「初めて、あなたにだけ見せた弱さ」
「初めて、あなたにだけ見せた弱さ」
朝のオフィスは、いつもと変わらない慌ただしさに包まれていた。
キーボードを叩く音。 社員たちの話し声。 コピー機から流れてくる書類。
そして、僕のすぐ近くには、今日も教育係のさくらさんがいた。
「おはようございます。昨日お願いした資料、進んでいますか?」
「おはようございます! はい、あと少しで完成します!」
「ふふっ、いい返事ですね。無理はしないでくださいね」
さくらさんは優しく微笑んだ。
……今日もかわいい。
いや、待て。
仕事中だ。集中しろ、僕。
僕は慌ててパソコンに視線を戻した。
教育係のさくらさんには、恋心を知られてはいけない。
これは僕が自分自身に課した、絶対に守らなければならないルールだった。
けれど、その日の午後。
僕は、今まで知らなかったさくらさんの一面を知ることになる。
第一章 いつも完璧な教育係
午後二時。
僕は頼まれていた資料を提出するため、さくらさんのデスクへ向かった。
「さくらさん、こちらの資料、完成しました」
「あっ、ありがとうございます。確認しますね」
さくらさんは資料を受け取り、ページをめくっていく。
「うん……。数字も合っていますし、説明も分かりやすいです。よくできていますね」
「本当ですか?」
「はい。以前よりずっと成長していますよ」
その言葉が嬉しくて、僕は思わず笑顔になった。
「ありがとうございます!」
「ふふっ。そんなに嬉しそうにされると、褒めた私まで嬉しくなっちゃいます」
……だめだ。
今の笑顔、反則だろ。
心の中で頭を抱えながら、自分のデスクへ戻ろうとした、そのときだった。
「……さくらさん、次の会議の資料は?」
別の社員が、少し焦った様子で声をかけてきた。
「あっ、はい。すぐに準備しますね」
さくらさんは手元の書類をまとめ、パソコンを操作し始めた。
いつもどおりの落ち着いた声。
いつもどおりの優しい笑顔。
けれど、僕はほんの少しだけ違和感を覚えた。
さくらさんの手が、いつもより遅い。
画面を見つめる時間も長い。
そして何より……。
さくらさんは、さっきから一度も笑っていなかった。
第二章 誰も知らないため息
午後四時を過ぎたころ。
僕は追加の書類を届けるため、会議室へ向かっていた。
その途中、庭へ続く廊下の近くで、聞き覚えのある声がした。
「……はぁ」
足が止まった。
今の声は、さくらさん?
普段の彼女なら、社員の前でため息をつくことなんてほとんどない。
僕は少し迷ったあと、廊下の先をそっと覗いた。
そこには、窓際に立つさくらさんがいた。
手には一枚の書類。
外の景色を眺めながら、静かに目を伏せている。
「……私、何をやっているんだろう」
その声は、いつもの明るい声とは違っていた。
小さくて、どこか自信がなさそうで。
僕は思わず息をのんだ。
「もっと、ちゃんとしなきゃ……」
さくらさんは書類を胸元に抱えた。
「みんなに頼られているんだから。私がしっかりしないと……」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。
さくらさんは、いつも僕を励ましてくれた。
失敗しても、落ち込んでも、何度でもやり直すように背中を押してくれた。
でも。
さくらさんだって、いつも平気なわけじゃない。
当たり前のことなのに、僕は今まで気づいていなかった。
僕が声をかけようか迷っていると、さくらさんがこちらを振り向いた。
「あ……」
目が合った。
「……聞こえちゃいました?」
いつもの笑顔を作ろうとするさくらさん。
でも、その笑顔は少しだけぎこちなかった。
僕は静かに頷いた。
「……すみません。盗み聞きするつもりじゃなかったんです」
「いえ、いいんです。私が勝手にここで休んでいただけですから」
さくらさんはそう言って、いつもの調子に戻ろうとした。
