「行かないで……」悪夢にうなされる昼休み、庭で見つけたあなたに優しく語りかけるさくらさん
「行かないで……」悪夢にうなされる昼休み、庭で見つけたあなたに優しく語りかけるさくらさん
午前中の仕事を終え、昼休みに入ったオフィス。
僕はパソコンを閉じると、小さく息を吐いた。
「……疲れたな」
最近、仕事には少しずつ慣れてきた。以前なら一人ではできなかった仕事も、今では自分で考えて進められるようになった。
それも、教育係のさくらさんが丁寧に教えてくれたおかげだ。
けれど、僕にはひとつだけ、どうしても克服できない問題があった。
それは――。
「……さくらさん」
彼女の名前を心の中で呼ぶだけで、胸がドクンと鳴ってしまうことだった。
優しく微笑んでくれたとき。
仕事がうまくいって「よくできましたね」と褒めてくれたとき。
困っていると、すぐに気づいて声をかけてくれたとき。
その一つひとつが、僕にとって大切な思い出になっていた。
(……好きだなんて、絶対に知られちゃいけない)
さくらさんは僕の教育係であり、今では仕事の上司でもある。
この気持ちを知られたら、きっと今までの関係が変わってしまう。
そう考えると、彼女と目を合わせることさえ怖くなってしまうのだった。
1.昼休み、庭で眠るあなた
昼休み。
僕は社員食堂へ行く気にもなれず、会社の庭にあるベンチへ向かった。
木々の葉が風に揺れ、遠くから社員たちの楽しそうな声が聞こえてくる。
「……少しだけ、眠ろう」
ベンチに座り、背もたれに身体を預ける。
目を閉じると、午前中の疲れが一気に押し寄せてきた。
やがて僕は、静かな庭で眠りに落ちた。
しかし、その眠りは穏やかなものではなかった。
夢の中。
そこには、いつものオフィスがあった。
僕の目の前には、教育係のさくらさんが立っている。
けれど、いつもと様子が違った。
笑顔はない。
優しい声もない。
ただ、冷たい視線で僕を見つめていた。
「……さくらさん?」
僕が恐る恐る声をかけると、彼女は一歩だけ後ろへ下がった。
「さくらさん、僕……何か失敗しましたか?」
彼女は答えなかった。
沈黙が、僕の胸を締めつける。
そして――。
「……もう、あなたの顔を見たくありません」
「え……?」
さくらさんは、今まで聞いたこともないほど冷たい声で告げた。
「出ていってください」
頭の中が真っ白になった。
「ま、待ってください……! 僕、ちゃんと仕事をします! もっと頑張りますから……!」
「出ていって」
「さくらさん……!」
彼女は僕に背を向けた。
その背中が、どんどん遠ざかっていく。
僕がどれだけ呼びかけても、彼女は振り返ってくれない。
「嫌だ……」
夢の中の僕は、必死に手を伸ばした。
「行かないで……さくらさん……!」
しかし、彼女の姿は扉の向こうへ消えてしまった。
バタン。
扉が閉まる音が、オフィスに響いた。
ひとりぼっちになった僕は、その場に立ち尽くす。
(どうして……?)
(僕、何か悪いことをしたのかな……)
(もう、さくらさんに会えないの……?)
夢の中でさえ、僕は彼女に嫌われることが怖かった。
そして、現実の庭で眠っている僕の口から、小さな声が漏れた。
「……やだ……」
眉間にしわが寄る。
「さくら……さん……」
身体がわずかにこわばった。
「……ごめんなさい……」
そして、苦しそうにうなされながら、もう一度つぶやいた。
「……出ていけ、なんて……言わないで……」
2.さくらさんが聞いてしまった寝言
その頃。
オフィスで午後の仕事の準備を終えたさくらさんは、ふと僕のデスクに目を向けた。
「……あれ?」
僕の姿が見当たらない。
昼休みだから、食堂にでも行ったのだろうか。
そう思った彼女だったが、最近の僕の様子が気になっていた。
以前は、わからないことがあれば遠慮なく質問してきた。
仕事が終われば、少し照れくさそうに「ありがとうございました」と頭を下げていた。
ところが、ここ数日は違った。
目が合いそうになると、慌てて視線をそらす。
話しかければ、必要最低限の返事だけをして離れていく。
まるで、さくらさんを避けているようだった。
「……私、何かしてしまったのかしら」
彼女は小さくつぶやいた。
あなたが仕事で失敗したときも、悩んでいるときも、なるべく力になりたいと思っていた。
それなのに、今ではあなたのほうから距離を取られている。
寂しくないと言えば、嘘になる。
「少し、様子を見てこようかな……」
さくらさんは庭へ向かった。
そして、木陰のベンチに座って眠っている僕を見つけた。
「……いた」
彼女は、ほっとしたように微笑んだ。
しかし、近づいたときだった。
「……さくらさん……」
眠っている僕が、苦しそうに声を漏らした。
「……ごめんなさい……」
さくらさんは足を止めた。
