庭に落とした秘密のノート――最後の欄に書いた、たった一つの願い
庭に落とした秘密のノート――最後の欄に書いた、たった一つの願い
昼休み。
僕は会社の建物の裏側にある庭で、ひとり景色を眺めていた。
風がそっと木々を揺らし、木漏れ日が足元に落ちている。遠くから社員たちの話し声が聞こえてくるものの、この場所だけは不思議と静かだった。
「……はぁ。落ち着くなぁ」
僕はベンチに座り、温かい飲み物をひと口飲んだ。
午前中の仕事は順調だった。以前なら少しの失敗で慌てていた僕も、最近は落ち着いて対応できるようになってきた。
それも、教育係のさくらさんのおかげだ。
「さくらさん……今日も綺麗だったな」
ぽつりと口にした瞬間、僕は慌てて周囲を見渡した。
「い、いや! 誰もいないよな……?」
幸い、誰もいなかった。
僕は胸をなで下ろす。
教育係のさくらさんには、絶対に恋心を知られてはいけない。
だって、もし知られてしまったら……。
『あなた、私のことが好きなんですか?』
そんなことを、あの優しい声で聞かれたら。
僕はきっと、まともに返事すらできない。
「……うわぁ。想像しただけで恥ずかしい」
僕は顔を両手で覆った。
ところが、そのときだった。
「あっ……そうだ!」
突然、頭の中に新しいアイデアが浮かんできた。
仕事で使える新企画だ。
庭の景色を眺めているうちに、普段は思いつかなかった発想が次々と湧き上がってくる。
「この案と、さっきの案を組み合わせたら……いや、待てよ。こっちの方向なら、もっと面白くなるんじゃないか?」
僕は慌てて鞄から一冊のノートを取り出した。
仕事用のアイデアノート。
そこには、これまで思いついた企画や改善案がたくさん書き込まれている。
僕はページを開き、勢いよくペンを走らせた。
「新しい社内交流企画……社員の得意分野を共有する仕組み……それから、部署を越えた共同プロジェクト……!」
次々と書き込んでいく。
気がつけば、ページの余白まで文字で埋まっていた。
「よし! これ、かなりいいぞ!」
僕は満足げにうなずいた。
そして、次のページをめくった。
そこには仕事とはまったく関係のない、ある秘密の計画が待っていた。
僕自身ですら、書いたことを忘れかけていたページだった。
第一話 誰にも見せられない、もう一つの企画
「……あれ?」
ページの上部に書かれていた文字。
そこには、少し小さな字でこう記されていた。
『さくらさんと、もしも……』
「…………」
僕は固まった。
そうだ。
これは以前、仕事が終わってから、ひとりでこっそり書いたものだった。
もちろん、仕事の企画ではない。
僕の頭の中だけに存在する、秘密の妄想計画である。
「な、なんでこのページを開いちゃったんだよ……!」
閉じようとした。
しかし、一度目に入ってしまった文字は、嫌でも僕の意識を引きつける。
最初の項目には、こう書かれていた。
【計画その一:もしも、さくらさんに告白できたら】
『いつか、ちゃんと自分の気持ちを伝える』
その一文の下には、さらに細かい文字が続いていた。
『でも、急に伝えたら困らせてしまうかもしれない』
『まずは、もっと仕事を頑張る』
『さくらさんに、成長した自分を見てもらいたい』
僕は少しだけ目を伏せた。
これは妄想というより、本当の気持ちだった。
さくらさんに褒められると嬉しい。
仕事で失敗したとき、励ましてもらえると安心する。
そして、さくらさんがほかの社員に優しく接している姿を見るたびに、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
「……僕、本当に好きなんだな」
小さくつぶやいた。
けれど、次の項目を読んだ瞬間、僕の顔は一気に熱くなった。
【計画その二:もしも、さくらさんとデートできたら】
「うわあああっ……!」
僕はノートを閉じかけた。
しかし、好奇心に負けて、もう一度ページを開いてしまう。
そこには、驚くほど具体的な計画が書かれていた。
『まずは、さくらさんと一緒にデートプランを考える』
『どこに行きたいか、何を食べたいか、お互いに意見を出し合う』
『さくらさんが行きたい場所を優先しつつ、僕からも提案してみる』
『歩き疲れたら、景色のいい場所で休憩する』
『帰り道に、今日が楽しかったと伝える』
「…………」
僕はノートを胸に抱えた。
「だ、だめだ……! 具体的すぎる……!」
頭の中に、想像上の光景が浮かんでくる。
さくらさんが隣で楽しそうに笑っている。
『あなたは、どこに行きたいですか?』
『えっ? ぼ、僕ですか?』
『はい。せっかくですから、あなたの希望も聞かせてください』
『じゃ、じゃあ……さくらさんと一緒なら、どこでも……』
『……ふふっ。そういう答えは、ずるいですよ』
「うわあああっ! 何を想像してるんだ、僕は!」
僕はベンチの上で小さく身を縮めた。
誰もいない庭でよかった。
本当に、誰もいなくてよかった。
……そう思っていた。
このときまでは。
第二話 妄想は、どこまでも続いていた
僕はノートの続きを見てしまった。
