「熱に浮かされた日、あなたの秘密がこぼれそうになった」
「熱に浮かされた日、あなたの秘密がこぼれそうになった」
朝、目を覚ました瞬間から、身体が重かった。
「……あれ、なんか……おかしいな」
いつもなら目覚ましが鳴る前に起きて、会社に行く準備を始めている時間だ。
けれど、今日は布団から起き上がるだけでも、ずいぶんと時間がかかった。
頭がぼんやりする。喉も痛い。
念のため体温計を手に取り、しばらく待ってみる。
「……うわ、熱あるじゃん」
表示された数字を見て、あなたは小さくため息をついた。
今日は午前中に終わらせたい仕事があった。昨日のうちに準備もしていたし、他の社員から頼まれていた仕事もある。
それでも、この状態で出勤するわけにはいかない。
あなたは会社に連絡を入れ、上司にも体調不良で休むことを伝えた。
そして、最後に教育係のさくらさんへメッセージを送る。
『おはようございます。今日は体調が良くないため、お休みをいただきます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません』
送信してから、スマートフォンを枕元に置いた。
「……さくらさん、心配してくれるかな」
ぽつりと呟いて、慌てて布団を頭までかぶる。
「いやいや! 何考えてるんだ、僕は……!」
体調が悪いときまで、好きな人のことを考えてしまう。
本当に、自分でもどうしようもなかった。
1.教育係からの返信
それから十五分ほど経った頃。
枕元のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、さくらさんから返信が届いていた。
『おはようございます。体調が悪いんですね。今日は仕事のことは気にせず、ゆっくり休んでくださいね』
その文章を読んだ瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
『ありがとうございます。ご迷惑をおかけします』
そう返信して、スマートフォンを置こうとした、そのとき。
もう一通、メッセージが届いた。
『熱はありますか? 何か食べられそうですか?』
「…………」
思わず画面を見つめてしまった。
さくらさんは、いつもこうなのだ。
仕事で失敗すれば、何が原因だったのか一緒に考えてくれる。
落ち込んでいれば、無理に聞き出すことなく、そっと声をかけてくれる。
そして今も、会社を休んでいる自分のことを心配してくれている。
「……好きだなあ」
小さな声が部屋に落ちた。
もちろん、その言葉を本人に伝えるつもりはない。
だって、さくらさんは自分の教育係なのだから。
あなたは体温と食事のことを簡潔に返信し、再び眠ることにした。
このときは、まさか数時間後に本人が家まで来るなんて、夢にも思っていなかった。
2.突然のインターホン
昼過ぎ。
あなたは少し眠っていたが、玄関のインターホンの音で目を覚ました。
「……ん?」
時計を見ると、午後一時半。
誰か来る予定などなかった。
重い身体をゆっくり起こし、玄関へ向かう。
「はい……どちらさまですか?」
『私です。さくらです』
「…………え?」
一瞬、頭が真っ白になった。
聞き間違いだろうか。
いや、間違いなくさくらさんの声だった。
「さ、さくらさん!?」
『はい。急に来てごめんなさい。具合が心配だったので、少しだけ様子を見に来ました』
あなたは玄関の前で固まった。
教育係のさくらさんが。
自分の家に。
お見舞いに来ている。
「ま、待ってください! 今、開けます!」
慌てて鍵を開ける。
扉の向こうには、心配そうな顔をしたさくらさんが立っていた。片手には小さな買い物袋がある。
「こんにちは。顔色、あまり良くないですね……」
「こ、こんにちは……。あの、本当に来てくださったんですか?」
「はい。お仕事の資料を届けるついでに、と思いまして」
そう言いながら、さくらさんは少し微笑んだ。
「それに、あなたは体調が悪くても、つい無理をしてしまいそうですから」
「……そんなこと、ないですよ」
「昨日も、他の方のお仕事まで手伝っていたでしょう?」
「…………」
何も言い返せなかった。
さくらさんは小さく笑う。
「ほら。やっぱり」
その笑顔を見た瞬間、あなたは心の中で叫んでいた。
(だめだ。今日のさくらさん、優しすぎる……!)
(こんな日に来られたら、好きって気持ちが顔に出ちゃうだろ……!)
