昼休みの庭と、誰にも言えない本音
昼休みの庭と、誰にも言えない本音
昼休み。
午前中の仕事を終えた僕は、昼食を済ませると、会社の建物の裏手にある小さな庭へと足を運んだ。
そこは、僕のお気に入りの場所だった。
きれいに整えられた植え込み。風に揺れる木々。遠くから聞こえてくる社員たちの楽しそうな声。
ベンチに腰を下ろし、僕はぼんやりと空を眺めた。
「……いい天気だな」
青空を見上げながら、ゆっくりと息を吐く。
最近、仕事が少しずつ楽しくなってきた。
以前の僕は、わからないことがあるたびに不安になり、失敗するたびに落ち込んでいた。
さくらさんに質問するのも緊張したし、報告ひとつするだけでも、何度も頭の中で言葉を考えていた。
けれど、今は違う。
自分で考えて行動できることが増えた。
困っている同僚がいれば、自然と声をかけられるようになった。
仕事で問題が起きても、慌てずに原因を探せるようになった。
そして何より、以前よりも自分に自信を持てるようになった。
僕は膝の上に置いた手を見つめ、小さく笑った。
「……最近の僕、成長したな」
誰に聞かせるわけでもない。
ただ、自分自身に向けてつぶやいた言葉だった。
「最初の頃は、何もできなかったのにな……」
思い出すのは、入社したばかりの頃。
書類の作成で間違え、報告のタイミングを逃し、会議では発言することさえできなかった。
そんな僕を、根気強く指導してくれた人がいる。
教育係の、さくらさんだ。
「……さくらさんのおかげだよな」
彼女は厳しいときもあった。
仕事で間違えれば、きちんと指摘してくれた。
けれど、僕が落ち込んでいるときには、決して見捨てなかった。
「失敗したことより、次にどうするかが大切ですよ」
あの言葉を、僕は今でも覚えている。
だからこそ、今の自分がある。
「……本当に、感謝してる」
僕はそうつぶやいて、再び空を見上げた。
しかし。
ここで、僕の頭の中に、別の問題が浮かび上がった。
仕事のことではない。
もっと重大で、もっと人には相談できない問題だ。
「…………」
僕は周囲を見回した。
誰もいない。
よし。
今なら大丈夫だ。
僕は少しだけ顔を緩め、誰にも聞かれないように声を潜めた。
「……今日のさくらさん、かわいかったな」
言った瞬間。
自分の顔が熱くなった。
「っ……!」
慌てて口元を押さえる。
もちろん、庭には誰もいない。
それでも、まるで本人に聞かれてしまったかのように恥ずかしかった。
「な、何を言ってるんだ、僕は……」
けれど、一度口にしてしまった本音は、なかなか頭から離れてくれない。
今日の午前中。
さくらさんは、僕が提出した資料を確認していた。
いつもどおり真剣な表情でページをめくり、細かな数字まで丁寧にチェックしていた。
そして、すべての確認が終わると。
「うん。よくできていますね」
そう言って、ふわりと笑ったのだ。
「以前より、ずっと自分で考えられるようになりましたね」
「ありがとうございます!」
僕はいつもどおり返事をした。
……いや。
正確には、いつもどおりを装った。
本当は、その瞬間、心臓が大変なことになっていた。
だって。
普段は落ち着いていて、仕事中には隙を見せないさくらさんが。
あんなに優しい顔で笑ってくれたのだから。
しかも、褒めたあとに、ほんの少し首を傾けて。
「これからも期待していますよ」
なんて言うものだから。
僕は危うく、返事をするタイミングを見失いかけた。
「……あれは反則だろ」
思わず、ぽつりと漏らす。
「笑顔がかわいすぎるんだよ……」
言ってから、また顔を覆った。
「うわああ……何を言ってるんだ、僕は……!」
誰もいない庭で、一人反省会を始める僕。
しかし、反省する気持ちはあっても、さくらさんの笑顔を思い出すのはやめられなかった。
むしろ、思い出すたびに口元が緩んでしまう。
「……はあ」
僕はベンチの背もたれに体を預けた。
「好きだなあ……」
今度は、さっきよりも小さな声だった。
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
初めて会ったときから、ずっと気になっていた。
優しいところ。
仕事に真剣なところ。
困っている人を放っておけないところ。
厳しく指導しながらも、相手の努力をちゃんと見てくれているところ。
知れば知るほど、好きになってしまった。
そして今では、仕事で褒められるだけで一日中うれしくなり、少し話せただけで、その日の出来事を何度も思い返してしまう。
「……でも」
僕はゆっくりと顔を上げた。
「この気持ちは、絶対に知られちゃいけない」
さくらさんは、僕の教育係だ。
僕が成長するために、いつも真剣に向き合ってくれている。
そんな彼女を困らせたくない。
仕事に支障を出したくない。
何より、今の大切な関係を壊したくなかった。
だから、決めている。
仕事中は、きちんとした社員でいる。
さくらさんの前では、いつもどおりに振る舞う。
そして、この恋心だけは胸の奥にしまっておく。
「……うん。それでいい」
僕は自分に言い聞かせるように、何度もうなずいた。
そのときだった。
「……それで、何がいいんですか?」
「…………え?」
聞き覚えのある声。
しかも、今、一番聞かれたくなかった声。
僕の体が、ぴたりと固まった。
ゆっくり。
本当にゆっくりと。
声がしたほうへ振り向く。
そこには。
書類を片手に持った、さくらさんが立っていた。
「さ、さくらさん!?」
「はい。さくらですけど……」
さくらさんは不思議そうに僕を見つめた。
