「昼休みの庭、あなたの優しさを見守る上司」
「昼休みの庭、あなたの優しさを見守る上司」
1.会社に戻ってきた日
新しい会社の立ち上げや出張が続いていたあなたは、久しぶりに本社へ戻ってきた。
以前と変わらないオフィス。 聞き慣れた電話の音。 忙しそうに行き交う社員たち。
そして、あなたの上司となった教育係のさくらさん。
「おはようございます。今日からまた、こちらでの業務をお願いしますね」
さくらさんは、いつものように落ち着いた声であなたを迎えた。
「はい。よろしくお願いします、さくらさん」
「……ふふ。相変わらずですね」
「え?」
「いえ、何でもありません」
さくらさんは小さく微笑んで、自分のデスクへ戻っていった。
あなたは気づいていなかった。
彼女があなたの姿を見て、ほんの少し安心したような表情を浮かべていたことに。
出張先で一緒に仕事をしていたとき、さくらさんは何度も思っていた。
(……やっぱり、あなたがいると安心するんですよね)
けれど、それを口にすることはなかった。
なぜなら、彼女はあなたの上司だから。
そして、あなたには誰にも知られてはいけない秘密があった。
さくらさんへの恋心。
(……今日も、絶対に気づかれないようにしないと)
あなたはいつもどおり仕事に取りかかった。
2.昼休み、ひとりきりの庭
午前中の業務を終え、昼休みになった。
周囲の社員たちは食堂へ向かったり、同僚と談笑したりしている。
あなたはお弁当を持って、オフィスの外にある小さな庭へ向かった。
そこは会社の敷地内に設けられた、ちょっとした休憩スペースだった。
木々が風に揺れ、植え込みの向こうには街並みが広がっている。
ベンチの近くでは、小さな花が風に揺れていた。
あなたはベンチに腰掛け、しばらく景色を眺めた。
「……いい景色だな」
遠くの建物。 青い空。 風に揺れる木の葉。
普段は仕事に追われていて、ゆっくり景色を見る時間などほとんどなかった。
「出張先もよかったけど……ここも、なかなかいいな」
あなたは穏やかな表情で、ひとり景色を眺め続けた。
仕事中のあなたは、いつも周囲をよく見ている。
誰かが困っていれば声をかける。 問題があれば、自分にできることを探す。 任された仕事には、最後まで責任を持つ。
けれど、そんなあなたにも、何も考えずに過ごしたい時間があった。
今が、まさにその時間だった。
「……午後も頑張ろう」
そう呟いたときだった。
「あの……すみません」
背後から、遠慮がちな声が聞こえてきた。
あなたが振り返ると、そこにはひとりの社員が立っていた。
胸元には、まだ見慣れない社員証。
中途採用で入社したばかりの社員だった。
3.中途社員との出会い
「あ、はい。どうしました?」
あなたが尋ねると、その社員は少し困ったように笑った。
「いえ、その……ここ、座っても大丈夫ですか?」
「ああ、もちろんです。どうぞ」
「ありがとうございます」
社員はあなたから少し離れた場所に腰掛けた。
しばらく、ふたりの間には静かな時間が流れた。
その社員は、何度か周囲を見渡していた。
「……いいところですね、ここ」
ふと、その社員が呟いた。
あなたは頷いた。
「そうですね。会社の中に、こんな場所があるなんて、最初は僕も知りませんでした」
「私、入社してからまだ日が浅くて……。毎日、覚えることばかりなんです」
「そうなんですか」
「はい。周りの皆さんは仕事が速いですし、質問したいことがあっても、忙しそうで声をかけづらくて……」
その言葉を聞いて、あなたは少しだけ考えた。
自分も初めて会社に入った頃は、同じような気持ちだった。
分からないことがあっても、何を質問すればいいのか分からない。
周囲に迷惑をかけたくなくて、ひとりで抱え込んでしまう。
そして、そんな自分を支えてくれたのが、教育係のさくらさんだった。
あなたは自然と微笑んだ。
「最初は、そうですよね」
「……え?」
「僕もそうでした。仕事を覚えるだけでも大変なのに、職場の雰囲気にも慣れないといけませんから」
社員は、少し驚いたようにあなたを見た。
「あなたも、そうだったんですか?」
「はい。今でも分からないことはありますよ」
「えっ、そうなんですか?」
「もちろんです。知らないことを知っているふりをするより、聞いたほうがいいと思います」
あなたは庭の木々に視線を向けた。
「それに、ここに来ると少し気持ちが落ち着くんです」
「この庭ですか?」
「はい」
あなたは空を見上げた。
「仕事をしていると、どうしても目の前のことばかり考えてしまうじゃないですか。でも、こうして遠くを眺めていると、少し視野が広がる気がするんです」
社員は、あなたと同じように空を見上げた。
「視野が広がる……」
「大げさかもしれませんけどね」
「いえ……なんだか、分かる気がします」
社員の表情が、少しずつ和らいでいった。
あなたは続けた。
「仕事も同じだと思うんです。目の前の作業だけじゃなくて、困ったときは少し立ち止まって、周りを見てみる。そうすると、別の方法が見つかることもありますから」
「……ありがとうございます」
「え?」