しかし、さくらさんはあなたの心の中など知らず、買い物袋を持ち上げた。
「ゼリーとスポーツドリンクを買ってきました。食べられそうですか?」
「は、はい! ありがとうございます!」
「ふふ。では、お邪魔しますね」
「えっ!?」
思わず変な声が出た。
さくらさんが不思議そうに振り返る。
「……どうしました?」
「い、いえ! 何でもありません!」
あなたは慌てて道を開けた。
そして心の中で、今日何度目かわからない決意をする。
(絶対に、恋心を知られてはいけない……!)
3.優しすぎる看病
さくらさんは、あなたの案内でリビングに入った。
「とりあえず、座っていてください。私が飲み物を用意しますね」
「いえいえ! そんな、悪いですよ! 自分でできますから!」
「……本当に?」
「はい!」
勢いよく返事をした直後、あなたはふらりと身体を傾けた。
「あっ……」
「危ない!」
さくらさんがすぐに腕を支えてくれた。
倒れることはなかったが、彼女の顔がすぐ近くにある。
「ちょっと。無理をしないでください」
「す、すみません……」
「謝らなくていいですから。今日は患者さんなんですからね」
患者さん。
その言い方が妙に優しくて、あなたはまともに目を合わせられなくなった。
さくらさんはあなたをソファに座らせ、額に手を当てようとする。
「熱、まだありそうですね。体温計はありますか?」
「あります……」
「測ってみましょう」
体温を測ると、まだ熱は下がっていなかった。
さくらさんは心配そうに眉を下げる。
「今日は本当に、何もしないで休んでくださいね。仕事のことも、私に任せてください」
「……はい」
「いい返事です」
そう言って微笑む彼女。
あなたは、もう限界だった。
(優しい……! さくらさん、優しすぎる……!)
(こんなの、もっと好きになっちゃうじゃないか……!)
顔が熱い。
いや、これは熱のせいだ。
絶対に熱のせいだ。
そう自分に言い聞かせながら、あなたは差し出されたスポーツドリンクを受け取った。
4.そして、最悪のハプニング
しばらくして、あなたは薬を飲み、少しだけ落ち着いてきた。
さくらさんは帰る前に、テーブルの上に置かれた資料を確認していた。
「そういえば、あなたの机に置いてあるノート、仕事用ですか?」
「……え?」
その瞬間。
あなたの心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
リビングのテーブルには、昨夜まで書いていたノートが置かれていた。
仕事のアイディアも書いてある。
企画の構想もある。
そして、その後ろのページには――。
さくらさんとの会話を思い出して書いた、秘密のメモがある。
『今日のさくらさんは、いつもより楽しそうだった』
『笑ってくれた。明日も話せるといいな』
『いつか、仕事以外の話ももっとしてみたい』
さらに、ページの隅には小さく。
『さくらさんが好き』
……と、書いてある。
「そ、それは!」
あなたは勢いよく立ち上がろうとした。
しかし、熱でふらついた身体が思うように動かない。
その拍子に、テーブルの端に置いてあったノートが床へ落ちた。
ぱさっ。
ページが開く。
そして、よりによって。
さくらさんの目の前で、例のページが開いてしまった。
「…………」
「…………」
時間が止まった。
さくらさんは床のノートを見ている。
あなたはさくらさんを見ている。
そして、開かれたページには、はっきりと自分の字で書かれていた。
『さくらさんが好き』
(終わった)
あなたは悟った。
(僕の社会人生活が終わった……)
(教育係に恋心が知られてはいけなかったのに……!)