「こんなところにいたんですね。午後の打ち合わせまで、まだ時間があると思って探していたんですよ」
「そ、そうだったんですか!」
声が裏返った。
まずい。
非常にまずい。
まさか、今の独り言を聞かれたのだろうか。
『今日のさくらさん、かわいかったな』
『笑顔がかわいすぎるんだよ』
『好きだなあ……』
……。
「…………」
僕は心の中で頭を抱えた。
終わった。
いや、まだだ。
さくらさんは、何も言っていない。
聞こえていなかった可能性だってある。
そうだ。
落ち着け、僕。
普段どおりに。
普段どおりにするんだ。
「えっと……何かありましたか?」
僕は、できる限り自然な笑顔を作った。
さくらさんは僕の顔をじっと見つめたあと、少しだけ目を細めた。
「いえ。なんだか、とても慌てているように見えたので」
「そ、そんなことないですよ!」
「そうですか?」
「はい!」
即答してしまった。
さくらさんは、くすっと笑った。
「ふふっ。相変わらず、わかりやすいですね」
「えっ?」
「以前は、緊張するとすぐに顔に出ていましたから」
そう言いながら、さくらさんは僕の隣のベンチに腰を下ろした。
「でも、最近は本当に成長しましたね」
「……!」
さっきまでの慌てた気持ちが、少しだけ静かになった。
さくらさんは庭の木々を眺めながら、穏やかな声で続けた。
「仕事の進め方もそうですし、周囲への気配りも上手になりました。以前なら自分の仕事で精いっぱいだったのに、今では困っている方を自然に手伝えるようになっています」
「……ありがとうございます」
「私も、教育係としてうれしいですよ」
教育係として。
その言葉に、僕は少しだけ胸が締めつけられた。
そうだ。
さくらさんにとって、僕は大切に育ててきた後輩なのだろう。
だからこそ、僕はもっと成長したい。
彼女に認めてもらいたい。
いつか、教育係と新人という関係を離れても、一人の人間として頼ってもらえるようになりたい。
「……僕、もっと頑張ります」
気がつくと、そう口にしていた。
さくらさんは僕を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「はい。期待しています」
……だから。
その笑顔は、ずるい。
僕は必死に平静を装いながら、心の中で叫んだ。
(だから、かわいすぎるんだって……!)
もちろん、口には出さない。
絶対に。
さくらさんが立ち上がり、書類を抱え直した。
「そろそろ戻りましょうか。午後も仕事がありますから」
「はい!」
僕も立ち上がり、彼女の隣を歩き始めた。
会社へ続く道。
隣を歩くさくらさんは、いつもどおり落ち着いていて、仕事の話をしている。
僕も、きちんと返事をする。
何も問題はない。
……少なくとも、表面上は。
けれど、建物の入り口に差しかかったところで、さくらさんがふと僕を振り返った。
「そういえば」
「はい?」
「さっき、何か楽しそうに独り言を言っていましたね」
「…………っ!?」
心臓が跳ねた。
さくらさんは、いたずらっぽく微笑んでいる。
「何を考えていたんですか?」
「そ、それは……!」
頭の中が真っ白になった。
正直に言うわけにはいかない。
『さくらさんがかわいかったことを思い出していました』
そんなことを言えるはずがない。
僕は必死に考えた。
そして。
「じ、自分の成長について、考えていました!」
「成長?」
「はい! 最近、少しずつ仕事ができるようになってきたなって……!」
さくらさんは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。
「まあ。自分でそう思えるのは、いいことですね」
「そ、そうですよね!」
「でも、成長したからといって、油断は禁物ですよ?」
「はい! 気をつけます!」
「ふふっ。よろしい」
さくらさんは満足そうにうなずき、先にオフィスへ入っていった。
僕は、その後ろ姿を見送りながら、そっと胸を押さえた。
「…………あぶなかった」
なんとか、ごまかせた。
どうやら、恋心までは知られていないらしい。
僕は安堵の息を吐き、さくらさんの後を追った。
けれど。
自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げた瞬間。
ふと、先ほどの言葉が頭をよぎった。
『私も、教育係としてうれしいですよ』
僕は少しだけ笑った。
「……いつか」
誰にも聞こえない声で、つぶやく。
「いつか、教育係だからじゃなくて……僕自身を見てもらえたらいいな」
その願いが叶う日が来るのかは、まだわからない。
それでも、今は目の前の仕事を頑張ろう。
成長した自分を、もっと見てもらおう。
そう決めて、僕はキーボードに指を置いた。
すると、向かい側の席から声がした。
「頑張っていますね」
顔を上げると、さくらさんがこちらを見ていた。
「……はい!」
僕は笑顔で答えた。
さくらさんも、にっこりと微笑む。
その瞬間、僕の心臓はまた大きく跳ねた。
(……やっぱり、今日のさくらさん、かわいい)
そして僕は、心の中だけで付け加えた。
(……この恋心だけは、絶対に知られてはいけない)
――けれど、さくらさんはまだ知らない。
昼休みの庭で見せた、僕のあの表情を。
そして彼女自身もまた、最近の僕の成長を、以前よりずっと誇らしく感じていることを。
二人の距離は、少しずつ変わり始めていた。
それが恋の始まりなのか、それとも大切な信頼の積み重ねなのか。
今の僕には、まだわからなかった。