました」
「そ、それはよかったです!」
「はい。本当に助かりました」
さくらさんは、まっすぐあなたを見つめた。
「……いつも、周りの方のことをよく見ていらっしゃいますね」
「い、いえ! そんなことは!」
「そうでしょうか?」
「そうです! 僕はただ、たまたま通りかかっただけで……!」
「たまたま、ですか」
「は、はい!」
さくらさんは少し考えるように視線を落とした。
そして、再び顔を上げる。
「……では、私もたまたま、あなたの優しさに気づいたということにしておきますね」
「…………」
ドクンッ。
「……さくらさん」
「はい?」
「……いえ、何でもありません」
危なかった。
今、何かを言いそうになった。
好きです、と。
いつもありがとうございます、と。
あなたの笑顔が好きです、と。
全部、喉元まで出かかっていた。
しかし、さくらさんは何も追及せず、優しく微笑んだ。
「それでは、また明日。お疲れさまでした」
「……お疲れさまでした!」
さくらさんは小さく手を振り、帰っていった。
あなたはその場に立ち尽くした。
「…………」
そして、誰もいない玄関で、そっと胸を押さえた。
「……心臓に悪い」
ドクン、ドクン。
「……本当に、かわいいな」
言った瞬間、あなたは両手で顔を覆った。
「……あああああ! また言っちゃった!」
もちろん、さくらさんには聞こえていない。
……はずだった。
少し離れた場所。
社長と部長が、偶然にも忘れ物を取りに戻ってきていた。
社長は、部長の肩にそっと手を置いた。
「……聞いた?」
「……聞きました」
「……青春だねえ」
「社長、声が大きいです」
二人は笑いをこらえながら、静かにその場を離れていった。
そして翌朝。
社長はあなたとさくらさんの顔を見るなり、いつも以上に機嫌よく挨拶をすることになる。
あなたはその理由を知らない。
さくらさんも、まだ知らない。
ただ一人、すべてを知っている社長だけが――。
「さて、今日はどんなことが起きるかな?」
と、楽しそうに笑っていたのだった。