顔から火が出そうだった。
「ち、違うんです!」
自分でも何が違うのかわからないまま、声を上げた。
さくらさんはゆっくりと顔を上げる。
「……違う?」
「そ、それは、その……!」
頭の中が真っ白だった。
仕事のメモだと言えばいいのか。
創作のアイディアだと言えばいいのか。
けれど、そんな苦しい言い訳が通じるはずもない。
さくらさんはノートを拾い上げた。
そして、ページを閉じる。
「……ごめんなさい。勝手に見てしまったわけではないんですけど」
「あ、いえ! 落としたのは僕なので……!」
「うん」
さくらさんは、いつもの教育係らしい落ち着いた声で言った。
「大切なことを書いていたんですね」
「…………」
あなたは何も言えなかった。
さくらさんはノートをテーブルに置き、少しだけ困ったように笑った。
「それ以上は、聞かないでおきますね」
「……え?」
「誰にでも、人に知られたくない気持ちや、秘密にしておきたいことってありますから」
その言葉に、あなたは顔を上げた。
さくらさんはノートのことを追及しなかった。
からかうこともしなかった。
ただ、あなたの気持ちを尊重するように、そっと話を終わらせてくれた。
「今は、それよりも身体を治すことが先です」
「……さくらさん」
「はい?」
「……ありがとうございます」
それしか言えなかった。
さくらさんは優しく微笑んだ。
「どういたしまして」
けれど。
あなたは気づいていなかった。
ノートを閉じる直前、さくらさんの視線が一瞬だけ、あの一文に戻っていたことを。
そして、その頬がほんの少しだけ赤くなっていたことを。
5.帰り際のひと言
午後三時。
あなたの体調を確認したさくらさんは、そろそろ帰ることにした。
「今日はゆっくり休んでくださいね。明日のことは、朝の体調を見てから判断しましょう」
「はい。本当にありがとうございました」
玄関まで見送ろうとしたあなたを、さくらさんは手で制した。
「だめです。まだ休んでいてください」
「でも……」
「教育係からの命令です」
少しだけいたずらっぽい笑顔。
あなたは思わず笑ってしまった。
「……わかりました」
「よろしい」
さくらさんは靴を履き、玄関の扉を開けた。
そして、外に出る直前。
「……あ、そうだ」
「はい?」
彼女は振り返った。
「ノートのことですけど」
「っ!?」
心臓が跳ねる。
「……は、はい」
さくらさんは、少しだけ視線をそらした。
「大切にしてくださいね。自分の気持ちも、そのノートも」
「…………」
「それじゃあ、また会社で」
そう言って、彼女は帰っていった。
扉が閉まる。
あなたはしばらく、その場から動けなかった。
「…………」
そして、ゆっくりと両手で顔を覆った。
「……絶対、気づかれてるじゃん……!」
熱のせいなのか、恥ずかしさのせいなのか。
顔はまだ真っ赤だった。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
さくらさんは秘密を無理に暴こうとはしなかった。
むしろ、自分が大切にしているものを、そのまま守ってくれた。
「……やっぱり、好きだなあ」
今度は誰にも聞かれないように、小さな声で呟いた。
もちろん、恋心を知られたくないという気持ちは変わらない。
明日、会社でどんな顔をして会えばいいのか。
それを考えると、別の意味で熱が上がりそうだった。
6.その頃、さくらさんは……
会社へ戻る道を歩きながら、さくらさんはスマートフォンを手に取った。
あなたから届いていた、朝のメッセージ。
『ご迷惑をおかけして申し訳ありません』
その文字を見て、彼女は小さく息を吐いた。
「……本当に、いつも謝ってばかり」
仕事を休むことまで申し訳なく思ってしまうあなた。
人が困っていれば、自分の仕事を後回しにしてでも助けようとするあなた。
そして、誰にも見せないノートに、自分の気持ちを書き留めていたあなた。
さくらさんは、さっきの光景を思い出した。
『さくらさんが好き』
たった一言。
けれど、その文字を見た瞬間、胸が妙に落ち着かなくなった。
「……あれは、どういう意味なんでしょうね」
独り言を呟いて、さくらさんは首を横に振った。
「……だめだめ。今は教育係なんだから」
そう言い聞かせる。
けれど、次の瞬間。
「……明日、元気になっているといいな」
その声は、いつもの教育係としての心配だけではないように聞こえた。
さくらさん自身も、まだその気持ちに名前をつけていなかった。
ただひとつ、確かなことがある。
明日、あなたに会うのが、いつもより少しだけ楽しみになってしまった。
そして翌朝。
出勤したあなたを待っていたのは、いつも通りの笑顔を浮かべたさくらさんと――。
「おはようございます。……昨日のノート、続きは書けましたか?」
という、あまりにも心臓に悪いひと言だった。
「さ、さくらさんっ!?」
会社の朝は、あなたの悲鳴に似た声から始まった。