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「自分から、話しかけてみよう」

教育係のさくらには恋心を知られてはいけない。 — www.pixiv.net · All chapters

「自分から、話しかけてみよう」

朝、出社してデスクに座ったあなたは、パソコンの電源を入れながら、ふと隣の島にある教育係のさくらさんのデスクを見た。

さくらさんは、いつもどおり真剣な表情で書類を確認している。

「……さくらさん、今日もかわいいな」

心の中で呟いたあなたは、慌てて顔をパソコンへ戻した。

いけない、いけない。

教育係のさくらさんには、恋心を知られてはいけないのだ。

それは、あなたがこの会社に入ってからずっと守ってきた秘密だった。

しかし、最近になって、ひとつ気になることがあった。

(……僕、さくらさんとちゃんと話せているのかな?)

仕事の報告。業務の質問。書類の確認。

さくらさんとは毎日話している。

けれど、そのほとんどが仕事に関することばかりだった。

さくらさんが休日に何をしているのか。

最近、何か楽しいことがあったのか。

仕事以外では、どんなことに興味があるのか。

そういったことを、あなたはほとんど知らなかった。

もちろん、教育係と社員なのだから、仕事の話が中心なのは当たり前だ。

それでも。

(僕は、さくらさんともっと自然に話せるようになりたい)

そう思った。

ただし、恋心がばれてはいけない。

ここが一番重要だった。

「……よし」

あなたは小さく頷いた。

(今日は、自分から話しかけてみよう)

そう決めたのだった。

第一章 話しかける練習

午前九時。

あなたは、いつもどおり仕事を進めていた。

メールの返信を済ませ、資料を整理し、午前中に終わらせる予定の業務をひとつずつ片づけていく。

仕事は順調だった。

問題は、さくらさんだった。

いや、正確に言えば、さくらさんに話しかけることだった。

(……今なら話しかけられるかな)

ちらり。

さくらさんはパソコンを見ている。

(いや、集中してる。邪魔しちゃ駄目だ)

数分後。

ちらり。

今度は書類を読んでいる。

(……まだ忙しそうだ)

さらに数分後。

ちらり。

さくらさんが、ふと顔を上げた。

目が合った。

「……?」

さくらさんが小首を傾げる。

あなたは反射的にパソコンへ視線を戻した。

(あああああっ! 今、目が合った!)

心臓がうるさい。

仕事の難しい質問をされるときよりも、会議で発表するときよりも緊張していた。

(何をやっているんだ、僕は……! ただ話しかけるだけだろ!)

自分に言い聞かせる。

だが、いざとなると声が出ない。

そのときだった。

「……あの」

不意に、さくらさんの声がした。

「はいっ!?」

あなたは勢いよく顔を上げた。

さくらさんは、少し驚いた顔をしていた。

「そんなに驚かなくても大丈夫ですよ?」

「あっ、す、すみません!」

「ふふっ。何か考え事ですか?」

「い、いえ! なんでもありません!」

「そうですか?」

さくらさんは不思議そうにしながら、手元の書類を差し出した。

「この資料なんですが、午後の会議で使うので、確認をお願いできますか?」

「はい! もちろんです!」

あなたは資料を受け取った。

そして、気づいた。

(……今だ)

仕事の話から、少しだけ広げてみればいい。

いつものように「確認します」で終わらせるのではなく、自分からひとこと話しかけてみる。

たったそれだけだ。

「……さくらさん」

「はい?」

「あの、今日の午後の会議って、結構長くなりそうですか?」

口に出せた。

自分から質問できた。

さくらさんは一瞬だけ目を丸くしたあと、柔らかく微笑んだ。

「そうですね。議題が多いので、少し長くなるかもしれません」

「そうなんですね。じゃあ、午前中にできることは終わらせておきます」

「ええ。その考え方はとてもいいと思います」

そう言って、さくらさんは頷いた。

会話は、そこで終わった。

しかし。

(……話せた!)

あなたの心の中では、小さな祝賀会が開かれていた。

(自分から話しかけられた……!)

たった一言。

それだけなのに、いつもの仕事が少しだけ楽しく感じられた。

もちろん、顔には出さない。

出してはいけない。

あなたは平静を装い、資料の確認に取りかかった。

ところが。

「……ふふっ」

さくらさんが、小さく笑った。

「?」

あなたが顔を上げると、彼女は何事もなかったようにパソコンへ視線を戻していた。

(……今、笑った?)