【計画その三:デート中、もしも困っていることがあったら】
そこには、こんな内容が書かれていた。
『もしも、さくらさんが知らない人にしつこく声をかけられていたら、すぐに様子を確認する』
『怖がっていたら、さくらさんの意思を確かめながら助けに入る』
『相手には落ち着いて、やめてくださいと伝える』
『その場を離れて、安全な場所に移動する』
そして、その下には、さらに恥ずかしい妄想が続いていた。
『助けたあと、さくらさんにお礼を言われたら……』
『ありがとうございます、助かりました』
『い、いえ! 当然のことをしただけですから!』
『……あなたがいてくれて、よかったです』
『…………っ!』
『……どうしました? 顔が赤いですよ?』
『な、なんでもありません!』
「…………」
僕は静かにノートを閉じた。
「僕は何を書いているんだ……」
自分でも呆れる。
仕事では冷静に判断できるようになってきたというのに、さくらさんのことになると、どうしてこうも簡単に頭の中がいっぱいになってしまうのだろう。
しかも、まだ最後のページが残っていた。
「……最後だけ。最後だけ確認したら、もう閉じよう」
誰に対する言い訳なのか、自分でも分からない。
僕はそっとページをめくった。
そこには、これまでよりも小さな字で、最後の項目が書かれていた。
【計画その四:いつか、もしも……】
『さくらさんと、もっといろいろな話をしたい』
『仕事の話だけじゃなくて、好きな景色や、好きな食べ物や、休日の過ごし方も』
『一緒に笑って、困ったときには支え合って』
『僕も、さくらさんが安心して頼れる人になりたい』
そして、一番下。
そこだけは何度も書き直した跡があった。
消しゴムで薄くなった文字の上に、もう一度、丁寧に書き込まれている。
『最後の願い:できれば……いつか、さくらさんと結婚』
「………………」
僕は完全に動けなくなった。
数秒後。
「む、無理無理無理! これは誰にも見せられない!」
顔が熱い。
耳まで熱い。
僕はノートを閉じ、鞄にしまおうとした。
その瞬間だった。
庭の入口から、聞き覚えのある声が響いた。
「……あれ? あなた、ここにいたんですか?」
「…………え?」
ゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは――。
教育係の、さくらさんだった。
「さ、さくらさん!?」
「はい。お疲れさまです」
さくらさんは、いつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。
「午後の打ち合わせの前に、あなたの様子を見に来たんです。最近、企画のアイデアをたくさん出していると聞きましたから」
「あ、ありがとうございます……!」
僕は慌てて立ち上がった。
その拍子に、鞄からノートが滑り落ちる。
「あっ!」
ノートはベンチの横を通り、地面に落ちた。
しかも。
風にあおられたページが、ぱらぱらとめくれていく。
「ま、待って! ノート!」
僕は急いで拾おうとした。
しかし、さくらさんのほうが一歩早かった。
「あら、落としましたよ」
さくらさんは地面に落ちたノートを拾い上げた。
そして、開いたままのページに視線を落とす。
僕の全身から、血の気が引いていった。
そのページには、大きな文字で書かれていた。
『さくらさんと、もしもデートできたら』
「…………」
さくらさんの動きが止まった。
「…………」
僕の思考も止まった。
庭を吹き抜ける風の音だけが、やけにはっきりと聞こえる。
「……あ、あのっ!」
僕は手を伸ばした。
「そ、それは! 違うんです! いや、違わないんですけど、そういう意味じゃなくて……!」
「……そういう意味?」
さくらさんが、ゆっくりと顔を上げた。
「ひゃいっ!?」
声が裏返った。
さくらさんは不思議そうに首をかしげている。
「これ、あなたが考えた企画ですか?」
「き、企画……?」
「はい。デートプランを一緒に考える、というところが見えたので」
「そ、それは、その……!」
僕は必死に言い訳を考えた。
社内交流のための企画。
コミュニケーションの練習。
仮想シナリオの研究。
どれも苦しすぎる。
そして、さくらさんが次のページをめくろうとした瞬間。
「ま、待ってくださいっ!!」
僕は思わず大きな声を出してしまった。
さくらさんが目を丸くする。
「……そんなに大事なページなんですか?」
「だ、大事というか……その……!」
「見られたくないもの?」
「…………はい」
僕は観念して、うつむいた。
もう、隠し通せないかもしれない。
せめて、最後のページだけは見られたくない。
あの一文だけは。
できれば、結婚。
そんなことを書いていたと知られたら、明日からどんな顔をして仕事をすればいいのだろう。
僕は小さな声で言った。
「……すみません。返してください」
さくらさんは、しばらく僕を見つめていた。
そして、ふっと表情を和らげた。
「分かりました」
そう言って、ノートを閉じる。
「勝手に続きを読むのは、やめておきますね」
