「あと少しだけ、この時間が続けばいいのに」
「あと少しだけ、この時間が続けばいいのに」
朝の十時半。
あなたは自分のデスクで、午前中の業務を順調に進めていた。
最近のあなたには、ひとつの変化があった。
以前は、教育係のさくらさんに話しかけるだけで緊張してしまい、必要最低限の会話しかできなかった。
しかし、今は違う。
仕事の相談をしたり、ちょっとした雑談をしたり。少しずつ、自然に話せるようになっていた。
もちろん、ひとつだけ絶対に守らなければならないことがある。
(……さくらさんには、僕の恋心を知られてはいけない)
あなたは心の中でそう呟き、パソコンの画面に視線を戻した。
そのときだった。
「〇〇さん、ちょっとよろしいですか?」
背後から聞き慣れた声がした。
「は、はいっ!」
思わず背筋を伸ばして振り返る。
そこには、書類を片手に持ったさくらさんが立っていた。
「そんなに驚かなくても大丈夫ですよ? 私、何か怖いことをしましたか?」
「い、いえ! 全然そんなことないです!」
「ふふっ。ならよかったです」
さくらさんは微笑んだ。
(あああああ……! 今日も笑顔が素敵すぎる……!)
あなたは心の中で頭を抱えた。
表情には出さない。声にも出さない。
絶対にだ。
「それで、こちらの資料なんですけど……昨日お話ししていた改善案、もうまとめてくださったんですね」
「はい。思いついたことがあったので、少しだけ追加してみました」
「少しだけ?」
さくらさんは資料をめくった。
「……これ、かなり考えてくださったんじゃないですか?」
「えっ?」
「作業の流れだけじゃなくて、ほかの社員が困りそうなところまで書いてあります。すごいですね」
「い、いえ! そんな、大したことじゃ……!」
「いいえ。私は、こういうところをちゃんと評価したいんです」
さくらさんは、まっすぐあなたを見つめた。
「〇〇さん、以前よりずっと、自分から考えて動けるようになりましたね」
その言葉が、胸の奥にじんわりと広がった。
教育係としての言葉だと分かっている。
それでも、大好きな人に成長を認めてもらえることが、こんなにも嬉しいなんて。
「……ありがとうございます。さくらさんのおかげです」
「あら。私は、少しアドバイスしただけですよ?」
「そのアドバイスが、すごく助かっているんです」
あなたがそう答えると、さくらさんは一瞬だけ目を丸くした。
そして、少し照れたように笑った。
「……そう言っていただけると、教育係として嬉しいです」
(待って。今の笑顔は反則では……?)
あなたは必死に平静を装った。
しかし。
「ところで、〇〇さん」
「はい?」
「お昼休み、何を食べる予定ですか?」
「えっ、あ、まだ決めていませんけど……」
「そうなんですね。私もまだなんです。今日、社員食堂に新しいメニューが出るらしいですよ」
「そうなんですか?」
「はい。なんでも、季節限定のメニューだとか」
さくらさんは楽しそうに話し始めた。
どうやら、今日のおすすめメニューについて、彼女も気になっているらしい。
あなたは自然と笑顔になった。
「僕、そういう限定メニューには弱いんですよね」
「あっ、そうなんですか? 意外です」
「意外ですか?」
「はい。〇〇さんって、お昼もきちんと栄養バランスを考えて選んでいそうなので」
「それは……最初だけです。美味しそうなものを見つけたら、ついそっちを選んじゃいます」
「ふふっ。なんだか親近感が湧きました」
二人で笑う。
その瞬間、あなたは思った。
(……こういう時間、好きだな)
仕事の話だけではない。
特別なことをしなくても、さくらさんと何気ない会話を交わせる。
それだけで、今日という日が少しだけ特別になる。
ところが。
「では、私はそろそろ自分のデスクに戻りますね」
さくらさんが書類を抱え直した、そのときだった。
「あっ!」
さくらさんの手元から、クリップでまとめていた書類が滑り落ちた。
バサバサバサッ!
「わっ……!」
紙が床一面に広がった。
「さ、さくらさん、大丈夫ですか!?」
「は、はい! 私は大丈夫です。すみません、散らかしてしまって……!」
二人は慌ててしゃがみ込み、床に落ちた書類を拾い始めた。
あなたは手早く書類を集めていく。
「これ、順番があるんですよね?」
「そうなんです。ページ番号が右下にあるので、それを見ていただけますか?」
「分かりました!」
ところが、ここで第二のハプニングが起きた。
あなたが拾った一枚の紙。
それは、書類ではなかった。
以前、あなたが仕事のメモの裏に書いてしまった、ちょっとした落書きだったのだ。
そこには、小さな文字でこう書かれていた。
『さくらさんと話せた日は、仕事がいつもより頑張れる』
(………………え?)