「さあ、仕事に戻りましょうか。まだやることがたくさんありますし!」
そのまま歩き出そうとする彼女に、僕は思わず声をかけた。
「さくらさん」
「……はい?」
「少しだけ、休みませんか?」
彼女の足が止まった。
「え?」
「僕、庭で休憩しようと思っていたんです。よかったら、一緒にどうですか?」
本当は、休憩する予定なんてなかった。
けれど、今のさくらさんを一人にしたくなかった。
それだけだった。
……いや。
本当は、もう少しだけ、彼女の力になりたかった。
第三章 初めて教えてくれた弱み
庭のベンチに、僕とさくらさんは並んで座っていた。
秋の風が吹き抜け、木々の葉が静かに揺れている。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
やがて、さくらさんが口を開いた。
「……実は、今日の会議のことなんです」
「会議ですか?」
「はい。私が担当している企画があって……。思ったように進んでいないんです」
僕は黙って耳を傾けた。
「周りの方たちは、私なら大丈夫だって言ってくださるんです。後輩にも、ちゃんと指示を出さなきゃいけないし、上司には結果を報告しなきゃいけない」
さくらさんは膝の上で指を組んだ。
「でも、何をしても正解が分からなくなるときがあって……」
そこで、彼女は言葉を切った。
「……私、教育係なのに。こんなことで悩んでいるなんて、情けないですよね」
その声は、今にも消えてしまいそうだった。
僕はすぐに首を横に振った。
「そんなことないです」
「……え?」
「僕、いつもさくらさんに助けてもらっています」
彼女がこちらを見る。
「仕事で失敗したときも、どうしたらいいか分からなくなったときも、さくらさんはちゃんと話を聞いてくれました」
僕は少しだけ笑った。
「だから、さくらさんが悩んでいるからって、情けないなんて思いません」
「……」
「むしろ、今まで一人で頑張っていたんだなって思いました」
さくらさんは、驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと視線を落とした。
「……そんなふうに言われたの、初めてです」
「そうなんですか?」
「はい。みんな、私が大丈夫だと思っているから……。私自身も、そう思わなきゃいけないって考えていました」
さくらさんは小さく息を吐いた。
「でも、本当は少しだけ……疲れていたのかもしれません」
その瞬間。
彼女の表情から、いつもの教育係としての顔が消えた。
そこにいたのは、完璧な先輩でも、頼れる社員でもない。
ただ、悩みを抱えながらも、懸命に頑張っている一人の人だった。
僕は、そんなさくらさんを見て思った。
――ああ。
――僕は、この人の笑顔が好きなんだ。
でも、笑っているときだけじゃない。
悩んでいるときも。
迷っているときも。
誰にも弱音を吐けずにいるときも。
その全部を、大切に思ってしまう。
……だからこそ。
この気持ちだけは、絶対に知られてはいけない。
「……さくらさん」
「はい」
「今日は、僕にできることがあったら言ってください」
「でも、あなたにも仕事が……」
「もちろん、自分の仕事はちゃんと終わらせます!」
僕は少し慌てて付け加えた。
「そのうえで、手伝えることがあれば手伝いたいんです。さくらさんに教えてもらったこと、今度は僕が役に立てたら嬉しいので」
さくらさんは、しばらく僕を見つめていた。
そして。
「……ふふっ」
小さく笑った。
今度の笑顔は、いつもの作ったような笑顔ではなかった。
少し照れくさそうで、でも、心から安心したような笑顔だった。
「ありがとうございます」
彼女は静かに続けた。
「……あなたになら、少しくらい弱音を吐いてもいいのかもしれませんね」
「……っ」
心臓が跳ねた。
今、なんて?
あなたになら?
少しくらい?
弱音を?
