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「君のいないオフィスは、こんなにも静かだった」

教育係のさくらには恋心を知られてはいけない。 — www.pixiv.net · All chapters

「君のいないオフィスは、こんなにも静かだった」

第一章 突然の辞令

朝、いつものように会社へ向かう。

駅のホームで電車を待ちながら、あなたはスマートフォンに届いた一通のメールを見つめていた。

そこには、上司からの重要な連絡が記されていた。

――新会社設立に伴い、立ち上げメンバーとして異動を命ずる。

「……え?」

思わず声が漏れた。

新しく設立される会社。その立ち上げに、あなたが選ばれたというのだ。

事業計画の作成、業務体制の構築、採用準備、取引先との調整。やるべきことは山ほどある。しかも、立ち上げ初期のメンバーとして、あなたには大きな役割が期待されているらしい。

普通なら、喜ぶべきことなのだろう。

新しい挑戦。大きな責任。自分の能力を試す機会。

それなのに。

あなたの頭に最初に浮かんだのは、別の人の顔だった。

「……さくらさん」

教育係のさくらさん。

入社してからずっと、あなたを支えてくれた人。

仕事で失敗したときには、厳しくも丁寧に教えてくれた。落ち込んでいるときには、さりげなく声をかけてくれた。あなたが自分の力で仕事を終えられた日には、誰よりも嬉しそうに笑ってくれた。

