休日の映画館、隣にいたのはまさかの教育係
休日の映画館、隣にいたのはまさかの教育係
土曜日の朝。
今日は久しぶりの休日だった。
平日は朝から夕方まで仕事。教育係のさくらさんに教わりながら、少しずつ仕事を覚えてきた僕は、最近ようやく自分の成長を実感できるようになっていた。
だからこそ、今日は仕事のことを忘れて、思いっきり休日を楽しもうと思っていた。
「よし、今日は映画を観に行こう!」
以前から気になっていた映画のチケットは、すでに予約済み。
座席も選んである。飲み物を買って、ゆっくり映画を楽しむ。それが今日の計画だった。
……ただし、一つだけ問題があった。
僕は、教育係のさくらさんに恋をしている。
初めて会った日から、ずっと。
仕事を教えてくれる優しい声。困っているときに気づいてくれるところ。仕事に真剣に向き合う横顔。
気づけば、さくらさんのことばかり考えてしまうようになっていた。
もちろん、本人には絶対に知られてはいけない。
「今日は休日だし、さくらさんのことは忘れて映画に集中するぞ!」
僕はそう自分に言い聞かせ、映画館へ向かった。
ところが――。
第一話 隣の席にいた教育係
映画館に到着した僕は、売店で飲み物を買い、上映開始の時間を待った。
やがて入場が始まり、予約していた座席番号を確認しながら館内へ入る。
「えっと、ここだな」
自分の席を見つけ、座ろうとした、その瞬間。
隣の席に座っていた女性が、こちらを振り向いた。
「……あら?」
聞き覚えのある声。
さらりと揺れる髪。
見慣れた優しい目。
そして、休日らしい落ち着いた服装。
「……さくら、さん?」
「えっ……あなた?」
そこにいたのは、まさかの教育係、さくらさんだった。
僕は固まった。
頭の中が真っ白になった。
どうして?
なぜ?
休日の映画館で?
しかも、隣の席!?
「ど、どうしてさくらさんがここに!?」
思わず声が大きくなってしまい、周囲のお客さんがこちらを見る。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
慌てて声を小さくすると、さくらさんはクスッと笑った。
「ふふっ。そんなに驚かなくてもいいじゃないですか。私だって休日に映画くらい観ますよ?」
「そ、それはそうですけど……!」
「あなたも、この映画を観に来たんですね」
「は、はい! 前から気になっていて……」
「そうなんですね。私も気になっていたんです」
さくらさんは、手元のチケットをちらりと見た。
「それにしても、すごい偶然ですね。同じ映画で、隣の席だなんて」
「そ、そうですね……!」
心臓がうるさい。
ドクン、ドクン、ドクン。
普段、会社で仕事を教わっているときとはまったく違う。
仕事中なら、さくらさんが隣にいても平静を装える。
しかし、今は違う。
会社の外。
休日。
映画館。
そして、隣には私服姿のさくらさん。
僕にとっては、あまりにも特別な状況だった。
「……?」
さくらさんが僕の顔を覗き込む。
「どうしました? なんだか顔が赤いですよ?」
「い、いえ! 館内が少し暑いだけです!」
「そうですか?」
「はい!」
危なかった。
もう少しで、心の中に隠していた気持ちが顔に出てしまうところだった。
さくらさんは不思議そうに首を傾げたあと、スクリーンへ視線を戻した。
「そろそろ始まりますね。楽しみです」
「……はい」
僕は小さく息を吐いた。
(落ち着け、僕。これはただの偶然だ。隣の席になっただけ。特別な意味なんてない……!)
そう思い込もうとした。
けれど、さくらさんが隣にいるという事実だけで、いつもの休日とは何もかも違っていた。
第二話 二人きりの映画鑑賞
やがて、館内が暗くなった。
スクリーンに映像が映し出され、映画が始まる。
僕は必死に映画へ集中しようとした。
面白い。
ストーリーも気になる。
映像もきれいだ。
なのに……。
(近い……!)
もちろん、座席は普通の距離だ。
肩が触れているわけでもない。
それなのに、隣にさくらさんがいるというだけで、どうしても意識してしまう。
ふと横を見ると、さくらさんは真剣にスクリーンを見つめていた。
会社で資料を確認しているときのような、集中した表情。
しかし、面白い場面になると、ほんの少し口元が緩む。
感動する場面では、目を細めて静かに見入っている。
(……かわいい)
思ってしまった。
休日のさくらさんは、会社で見る姿とは少し違う。
普段よりも柔らかい雰囲気で、映画を楽しんでいる。
そんな一面を知ることができただけで、胸がいっぱいになった。
(いやいやいや! 映画を観に来たんだろ、僕!)