「……僕を……嫌いに、ならないで……」
その言葉に、彼女の表情が変わった。
「……え?」
僕は目を閉じたまま、眉を寄せていた。
「……出ていけ、なんて……言わないで……」
さくらさんは、しばらく黙って僕を見つめた。
寝言だから、何があったのか正確にはわからない。
それでも、その声があまりにも不安そうだったことは、彼女にも伝わった。
「……そんなに、怖い夢を見ているの?」
彼女は僕のそばに静かに腰を下ろした。
いつもの教育係としてではなく、ひとりの人間として、目の前の僕を心配していた。
「……最近、私を避けていたのは……」
そこで言葉を止める。
今、無理に理由を聞いても仕方がない。
彼女はそっと息を吐き、穏やかな声で語りかけた。
「大丈夫ですよ」
眠っている僕に届くかどうかはわからない。
それでも、彼女は続けた。
「ここには、あなたを追い出そうとしている人なんていません」
「……っ、さくら……さん……」
「うん。ここにいますよ」
さくらさんの声は、いつもより柔らかかった。
「お仕事で失敗したって、それだけであなたの価値がなくなるわけじゃありません」
「……」
「わからないことがあったら、また聞いてください。うまくいかない日があったら、一緒に考えましょう?」
彼女は、眠る僕の不安が少しでも和らぐように、ゆっくりと言葉を選んだ。
「だから……そんなに、ひとりで頑張りすぎなくていいんですよ」
風が吹き、木々の葉がさらさらと音を立てた。
僕の眉間のしわが、ほんの少しだけ緩んだ。
「……よかった」
さくらさんは、安堵したように微笑んだ。
そして、僕が寒くならないように、近くにあった自分の上着をそっと肩にかけた。
「少しだけ、ここにいますね」
彼女は空を見上げた。
「……あなたが起きたら、ちゃんとお話ししたいな」
その声には、いつもの上司らしい厳しさはなかった。
ただ、僕を心配する優しさがあった。
3.目を覚ますと、そこにはさくらさんがいた
「……ん」
どれくらい眠っていたのだろう。
僕は、ゆっくりと目を開けた。
最初に目に入ったのは、木々の間から差し込む柔らかな日差しだった。
そして――。
「……おはようございます」
聞き慣れた声。
隣を見ると、さくらさんが座っていた。
「……さ、さくらさん!?」
僕は飛び起きそうになった。
「わっ……!」
慌てた拍子に、肩にかかっていた上着がずり落ちる。
さくらさんは、すぐに手を伸ばして上着を受け止めた。
「そんなに驚かなくても大丈夫ですよ」
「あ……す、すみません! 僕、その……!」
頭の中が混乱していた。
どうして、さくらさんがここにいるんだ?
どうして、僕に上着を?
それよりも……。
(まさか、寝言を聞かれた!?)
僕は恐る恐る彼女の顔を見た。
さくらさんは、少し心配そうに僕を見つめていた。
「……怖い夢を見ていたんですね」
「えっ……」
「ずいぶん、うなされていましたよ」
心臓が跳ねた。
「ね、寝言……聞こえましたか?」
思わず聞いてしまった。
さくらさんは少し考えたあと、静かにうなずいた。
「ええ。少しだけ」
「……っ!」
顔が熱くなる。
まさか、自分があんなことを口にしていたなんて。
「す、すみません! 変なことを言ってしまって……!」
「謝らなくていいんですよ」
「で、でも……!」
「夢の中で、何か怖いことがあったんでしょう?」
彼女の声は優しかった。
責める様子も、からかう様子もない。
ただ、僕を心配してくれている。
それがわかるほど、胸が苦しくなった。
「……大丈夫です」
僕は視線をそらした。
「ちょっと、疲れていただけなので……」
「そうですか」
さくらさんは、それ以上問い詰めなかった。
けれど、しばらくしてから、ぽつりと尋ねた。
「……最近、私のことを避けていますよね?」
「……!」
身体が固まった。
「私、何か嫌なことをしてしまいましたか?」
その問いかけに、僕は顔を上げた。
さくらさんの表情は真剣だった。
「仕事のことで困っているなら、遠慮なく言ってほしいんです」
「ち、違います!」
思わず、大きな声が出た。
さくらさんが驚いて目を瞬かせる。
僕は慌てて声を小さくした。
「……違うんです。さくらさんは、何も悪くありません」
「……本当ですか?」
「はい」
本当だった。
彼女は何も悪くない。
むしろ、いつだって僕を支えてくれている。
悪いのは、彼女を好きになってしまった自分の心なのだと、僕は勝手に思い込んでいた。
「……ただ」
言いかけて、口を閉じる。
好きです。
そう言えたら、どれだけ楽だろう。
けれど、言えるはずがなかった。
「……自分のことで、少し考えたいことがあって」
ようやく、それだけ答えた。
さくらさんは、僕の顔をじっと見つめた。
そして、ふっと微笑んだ。
