出張先で見つけた、上司のさくらさんの意外な一面
出張先で見つけた、上司のさくらさんの意外な一面
――いつもより高くて、少し甘い声。そんな声を聞いたら、ますます好きになってしまう。
第1話 上司と二人きりの出張
「今回の出張、あなたにも同行してもらいます」
朝のオフィス。
デスクで資料を確認していたあなたに、上司のさくらさんが声をかけた。
「出張……ですか?」
「はい。新しい取引先との打ち合わせです。あなたには事前に資料をまとめてもらいましたから、当日の説明も一部お願いしたいと思っています」
「わかりました。よろしくお願いします」
「ふふっ。頼りにしていますよ」
さくらさんは、いつもの落ち着いた笑顔を見せた。
あなたの教育係だった頃から変わらない、丁寧で優しい声。
けれど、今の彼女は教育係ではなく、あなたの上司だ。
仕事中はきちんと敬語を使い、必要なことを的確に指示する。困ったときには相談に乗ってくれるが、甘えるようなことは決してしない。
そして、あなたには誰にも知られてはいけない秘密があった。
それは――。
(……さくらさんが、好きだ)
初めて会った日から、ずっと。
仕事を教えてくれたことも、失敗したときに励ましてくれたことも、あなたは一つひとつ覚えている。
しかし、今の彼女は自分の上司だ。
恋心を知られれば、これまでの関係が変わってしまうかもしれない。
だからこそ、あなたは今日も平静を装う。
「それでは、明日の朝、駅で待ち合わせましょう」
「はい!」
「寝坊しないでくださいね?」
「だ、大丈夫です!」
「本当でしょうか?」
さくらさんは、少しだけいたずらっぽく笑った。
「以前、休日出勤だと思って慌てて会社に来たことがありましたよね?」
「うっ……! あ、あれは忘れてください……」
「ふふふ。どうしましょうか」
彼女の笑顔を見た瞬間、あなたの胸が少しだけ騒がしくなった。
(……明日、二人きりで出張か)
嬉しい。
でも、緊張する。
そして何より――。
(好きだって、絶対に知られてはいけない……!)
あなたは心の中で、何度も自分に言い聞かせた。
第2話 新幹線の隣の席
翌朝。
待ち合わせ場所に到着すると、さくらさんはすでに駅の改札前で待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます、さくらさん!」
「時間どおりですね。偉いです」
「子供じゃないんですから……」
「ふふっ。冗談ですよ」
彼女は楽しそうに笑うと、出張用のバッグを持ち直した。
いつもの仕事着。整った身だしなみ。落ち着いた表情。
どこから見ても、頼れる上司そのものだった。
新幹線に乗り込み、指定された席に座る。
窓側がさくらさん、通路側があなた。
隣同士。
ただそれだけなのに、妙に落ち着かない。
(近い……)
普段はオフィスのデスクを挟んで話している。
こうして隣に座ると、いつもより彼女の存在を強く意識してしまう。
「資料は確認しましたか?」
「はい。説明する箇所も、もう一度確認しました」
「素晴らしいですね。何か不安なところはありますか?」
「いえ、大丈夫です」
「そうですか。もし困ったら、遠慮なく頼ってくださいね」
さくらさんはそう言うと、ノートパソコンを開いた。
あなたも資料を見直そうとした。
ところが――。
「……ん?」
隣から、小さな声が聞こえた。
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでもありません」
さくらさんは画面を見つめたまま、少しだけ口元を緩めていた。
何か嬉しいことでもあったのだろうか。
あなたが不思議に思っていると、彼女のスマートフォンが小さく震えた。
画面を確認したさくらさんは、普段の彼女からは想像できないような表情を浮かべた。
「あっ……!」
そして、電話に出た。
「もしもし?」
その瞬間。
あなたは思わず、耳を疑った。
「うん、今ね、移動中なの。ちゃんと新幹線に乗れたよ?」
いつもより、声が高い。
そして――。
ほんの少し、甘い。
普段のさくらさんは、落ち着いた声で話す。
仕事の説明も、指示も、相談への返事も、聞き取りやすく穏やかな声だ。
しかし、今の彼女の声は違った。
柔らかくて、親しげで、どこか弾んでいる。
「えー? もう、心配しすぎだよ」
……え?
(さ、さくらさん……?)
あなたは手元の資料に目を落としたまま、意識だけは隣に向いてしまっていた。
「うん。お仕事が終わったら連絡するね。ちゃんとご飯も食べるから」
彼女はくすっと笑った。
「ふふっ、ありがとう。じゃあ、またね」
電話を切ったさくらさんは、スマートフォンをそっとバッグにしまった。
そして、何事もなかったかのようにパソコンへ視線を戻す。
「……?」
あなたは、どうしても気になってしまった。
(今の声……何だったんだ?)
いつもの上司の声とは、明らかに違った。
高くて、柔らかくて、少し甘い。
まるで、気を許した相手にだけ見せるような声だった。
「……あの、さくらさん」
「はい? どうしましたか?」
振り向いた彼女は、いつものさくらさんだった。
落ち着いた表情。
丁寧な口調。
そして、仕事のできる上司の顔。
「い、いえ! なんでもありません!」
「……?」
彼女は不思議そうに首をかしげた。
「変なあなたですね」
「す、すみません……」
(聞いてはいけない。気にしてはいけない……!)