慌ててスクリーンへ視線を戻す。
そのときだった。
映画の中で、登場人物が思いがけない失敗をしてしまう場面があった。
僕が思わず小さく笑うと、隣からもクスッという声が聞こえた。
さくらさんだった。
一瞬だけ目が合う。
さくらさんは、声を抑えながら微笑んだ。
その表情に、僕はまた心臓を跳ねさせた。
(だめだ……。今日は心臓がもたない……!)
それでも、映画は最後まで楽しかった。
同じ場面で笑い、同じ場面で驚き、同じ物語を共有する。
たったそれだけのことなのに、僕の中には、いつまでも覚えていたいと思う時間が積み重なっていった。
そして――。
映画は、感動的なエンディングを迎えた。
館内に明かりが戻る。
「……いい映画でしたね」
さくらさんが、満足そうに言った。
「はい。本当に面白かったです!」
「特に最後の場面、よかったですね」
「僕もそう思います!」
自然と会話が弾んだ。
仕事の報告でもなければ、業務の相談でもない。
ただ、観た映画の感想を話しているだけ。
それなのに、僕はこんなにも楽しかった。
第三話 「今日はなんだか、デートみたいですね」
退場するお客さんの流れに合わせ、僕たちは映画館の通路へ出た。
僕は、さくらさんと一緒に映画を観たという事実を、まだうまく受け止められずにいた。
(まさか、休日にさくらさんと会うなんて……)
しかも、偶然とはいえ、隣の席。
これ以上考えたら、顔がにやけてしまいそうだった。
「ところで」
さくらさんが、こちらを振り向いた。
「はい?」
「今日はなんだか、二人でデートしていたみたいですね」
…………。
………………。
………………え?
「…………へ?」
僕の思考が完全に停止した。
さくらさんは、いたずらっぽく笑っていた。
「だって、同じ映画を観て、隣同士で座って、一緒に感想まで話して。なんだか不思議ですよね」
「そ、そそそそ、それは……!」
声が裏返った。
「ふふっ。そんなに慌てなくてもいいじゃないですか」
「い、いや、慌てているわけでは……!」
慌てている。
ものすごく慌てている。
心の中では警報が鳴り響いていた。
(デ、デート!? 今、さくらさん、デートって言った!?)
(いや、待て! これは冗談だ! きっと偶然を面白がっているだけだ!)
(そうだ! 落ち着け! ここで変な反応をしたら、まさか僕が本当にさくらさんを好きだと気づかれてしまう!)
僕は、なんとか表情を整えようとした。
「そ、そうですね! 偶然ってすごいですね!」
「……ふふっ」
「……?」
「あなたって、こういう話になると、ちょっと面白いですね」
「えっ!?」
「いつも仕事中は落ち着いているのに、今日はなんだか違います」
さくらさんは、楽しそうに目を細めた。
「休日だからでしょうか?」
「そ、そうかもしれません……!」
(違います! あなたが隣にいるからです!!)
もちろん、口には出せない。
絶対に出せない。
僕は心の中で叫びながら、なんとか笑顔を保っていた。
すると、さくらさんは少しだけ真面目な顔になった。
「でも、今日は楽しかったです」
「……え?」
「会社では、どうしても仕事の話ばかりになってしまうでしょう? こうして仕事と関係なく、ゆっくりお話しできたのは新鮮でした」
その言葉に、僕は一瞬、返事を忘れた。
さくらさんも、今日の時間を楽しんでくれていた。
それが、たまらなく嬉しかった。
「……僕も、楽しかったです」
今度は、自然に言えた。
「映画も面白かったですし……さくらさんと感想を話せたのも、嬉しかったです」
言ってから、しまったと思った。
(嬉しかったって……! ちょっと素直すぎたか!?)
けれど、さくらさんはからかったりしなかった。
ただ、優しく微笑んでくれた。
「そう言ってもらえると、私も嬉しいです」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなった。
恋心を知られたくない。
けれど、さくらさんと過ごす時間が嬉しいという気持ちまで、隠しきれるわけではなかった。
第四話 もう少しだけ、一緒に
映画館の出口に着くと、外は穏やかな午後の日差しに包まれていた。
さくらさんはスマートフォンで時間を確認した。
「まだ少し時間がありますね」
「あ、そうですね」
「このあと、何か予定はあるんですか?」
「いえ、特には……」
答えながら、僕の心臓がまた跳ねた。
さくらさんは少し考えてから言った。
「もしよかったら、近くでお茶でもしませんか? せっかくですし、もう少し映画のお話もしたいです」
「…………えっ?」
「もちろん、予定があれば大丈夫ですよ?」
「い、いえ! 予定はありません! ぜひ!」
即答だった。
あまりにも即答すぎた。
さくらさんが目を丸くする。
そして――。
「ふふっ。よかったです」
また、その笑顔。
(……僕、今日だけで何回この人に心臓を撃ち抜かれているんだろう)
二人で近くのカフェへ向かった。
窓際の席に座り、飲み物を注文する。
映画の話から、休日の過ごし方、最近読んだ本の話へ。
会社ではなかなか聞けない話も、少しずつ聞くことができた。
「さくらさんって、休日も映画を観たりするんですね」
「しますよ。仕事ばかりでは疲れてしまいますから」
「確かに……」
「あなたは?」
「僕も、こうして映画を観たり、外の景色を眺めたりするのが好きです」
「そうなんですね。今度、おすすめの映画があったら教えてください」
「はい! ぜひ!」
またもや、元気よく返事をしてしまった。
さくらさんは楽しそうに笑った。
そんな何気ない会話が、僕には何よりも大切に思えた。
しばらくして、さくらさんがカップを置いた。
「それにしても……」
「はい?」
「今日、本当に不思議な偶然でしたね」
「……そうですね」
「もし私たちが同じ映画を観る約束をしていたら、もっとデートらしかったかもしれませんね?」
「ぶっ……!?」
危うく飲み物を吹き出しそうになった。
「さ、さくらさん!?」
「ふふっ、冗談ですよ」
さくらさんは笑っていた。
けれど、その言葉を聞いた僕の顔は、どうしようもなく熱くなっていた。
(冗談……冗談だよな……?)
