出張先へ向かう車内で、君の名前を呼んでしまった。
出張先へ向かう車内で、君の名前を呼んでしまった。
1.終わらない出張
「それでは、次の訪問先に向かいましょうか」
さくらさんは、手元の資料をまとめながら、いつもの落ち着いた声で言った。
「はい。準備できています」
あなたは笑顔で返事をした。
新しい会社の立ち上げを経験し、大型プロジェクトを成功させ、今ではさくらさんと一緒に重要な仕事を任されるようになっていた。
しかし、今回の出張は少し違った。
朝から取引先を何件も訪問し、打ち合わせを重ね、移動時間にも資料の確認を続けていたのだ。
さすがのあなたも、疲れがたまっていた。
「……少し、お疲れではありませんか?」
さくらさんが、あなたの顔をのぞき込んだ。
「いえ、大丈夫です!」
反射的に答える。
「そうですか?」
「はい。次の訪問先でも頑張ります」
「……無理は禁物ですよ。あなたが倒れたら、私も困りますから」
最後の言葉だけ、ほんの少し柔らかかった。
胸が、ドクンと鳴る。
(そ、そんな言い方をされたら……)
(また、好きになってしまうじゃないですか……)
もちろん、そんな本音を口に出せるはずもなかった。
あなたは慌てて視線を資料に落とした。
「ありがとうございます。気をつけます」
「ええ。では、車に乗りましょう」
さくらさんは微笑んだ。
その笑顔を見ただけで、あなたの胸はまた落ち着かなくなった。
2.静かな車内
次の訪問先までは、車でおよそ一時間。
運転は会社のドライバーが担当し、あなたとさくらさんは後部座席に並んで座っていた。
窓の外には、午後の街並みが流れていく。
さくらさんは膝の上に資料を広げ、次の打ち合わせの確認をしていた。
あなたも最初は資料を読んでいた。
けれど、何度も文字を追っているうちに、まぶたが重くなってきた。
(あと少しだけ……目を閉じても……)
そう思ったのが最後だった。
あなたの頭が、ゆっくりと傾いていく。
こくん。
そして――。
「……すぅ……」
眠ってしまった。
さくらさんは資料から顔を上げた。
「……あら?」
隣を見ると、あなたはすっかり眠っていた。
いつも仕事中は真剣な表情をしているあなた。
質問されればすぐに答え、困っている社員がいれば自然に手を差し伸べる。
そんなあなたが、今は年相応に無防備な寝顔を見せていた。
「……ふふ」
さくらさんは、思わず小さく笑った。
「やっぱり、疲れていたんですね」
起こそうかと迷ったものの、あなたの穏やかな寝顔を見ると、起こすのがかわいそうになった。
「少しくらい、休んでもいいですよ」
そう呟いて、資料を閉じる。
車内にはエンジンの静かな音だけが響いていた。
ところが――。
「……ん……」
あなたの唇が、かすかに動いた。
「……さくら、さん……」
「……え?」
さくらさんの手が止まった。
あなたは眠ったまま、もう一度呟いた。
「……さくらさん……」
その声は、いつもの仕事中の声よりもずっと柔らかかった。
まるで、大切な人を呼ぶような声だった。
さくらさんは、思わずあなたの顔を見つめた。
「……私?」
返事はない。
あなたは夢の中にいるようだった。
そして、さらに小さな声で――。
「……好き……」
「…………えっ?」
さくらさんの頬が、ほんのり赤くなった。
車内の空気が、一瞬止まったように感じられた。
3.夢の中の本音
(……今、何と言いました?)
