社員食堂の昼休み――先輩たちとの楽しい時間
社員食堂の昼休み――先輩たちとの楽しい時間
午前十一時五十五分。
オフィスには、午後の業務に向けて準備を進める社員たちの姿があった。
僕は最後の書類を確認し、パソコンの画面を閉じる。
「……よし。午前中の仕事は終わり」
小さく息を吐く。
教育係のさくらさんに教わり始めてから、少しずつ仕事にも慣れてきた。
以前なら、午前中だけで何度も確認していた作業も、今では自分で考えながら進められるようになっている。
もっとも、まだまだ覚えることはたくさんある。
「お疲れさま。もう昼休みだぞ!」
隣の席にいた先輩社員が声をかけてくれた。
「あっ、お疲れさまです!」
「今日は社員食堂に行くか? 俺たちも行くところなんだけど」
「はい! ご一緒してもいいですか?」
「もちろん。むしろ一人で食べるより楽しいだろ!」
先輩の明るい笑顔につられて、僕も笑った。
こうして僕は、先輩社員たちと一緒に社員食堂へ向かうことになった。
1.社員食堂での昼食
社員食堂は、昼休みを迎えた社員たちで賑わっていた。
トレーを持った社員たちが料理を選び、あちらこちらから楽しそうな会話が聞こえてくる。
「うーん……今日は何にしようかな」
定食の見本を眺めながら、僕は悩んだ。
カレーライスもいい。
日替わり定食も捨てがたい。
「お前、まだ悩んでるのか?」
先輩が隣からメニューを覗き込む。
「どれもおいしそうなので……」
「ははは! その気持ちは分かるけど、早く決めないと後ろがつかえるぞ!」
「あっ、すみません!」
慌てて僕は日替わり定食を注文した。
今日のメニューは、焼き魚にご飯、味噌汁、小鉢がついた定食だった。
トレーを持って、先輩たちが確保してくれたテーブルへ向かう。
「それじゃあ、いただきます!」
「いただきます!」
僕たちは手を合わせ、食事を始めた。
一口食べてみると、焼き魚は香ばしく、味噌汁も温かい。
「おいしい……」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
「おっ、そんなにうまいか?」
「はい。午前中、集中して仕事をしていたので、お腹が空いていたみたいです」
「いいことだ。しっかり食べて、午後も頑張ろうな」
「はい!」
何気ない会話。
けれど、こうして職場の人たちと一緒に食事をする時間が、僕は好きだった。
仕事中には聞けない話もできるし、先輩たちの意外な一面も知ることができる。
そして何より、ここにいると、自分も少しずつ会社の一員になれている気がした。
2.先輩たちとの会話
「そういえば、お前。最近、仕事の進みがよくなったよな」
突然、向かいに座っていた先輩が言った。
「えっ? そうですか?」
「ああ。前は作業を始める前に、何度も手順を確認していただろ?」
「……はい。間違えるのが怖くて」
「でも、最近は自分で考えてから質問するようになった。あれは大きな成長だぞ」
僕は箸を持つ手を止めた。
自分では、まだまだ未熟だと思っていた。
だから、そんなふうに見てもらえていたことが、素直に嬉しかった。
「ありがとうございます。教育係のさくらさんのおかげです」
そう答えると、先輩たちは顔を見合わせた。
「おっ、さくらさんか!」
「確かに、あの人は教え方がうまいからなあ」
「厳しいときもあるけど、ちゃんと見てくれているよな」
「はい。本当に助けてもらっています」
僕は頷いた。
さくらさんは、ただ仕事の手順を教えてくれるだけではない。
僕が失敗して落ち込んでいるときには、何が原因だったのか一緒に考えてくれる。
うまくできたときには、きちんと認めてくれる。
その何気ない言葉に、僕は何度も救われてきた。
そして――。
(……だから、好きになってしまったんだよな)
心の中で呟く。
もちろん、その気持ちを表に出すわけにはいかない。
さくらさんは僕の教育係であり、今では上司でもある。
仕事中はきちんと尊敬する先輩として接する。
それが、僕の決めたことだった。
「ん? どうした? 急に黙って」
「い、いえ! 何でもありません!」
危ない。
考え込んでいたせいで、顔に出てしまったかもしれない。
僕は慌てて味噌汁を飲んだ。
「そうか? なんだか、さくらさんのことを考えているような顔だったぞ?」
「ぶっ……!」
危うく味噌汁を吹き出しそうになった。
「だ、大丈夫か?」
「だ、大丈夫です!」
「おいおい、そんなに慌てなくてもいいだろ。教育係なんだから、いろいろ考えることもあるよな」
「そ、そうです! 仕事のことを考えていただけです!」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
けれど、先輩は特に疑う様子もなく笑っていた。
「真面目だなあ。まあ、午後も頑張れよ」
「はい……!」
僕は心の中で、そっと胸を撫で下ろした。
(危なかった……。恋心だけは、絶対に知られてはいけない)
3.先輩が教えてくれたこと
食事が進むにつれて、会話は仕事の話から休日の過ごし方へと変わっていった。
「ところで、休日は何してるんだ?」
「そうですね……家でゆっくりしたり、散歩したりしています」
「へえ、散歩か。いいじゃないか」
「はい。外を歩いていると、気持ちが落ち着くんです」
「分かるなあ。仕事から離れて頭を休める時間も大事だからな」