(でも、もし本当に一緒に行く約束ができたら……)
そこまで考えて、僕は慌てて首を横に振った。
(だめだ! 期待するな! 落ち着け、僕!)
さくらさんは、そんな僕を見ながら、少しだけ優しい表情になった。
「でも、またこうしてお話しできたら嬉しいです」
「…………!」
僕は、今度こそ言葉を失った。
「……僕もです」
小さな声だったけれど、嘘ではなかった。
さくらさんは、満足そうに微笑んだ。
第五話 帰り道に残った秘密
カフェを出たあと、僕たちは駅へ向かう道を一緒に歩いた。
休日の街は賑やかで、道端には楽しそうに笑う人たちがいた。
僕とさくらさんも、並んで歩いている。
まるで、本当に――。
(……いやいやいや!)
僕は慌てて考えを打ち消した。
さくらさんは、僕の教育係だ。
仕事を教えてくれる大切な人。
そして、僕が恋をしている人。
だからこそ、この気持ちは大切に胸の中へしまっておきたい。
「今日はありがとうございました」
駅の入り口で、さくらさんが立ち止まった。
「こちらこそ! 映画もカフェも、本当に楽しかったです!」
「よかったです。では、また会社で」
「はい! また月曜日に!」
さくらさんは軽く手を振り、改札へ向かっていった。
僕は、その後ろ姿を見送りながら、ゆっくり息を吐いた。
「…………はぁ」
今日一日、何度心臓が跳ねたことだろう。
偶然、隣の席になったこと。
映画を一緒に楽しんだこと。
「デートみたいですね」と言われたこと。
そして、また話したいと言ってもらえたこと。
どれも、忘れたくない思い出になっていた。
僕はスマートフォンを取り出し、今日観た映画のタイトルを見つめた。
きっと、これからこの映画を思い出すたびに、今日のことも思い出すのだろう。
「……さくらさん」
誰にも聞こえないくらい小さな声で、名前を呼んだ。
「好きです……」
言葉にしたのは、それだけだった。
もちろん、本人には届かない。
届いてはいけない。
僕は、まだこの恋心を隠しておかなければならないのだから。
けれど、今日だけは少しだけ、自分の気持ちを認めてもいい気がした。
――休日の映画館で始まった、二人だけの特別な思い出。
それは、僕にとって忘れられない一日になった。
そして月曜日。
会社でさくらさんと顔を合わせた僕は、いつもどおりに挨拶をした。
「おはようございます、さくらさん!」
「おはようございます」
さくらさんは書類を持ったまま、ふと僕を見た。
「そういえば、土曜日の映画、楽しかったですね」
「…………っ!?」
一瞬で、休日の記憶がよみがえった。
「は、はい! 楽しかったです!」
「また偶然、どこかで会うかもしれませんね?」
「そ、そうですね……!」
さくらさんは、意味ありげに微笑んだ。
「ふふっ。次は、どんな映画を観ましょうか」
「…………え?」
「冗談ですよ。さあ、今日もお仕事を頑張りましょう」
そう言って、さくらさんは自分のデスクへ戻っていった。
僕はその場に立ち尽くした。
(……今のって、どういう意味!?)
答えは、まだ分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
教育係のさくらさんには、僕の恋心を知られてはいけない。
……少なくとも、今のところは。
そう心に誓いながら、僕は月曜日の仕事を始めた。
けれど、ふと顔を上げると、少し離れたデスクでさくらさんがこちらを見て、優しく微笑んでいた。
その瞬間、僕の心臓はまた、ドクンと大きく鳴った。
――休日の映画館で始まった物語は、まだ終わりそうになかった。