さくらさんは、思わず自分の耳を疑った。
あなたは相変わらず眠っている。
起きる気配はない。
「……好き、って……」
さくらさんは口元に手を当てた。
もちろん、寝言だ。
寝言なのだから、深い意味などないのかもしれない。
仕事の夢を見ている可能性だってある。
そう考えようとした。
しかし――。
「……さくらさん……」
あなたは、また彼女の名前を呼んだ。
「……いつも……ありがとう……」
今度は、少しだけはっきりした声だった。
「……あなたが、いてくれるから……頑張れる……」
さくらさんは、何も言えなくなった。
いつもあなたは、彼女に対して礼儀正しかった。
教育係として指導すれば、真剣に耳を傾ける。
仕事で助けても、決して恩着せがましい態度を取らない。
そして、彼女が忙しそうにしていれば、さりげなく手伝ってくれる。
けれど、あなたが何を考えているのか、さくらさんには分からなかった。
あなたは誰にでも優しい。
だからこそ、自分だけが特別なのだとは思えなかった。
それなのに。
「……さくらさん……もう少し……一緒に……」
あなたは、そこで言葉を途切れさせた。
さくらさんの胸が、トクンと鳴った。
「…………」
彼女は窓の外へ視線を向けた。
頬が熱い。
(……何を考えているんですか、私は)
(これは寝言です。寝言なんですから……)
そう自分に言い聞かせる。
けれど、隣で眠っているあなたを意識せずにはいられなかった。
さくらさんは、そっと自分の膝の上に置いていた上着を手に取った。
そして、あなたの肩に優しく掛けてあげた。
「……本当に、頑張り屋さんなんですから」
その声は、いつもの教育係としての声よりも、ずっと優しかった。
「……少しくらい、私に甘えてもいいんですよ」
その言葉は、眠っているあなたには届かなかった。
少なくとも、さくらさんはそう思っていた。
4.思わず、もう一言
それからしばらくして。
車が緩やかなカーブを曲がったとき、あなたの頭が少し傾いた。
そして――。
ぽすっ。
あなたの頭が、さくらさんの肩に触れた。
「……っ!」
さくらさんの身体が、ぴたりと固まる。
(ちょ、ちょっと……!)
起こすべきだ。
そう思った。
上司と部下なのだから、こんな状態で眠らせておくわけにはいかない。
けれど。
あなたは、とても気持ちよさそうに眠っていた。
「……すぅ……」
規則正しい寝息。
さくらさんは、あなたの顔をちらりと見た。
(……起こしたら、かわいそうですね)
そう考えた瞬間だった。
「……さくらさん……」
まただ。
あなたの寝言だった。
「……行かないで……」
さくらさんの目が、大きく開かれた。
「…………」
あなたは眠ったまま、眉を少しだけ下げていた。
「……もう少し……一緒に……いたい……」
その言葉を聞いた途端、さくらさんの胸がぎゅっと締めつけられた。
(……どうして、そんなことを言うんですか)
(そんなことを言われたら……)
彼女は、そっと目を伏せた。
「……本当に、困った人ですね」
そう呟きながらも、あなたを起こすことはできなかった。
それどころか――。
「……私だって……」
そこまで言って、さくらさんは口を閉じた。
「…………いえ、何でもありません」
誰に聞かせるわけでもない言葉。
けれど、その頬はまだ赤いままだった。
5.目が覚めた瞬間
「……ん……」
どれくらい時間がたっただろう。
あなたは、ゆっくりと目を開けた。
窓の外には、見知らぬ街並みが広がっている。
(……あれ? 僕、いつの間に……)
ぼんやりとした頭で周囲を見回す。
すると。
「……お目覚めですか?」
すぐ隣から、聞き慣れた声がした。
「さ、さくらさん!?」
あなたは飛び起きた。
「す、すみません! 僕、寝てました!?」
「ええ。ぐっすりと」
「申し訳ありません! 移動中なのに……!」
慌てて頭を下げようとすると、さくらさんが小さく笑った。
「謝らなくていいですよ。ずっと頑張っていたのですから」
「で、でも……」
「それに、少し安心しました」
「……安心?」
さくらさんは、あなたの顔を見つめた。
「あなたも、ちゃんと疲れるんだなって」
「……あ」
あなたは言葉を失った。
「いつも周りの人を気にかけて、自分のことは後回しにするでしょう?」
「……そんなことは……」
「あります」
さくらさんは、きっぱりと言った。
そして、少しだけ表情を和らげた。
「ですから、これからは私にも頼ってくださいね」
「…………っ」
胸が、ドクンッと鳴った。
(や、やめてください……!)