「そうだったんですね」
「……はい」
「話したくなったら、いつでも聞きますよ」
その言葉に、胸がドクンと鳴った。
「私は、あなたの教育係ですから」
彼女は、少しだけおどけたように付け加えた。
「お仕事の相談も、それ以外の悩みも。ひとりで抱え込まないでくださいね」
「……さくらさん」
僕は、思わず彼女の名前を呼んでいた。
「はい?」
優しい瞳が、まっすぐ僕を見つめる。
その瞬間、夢の中で冷たく背を向けた彼女の姿が、頭の中から少しずつ薄れていった。
現実のさくらさんは、ここにいる。
僕を追い出そうともしていない。
僕を嫌っているわけでもない。
それなのに、僕は勝手に怖がって、彼女から逃げていた。
「……ありがとうございます」
僕は小さく頭を下げた。
「……少し、安心しました」
さくらさんは、嬉しそうに微笑んだ。
「よかった」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなった。
(……やっぱり、好きだ)
(こんなに優しくされたら……もっと好きになっちゃうじゃないか)
僕は慌てて顔をそらした。
さくらさんは不思議そうに首をかしげた。
「……どうしました?」
「な、なんでもありません!」
「ふふっ。そうですか?」
少しだけ、いつもの空気が戻ってきた。
4.「私は、あなたの味方ですよ」
昼休みの終わりが近づいていた。
さくらさんは立ち上がり、僕に手を差し伸べた。
「そろそろ戻りましょうか」
「……はい」
僕も立ち上がり、肩にかかっていた上着を彼女に返そうとした。
「上着、ありがとうございました」
「いえいえ。風邪をひいたら大変ですからね」
彼女は上着を受け取ると、僕の顔を見た。
「……あの」
「はい?」
「今日は、午後のお仕事が終わったら少しだけ時間をもらえますか?」
「えっ……?」
僕の心臓が跳ねた。
ふたりきりで話す?
何か失敗をしただろうか。
それとも、寝言のことで……?
頭の中で、いろいろな考えが駆け巡る。
そんな僕を見て、さくらさんは慌てて付け加えた。
「あっ、叱るためじゃありませんよ?」
「……え?」
「最近、あなたが少し元気がないように見えたから。無理をしていないか、もう少しお話ししたいなと思って」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「もちろん、話したくないことまで無理に話す必要はありません」
そして、まっすぐ僕を見つめて言った。
「でも、ひとつだけ覚えておいてくださいね」
「……はい」
「私は、あなたを簡単に見放したりしませんよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
夢の中で、何度も聞きたかった言葉。
夢の中では、決してもらえなかった言葉。
それを、現実のさくらさんが伝えてくれた。
「……っ」
声が出なかった。
泣きそうになるのを必死にこらえ、僕は何度もうなずいた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
さくらさんは、いつもの優しい笑顔を見せた。
「さあ、戻りましょう。午後も一緒に頑張りましょうね」
「……はい!」
僕は彼女の隣を歩き始めた。
まだ、恋心を打ち明ける勇気はない。
きっと明日も、彼女の笑顔を見るたびに胸が高鳴るだろう。
また、目をそらしてしまうかもしれない。
それでも――。
(……もう少しだけ、さくらさんを信じてみよう)
僕がそう思ったとき、隣を歩いていたさくらさんが、そっとこちらを見た。
「……元気が戻ってきましたね」
「えっ?」
「さっきより、いい顔をしていますよ」
「そ、そうですか……?」
「はい」
彼女は嬉しそうに笑った。
「私は、今のあなたの頑張りをちゃんと見ていますから」
ドクン。
また、胸が鳴った。
(……だめだ)
(そんなことを言われたら……)
僕は顔を赤くしながら、必死に前を向いた。
(……ますます、好きになっちゃうよ)
もちろん、その気持ちを口にすることはできなかった。
けれど、今日だけは。
さくらさんの隣を歩くことから、逃げずにいられた。
そして、彼女もまた、僕が少しだけ自分に心を開いてくれたことを、静かに喜んでいた。
――昼休みの悪夢は、まだ僕の胸の片隅に残っている。
それでも、夢の中で閉ざされた扉とは違い、現実には僕を待っていてくれる人がいる。
教育係のさくらさん。
僕の恋心を知らないまま、それでも優しく手を差し伸べてくれる、大切な人。
(……この気持ちは、まだ秘密)
僕は胸の中でそっとつぶやいた。
(でも、いつか……怖がらずに、さくらさんと向き合えるようになりたい)
その小さな決意を胸に、僕は午後の仕事へと戻っていった。