まさか、あなたの心の中の祝賀会が聞こえたわけではあるまい。

そんなことを考えながら、あなたは資料を読み進めた。

第二章 昼休みの庭

昼休み。

あなたはいつものように社員食堂で昼食を済ませ、会社の庭へ向かった。

庭には小さなベンチがあり、そこからは木々や季節の花を眺めることができる。

あなたのお気に入りの場所だった。

ベンチに腰掛け、空を見上げる。

「……ふぅ」

午前中は、思った以上に頑張った。

仕事も順調だったし、さくらさんにも自分から話しかけることができた。

(……少しずつでいいんだよな)

無理に話題を作る必要はない。

いきなり仲良くなろうとする必要もない。

毎日の挨拶に、ひとこと付け加える。

仕事の話から、自然に別の話題へつなげてみる。

そんな小さな積み重ねでいい。

「よし……午後も頑張ろう」

あなたが立ち上がろうとした、そのとき。

「ここにいたんですね」

聞き覚えのある声がした。

振り向くと、そこにはさくらさんが立っていた。

「さ、さくらさん!?」

「はい。私です」

彼女はくすっと笑った。

「驚きすぎですよ」

「す、すみません……! まさか、さくらさんもここに来るとは思わなくて」

「私だって、お昼休みに外へ出ることくらいありますよ?」

「そ、そうですよね……!」

(なぜ僕はこんなに慌てているんだ……!)

さくらさんは、あなたの隣に少し距離を空けて腰掛けた。

「ここ、気持ちいいですね」

「……はい。静かですし、景色もいいので」

「あなた、よくここに来ていますよね」

「えっ。知っていたんですか?」

「ええ。何度か見かけていますから」

あなたは驚いた。

まさか、自分が庭で過ごしていることを、さくらさんが知っていたとは思わなかったのだ。

「仕事が忙しいときでも、ここで休んでいると少し落ち着くんです」

あなたがそう言うと、さくらさんは庭の木々を眺めた。

「いいことだと思います。仕事を頑張るのも大切ですが、きちんと休むことも大切ですから」

「……はい」

少しだけ沈黙が流れた。

以前のあなたなら、この沈黙を怖がっていただろう。

何か話さなければ。

つまらないと思われたらどうしよう。

そんなことばかり考えて、結局何も言えなかったかもしれない。

けれど、今日は違った。

あなたは、思い切って口を開いた。

「……さくらさんは、お昼休みって、いつも何をしているんですか?」

言えた。

また、自分から話しかけられた。

さくらさんはあなたを見て、少しだけ目を丸くした。

「私ですか?」

「は、はい。もし、答えにくかったら大丈夫です!」

「いえ、そんなことありませんよ」

さくらさんは微笑んだ。

「私は、食事をしたあとに少し散歩をしたり、午後の予定を整理したりしています。あとは……気分転換に、こうして外へ来ることもありますね」

「そうなんですね」

「あなたは?」

「僕は、景色を眺めるのが好きなんです。何も考えずに空を見ていると、頭の中が整理される気がして」

「なるほど」

さくらさんは、あなたの言葉をきちんと聞いてくれていた。

「だから、あなたは新しい企画を考えるのが得意なのかもしれませんね」

「えっ?」

「以前、庭で考えたアイディアを提案してくれたことがあったでしょう?」

「あ……はい!」

「私は、あの企画、とてもいいと思いましたよ」

胸が温かくなった。

自分の仕事を評価してもらえるのは、もちろん嬉しい。

けれど、それ以上に。

さくらさんが、自分のことを覚えていてくれたことが嬉しかった。

「……ありがとうございます」

あなたは少し照れながら答えた。

すると、さくらさんは優しく目を細めた。

「こちらこそ。あなたが自分の考えを話してくれるのは、嬉しいことですから」

(…………)

危なかった。

心臓が止まるかと思った。

(さくらさん……それは反則です……!)

もちろん、口には出さない。

あなたは必死に平静を保った。

「……これからも、いろいろ考えてみます」

「ええ。期待していますね」

その言葉を聞いて、あなたは思った。

(……もっと、さくらさんと話せるようになりたいな)

恋心を知られるわけにはいかない。

それでも、彼女と話す時間を大切にしたい。

その気持ちだけは、どうしても消せなかった。

第三章 午後の小さな挑戦

午後の会議は、予定どおり少し長引いた。

あなたは自分の担当資料について説明し、質問にも落ち着いて答えた。

会議が終わるころには、頭も身体もそれなりに疲れていた。

それでも、今日のあなたには、もうひとつ目標があった。

(……仕事が終わる前に、もう一度だけ話しかけてみよう)

会議の内容についてでもいい。

今日の仕事についてでもいい。

とにかく、さくらさんから話しかけられるのを待つのではなく、自分から一歩踏み出す。

あなたは資料をまとめると、さくらさんのデスクへ向かった。

「あの、さくらさん」

「はい。どうしましたか?」

「今日の会議なんですけど……僕の説明、分かりにくいところはありませんでしたか?」

さくらさんは少し考えた。

「そうですね。最初の説明は、もう少し結論から話すと、聞く側が理解しやすいと思います」

「なるほど……」

「でも、質問への回答はよかったですよ。きちんと自分で考えて、答えられていましたから」

「ありがとうございます。次は、最初に結論を伝えるようにします」

「ええ。期待しています」

そこで終わるつもりだった。

ところが、あなたはもうひとつ、言葉を付け加えた。

「……さくらさん」

「はい?」

「今日は、いろいろ教えてくださってありがとうございました」

さくらさんが瞬きをした。

「今日は、ですか?」

「えっ?」

「いつも教えていますけど?」

「あっ、そ、そうですよね! すみません!」

あなたは慌てた。

さくらさんは、そんなあなたを見て、ふっと笑った。

「冗談です。どういたしまして」

「……!」

「それに、最近のあなたは、自分から質問してくれることが増えましたね」

あなたは思わず固まった。

(……気づかれていた!?)

