「君がいない職場と、引き出しの中の秘密のノート」
「君がいない職場と、引き出しの中の秘密のノート」
1.リリニーで見つけた、小さなお土産
僕は今、リリニーのホテルで、買ってきたお土産を机の上に並べていた。
明日も、その次の日も、まだ旅行は続く。
パークの景色は綺麗だったし、アトラクションも楽しかった。ひとり旅だからこそ、自分の好きな場所を自由に歩ける。
それなのに。
「……これ、さくらさんに似合いそうだな」
僕の手には、小さな桜色のキーホルダーがあった。
淡いピンク色の花びらがあしらわれていて、光に当たると控えめに輝く。
最初は、自分用のお土産だけを買うつもりだった。
ところが、お店を歩いていると、ふと教育係のさくらさんの顔が浮かんできたのだ。
仕事中、僕が困っていると必ず声をかけてくれる人。
厳しいときもあるけれど、僕が少しずつ成長すると、誰よりも先に気づいてくれる人。
そして……僕が初めて会ったときから、ずっと好きな人。
「いやいやいや……!」
僕は慌てて頭を振った。
「これは、あくまで日頃のお礼! 教育係としてお世話になっているから! それ以上の意味はない!」
誰もいないホテルの部屋で、必死に言い訳をする。
そもそも、僕は一週間のひとり旅の真っ最中だ。
会社のことは忘れて、思いっきり楽しむつもりだった。
なのに、気がつけばお土産売り場でさくらさんのことを考えている。
「……重症だな、僕」
それでも、キーホルダーを棚に戻す気にはなれなかった。
僕はそれを丁寧に袋へしまった。
「……喜んでくれるといいな」
小さく呟いた声は、ホテルの静かな部屋に溶けていった。
このときの僕は、まだ知らなかった。
僕が旅行を楽しんでいる間、会社では、とんでもないことが起きていたのだ。
2.さくらさん、仕事が進みません。
一方、その頃の会社。
「……」
さくらは、自分のデスクに座っていた。
目の前には、確認しなければならない書類。
パソコンには、今日中にまとめなければならない企画書。
いつもなら、優先順位をつけて、順番に片づけていく。
判断も早い。
部下への指示も的確。
周囲からは、頼りになる上司として信頼されていた。
しかし。
「……あれ?」
さくらは、同じ資料を三度も読み直していた。
文章の意味は理解できる。
数字にも間違いはない。
それなのに、どうにも頭が働かない。
「……この部分、どうまとめればいいのでしょうか」
普段なら、すぐに結論を出せるはずだった。
なのに、今日は違う。
気がつくと、空いている隣の席を見てしまう。
そこは、いつも僕が座っているデスクだった。
今は、誰もいない。
「……旅行、楽しんでいるのでしょうね」
さくらは小さく呟いた。
一週間の休暇。
行き先はリリニー。
以前、僕が楽しそうに旅行の計画を話していたとき、さくらも覚えていた。
「お土産、買ってきますね!」
出発前、僕はそう言って笑っていた。
さくらは、そのとき何気なく返事をした。
「ありがとうございます。お気遣いなく」
本当は、少しだけ嬉しかった。
けれど、教育係としての立場もある。
あまり喜びすぎるのも、変に思われるかもしれない。
だから、いつもどおりに振る舞った。
……そのはずだった。
「……まだ、帰ってこないのですよね」
カレンダーを確認する。
帰ってくるまで、まだ何日もある。
さくらは、ペンを持ち直した。
「いけません。仕事に集中しなければ」
そして、企画書に目を落とした。
五分後。
「……」
十分後。
「……はぁ」
結局、ほとんど進んでいなかった。
さくらは自分の額に手を当てた。
「どうしてでしょう……」
仕事ができないわけではない。
疲れているだけかもしれない。
そう自分に言い聞かせても、頭の片隅には、いつも僕の姿が浮かんでしまう。
僕がいたら、どう考えるだろう。
僕なら、この問題をどう整理するだろう。
あの子なら、きっと別の視点から考えるはず。
気がつけば、さくらは僕がいないことを、仕事のあらゆる場面で感じていた。
「……困りましたね」
いつもは部下を支える側の彼女が、ひとりで行き詰まっていた。
3.ひとりの社員が気づいたこと
午後。
書類を取りに来た先輩社員が、さくらの様子に気づいた。
「さくらさん? どうかしましたか?」
「いえ……少し、考えがまとまらなくて」
「珍しいですね。いつもなら、もう終わっている時間なのに」
「……そうですね」
さくらは苦笑した。
先輩社員は、机の上の資料を見て、首を傾げた。
「この企画書、もしかして例の新しい案件ですか?」
「はい。いくつかの条件が絡んでいて、整理しきれなくなってしまって」
「なるほど……」
先輩社員はしばらく考えた。
そして、ふと思い出したように言った。
「そういえば、君のところの新人くん。あの子がいないと、困ることが増えましたね」