そう思えば思うほど、さっきの声が頭から離れなくなってしまった。
第3話 取引先で見せた、頼れる上司の顔
出張先の駅に到着すると、さくらさんはすぐに仕事の顔へと切り替わった。
「では、まずホテルに荷物を預けてから、取引先へ向かいましょう」
「はい」
「今日の打ち合わせでは、あなたに市場分析の説明をお願いします。私が補足しますので、落ち着いて話してください」
「わかりました」
その言葉に、あなたは背筋を伸ばした。
打ち合わせが始まると、さくらさんは見事だった。
相手の話を丁寧に聞き、必要な部分を確認し、こちらの提案をわかりやすく説明する。
あなたの説明が少し詰まったときも、決して急かさなかった。
「補足しますね」
彼女が自然に話を引き継いでくれたおかげで、あなたは落ち着きを取り戻した。
そして、最後の質疑応答。
取引先から、想定していなかった質問が飛んできた。
一瞬、空気が張り詰める。
あなたは資料を確認した。
答えられる。
ただし、説明の仕方を間違えれば、誤解を招く可能性があった。
(どうする……)
そのとき、さくらさんがあなたを見た。
「大丈夫ですよ」
声は小さかった。
けれど、その目はまっすぐだった。
「あなたが準備してきたことを、きちんと伝えれば大丈夫です」
その一言で、気持ちが落ち着いた。
あなたは質問の意図を整理し、データを示しながら説明した。
すると、取引先の担当者が納得したように頷いた。
「なるほど。よくわかりました」
打ち合わせは、無事に終了した。
会議室を出たところで、さくらさんがあなたに声をかけた。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございました。途中、少し焦りました」
「それでも、きちんと自分の言葉で説明できていましたよ」
彼女は優しく微笑んだ。
「以前より、ずっと成長しましたね」
その言葉が、胸に染みた。
教育係だった頃から、ずっと見ていてくれた人。
自分の成長を、こんなにも喜んでくれる人。
(……やっぱり、好きだな)
思わずそう考えてしまい、慌てて視線をそらす。
「どうしました?」
「い、いえ! なんでもありません!」
「ふふっ。またですか?」
さくらさんは少し笑った。
「今日は、いつも以上に落ち着きがありませんね」
(あなたのせいです……!)
もちろん、口には出せなかった。
第4話 夕暮れのカフェと、甘い声の秘密
仕事が終わった頃には、空が夕焼けに染まっていた。
「少し休憩してから、ホテルに戻りましょうか」
さくらさんが見つけたカフェに入り、二人で窓際の席に座った。
あなたはコーヒーを注文し、さくらさんは紅茶を頼んだ。
「今日は本当に助かりました」
彼女が言った。
「いえ、さくらさんのフォローがあったからです」
「それでも、あなたが準備してくれた資料があったからこそです。自信を持ってください」
「……はい」
しばらく、仕事の話をした。
明日の予定。
取引先からの追加資料。
帰社後に進めるべき業務。
そして、話題が途切れたときだった。
さくらさんのスマートフォンが、また震えた。
画面を見た彼女の表情が、ふっと柔らかくなる。
「あ……」
そして、電話に出た。
「もしもし?」
まただった。
あの声。
いつもより少し高くて、柔らかくて、甘い声。
「うん、今はカフェにいるよ」
さくらさんは紅茶のカップを手に取りながら、楽しそうに話していた。
「えー? そんなに心配しなくても大丈夫だってば」
少しだけ頬が緩む。
「ちゃんと休んでるよ。今日はね、お仕事も順調だったの」
その声を聞いていると、こちらまで不思議と穏やかな気持ちになった。
普段はしっかり者の彼女。
誰かを支え、困っている人を助け、仕事では決して弱音を見せない。
そんな彼女が、電話の向こうでは少しだけ甘えているように聞こえた。
「うん。ありがとう」
彼女は小さく笑った。
「……私も、会えるの楽しみにしてるね」
その一言を聞いた瞬間、あなたの心臓が跳ねた。
(……っ!)