「……え?」
「あなたにも、秘密にしておきたいことくらいあるでしょう?」
その言葉に、僕は思わず顔を上げた。
さくらさんは、いつもの優しい笑顔を浮かべていた。
「ただ、ひとつだけ聞いてもいいですか?」
「……な、何でしょう?」
「このノートに書かれていることは、あなたにとって大切なことなんですか?」
僕は答えに詰まった。
大切だ。
とても大切だ。
仕事の企画も。
さくらさんと一緒に過ごす想像も。
そして、最後のページに書いた、誰にも言えない願いも。
全部、僕の本当の気持ちだった。
「……はい」
僕は小さくうなずいた。
「僕にとって……すごく、大切なことです」
さくらさんは一瞬だけ驚いたような顔をした。
それから、そっとノートを僕に差し出した。
「そうですか。なら、大事にしてくださいね」
「……ありがとうございます」
僕は両手でノートを受け取った。
そのまま、急いで鞄にしまう。
さくらさんは何も追及しなかった。
それどころか、ベンチの隣に立ち、庭の景色を眺め始めた。
「それにしても、ここは気持ちのいい場所ですね」
「あ……はい。考え事をするのに、ちょうどいいんです」
「なるほど。だから、いい企画がたくさん浮かぶんですね」
「……はい!」
僕は少しだけ笑った。
さくらさんと並んで景色を見る。
たったそれだけのことなのに、胸の鼓動が落ち着かない。
けれど、今はさっきまでのような恥ずかしさだけではなかった。
さくらさんは、僕の秘密を無理に暴こうとはしなかった。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
第三話 さくらさんの、思いがけない質問
「ところで」
さくらさんが、こちらを向いた。
「午後の打ち合わせで、あなたの企画を聞かせてもらえますか?」
「も、もちろんです!」
「楽しみにしています。最近のあなたは、本当に成長しましたから」
「……っ!」
胸が、どくんと鳴った。
「最初のころは、分からないことがあるとすぐに不安そうな顔をしていましたよね」
「うっ……そ、それは……」
「でも今は、自分で考えて、必要なことを整理して、周りの人にも相談できるようになりました」
さくらさんは、柔らかく微笑んだ。
「私は、そういうあなたの努力をちゃんと見ていますよ」
「…………ありがとうございます」
危なかった。
本当に危なかった。
もう少しで、好きです、と口にしてしまいそうだった。
僕は顔をそらし、庭の木々を見つめた。
すると、さくらさんがふいに言った。
「……さっきのノートですけど」
「っ!?」
僕は勢いよく振り向いた。
「ま、まだ何か!?」
「そんなに驚かなくても……」
さくらさんは、くすっと笑った。
「いえ。あのページに、私の名前が書いてあったので」
「…………」
「少しだけ、気になったんです」
僕の心臓が跳ね上がる。
「そ、それは……!」
さくらさんは僕の反応を見て、少し考えるように視線を上げた。
「でも、秘密なんですよね?」
「……はい」
「なら、今は聞かないでおきます」
さくらさんはそう言って、庭の出口へ歩き始めた。
そして、数歩進んだところで立ち止まる。
「あなた」
「は、はい!」
「いつか、そのノートに書いたことを話したくなったら……そのときは、聞かせてくださいね」
「…………え?」
さくらさんは振り返り、微笑んだ。
「もちろん、話したくなったら、でいいんですから」
そう言い残して、彼女はオフィスへ戻っていった。
僕は、その場に立ち尽くした。
風が吹く。
庭の木々が揺れる。
鞄の中には、誰にも見せられない秘密のノート。
その最後のページには、まだ消せない願いが残っている。
『できれば……いつか、さくらさんと結婚』
「…………さくらさん」
僕は鞄をそっと抱えた。
「そんなこと言われたら……いつか、本当に話したくなっちゃうじゃないですか」
小さく笑う。
もちろん、今すぐ告白する勇気なんてない。
まずは仕事を頑張る。
もっと成長する。
さくらさんに、安心して仕事を任せてもらえる人になる。
そして、いつか。
このノートに書いた妄想ではなく、自分の言葉で気持ちを伝えられたら。
「……よし。午後も頑張ろう!」
僕はノートを鞄にしまい、オフィスへ向かった。
ただし。
ひとつだけ、重大な問題が残っていた。
ノートの最後のページ。
そこには、デートプランの続きとして、小さな文字でこんな一文も書かれていたのだ。
『告白の練習:さくらさん、僕と……』
その先は、まだ書けていない。
なぜなら、続きを書くたびに恥ずかしくなって、何度もペンを止めてしまったからだ。
「……帰ったら、続きを書こうかな」
そうつぶやいた瞬間。
オフィスの入口から、さくらさんの声が飛んできた。
「あなたー! 午後の打ち合わせ、始まりますよ!」
「は、はいっ! 今行きます!」
僕は慌てて走り出した。
恋心は、まだ秘密のまま。
でも、いつかその秘密を言葉にできる日が来るのだろうか。
鞄の中のノートを気にしながら、僕は今日も教育係のさくらさんのもとへ向かうのだった。