さくらの手が止まった。
「……え?」
「いや、最近、あの子に助けてもらうことが多かったんですよ。資料の整理もそうですし、トラブルが起きたときの対処法も」
「……そうなのですか?」
「ええ。そうだ、確か……」
先輩社員は、僕のデスクを見た。
「以前、あの子が『もし自分がいなくても困らないように』って、何かを引き出しに入れていた気がするんです」
「……引き出し?」
さくらは思わず顔を上げた。
「ちょっと確認してもいいですか?」
先輩社員が僕のデスクの前に立った。
もちろん、会社の備品や業務に関する資料を探すためだ。
引き出しを開ける。
整理された文房具。
付箋。
予備のファイル。
そして、一冊のノート。
表紙には、僕の字で、こう書かれていた。
『もし、僕がいなくて困ったら』
「……これだ」
先輩社員が、思わず声を漏らした。
さくらは、息を呑んだ。
「……あの子、こんなものを?」
4.引き出しの中にあった秘密
ノートを開くと、最初のページには、丁寧な字で説明が書かれていた。
『このノートは、仕事で困ったときに使ってください。
僕がいないときでも、みんなが少しでも仕事を進められるように、今まで気づいたことや、失敗から学んだことをまとめておきました。
全部を覚える必要はありません。
困ったときに、必要なところだけ見てください。
それでも解決しなかったら、遠慮せずに周りの人に相談してください。
ひとりで抱え込まないこと。
それが、一番大事です。』
先輩社員は、静かにページをめくった。
そこには、さまざまな内容が記されていた。
* 急なトラブルが起きたとき、最初に確認すること。
* 企画書の内容がまとまらなくなったときの整理方法。
* 他部署との連携で行き違いが起きたときの対応。
* 新人が失敗したとき、責める前に確認してほしいこと。
* 仕事が多すぎるときの優先順位のつけ方。
* 自分の判断に自信がなくなったとき、立ち止まって考えるための質問。
どれも、実際の仕事で僕が経験したことだった。
失敗して、悩んで、先輩に助けてもらって。
そのたびに学んだことを、忘れないように書き残していたのだ。
しかも、ただの手順書ではなかった。
ページの端には、僕らしい小さな言葉が添えられていた。
『失敗しても、次に活かせれば大丈夫』
『わからないことを聞くのは、恥ずかしいことじゃない』
『困っている人がいたら、声をかけてあげてください』
そして、あるページには、こんな一文があった。
『僕も、最初は何もできませんでした。
でも、誰かが助けてくれたから、少しずつできることが増えました。
だから今度は、僕が誰かを助けられるようになりたいです。』
先輩社員は、感心したように息を吐いた。
「……あの子らしいな」
さくらは、何も言えなかった。
ノートの文字を、じっと見つめていた。
僕が毎日、どんなことを考えていたのか。
自分がいない場所でも、誰かが困らないように。
自分が教えてもらったことを、次の誰かに渡せるように。
そんなことを、いつの間にか考えていたのだ。
「……あの子」
さくらの声が、わずかに震えた。
「こんなことまで、していたのですね」
5.みんなが知っていた、僕の秘密
「実は、これに助けられたのは私だけじゃないんですよ」
別の社員が、会話に加わった。
「私も先週、急な修正依頼で困っていたときに、このノートを見ました」
「僕もです。あの子が以前、似たような問題を解決していたので、参考にさせてもらいました」
「新人の教育についても、役立つことが書いてありましたよ。どう説明したら相手に伝わりやすいか、とか」
次々に、社員たちが話し始めた。
「本人は、あまり自慢しないんですけどね」
「むしろ『僕も先輩たちに教えてもらっただけです』って言うんですよ」
「でも、あの子がいると、職場の空気が少し変わるんです。困っている人に気づくのが早いから」
さくらは、ゆっくりとノートを閉じた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
僕は、特別なことをしているつもりなどなかったのだろう。
誰かに褒められるためでもない。
評価を上げるためでもない。
ただ、自分が助けてもらったように、誰かを助けたかった。
その気持ちが、この一冊に詰まっていた。
「……本当に」
さくらは、ノートの表紙を指でそっとなぞった。
「あなたは、どこまで周りを見ているのですか」
その声は、いつもの教育係の声とは少し違っていた。
厳しさよりも、優しさが滲んでいた。
先輩社員は、企画書を指さした。
「さくらさん。もしかしたら、このノートにもヒントがあるかもしれませんよ」
「……そうですね」
さくらは、もう一度ノートを開いた。
該当するページには、こう書かれていた。
『複雑な問題は、最初から全部を解決しようとしない。
