「初めて、僕のために怒ってくれた人」
「初めて、僕のために怒ってくれた人」
朝の業務が始まってから、数時間。
あなたはいつものように自分のデスクで仕事を進めていた。
今日の予定は順調だった。午前中に自分の仕事を終わらせ、午後からは他の社員のサポートに回るつもりだった。
そんなときだった。
「すみません、ちょっといいですか?」
声をかけてきたのは、別部署の社員だった。
「はい、どうしました?」
「この資料、今日中に修正してもらえます?」
差し出された資料を確認すると、どうやらあなたの部署とは直接関係のない仕事だった。
「申し訳ありません。こちらの業務は担当外なので、まずは担当部署の方に確認していただいたほうが……」
「いや、君ならできるでしょ?」
「え?」
「いつも他の人の仕事を手伝ってるじゃないですか。これくらい、いいですよね?」
あなたは困ったように笑った。
「できる範囲であればお手伝いしますが、今抱えている業務もありますので……」
すると、相手の表情が変わった。
「は? いつも手伝ってるのに、今回は断るんですか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「じゃあ、やってくださいよ。こっちも困ってるんですから」
気がつけば、別部署の社員がもう二人、あなたのそばに立っていた。
「この前だって手伝ってくれたじゃないか」
「君、仕事が早いんでしょ?」
「新人だからって、こういうところで協力しないとさ」
次々と浴びせられる言葉。
あなたは反論しようとした。
けれど、相手の言葉を遮ることができなかった。
自分が断れば、誰かが困るかもしれない。
自分が断れば、嫌われてしまうかもしれない。
そんな考えが頭をよぎって、うまく言葉が出てこなかった。
「……すみません」
思わず、謝ってしまった。
本当は、あなたが謝る必要なんてなかったのに。
「その言い方、やめてもらえますか?」
「だから、今日中にやってくれればいいんですよ!」
別部署の社員が、あなたのデスクに資料を置いた。
「君ならできるよね?」
「……はい。できる限り、やってみます」
そう答えた、その瞬間だった。
「ちょっと、待ってください」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
そこに立っていたのは、さくらさんだった。
いつもどおり整った身だしなみ。落ち着いた表情。
けれど、その目はいつもと違っていた。
「さくらさん……?」
さくらさんはあなたを一度見てから、別部署の社員たちに向き直った。
「今のお話、少し聞こえていたのですが」
いつもの丁寧な口調だった。
「この仕事は、こちらの部署に正式に依頼されたものですか?」
「いや、正式というか……」
「担当者の方には確認されましたか?」
「それは、まだですけど」
「では、なぜ彼に頼んでいるのでしょうか?」
穏やかな声。
しかし、ひとつひとつの言葉には、はっきりとした意思があった。
相手の社員が少し顔をしかめる。
「いや、彼が仕事を早く終わらせるって聞いたから、お願いしているだけですよ」
「お願い、ですか?」
さくらさんは、あなたのデスクに置かれた資料を見た。
「私には、断りにくい状況を作って、無理に引き受けさせているように見えますが」
「そんなつもりは……」
「でしたら、今すぐ担当部署を通して正式に依頼してください。彼にも、こちらの部署の業務があります」
ここまでは、いつもの敬語だった。
ところが。
別部署の社員が、あなたを見ながら言った。
「でも、本人もやるって言ってますよ?」
その瞬間。
さくらさんの表情が変わった。
「……だから、そういう問題じゃないでしょ」
空気が止まった。
あなたも、思わず息をのんだ。
さくらさんは一歩前に出た。
「本人が断りにくいから、無理して引き受けようとしてるんじゃないの?」
「いや、でも……」
「でもじゃない。自分たちの仕事を、勝手にこの人に押しつけないで」
声は大きくなかった。
それなのに、いつも優しいさくらさんとは思えないほど、はっきりとした口調だった。