(そんな優しいことを言われたら……!)
あなたは必死に平静を装った。
「……ありがとうございます。さくらさん」
「どういたしまして」
彼女は微笑んだ。
しかし、次の瞬間。
「ところで……」
「は、はい?」
さくらさんが、少しだけ顔を近づけた。
「夢の中で、私の名前を何度も呼んでいましたよ」
「…………え?」
頭の中が真っ白になった。
「さ、さくらさんの……名前……?」
「ええ」
にこり。
彼女は、どこか楽しそうに微笑んでいる。
「それから……」
「そ、それから!?」
「……いえ。これは、秘密にしておきましょうか」
「ひ、秘密!?」
(ま、待ってください!)
(俺、何を言ったんだ!?)
あなたの顔から、みるみる血の気が引いていく。
そして、恐る恐る尋ねた。
「……あの、僕……変なこと、言ってませんでしたか?」
さくらさんは、少し考えるように視線を上げた。
「そうですね……」
あなたは息を止めた。
「……とても、かわいらしい寝言でしたよ」
「か、かわいらしい!?」
「ふふっ」
さくらさんは笑った。
「さあ、もうすぐ到着です。気持ちを切り替えて、お仕事を頑張りましょう」
「は、はい……!」
あなたは背筋を伸ばした。
けれど、心臓はまったく落ち着かなかった。
(……まさか)
(僕……好きって、言ったのか……?)
思い出そうとしても、夢の内容はぼんやりしている。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
さくらさんには、絶対に恋心を知られてはいけない。
そう決めていたはずなのに。
あなたは気づかなかった。
隣に座るさくらさんが、窓に映る自分の顔を見つめながら、まだ少し赤い頬をしていたことに。
6.さくらさんの小さな独り言
その日の仕事を終えた帰り道。
あなたは先に車へ向かい、忘れ物がないか確認していた。
一人になったさくらさんは、オフィスの入り口で足を止めた。
そして、昼間の出来事を思い出す。
『……好き……』
『……もう少し、一緒に……』
「…………」
彼女はそっと胸元に手を当てた。
(……寝言、ですよね)
そう考える。
けれど、あなたの声は妙に優しくて、耳から離れなかった。
「……本当に、ずるい人」
誰にも聞こえないくらい小さな声で呟く。
教育係として、あなたを一人前に育てる。
それが自分の役目だと思っていた。
けれど、あなたと一緒に仕事をする時間が増えるたびに、彼女の中にも少しずつ変化が生まれていた。
あなたの頑張る姿を見ると、応援したくなる。
あなたが困っていると、力になりたくなる。
そして、あなたが隣で眠っていたとき――。
もう少しだけ、その時間が続けばいいと思ってしまった。
「……いけませんね」
さくらさんは小さく首を振った。
「私は、あなたの教育係なんですから」
そう言い聞かせる。
それでも、車へ向かう足取りは、いつもより少しだけ軽かった。
そして、あなたの姿を見つけると。
「お待たせしました」
いつもの落ち着いた声で言った。
「いえ! お疲れさまです!」
あなたは笑顔で返す。
さくらさんも微笑んだ。
「……明日も、一緒に頑張りましょうね」
「はい!」
あなたは気づかなかった。
その言葉を口にしたさくらさんが、ほんの少しだけ嬉しそうだったことに。
恋心を隠しているのは、果たして、あなただけなのだろうか。
出張は、まだ終わらない。
そして二人の距離もまた、少しずつ――本人たちが気づかないうちに、近づいていた。