あなたの思考が停止した。
よりによって、どうして今日に限って。
しかも、その紙を持っているのは――。
「あら? 〇〇さん、それは……」
さくらさんが、あなたの手元を覗き込んだ。
「!!」
あなたは反射的に紙を胸元に引き寄せた。
「な、なんでもありませんっ!」
「えっ?」
声が大きすぎた。
近くのデスクにいた社員が、ちらりとこちらを見た。
あなたは慌てて声を小さくする。
「す、すみません……。ただの個人的なメモです」
「ああ、そうだったんですね」
さくらさんは不思議そうに首を傾げた。
「そんなに慌てなくても、勝手に読んだりしませんよ?」
「……はい」
(助かった……!)
あなたは心の中で深く息を吐いた。
しかし、さくらさんは何かに気づいたように、あなたの顔を見た。
「〇〇さん?」
「は、はいっ?」
「お顔、赤くありませんか?」
「えっ!? あ、暑いからです! 今日はちょっと暑いですね!」
窓の外では、穏やかな秋風が吹いていた。
しかも、空調はしっかり効いている。
「……そうですか?」
さくらさんは窓の外を見て、それからあなたを見た。
「今日は、むしろ涼しいと思いますけど」
「そ、そうですよね! 僕、ちょっと動いたので!」
「ふふっ。〇〇さんって、時々面白いことを言いますね」
「えっ?」
「いえ、なんでもありません」
さくらさんは笑いながら、最後の書類を拾った。
あなたは慌てて落書きをポケットにしまう。
(危なかった……。本当に危なかった……!)
だが、あなたはまだ知らなかった。
さくらさんが、あなたの慌てた様子を見て、ほんの少しだけ考え込んでいたことを。
* * *
書類を片づけ終えると、さくらさんは立ち上がった。
「〇〇さん、ありがとうございました。おかげで早く片づきました」
「いえ! これくらい、いつでも手伝いますよ」
「……いつでも?」
「えっ?」
さくらさんは、少しだけいたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「では、また困ったときには頼らせていただきますね」
「も、もちろんです!」
「ふふっ。頼もしいですね」
そう言って、さくらさんは自分のデスクへ戻ろうとした。
しかし、数歩進んだところで、くるりと振り返った。
「あ、そうそう」
「はい?」
「お昼の限定メニュー、もしよかったら一緒に見に行きませんか?」
「…………え?」
今度こそ、あなたは固まった。
「私、ひとりだと何を選ぶか迷ってしまいそうなので。〇〇さんのおすすめも聞いてみたいです」
それは、教育係と新人社員の、何気ない昼休みのお誘い。
特別な意味などないのかもしれない。
それでも、あなたにとっては一大事だった。
「……は、はい! ぜひ!」
声が裏返りそうになりながら、なんとか返事をする。
さくらさんは満足そうに頷いた。
「では、お昼になったら声をかけますね」
「はい!」
さくらさんは今度こそ、自分のデスクへ戻っていった。
あなたは椅子に座り、そっとポケットの中の紙を確かめた。
『さくらさんと話せた日は、仕事がいつもより頑張れる』
(……こんなもの、絶対に見られるわけにはいかない)
あなたはその紙を丁寧に折りたたみ、手帳の奥へしまった。
そして、さくらさんの背中をちらりと見る。
彼女はもう仕事に戻っていた。
けれど、ふと顔を上げると、あなたと目が合った。
「〇〇さん?」
「は、はいっ!」
「お昼、楽しみですね」
さくらさんは、にこっと笑った。
「……っ!」
あなたは慌てて画面に向き直った。
(だめだ。今日の僕、絶対におかしい……!)
キーボードに手を置きながら、あなたは心の中で叫んだ。
(さくらさんには、恋心を知られてはいけないんだ! 絶対に!)
その一方で。
自分のデスクに戻ったさくらさんは、書類を整えながら、さっきのあなたの様子を思い返していた。
「……個人的なメモ、か」
思わず、小さく笑う。
「〇〇さんって、仕事のときはしっかりしているのに、時々びっくりするくらい慌てるんですね」
そして、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「……でも、最近は前よりたくさんお話しできるようになって、嬉しいです」
その呟きは、誰にも聞かれていなかった。
もちろん、あなたにも。
こうして、午前中の小さなハプニングは、二人だけの秘密をひとつ増やして終わった。
――そして、もうすぐ昼休み。
あなたはまだ知らない。
今日の社員食堂で、もうひとつ、とんでもないハプニングが待っていることを。