「この人が普段、周りを手伝っているからって、それを当たり前だと思わないでください。自分の仕事を抱えながら、みんなの手伝いまでしてるんです」
さくらさんは、あなたのほうを一瞬だけ見た。
そして、もう一度、相手に視線を戻した。
「この人の優しさにつけ込むようなことは、やめてください」
……。
あなたは、何も言えなかった。
さくらさんが怒っている。
それも、自分のために。
今まで、あなたは誰かに仕事を押しつけられても、困っている人を見つければ自分から手伝ってきた。
断るよりも、引き受けるほうが楽だったから。
嫌な顔をされるくらいなら、自分が頑張ればいいと思っていたから。
でも。
今、さくらさんはあなたに代わって怒ってくれている。
あなたが言えなかったことを。
あなたがずっと我慢していたことを。
代わりに、言ってくれている。
「……すみません」
別部署の社員たちは、気まずそうに顔を見合わせた。
「正式に依頼するようにします」
「最初からそうしてください」
さくらさんは、最後にそう告げた。
そして、彼らが立ち去るまで、その場を動かなかった。
「……大丈夫ですか?」
社員たちが去ったあと。
さくらさんは、あなたの隣にやってきた。
先ほどまでの厳しい表情は、すっかり消えていた。
「大丈夫ですか? 嫌な思いをしましたよね」
「……あ、はい」
あなたは慌てて笑った。
「大丈夫です。僕がちゃんと断ればよかっただけなので」
その言葉を聞いたさくらさんは、少しだけ眉を下げた。
「……どうして、あなたが謝るんですか?」
「え?」
「あなたは、何も悪いことをしていませんよ」
静かな声だった。
「困っている人を助けるのは、あなたのいいところです。でも、だからといって、何でも引き受けなければいけないわけじゃありません」
「……はい」
「自分の仕事も、ちゃんと大切にしてくださいね」
いつもの敬語に戻ったさくらさんは、少し困ったように微笑んだ。
「それに、困ったときは私に相談してください。教育係なのですから」
その言葉を聞いた瞬間。
あなたの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
嬉しかった。
ものすごく、嬉しかった。
自分の仕事を守ってくれたことも。
自分の代わりに怒ってくれたことも。
何より、あなたが我慢していることに気づいてくれたことが。
嬉しくて、胸がいっぱいになった。
けれど、そんな気持ちを知られるわけにはいかない。
あなたは、必死にいつもの笑顔を作った。
「ありがとうございます、さくらさん」
「いえ。これも私の仕事ですから」
さくらさんはそう答えた。
……でも。
あなたがもう一度「ありがとうございます」と言うと、さくらさんは少しだけ視線をそらした。
「……そんなに何度もお礼を言わなくても大丈夫ですよ」
「でも、本当に嬉しかったので」
口にしてから、しまったと思った。
嬉しかった。
その言葉には、仕事を助けてもらった以上の気持ちが混ざっていた。
さくらさんが首をかしげる。
「……嬉しかった?」
「あっ、えっと!」
あなたは慌てて資料を持ち上げた。
「その、先輩に助けていただけるのは心強いなと思いまして!」
「……ふふっ」
さくらさんが笑った。
「そうですか。それなら、よかったです」
危なかった。
本当に、危なかった。
あなたは心の中で胸をなでおろした。
教育係のさくらさんには、恋心を知られてはいけない。
それなのに、あなたの心は今まで以上に、さくらさんのことを好きになってしまっていた。
昼休み、庭にて
昼休みになると、あなたはいつもの庭に向かった。
静かな場所で、一人になりたかった。
ベンチに腰を下ろし、空を見上げる。
「……はぁ」
思わず、ため息が出た。
今日の出来事を思い出す。
さくらさんが、怒ってくれた。
いつもは丁寧な敬語で、誰に対しても落ち着いて接しているさくらさん。
そんな彼女が、あんなふうに強い口調で怒るなんて。
しかも、自分のために。
「……嬉しかったな」
ぽつりと、呟いた。
「本当に……嬉しかった」
誰もいない庭だからこそ、素直な気持ちを口にできた。
あなたは、さくらさんの言葉を思い出した。
