「あなたの秘密を、少しだけ」
「あなたの秘密を、少しだけ」
朝の九時。
あなたはいつものように会社へ出勤し、デスクの上に鞄を置いた。
「おはようございます!」
「おはようございます。今日も元気ですね」
振り返ると、教育係のさくらさんが微笑んでいた。
その笑顔を見た瞬間、あなたの心臓が小さく跳ねる。
(……今日もかわいいな)
もちろん、口には出さない。
さくらさんには、絶対に知られてはいけない秘密がある。
それは、あなたが初めて会った日から、ずっと彼女に恋をしているということ。
けれど最近、あなたは少しだけ考え方を変えていた。
恋心を隠すことばかりに気を取られて、さくらさんとの会話まで遠慮してしまうのは、なんだかもったいない。
だから今日は、ほんの少しだけ。
自分の秘密を話してみようと思ったのだ。
1. 昼休みの庭
午前中の業務を無事に終えたあなたは、昼休みになると会社の庭へ向かった。
いつものベンチに座り、青空を見上げる。
風が吹き、木々の葉がさらさらと音を立てていた。
「……ここ、落ち着くんだよな」
会社の中では、どうしても周囲の目が気になる。
失敗してはいけない。 期待に応えたい。 先輩たちの役に立ちたい。
そんなことばかり考えていると、気づかないうちに疲れてしまう。
だから、この庭だけは特別だった。
誰かに評価されることもなく、ただ景色を眺めていられる。
「やっぱり、ここにいたんですね」
「えっ?」
聞き慣れた声に振り向く。
そこには、昼食を手にしたさくらさんが立っていた。
「さくらさん! お疲れさまです」
「お疲れさまです。隣、いいですか?」
「も、もちろんです!」
さくらさんは隣に腰を下ろした。
(待って。心の準備が……!)
内心では大騒ぎだったが、あなたは必死に平静を装った。
さくらさんは昼食を膝の上に置き、庭を眺めた。
「ここ、いい場所ですよね。私も最近、気に入っているんです」
「そうなんですか?」
「はい。あなたがよくここにいるので、何がそんなにいいのかなって思って」
「……ああ、なるほど」
あなたは少しだけ笑った。
「実は、僕にとってここは、秘密の場所なんです」
「秘密の場所?」
さくらさんが興味深そうにこちらを見る。
しまった。
思わず口にしてしまった。
けれど、今さら引き返すのも不自然だ。
あなたは少し考えてから、ゆっくり話し始めた。
「僕、仕事をしているとき、いつも失敗しないようにって考えているんです。みんなの役に立ちたいし、期待にも応えたいので」
「はい」
「でも、たまに考えすぎてしまうんです。だから、ここに来て景色を見ていると、少しだけ肩の力が抜けるんですよ」
さくらさんは何も言わず、あなたの話を聞いていた。
「それに……ここにいると、明日も頑張ろうって思えるんです」
言い終えたあなたは、少し恥ずかしくなって視線を落とした。
こんな話をするつもりではなかった。
もっと軽い秘密を教えるつもりだったのに。
「……変ですかね?」
恐る恐る尋ねる。
すると、さくらさんは首を横に振った。
「いいえ。全然、変じゃないですよ」
その声は、いつもの教育係としての声よりも、ほんの少し柔らかかった。
「むしろ、安心しました」
「安心……ですか?」
「あなた、いつも一生懸命でしょう? だから、何でも一人で抱え込んでいるんじゃないかって、少し心配だったんです」
あなたは目を丸くした。
「僕、そんなふうに見えますか?」
「見えますよ」
さくらさんは小さく笑った。
「頑張り屋さんなのは、とてもいいことです。でも、頑張ることと、無理をすることは違いますからね」
その言葉が、胸の奥にゆっくり染み込んでいく。
あなたは小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
そして、さくらさんは少しだけいたずらっぽく笑った。
「それで、秘密はそれだけですか?」
「えっ?」
「秘密の場所の話だけ?」
「そ、それは……!」
(まずい! ほかの秘密は絶対に言えない!)
あなたの頭に浮かんだのは、さくらさんの名前が何度も書かれたノート。
彼女との会話を思い返して書いた文章。 彼女が笑ってくれた日の記録。 そして、誰にも見せられない、自分だけの恋心。
あれだけは、絶対に知られてはいけない。
「……ほかにも、少しはありますけど」
あなたは慎重に言葉を選んだ。
「まだ、話すのは恥ずかしいです」
すると、さくらさんは意外にも、すぐに頷いた。
「そうですか。じゃあ、無理に聞きません」
「……いいんですか?」
「もちろんです。秘密って、全部話さなきゃいけないものではないでしょう?」
さくらさんは立ち上がり、スカートについた小さな葉を払った。
「いつか話してもいいかなって思ったときに、教えてください」
そう言って、あなたに微笑みかけた。
「楽しみにしていますね」
(……その言い方は、ずるいです)
あなたは心の中で、そっと呟いた。
2. ほんの少しだけ、近づいた距離
昼休みが終わり、二人は一緒に社内へ戻った。
廊下を歩きながら、さくらさんがふと思い出したように言った。
「そういえば、あなた」
「はい?」
「今日、少しだけ本音を話してくれましたよね」
「……そうですね」
「私、嬉しかったです」
あなたの足が止まりかけた。
「えっ?」
「普段のあなたは、困っている人を見つけるとすぐに助けるし、頼まれた仕事も一生懸命やってくれます。でも、自分自身のことは、あまり話してくれないでしょう?」
「……」
「だから、今日は少しだけ、あなたのことを知れた気がしました」
さくらさんは前を向いたまま続けた。
「教育係だから、仕事のことを教えるのは当然です。でも、それだけじゃなくて、あなたがどんなことを考えているのかも、少しずつ知っていけたらいいなって思っています」
あなたの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
嬉しい。
本当に嬉しい。
けれど、その気持ちが顔に出てしまえば、きっと彼女に気づかれてしまう。
「……僕も、さくらさんのこと、もっと知りたいです」
言ってから、あなたは固まった。
(あああああ! 今のは違う! いや、違わないけど!)