いや、待て。
落ち着け、僕。
これは教育係と後輩の会話だ。
そうに決まっている。
そうでなければ困る。
「……僕でよければ、いつでも聞きます」
なんとか平静を装って答えると、さくらさんは嬉しそうに目を細めた。
「ふふっ。じゃあ、これからは少しだけ頼らせてもらいますね」
「は、はい!」
……だめだ。
今の僕の顔、絶対に赤い。
第四章 秘密が一つ、増えた日
オフィスへ戻るころには、さくらさんの表情はずいぶん穏やかになっていた。
「さて、仕事に戻りましょう!」
「はい!」
「でも、あなたも無理は禁物ですよ。頑張りすぎてしまうところがありますから」
「さくらさんこそ、ですよ」
そう返すと、彼女は少し驚いた顔をした。
「……あら。私、注意されちゃいましたね」
「す、すみません!」
「ふふっ。謝らなくていいんですよ。心配してくれたんでしょう?」
……そのとおりです。
心配で心配で仕方がないんです。
でも、それを口に出すわけにはいかなかった。
僕たちはそれぞれのデスクへ戻った。
その後、僕は自分の仕事を終わらせてから、さくらさんの企画資料を確認した。
もちろん、勝手に手を出すわけにはいかない。
だから、気づいた改善点をまとめて、本人に相談することにした。
「さくらさん、もしよければ、この部分を一緒に整理してみませんか?」
「……いいんですか?」
「はい。僕も勉強になりますから」
二人で資料を見直すと、少しずつ問題点が見えてきた。
さくらさんは、途中から何度も頷いた。
「なるほど……。そういう考え方もあるんですね」
「僕も、さくらさんに教えてもらった方法を応用しただけです」
「それでも、あなたが自分で考えてくれたことが嬉しいんです」
彼女は資料を閉じると、僕に向かって微笑んだ。
「今日は、本当にありがとうございました」
「いえ、そんな……!」
「……それと」
「はい?」
さくらさんは、ほんの少しだけ声を小さくした。
「今日、庭で話したこと……。あなたに聞いてもらえて、よかったです」
僕は言葉を失った。
「誰にでも話せることではなかったので……」
彼女は照れくさそうに笑った。
「あなたには、少しだけ本音を話せる気がしたんです」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
それと同時に、どうしようもなく嬉しかった。
僕は、さくらさんの特別な存在になれたのだろうか。
いや、そんなことを考えるのは早すぎる。
きっと、彼女は僕を信頼してくれただけだ。
それでいい。
今は、それだけで十分だった。
「……ありがとうございます、さくらさん」
僕がそう答えると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「どうして、あなたがお礼を言うんですか?」
「えっ……。あ、いや、その……」
まずい。
何か言わなければ。
「さくらさんに頼ってもらえるのが、嬉しかったんです!」
言ってから気づいた。
……あ。
これ、ちょっと本音が出ていないか?
さくらさんは一瞬きょとんとしたあと、柔らかく微笑んだ。
「……ふふっ。そうですか」
そして、いつもより少し優しい声で言った。
「じゃあ、これからは遠慮せずに頼らせてもらいますね」
「は、はい!」
心臓がうるさい。
絶対に顔が赤い。
さくらさん、お願いですから、それ以上優しくしないでください。
僕の恋心が、今にも口から飛び出しそうです。
エピローグ さくらさんの小さな変化
その日の帰り際。
僕がパソコンの電源を切っていると、さくらさんが声をかけてきた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです、さくらさん」
「今日は、少しだけ気持ちが楽になりました」
「それなら、よかったです」
「……ありがとうございます」
彼女は一度言葉を切り、少し迷ったように視線を動かした。
「また、何かあったら……話を聞いてもらってもいいですか?」
僕は、できるだけ自然に笑った。
「もちろんです」
「ふふっ。約束ですよ?」
「はい、約束です!」
さくらさんは満足そうに頷くと、帰り支度を始めた。
僕も鞄を手に取る。
そして、誰にも聞こえないように、心の中で呟いた。
――さくらさん。
――あなたが弱音を吐ける場所に、僕がなれたらいい。
――あなたが頑張りすぎてしまった日に、少しでも心を軽くできたらいい。
恋人になりたい。
そんな願いがないと言えば、嘘になる。
けれど今は、それ以上に。
あなたが安心して笑えるように、そばで支えられる人になりたかった。
そのとき、先を歩いていたさくらさんが振り返った。
「あ、そうだ」
「はい?」
「明日、お昼休みに少しお話ししませんか?」
「……えっ?」
「今日のお礼も兼ねて。私、おすすめのお店を見つけたんです」
「お、お昼……一緒にですか?」
「はい。……嫌ですか?」
「い、いえ! 全然! ぜひ!」
勢いよく答えてしまった。
さくらさんは、くすっと笑った。
「よかった。じゃあ、明日ですね」
そう言って、彼女は手を振りながら帰っていった。
僕はその場に立ち尽くした。
……明日。
さくらさんと、お昼。
二人で。
「…………」
駄目だ。
今日は絶対に眠れない。
けれど、僕はまだ知らなかった。
今日、初めて弱みを見せたさくらさんもまた、帰り道で同じことを考えていたことを。
――どうしてだろう。
――あの子と話していると、つい本音を話したくなってしまう。
――いつもなら、誰にも見せないようにしているのに。
さくらさんは、自分の胸元にそっと手を当てた。
「……不思議な子」
そして、小さく微笑んだ。
この日、二人の間には、誰にも知られていない小さな秘密が生まれた。
それは、まだ恋と呼ぶには早い。
けれど、ただの教育係と後輩という関係だけでは、少しずつ説明できなくなり始めていた。