――この人の優しさにつけ込むようなことは、やめてください。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
自分のことを、そんなふうに見てくれていたんだ。
自分が普段、無理をしていることも。
断れずに困っていることも。
気づいてくれていたんだ。
「……さくらさん」
名前を呼んでみる。
それだけで、胸が温かくなる。
「好きだなぁ……」
小さな声だった。
誰にも聞かれないように、そっと呟いた。
「……本当に、好きだ」
そのとき。
「……何が好きなんですか?」
「っ!?」
聞き覚えのある声が、すぐ後ろから聞こえた。
あなたは勢いよく振り返った。
そこには――。
さくらさんが立っていた。
「さ、さくらさん!?」
「こんにちは。ここにいらしたんですね」
さくらさんは、いつもどおりの笑顔を浮かべている。
「お昼休みなので、少し休憩しようと思って。……それで、先ほど何かおっしゃっていませんでしたか?」
「い、いえ! 何も!」
「そうですか?」
「はい!」
あまりにも必死な返事になってしまった。
さくらさんは不思議そうにあなたを見つめたあと、ふっと笑った。
「……今日のあなた、少し変ですね」
「そ、そんなことないですよ!」
「ふふっ。そうですか」
さくらさんはあなたの隣に、少し間隔を空けて腰を下ろした。
二人で庭を眺める。
穏やかな風が吹いた。
しばらくして、さくらさんが口を開いた。
「……先ほどのことですが」
「は、はい」
「本当に、無理をしないでくださいね」
「……はい」
「あなたが誰かを助けようとするところ、私は素敵だと思っています」
あなたの心臓が跳ねた。
「でも、自分のことを後回しにしすぎるのは、少し心配です」
さくらさんは、こちらを向いた。
「あなた自身のことも、ちゃんと大切にしてください」
……ずるい。
そんなことを言われたら。
もっと好きになってしまう。
あなたは顔が熱くなるのを感じながら、必死に空を見上げた。
「……ありがとうございます」
「はい」
「……さくらさん」
「なんでしょう?」
本当は、伝えたかった。
あなたが怒ってくれたことが嬉しかったこと。
自分を守ってくれたことが、何よりも心に残ったこと。
そして。
あなたのことが、どうしようもないくらい好きだということ。
でも、言えなかった。
だから、代わりにこう言った。
「……僕、もう少し、自分のことも大切にします」
さくらさんは、優しく微笑んだ。
「ええ。それがいいと思います」
そして、少しだけ声を柔らかくした。
「……約束ですよ?」
「……はい。約束します」
さくらさんは満足そうに頷いた。
その横顔を見ながら、あなたは心の中で思った。
――さくらさん。
――今日、僕のために怒ってくれて、本当にありがとうございました。
――あの日のことは、きっと忘れません。
――でも。
――あなたには、まだ知られたくないんです。
――僕が、あなたをこんなにも好きだということだけは。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
二人はベンチから立ち上がり、並んでオフィスへと戻っていく。
その途中、さくらさんがふと思い出したように言った。
「そういえば、午後の仕事が終わったら少しお話ししませんか?」
「……えっ?」
「今日の業務のことと、これからの働き方について。あなたに伝えておきたいことがあるんです」
「わ、わかりました!」
あなたの心臓が、また大きく跳ねた。
午後の仕事。
さくらさんとの二人きりの会話。
いったい、何を話すのだろう。
期待してはいけない。
勘違いしてはいけない。
彼女は教育係で、自分は教えられる立場なのだから。
そう、自分に言い聞かせながら。
あなたは、隣を歩くさくらさんの横顔を見つめた。
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……やっぱり、好きだなぁ」
もちろん、その声は。
さくらさんには、届いていない――はずだった。
ただ、オフィスの扉を開ける直前。
さくらさんが、ほんの少しだけ振り返ったことに。
あなたは、気づかなかった。