さくらさんは続けた。

「最初のころは、分からないことがあっても、自分で何とかしようと頑張りすぎているように見えました」

「……はい」

「もちろん、自分で考えることは大切です。でも、相談することも仕事のうちですよ」

「そうですね……」

「だから、これからも遠慮なく話しかけてください」

その言葉に、あなたは胸を打たれた。

恋心を知られてしまうのは困る。

けれど、仕事の相談をすることまで遠慮する必要はないのだ。

あなたは、ようやくそのことを理解した。

「……はい。これからは、もう少し自分から話しかけてみます」

「ふふっ。いい心がけですね」

さくらさんは満足そうに頷いた。

「では、今日はここまでにしましょう。お疲れさまでした」

「お疲れさまでした!」

あなたは自分のデスクへ戻った。

そして、誰にも見られないように、そっと胸を押さえた。

(……今日、頑張ってよかった)

さくらさんと、いつもよりたくさん話せた。

彼女のことを少しだけ知ることができた。

そして、自分の考えも、少しだけ伝えることができた。

それだけで、今日は特別な一日になった気がした。

第四章 さくらさんの小さな気づき

定時を過ぎ、あなたが帰り支度をしているころ。

さくらさんは、自分のデスクで今日の業務記録を整理していた。

ふと、昼休みのことを思い出す。

庭で景色を眺めながら、自分から質問してくれたあなた。

会議のあと、わざわざ確認に来てくれたあなた。

そして、少し緊張しながらも、きちんとお礼を伝えてくれたあなた。

「……ふふっ」

さくらさんは小さく笑った。

最近のあなたは、少しずつ変わってきている。

以前よりも自分の考えを話すようになったし、仕事の相談もできるようになった。

何より、あなたの表情が以前より明るくなった気がする。

「……成長しましたね」

誰にも聞こえない声で、さくらさんは呟いた。

教育係として、あなたが成長していく姿を見るのは嬉しい。

けれど。

今日、あなたが何度も自分から話しかけてくれたことが、なぜか少しだけ嬉しかった。

「……明日も、話しかけてくれるでしょうか」

ぽつりと呟いてから、さくらさんはハッとした。

「……いえ、何を考えているんでしょう、私は」

頬に手を当て、軽く咳払いをする。

「教育係として、成長を見守っているだけです」

そう自分に言い聞かせ、パソコンの画面へ向き直った。

しかし、その口元には、ほんの少しだけ笑みが残っていた。

第五章 帰り道の決意

会社を出たあなたは、夕暮れの道を歩いていた。

空はオレンジ色に染まり、風が心地よかった。

「……今日は、よく頑張ったな」

仕事も頑張った。

さくらさんにも話しかけた。

いつもなら、頭の中で何度も会話をシミュレーションして、結局何もできずに終わっていたかもしれない。

でも、今日は違った。

自分から一歩踏み出せた。

「……明日も、頑張ろう」

あなたは小さく笑った。

もちろん、さくらさんへの恋心は秘密のままだ。

それは、これからも変わらない。

けれど、ひとつだけ決めたことがある。

(仕事の話だけじゃなくて、少しずつ、いろんな話ができるようになろう)

無理に距離を縮めようとはしない。

焦って特別な関係になろうともしない。

ただ、毎日きちんと挨拶をして、時には自分から話しかけて、相手の言葉を大切に聞く。

そうして少しずつ、信頼を積み重ねていこう。

あなたは空を見上げた。

「……さくらさん。明日もよろしくお願いします」

もちろん、その言葉は本人には聞こえない。

それでも、あなたの胸の中には、明日への小さな期待が生まれていた。

恋心を隠したままでも、言葉を交わすことはできる。

今日のあなたは、そのことを初めて実感したのだった。

そして翌朝。

あなたが出社すると、さくらさんはいつものようにデスクで仕事をしていた。

あなたの姿を見つけると、彼女は顔を上げて微笑んだ。

「おはようございます」

「……お、おはようございます!」

「今日は、何か面白いお話でも聞かせてくれますか?」

「えっ!?」

思いがけない言葉に、あなたは固まった。

さくらさんは、楽しそうに微笑んでいる。

「昨日、庭でお話ししたでしょう? あなたの考えていることを聞くのは、なかなか興味深いですから」

「そ、そうですか……?」

「ええ。楽しみにしていますね」

(……さくらさん!?)

あなたの心臓が、再び大きく跳ねた。

恋心を知られてはいけない。

それなのに。

昨日よりも、さくらさんと話すことが楽しみになってしまった。