別の先輩も頷いた。
「新人のうちは、仕事を覚えようとして無理しがちだからな。休むときは休む。それも仕事を続けるための大切なことだぞ」
その言葉に、僕は真剣に頷いた。
さくらさんにも、以前似たようなことを言われたことがある。
『頑張ることと、無理をすることは違いますよ』
そのときの、穏やかな声を思い出した。
(……さくらさん、本当にいろいろなことを教えてくれるな)
仕事のことだけではない。
働くうえで大切なこと。
人と接するときに気をつけること。
自分の心や体を大切にすること。
僕は少しずつ、そうしたことも学んでいた。
「よし、午後も頑張るか!」
先輩の声で、僕は我に返った。
「はい! 頑張ります!」
「おう、その意気だ!」
僕たちは笑い合いながら、最後の一口まで昼食を楽しんだ。
4.その頃、さくらさんは……
一方、その頃。
社員食堂の少し離れたテーブルでは、さくらさんも昼食を取っていた。
手元の資料を確認しながら食べていた彼女は、ふと顔を上げた。
「あ……」
視線の先に、あなたの姿があった。
先輩社員たちに囲まれ、楽しそうに話している。
あなたが笑うと、向かいの先輩も笑った。
どうやら、職場の人たちと打ち解けているらしい。
さくらさんは、箸を持ったまま小さく微笑んだ。
「……よかった」
教育係として、あなたが周囲に馴染めているかどうかは気になっていた。
仕事中は真面目で、困っている人を見つければ自然と声をかける。
ときどき自分のことを後回しにしてしまうところは心配だけれど、それもあなたらしさなのだろう。
「最近、本当に成長したなあ……」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
そのとき、同じテーブルにいた女性社員が声をかけた。
「さくらさん、何を見ているんですか?」
「えっ? あ、いえ。何でもありませんよ」
さくらさんは、いつもの落ち着いた表情に戻った。
「教育係の子が、先輩たちと楽しそうに食事をしていたので。少し安心しただけです」
「ふふっ。さくらさん、あの子のことをよく見ていますね」
「教育係ですから。当然です」
即答するさくらさん。
けれど、言い終わったあと、彼女はもう一度だけあなたのほうを見た。
あなたはちょうど、先輩の話を聞きながら笑っているところだった。
その表情を見て、さくらさんの頬がほんの少し緩む。
「……午後も、頑張ってくれるといいですね」
その言葉には、教育係としての期待と、あなたの成長を喜ぶ温かな気持ちが込められていた。
5.昼休みの終わり
「ごちそうさまでした!」
僕はトレーを片づけ、先輩たちと一緒に社員食堂を出た。
「いやあ、楽しかったな!」
「はい! いろいろなお話が聞けて、勉強になりました」
「ははは、そんな大した話はしてないぞ!」
「いえ、本当にありがとうございます」
僕は頭を下げた。
先輩たちは、照れくさそうに笑った。
そのままオフィスへ戻ろうとしたとき、廊下の向こうから見覚えのある姿が歩いてきた。
さくらさんだった。
「あっ……」
一瞬、心臓が跳ねた。
(さ、さくらさん……!)
けれど、すぐに気持ちを落ち着かせる。
好きだからといって、態度を変えるわけにはいかない。
僕は普段どおりに挨拶した。
「さくらさん、お疲れさまです!」
「お疲れさま。昼食はもう済んだんですか?」
「はい! 先輩たちと一緒に食べてきました」
「そう。楽しめたようですね」
「はい! 仕事のことも、いろいろ教えていただきました」
さくらさんは、僕の隣にいる先輩たちにも軽く会釈した。
「いつもありがとうございます。この子、まだ覚えることが多いと思いますが、よろしくお願いしますね」
「いえいえ! こちらこそ、あいつには助けられてますよ」
「そうなんですか?」
さくらさんが少し驚いたように僕を見た。
「はい。困っている人がいると、放っておけないタイプなんですよ」
「へえ……」
さくらさんの視線が、僕に戻る。
「あなたらしいですね」
その一言に、胸が温かくなった。
(……ああ、もう。本当にずるいなあ)
そんなことを思ってしまう自分がいた。
けれど、僕は平静を装って答えた。
「いえ、そんなことないですよ」
「ふふっ。そうですか?」
さくらさんは、どこか楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、胸がまたドクンと鳴る。
でも、僕は知らないふりをした。
「それでは、午後の仕事もよろしくお願いします!」
「ええ。午後も頑張りましょう」
さくらさんはそう言って、オフィスへ歩いていった。
僕はその後ろ姿を一瞬だけ見つめ、すぐに先輩たちのほうへ向き直った。
「よし! 午後も頑張るぞ!」
「おう!」
先輩たちの声に合わせて、僕も気合いを入れ直した。
恋心は、まだ秘密。
さくらさんには知られてはいけない。
だからこそ、僕は今日も仕事に向き合う。
いつか、教育係のさくらさんに――。
「成長しましたね」と、胸を張って言ってもらえるように。
そのために、午後の仕事も一つずつ、丁寧に取り組んでいこう。
そして僕は、まだ気づいていなかった。
さくらさんが、廊下の角を曲がる直前に、もう一度だけこちらを振り返っていたことを。
「……本当に、いい子ですね」
小さく微笑んだ彼女の言葉は、誰にも聞かれることなく、昼休みの喧騒に溶けていった。