「なんだか、少し安心しました。入社してから、ずっと焦っていたので」
あなたは照れくさそうに笑った。
「僕も、まだ勉強中です。一緒に頑張りましょう」
その言葉を聞いた社員は、初めて自然な笑顔を見せた。
「はい!」
庭に、穏やかな風が吹き抜けた。
4.その様子を見守るさくら
その頃、オフィスでは。
「……あれ?」
さくらさんは、あなたのデスクに目を向けた。
昼休みが始まってしばらく経つが、あなたの姿が見当たらない。
(……お昼、どこに行ったのでしょう)
別に、上司として部下の昼休みの過ごし方を細かく確認する必要はない。
それでも、さくらさんは何となく気になっていた。
出張中、あなたは忙しくなると昼食を後回しにすることがあった。
何度か注意したこともある。
『仕事も大切ですけど、休憩も仕事のうちですよ』
そう伝えると、あなたはいつも困ったように笑っていた。
(ちゃんと休んでいるといいのですが……)
さくらさんは書類を整理したあと、窓の外へ目を向けた。
すると、庭のベンチに座っているあなたの姿が見えた。
「……あ」
さくらさんの表情が、ふっと柔らかくなった。
あなたはひとりではなかった。
隣には、最近入社したばかりの中途社員が座っている。
ふたりは景色を眺めながら、何かを話していた。
遠くて会話までは聞こえない。
けれど、あなたが相手の話を聞き、時折頷いていることは分かった。
そして――。
あなたが微笑んだ。
相手の緊張を解くような、穏やかな笑顔だった。
さくらさんは、窓辺で静かに立ち止まった。
(……あの方、確か最近入社された社員さんでしたね)
あなたは、何かを熱心に説明しているようだった。
相手が少し不安そうな表情を見せると、あなたは首を横に振り、優しく笑いかける。
やがて、その社員も笑顔になった。
さくらさんは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(……やっぱり、変わりませんね)
あなたは、いつもそうだった。
自分が忙しくても、誰かが困っていれば手を差し伸べる。
自分が特別なことをしたとは思っていない。
ただ、目の前に困っている人がいたから。
それだけの理由で動いてしまう。
さくらさんは、あなたの教育係だった頃を思い出した。
あなたが初めて仕事で失敗した日。
落ち込んでいるのに、周囲には平気なふりをしていた日。
そして、誰かを助けたあと、自分のことは後回しにしていた日。
何度も見てきた。
だからこそ、今のあなたの姿を見て、さくらさんは嬉しくなった。
(……あなたも、誰かを支えられる人になったんですね)
そのとき。
庭のベンチに座っていたあなたが、ふと顔を上げた。
窓辺にいるさくらさんに気づいたのだ。
「……あ」
あなたの動きが、一瞬止まった。
目が合った。
さくらさんは、驚いた様子もなく、穏やかに微笑んだ。
そして、小さく手を振った。
あなたは慌てて背筋を伸ばした。
(さ、さくらさん!?)
まさか、見られているとは思わなかった。
しかも、さっきまで新人社員と話していたところだ。
(変なことを話していたわけじゃないけど……なんだか恥ずかしいな)
あなたは軽く頭を下げた。
さくらさんも頷き返す。
それだけだった。
けれど、あなたの胸は少しだけ騒がしくなっていた。
(……仕事中じゃないのに、どうしてこんなに緊張するんだろう)
答えは分かっている。
あなたは、さくらさんが好きなのだ。
けれど、その気持ちだけは絶対に知られてはいけない。
あなたは何事もなかったかのように、中途社員へ向き直った。
「……すみません。話の途中でしたね」
「いえ、大丈夫ですよ。もしかして、上司の方ですか?」
「はい。僕の教育係だった方で、今は上司なんです」
「そうなんですね。優しそうな方ですね」
「……えっ?」
あなたは思わず言葉に詰まった。
「そ、そうですね。仕事には厳しいところもありますけど、すごく頼りになる方ですよ」
口にした瞬間、少しだけ頬が熱くなった。
中途社員は、あなたの様子に気づくことなく頷いた。
「いい上司がいるんですね」
「……はい」
あなたは小さく答えた。
心の中では、もっと別の言葉が浮かんでいた。
(……僕にとっては、それだけじゃないんですけどね)
もちろん、口には出さなかった。
5.さくらが気づいた、あなたの成長
昼休みが終わる少し前。
あなたと中途社員は、ベンチから立ち上がった。
「お話しできてよかったです。ありがとうございました」
「いえいえ。また分からないことがあったら、聞いてください」
「はい。よろしくお願いします!」
その社員は、来たときよりもずっと明るい表情でオフィスへ戻っていった。
あなたもその後を追おうとしたが、ふと足を止めた。
庭の木々が、風に揺れている。
「……いい昼休みだったな」
そう呟いてから、あなたも建物の中へ戻った。
廊下を歩いていると、ちょうどさくらさんと出会った。
「あ、さくらさん。お疲れさまです」
「お疲れさまです」
いつもどおりの挨拶。
けれど、さくらさんはあなたを見つめて、少しだけ微笑んだ。
「先ほどは、楽しそうでしたね」
「えっ? あ……見ていたんですか?」