まず、何が決まっていて、何が決まっていないのかを分ける。
次に、絶対に守る条件を確認する。
最後に、ひとつずつ考える。
全部を一度に抱え込まなくても大丈夫。』
さくらは、目を閉じて深呼吸した。
それから、企画書の白紙の部分に、ゆっくりと項目を書き始めた。
決定事項。
未決定事項。
優先すべき条件。
関係部署への確認事項。
すると、先ほどまで絡まっていた考えが、少しずつ整理されていった。
「……なるほど」
ペンが進む。
ひとつ。
またひとつ。
気づけば、さくらの表情から迷いが消えていた。
「できました……!」
思わず声が出た。
周囲の社員たちが、顔を見合わせて笑った。
「さすがですね」
「いえ……」
さくらは、ノートを見つめた。
「今回は、あの子のおかげです」
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……ありがとうございます」
6.さくらさんが気づいた、本当のこと
仕事がひと段落すると、さくらは僕のデスクの前に立った。
いつもと変わらない机。
きちんと整理された書類。
使い慣れたペン。
そして、引き出しの中に戻されたノート。
さくらは、しばらくそこから動かなかった。
僕が座っていたときのことを思い出す。
仕事が終わると、庭に出て景色を眺めていた僕。
困っている社員を見つけると、さりげなく声をかけていた僕。
自分が褒められると、照れくさそうに笑っていた僕。
そして、出発前。
「さくらさん、お土産買ってきますね!」
そう言って、少し嬉しそうに笑った僕。
さくらは、ふっと笑みを浮かべた。
「……本当に、ずるい人ですね」
もちろん、僕に聞こえるはずはない。
「そんなことをされたら……帰ってくるのが、待ち遠しくなるじゃないですか」
言い終えてから、さくらはハッとした。
「……っ! い、いえ! 違います!」
誰も何も言っていないのに、ひとりで慌ててしまう。
「教育係として、あの子の成長を確認する必要があるだけです。そう、仕事上の理由です!」
けれど、頬はほんの少し赤かった。
さくらはノートをそっと引き出しに戻した。
そして、引き出しを閉める前に、もう一度だけ表紙を見た。
『もし、僕がいなくて困ったら』
その言葉が、今は少し違って見えた。
仕事のことだけではない。
僕がいない職場で、自分がどれほど僕を頼りにしていたのか。
僕がいない一日が、こんなにも長く感じられるのか。
それを、さくらは初めて自覚し始めていた。
「……早く、帰ってきてくださいね」
その言葉は、上司としての指示ではなかった。
7.そして、リリニーの僕は知らない。
その日の夜。
僕はホテルのベッドに腰掛け、スマートフォンで撮った写真を眺めていた。
パークの美しい景色。
お気に入りのアトラクション。
美味しかった食事。
そして、明日行く予定の場所。
「いやあ、今日も楽しかった!」
僕は大きく伸びをした。
明日は何をしよう。
どこを回ろう。
そんなことを考えていたとき、ふと机の上のお土産が目に入った。
さくらさんに買った、桜色のキーホルダー。
「……さくらさん、喜んでくれるかな」
考えた瞬間、胸がどきりとした。
「いやいや、だからお礼だって!」
僕は自分に言い聞かせる。
「変な意味はない。絶対にない。普通のお土産!」
そう言いながらも、渡すときのことを想像してしまう。
さくらさんが、少し驚いて。
それから、いつもの優しい笑顔で。
「ありがとうございます。大切にしますね」
なんて言ってくれたら。
「…………」
僕は枕に顔を埋めた。
「だめだ。考えるな、僕!」
旅行中くらい、落ち着いて楽しみたい。
そう思いながらも、結局、眠る直前までキーホルダーのことを考えていた。
一方、会社では。
さくらが、僕のノートを参考にして完成させた企画書を確認していた。
机の端には、ノートが大切に置かれている。
「……あの子が帰ってきたら、ちゃんとお礼を言わないと」
そう呟いてから、さくらは小さく笑った。
「それから……旅行のお話も、聞きたいですね」
僕がどんな景色を見たのか。
何を食べたのか。
どんなものをお土産に選んだのか。
本当は、何でもいいから聞きたかった。
けれど、さくらはまだ知らない。
僕が、彼女のためだけに選んだ小さなお土産を、誰にも見せずに大切に持っていることを。
そして僕も、まだ知らない。
自分がいない職場で、みんなが自分のノートに助けられていたことを。
その中心で、誰よりも僕の帰りを待っている人がいることを。
教育係のさくらさんには、恋心を知られてはいけない。
なのに。
僕が帰る日が近づくにつれて、さくらさんの仕事は、少しずつ順調になっていった。
ただし。
僕がいない間に、さくらさんが何度も僕のデスクを見ていたことだけは――。
まだ、僕は知らない。