もちろん、誰と話しているのかはわからない。
家族かもしれない。
大切な友人かもしれない。
あなたには、知る必要のないことだ。
それなのに。
(さくらさんにも、あんな声があるんだ……)
電話を終えた彼女は、紅茶を一口飲んだ。
「お待たせしました」
「い、いえ!」
「……?」
さくらさんが首をかしげる。
あなたは、どうしても気になっていたことを尋ねた。
「さくらさんって……電話だと、少し雰囲気が変わるんですね」
言ってしまった。
しまった、と思ったときには遅かった。
「えっ?」
さくらさんが目を丸くした。
「雰囲気……ですか?」
「い、いえ! その、いつもより声が柔らかいというか……」
自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
「すみません! 変なことを言ってしまって!」
ところが。
さくらさんは、少しだけ頬を赤くした。
「……聞こえていたんですね」
「えっ?」
「電話の声です」
彼女は紅茶のカップを両手で包み、視線をそっと落とした。
「仕事中は、どうしても気を張ってしまうんです。上司として、しっかりしなければいけませんから」
「……はい」
「でも、気を許している相手と話すと、つい声が柔らかくなってしまうみたいです」
そう言って、彼女は恥ずかしそうに笑った。
「自分では、あまり意識していなかったんですけどね」
あなたは言葉を失った。
気を許している相手。
その言葉が、胸の中で何度も繰り返される。
(……さくらさんにも、そういう相手がいるんだ)
少しだけ寂しい。
でも、それ以上に。
普段は見られない彼女の一面を知れたことが、嬉しかった。
「……いいと思います」
あなたは、そっと口を開いた。
「え?」
「その……さくらさんの、柔らかい声。素敵だと思います」
言った瞬間、顔が熱くなった。
(何を言ってるんだ、俺は……!)
さくらさんは驚いたように瞬きをした。
それから、ふわりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その声は、いつもの仕事中の声よりも、ほんの少しだけ甘かった。
あなたは慌ててコーヒーを飲んだ。
熱い。
いや、コーヒーのせいだけではない。
(まずい……ますます好きになってしまう……!)
第5話 ホテルへ戻る帰り道
カフェを出ると、夜風が頬を撫でた。
ホテルまでは、歩いて十分ほど。
二人で並んで歩きながら、さくらさんが話しかけてきた。
「今日は、いろいろと頑張ってくれましたね」
「ありがとうございます」
「明日の打ち合わせも、今日の調子なら大丈夫だと思います」
「はい。頑張ります」
「ふふっ。期待していますよ」
街灯に照らされた横顔は、いつもと変わらない。
けれど、あなたはもう知ってしまった。
彼女には、仕事中には見せない表情がある。
いつもより高く、少し甘い声がある。
そして、誰かに心を許したときには、あんなふうに笑うのだ。
「……さくらさん」
「はい?」
「今日、一緒に出張に来られてよかったです」
彼女は、少し驚いたようにあなたを見た。
「どうしてですか?」
「仕事の勉強にもなりましたし……普段とは違う経験もできたので」
本当の理由は、それだけではない。
あなたは、心の中で付け加えた。
(あなたの知らなかった一面を見られたからです)
さくらさんは、しばらくあなたを見つめていた。
そして、いつもの笑顔よりも、少しだけ柔らかい表情になった。
「……私も、あなたと来られてよかったです」
「えっ?」
「あなたが一緒だと、安心して仕事ができますから」
その言葉に、胸が大きく跳ねた。
「……ありがとうございます」
それ以上、何も言えなかった。
これ以上話したら、何かを口にしてしまいそうだった。
自分がどれほど彼女を大切に思っているのか。
彼女の笑顔を見るだけで、どれほど嬉しくなるのか。
そして――。
その甘い声を、もう一度聞きたいと思ってしまったことも。
全部、秘密だ。
絶対に知られてはいけない。
「それでは、明日に備えて早めに休みましょう」
ホテルの入り口で、さくらさんが言った。
「はい。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした。おやすみなさい」
彼女はエレベーターへ向かう前に、一度だけ振り返った。
「……今日は、ありがとうございました」
そして、微笑んだ。
その声が、いつもより少しだけ柔らかく聞こえたのは、きっと気のせいではない。
あなたは一人になった廊下で、そっと胸に手を当てた。
ドクン。
ドクン。
(……明日も、二人で仕事をするんだ)
嬉しい。
でも、怖い。
彼女の意外な一面を知るたびに、恋心が大きくなっていく。
教育係だった頃から、ずっと好きだった。
上司になった今も、その気持ちは変わらない。
むしろ、以前よりも強くなっている。
「……絶対に、知られないようにしないと」
あなたは小さく呟き、部屋のドアを開けた。
しかし、その頃。
自分の部屋へ戻ったさくらさんもまた、今日のことを思い返していた。
「……声、柔らかかったって……」
彼女はソファに腰を下ろし、スマートフォンを見つめた。
「そんなに違ったのかな……?」
少し恥ずかしそうに笑う。
そして、カフェでのあなたの言葉を思い出した。
――さくらさんの、柔らかい声。素敵だと思います。
「……もう」
さくらさんは、小さく頬を膨らませた。
「そういうことを、さらっと言うんですから……」
誰もいない部屋で、彼女はそっと微笑んだ。
明日の出張も、あなたと一緒。
そう思うと、不思議と楽しみになってしまう。
あなたはまだ知らない。
今日、あなたが見つけたのは、さくらさんの意外な一面だけではなかった。
あなたの何気ない一言が、彼女の心にも、小さな余韻を残していたことを。
そして翌朝――。
いつもどおりの上司として現れたさくらさんが、あなたにだけ、ほんの少し甘い声で言うことになる。
「おはようございます。……昨日は、よく眠れましたか?」
その声を聞いたあなたは、きっとまた思うのだ。
(……お願いだから、これ以上好きにさせないでください……!)