「はい。窓から見えました」
「そ、そうだったんですね」
あなたは少し照れくさくなった。
さくらさんは、そんなあなたを見て目を細めた。
「中途で入社された方ですよね?」
「はい。少し緊張されているようだったので、庭の景色の話をしていたんです」
「景色の話?」
「はい。ここ、落ち着きますから。仕事で疲れたときに、少し外を眺めるのもいいかなと思って」
さくらさんは静かに頷いた。
「……素敵なことだと思います」
「え?」
「新しく入社した方は、仕事を覚えるだけでも大変ですから。あなたのように自然に声をかけてもらえたら、きっと心強いと思いますよ」
あなたは照れくさそうに頭をかいた。
「いや、そんな大したことじゃないですよ」
「ふふ」
さくらさんが笑った。
「そういうところですよ」
「……え?」
「あなたは、誰かの役に立っても、自分では大したことではないと思ってしまうんですね」
あなたは返す言葉を探した。
「……困っている人がいたら、できることをしたいだけです」
その言葉を聞いた瞬間、さくらさんの表情が柔らかくなった。
「ええ。知っています」
その一言に、あなたは思わず彼女を見つめた。
「……さくらさん?」
「あなたが教育係だった頃から、そういう人だということは知っていますよ」
懐かしむような声だった。
「失敗した人を責めるより、次にどうすればいいかを考える。困っている人がいれば、自分の仕事が終わっていなくても、できる範囲で手伝う」
「……」
「ただし」
さくらさんは、少しだけ上司らしい表情に戻った。
「自分の仕事や休憩を後回しにしすぎるのは、感心しません」
「あっ……はい」
「あなた自身のことも、大切にしてくださいね」
その言葉は、以前と同じだった。
教育係だった頃、何度も聞いた言葉。
けれど、今のあなたには、以前よりも深く響いた。
「……ありがとうございます、さくらさん」
あなたがそう答えると、彼女は満足そうに頷いた。
「では、午後の業務もよろしくお願いします」
「はい!」
さくらさんは先に歩き始めた。
あなたは、その背中を見つめた。
(……やっぱり、好きだな)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(優しくて、仕事ができて、いつも周りを見ていて……)
けれど、あなたはすぐに首を横に振った。
(だ、だめだ。仕事に集中しないと)
恋心を隠すように、あなたは自分のデスクへ戻っていった。
6.誰にも聞こえない、さくらの本音
あなたがオフィスへ戻ったあと。
さくらさんは、廊下の窓からもう一度、庭を眺めた。
先ほどまであなたが座っていたベンチ。
風に揺れる木々。
そして、午後の光を受けた小さな花。
「……本当に、優しい人ですね」
誰に聞かせるでもなく、さくらさんは呟いた。
あなたは知らない。
自分が誰かに声をかけるたび、さくらさんがあなたの成長を嬉しく思っていることを。
あなたが困っている人を助けるたび、彼女が教育係だった頃のことを思い出していることを。
そして、あなたが久しぶりに本社へ戻ってきた今日。
いつものデスクにあなたの姿があることに、彼女が密かに安堵していたことを。
さくらさんは、そっと微笑んだ。
(……これからも、あなたらしくいてくださいね)
上司として、あなたを見守る。
それが今の自分にできることだと思っていた。
けれど、心のどこかでは、あなたが庭で見せた穏やかな笑顔を、もう一度見たいと思っていた。
「……ふふ。私も、少し休憩しましょうか」
さくらさんは小さく伸びをして、自分のデスクへ戻っていった。
その視線の先には、あなたの姿があった。
あなたは午後の仕事に集中している。
真剣な表情で資料を確認し、ときどきメモを取りながら、ひとつずつ業務を進めていた。
さくらさんは、そんなあなたを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
(……頑張りすぎないでくださいね)
その声は、あなたには届かなかった。
けれど、その日の午後。
あなたが仕事の相談に行くと、さくらさんはいつもより少しだけ柔らかな声で迎えてくれた。
「はい。どうしましたか?」
「この資料について、少し相談したいことがありまして……」
「分かりました。こちらへどうぞ」
さくらさんは隣の席を指し示した。
あなたが資料を広げると、彼女は真剣に内容を確認し始める。
ふたりで意見を交わし、問題点を整理し、次にすべきことを決めていく。
仕事の話をしているだけなのに、不思議と心地よい。
あなたはそのことに気づかないふりをして、資料へ視線を落とした。
(……だめだ。今は仕事、仕事)
一方、さくらさんもまた、あなたの真剣な横顔を見つめながら思っていた。
(……あなたと一緒に仕事をする時間は、やっぱりいいですね)
互いの本音は、まだ言葉にならない。
あなたは恋心を隠し続ける。
さくらさんは上司として、あなたを見守り続ける。
そして、昼休みの庭で交わした何気ない会話は、新しく入社した社員にとっても、ふたりにとっても、忘れられない小さな出来事になっていくのだった。