さくらさんも、少しだけ目を見開いた。
「……私のこと?」
「い、いえ! 仕事のことです! 教育係として、いろいろ教えていただきたいという意味で!」
必死だった。
あまりにも必死だった。
さくらさんは数秒間あなたを見つめてから、くすっと笑った。
「ふふっ。分かっていますよ」
「……本当ですか?」
「はい。では、これからもいろいろ教えてあげますね」
そう言って、さくらさんはあなたのデスクへ向かって歩いていった。
あなたはその後ろ姿を見送りながら、机に手をついた。
(……危なかった)
今日だけで、何度秘密を守ろうとしただろう。
けれど、不思議だった。
今までは、恋心を知られないために、できるだけ彼女との距離を保とうとしていた。
それなのに今日は、自分の弱さを少しだけ話せた。
そして、さくらさんはそれを笑わなかった。
むしろ、嬉しいと言ってくれた。
それが、たまらなく嬉しかった。
3. さくらさんの小さな変化
午後の業務が始まってしばらくした頃。
あなたが資料を整理していると、さくらさんが書類を持ってやってきた。
「この資料、一緒に確認してもらえますか?」
「はい、もちろんです!」
二人で資料を確認していく。
以前なら、あなたは必要なことだけを話し、仕事が終わればすぐに自分のデスクへ戻っていた。
けれど今日は違った。
「さくらさん、この部分なんですけど、こういう方法にしたら、確認作業が少し楽になると思うんです」
「なるほど。確かに、そのほうが分かりやすいですね」
「ですよね。実は、前から少し考えていて……」
自然と会話が続いた。
仕事の話。 先輩社員たちの話。 最近、会社の庭で見つけた小さな花の話。
気づけば、予定していた確認作業は驚くほどスムーズに進んでいた。
「……終わりましたね」
あなたが時計を見ると、まだ予定より少し時間が残っていた。
さくらさんは資料を揃えながら、感心したように言った。
「今日はいつも以上に、意見を出してくれましたね」
「そ、そうですか?」
「はい。私はこういう話し合い、好きですよ」
そして、少しだけ声を落とした。
「今日、あなたが自分のことを話してくれたからでしょうか。私も、以前より話しやすく感じます」
あなたは思わず、彼女を見つめた。
さくらさんもこちらを見ていた。
目が合う。
一秒。
二秒。
「……あっ、次の仕事を確認してきます!」
あなたは慌てて立ち上がった。
「ふふっ。お願いしますね」
背後から聞こえた笑い声。
(だめだ。やっぱり、好きだ……)
改めて思い知らされた。
彼女が笑うだけで嬉しい。
彼女が自分の話を聞いてくれるだけで、明日も頑張ろうと思える。
けれど、まだ伝えられない。
この気持ちだけは、もう少し自分の中にしまっておこう。
4. 帰り際の約束
定時を迎え、あなたは今日の業務を終えた。
鞄を持って帰ろうとしたところで、さくらさんに呼び止められた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです、さくらさん」
「今日はありがとうございました。仕事のこともそうですけど……お昼の話も」
「いえ、そんな。僕のほうこそ、聞いてくださってありがとうございました」
少しの沈黙。
さくらさんは、何かを考えるように視線を落としてから、再び顔を上げた。
「また、あの庭でお話ししませんか?」
「……え?」
「お昼休みです。あなたの秘密の場所、私も一緒に行っていいですか?」
あなたは返事をするまで、少し時間がかかった。
もちろん、断る理由なんてなかった。
むしろ、嬉しくて仕方がなかった。
「……はい! ぜひ!」
声が大きくなり、近くの社員がこちらを振り向いた。
あなたは慌てて咳払いをする。
「……よろしくお願いします」
さくらさんは笑った。
「では、また明日」
「はい。また明日!」
彼女が帰っていく。
あなたは一人になったデスクで、そっと胸に手を当てた。
今日、あなたは秘密を一つだけ教えた。
自分が、頑張りすぎてしまうこと。
そして、庭で景色を眺める時間が好きだということ。
けれど、本当に大切な秘密は、まだ伝えていない。
さくらさんが好きだということ。
彼女の笑顔を見ると、仕事がもっと頑張れること。
そして、いつか彼女に、自分のことをもっと知ってほしいと思っていること。
「……これは、まだ内緒」
誰もいないデスクで、小さく呟いた。
そのとき、帰ったはずのさくらさんが、廊下からひょこっと顔を出した。
「何か言いました?」
「うわっ!? さ、さくらさん!?」
「忘れ物を取りに来ただけですよ。そんなに驚かなくても」
彼女は机の上のペンを手に取り、あなたを見て微笑んだ。
「では、今度こそ。また明日」
「……また明日です!」
さくらさんが去っていく。
今度こそ、その姿が見えなくなるまで見送った。
(……危ない。本当に危ない)
恋心を知られてはいけない。
だけど。
今日、ほんの少しだけ秘密を打ち明けたことで、さくらさんとの距離が、ほんの少しだけ近づいた気がした。
明日も、あの庭で話せる。
そう思うだけで、帰り道がいつもより明るく感じられた。
――あなたの秘密は、まだ彼女に知られていない。
けれど、さくらさんもまた、あなたのことをもっと知りたいと思い始めていた。
その小さな変化に、あなたはまだ気づいていなかった。