「お昼ご飯を食べる時間がなくなった日」
「お昼ご飯を食べる時間がなくなった日」
午前中の仕事を終え、時計を見る。
「……よし、午前中の仕事は終わった」
あなたはパソコンをシャットダウンし、椅子から立ち上がった。
今日は午後からも仕事がたくさんある。だからこそ、昼休みくらいはゆっくり食堂でご飯を食べたい。
何を食べようか考えながら、社員食堂へ向かう廊下を歩いていた。
そのときだった。
「あ、あの……どうしよう……」
少し先から、困り果てたような声が聞こえてきた。
見ると、若い社員が大量の書類を抱え、床に落ちた資料を前に立ち尽くしていた。
「あの、大丈夫ですか?」
あなたが声をかけると、その社員は慌てて振り返った。
「あっ、すみません! 実は午後の会議で使う資料を運んでいたんですけど、ファイルが開いてしまって……。しかも、どの資料がどの順番なのか分からなくなってしまって……」
床には何十枚もの書類が散らばっていた。
社員は今にも泣きそうな顔をしている。
あなたは食堂の方向を一度だけ見た。
お腹は空いている。
でも、目の前で困っている人を放っておくことはできなかった。
「大丈夫ですよ。まずは一緒に整理しましょう」
「えっ、でも、お昼休みですよね?」
「はい。でも、困っているときはお互い様ですから」
あなたはそう言って、床にしゃがみ込んだ。
資料の右上に書かれた番号を確認し、会議の項目ごとに書類を分けていく。
ただ集めるだけでは、また順番が分からなくなってしまう。
あなたは机の上に書類を並べ、項目ごとに付箋を貼っていった。
「これなら、次に使うときも分かりやすいと思います」
「あ……! 本当だ! すごく分かりやすいです!」
社員の表情がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます! これ、ひとりだったら間に合わなかったかもしれません……」
「間に合いそうでよかったです。会議、頑張ってくださいね」
あなたは笑顔でそう返した。
そして、最後の書類をファイルに収めた。
ようやく一件落着。
あなたは立ち上がり、いつものように腕時計を確認した。
――午後の業務開始まで、あと10分。
「…………え?」
一瞬、頭が真っ白になった。
食堂へ向かう時間も、料理を選ぶ時間も、ゆっくり食べる時間もない。
「や、やばい……!」
あなたは社員に軽く手を振り、急いで会社の近くにあるコンビニへ走った。
***
コンビニに到着すると、あなたはおにぎりの棚へ直行した。
「えっと、鮭……いや、ツナマヨ……!」
ほんの数秒悩んだ末、鮭のおにぎりをひとつ手に取る。
飲み物も選び、急いで会計を済ませた。
店を出て、時計を確認する。
午後の業務開始まで、あと7分。
「よし……まだ間に合う!」
あなたは会社へ戻る途中、邪魔にならない場所で立ち止まり、おにぎりの包装を開けた。
ぱくっ。
「……おいしい」
空腹だったこともあり、いつもよりおいしく感じる。
しかし、のんびり味わっている余裕はない。
ひと口、またひと口。
飲み物を飲みながら、なんとかおにぎりを食べ終えた。
「ごちそうさまでした!」
時計を見る。
午後の業務開始まで、あと3分。
あなたはゴミをきちんと捨て、急いで会社へ戻った。
そして、何事もなかったかのように自分のデスクへ着席する。
「……間に合ったぁ」
小さく息を吐いた。
お腹は少し満たされた。
だが、昼休みはほとんど終わってしまった。
それでも、困っていた社員が笑顔になったことを思い出すと、不思議と後悔はなかった。
――そのとき。
「……あれ?」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、そこには教育係のさくらさんが立っていた。
「さくらさん! お疲れさまです!」
あなたはいつもどおりに挨拶をした。
さくらさんはあなたの顔をじっと見つめていた。
「お疲れさまです。……ところで、さっき廊下で後輩の社員を助けていましたよね?」
「えっ?」
思わず声が裏返った。
「見てたんですか!?」
「はい。ちょうど通りかかったら、書類を一緒に整理していて」
さくらさんは微笑んだ。
「優しいですね」
「い、いえ! そんな大したことじゃないですよ!」
あなたは慌てて手を振った。
優しいですね。
そのひと言だけで、胸の奥が大騒ぎになる。
――落ち着け、僕。
――さくらさんは、教育係として褒めてくれているだけだ。
――変な顔をしたら、恋心がばれてしまう!
あなたは必死に平静を装った。
しかし、さくらさんはふと、あなたのデスクに視線を向けた。
「……あれ? お昼ご飯は食べましたか?」
「た、食べました!」
「食堂に行くところだったんじゃないんですか?」
「えっ、そ、それは……」
言葉に詰まった。
さくらさんは少し首をかしげる。
「もしかして、あの社員を助けていて、お昼を食べる時間がなくなったんですか?」
「…………」
沈黙。
どうやら、全部お見通しらしい。
「コンビニでおにぎりを買って食べました! ちゃんと食べたので大丈夫です!」
あなたは慌てて説明した。
さくらさんは、ほんの少しだけ眉を下げた。
「もう……。人を助けるのは素敵なことですけど、自分のことも大切にしてくださいね?」
「……はい」
その声があまりにも優しくて、あなたは思わずうつむいた。
好きだ。
心の中で、そうつぶやく。
けれど、口には出せない。
教育係のさくらさんには、絶対に知られてはいけないのだから。
「次に同じことがあったら、私にも声をかけてください。ひとりで全部抱え込まなくてもいいんですよ」
「……ありがとうございます、さくらさん」
あなたが顔を上げると、さくらさんは安心したように笑った。
「では、午後も頑張りましょう!」
「はい!」
さくらさんが自分のデスクへ戻っていく。
あなたはその背中を見送ってから、そっと胸に手を当てた。
心臓が、まだ落ち着かない。
(……危なかった)
(あと少しで、好きって言ってしまいそうだった……)
もちろん、そんなことは口が裂けても言えない。
あなたはパソコンに向き直り、午後の業務を始めた。
ところが――。
しばらくして、さくらさんから社内チャットが届いた。
『お昼、急いで食べたんですよね? 午後、無理しすぎないように。困ったことがあったら相談してくださいね』
あなたは画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
そして、ゆっくりと返信する。
『ありがとうございます! 午後も頑張ります!』
送信。
その直後、あなたは両手で顔を覆った。
(……さくらさん、優しすぎるよ……)
誰にも聞こえない声で、そっとつぶやく。
(これ以上好きになったら、どうするんだよ……)
もちろん、答えは出ない。
ただひとつだけ確かなことがあった。
今日もまた、あなたはさくらさんへの恋心を隠すことに、必死だった。
そして、そんなあなたの様子を、さくらさんは自分のデスクからちらりと見つめていた。
「……ふふ。午後も頑張ってね」
小さく微笑むさくらさん。
彼女があなたの恋心に気づいているのかどうか――。
それは、まだ誰にも分からない。