そして、あなたが初めて会った日から、ずっと胸の奥にしまい込んでいる気持ち。

――好きです。

けれど、その言葉を口にすることはできない。

教育係のさくらさんには、恋心を知られてはいけない。

あなたはスマートフォンを握り直した。

「……頑張らないとな」

そう呟いて、電車に乗り込んだ。

新しい会社へ向かうために。

大切な人がいる、いつものオフィスから離れるために。

第二章 最後の指導

「えっ……異動?」

その日の午前中。

上司からの正式な説明を終えたあなたは、教育係のさくらさんに呼び止められていた。

「ちょっと待ってください。新会社の立ち上げメンバーに選ばれたって、本当ですか?」

「はい。来週から、向こうのオフィスに行くことになりました」

「来週から……?」

さくらさんは、手元の資料に目を落とした。

いつもなら、すぐに次の質問が飛んでくる。

「準備は進んでいますか?」

「引き継ぎの資料は作りましたか?」

「困ったことがあれば、早めに相談してくださいね」

そんな言葉を、あなたは何度も聞いてきた。

しかし、その日は少し違った。

「……そうですか」

さくらさんは小さく微笑んだ。

「すごいですね。新しい会社の立ち上げなんて、誰にでも任される仕事じゃありませんから」

「いえ、僕なんて、まだまだです」

「またそうやって謙遜する」

さくらさんは、いつもの調子であなたを見た。

「あなたは、自分で思っているよりもずっと成長していますよ」

その言葉に、胸が熱くなる。

あなたがここまで頑張れたのは、さくらさんがいてくれたからだ。

初めて仕事を任された日も。

大きな失敗をしてしまった日も。

誰にも相談できず、一人で悩んでいた夜も。

彼女の言葉が、何度もあなたを前へ進ませてくれた。

「……さくらさん」

「はい?」

「今まで、本当にありがとうございました」

深く頭を下げる。

本当は、もっと伝えたいことがあった。

あなたのおかげで、仕事が好きになれました。

あなたのおかげで、自分を信じられるようになりました。

あなたに会えるから、毎朝会社へ来るのが楽しみでした。

そして――。

「……さくらさんに教えてもらえて、よかったです」

今の自分に言えるのは、そこまでだった。

さくらさんは少しだけ目を見開いた。

それから、優しく微笑んだ。

「私も、あなたを教育担当に持ててよかったですよ」

その一言だけで、胸の奥がいっぱいになった。

けれど、さくらさんは気づいていない。

あなたがどれほど彼女を大切に思っているのか。

その笑顔を見るたびに、どれほど胸が高鳴っているのか。

そして、その笑顔を毎日見られる時間が、もうすぐ終わってしまうことを、あなた自身がどれほど寂しく思っているのか。

「向こうでも、あなたらしく頑張ってくださいね」

「はい!」

あなたは笑顔で答えた。

その笑顔が少しだけ無理をしていることを、さくらさんは見抜けなかった。

――いや。

もしかすると、気づかないふりをしてくれたのかもしれない。

第三章 新しい会社

翌週。

あなたは新会社のオフィスに立っていた。

まだ机も少なく、壁には何も飾られていない。

段ボール箱が積み上がり、会議室には組み立て途中の椅子が並んでいる。

「……ここからか」

思わず笑みがこぼれた。

何もない場所から会社を作り上げる。

大変だろう。

失敗もするだろう。

今まで経験したことのない問題にも直面するはずだ。

それでも、不思議と不安だけではなかった。

「おはようございます!」

新しい同僚たちが集まってくる。

「今日からよろしくお願いします!」

「こちらこそ、よろしくお願いします!」

あなたは一人ひとりに挨拶をし、さっそく業務の準備に取りかかった。

最初の仕事は、社内の業務フローを整理することだった。

誰が何を担当するのか。

書類はどこに保管するのか。

トラブルが起きたとき、誰に相談するのか。

あなたはホワイトボードに図を書き、必要な資料をまとめ、メンバーの意見を聞いた。

「この仕組みなら、後から人が増えても対応できますね」

同僚の一人が感心したように言う。

「本当ですか? よかったです」

「以前の会社で、こういう仕事をしていたんですか?」

「いえ。教育係の方に、仕事の進め方をいろいろ教えてもらったんです」

そう答えた瞬間、頭の中にさくらさんの顔が浮かんだ。

資料の作り方。

報告の仕方。

周囲への気配り。

どれも、彼女が繰り返し教えてくれたことだった。

あなたは新しい会社で働きながら、改めて気づいていた。

自分が身につけたものの中には、さくらさんから受け取ったものが、たくさんあるのだと。

「……ありがとうございます、さくらさん」

誰にも聞こえない声で呟く。

あなたは再び、ホワイトボードに向き直った。

今度は、自分が誰かを支えられるようになるために。

第四章 さくらさんの昼休み

一方、その頃。

以前のオフィスでは、さくらさんが自分のデスクで仕事をしていた。

「……あれ?」

書類を確認していた彼女は、ふと手を止めた。

いつもなら、少し離れた席から聞こえてくる声がある。

「さくらさん、この資料について質問があるのですが」

「さくらさん、ここはどうすればいいですか?」

「すみません、もう一度教えていただけますか?」

最初の頃は、質問の多さに少し驚いたこともあった。

けれど、最近ではその声が聞こえてくるのが当たり前になっていた。

分からないことを素直に尋ねる姿。

失敗しても、何とか自分で解決しようとする姿。

仕事がうまくいったとき、少し照れくさそうに報告してくる姿。

そうした一つひとつが、さくらさんの日常に溶け込んでいた。

ところが、今日は違う。

あなたの席は空いている。

そこにはもう、資料を広げて悩んでいるあなたも、真剣な顔でパソコンに向かうあなたもいない。

「……静かですね」

さくらさんは、ぽつりと呟いた。

隣の同僚が顔を上げる。

「そうですね。あの子が異動してから、ちょっと雰囲気が変わりましたよね」

「……そう、ですね」

さくらさんは微笑んでみせた。

「新しい会社の立ち上げですから。きっと忙しくしているんでしょうね」

「でしょうね。頼りにされているみたいですし」

「ええ。あの人なら、きっと大丈夫です」

そう答えながら、さくらさんは再び書類に目を落とした。

けれど、なかなか文字が頭に入ってこない。

いつもなら、昼休みになるとあなたが小さな声で話しかけてきた。

「さくらさん、お昼はもう食べましたか?」

「まだですよ。あなたは?」

「僕もまだです」

「じゃあ、ちゃんと食べてくださいね。仕事に夢中になって、食事を忘れないように」

「さくらさんもですよ」

そんな何気ない会話。

特別なことなど、何もなかった。

それなのに。

「……少し、寂しいですね」

口にしてから、さくらさんははっとした。

誰も聞いていないことを確かめるように、そっと周囲を見渡す。

「……何を言っているんでしょう、私は」

頬に手を当て、軽く首を振る。

教育係として、教え子の成長を喜ぶのは当然だ。

新しい環境へ進んだのだから、応援してあげなければならない。

分かっている。

分かっているのに。

あなたのいないオフィスは、思っていた以上に静かだった。

第五章 送れなかったメッセージ

その日の夜。

さくらさんは帰宅し、ソファに腰を下ろしてスマートフォンを手に取った。

連絡先を開く。

そこには、あなたの名前があった。

以前は、業務上の確認が必要なときに連絡することもあった。

もちろん、仕事に関係する内容ばかりだった。

けれど、今はもう、あなたは別の会社にいる。

緊急の用件でもない限り、気軽に連絡する理由はない。

「……元気にしているでしょうか」

さくらさんは、あなたとの以前のやり取りを見返した。

『さくらさん、教えていただいた資料、無事に完成しました!』

『確認しました。とてもよくできていますよ』

『ありがとうございます! さくらさんのおかげです!』

『次は自分の力で完成させられるように頑張りましょうね』

読み返しているうちに、自然と笑みがこぼれた。

「ふふ……本当に、一生懸命な人でしたね」

最初は、何をするにも不安そうだった。

失敗すれば落ち込んで、うまくいけば嬉しそうに笑っていた。

それが、いつの間にか大きな仕事を任されるようになった。

そして今では、新しい会社の立ち上げメンバーだ。

「……立派になりましたね」

さくらさんは、小さく呟いた。

そのとき、ふと思いついて、メッセージ画面を開いた。

『新しい会社の仕事はどうですか? 困ったことがあれば、いつでも相談してくださいね』

そこまで打って、指が止まる。

「……これでは、いつもと同じですね」

少し考え、文字を消した。

今度は、こう打ってみる。

『今日、あなたがいなくて、少し寂しかったです』

「…………っ!」

さくらさんは、慌ててスマートフォンを胸元から離した。

「な、何を書いているんですか、私は……!」

顔が熱い。

ただの教育係と元教え子。

それなのに、こんなことを伝えたら、あなたを困らせてしまうかもしれない。

それに、自分でも理由がよく分からなかった。

どうして、あなたのことをこんなに気にしてしまうのだろう。

どうして、あなたの席が空いているだけで、こんなにも落ち着かないのだろう。

さくらさんは、しばらく画面を見つめていた。

そして最後に、短い文章を送信した。

『新しい会社での仕事はどうですか? 無理をしすぎないようにしてくださいね。応援しています』

送信完了。

「……これなら、大丈夫ですよね」

スマートフォンをテーブルに置く。

けれど、その直後。

画面が光った。

あなたからの返信だった。

『さくらさん! ご連絡ありがとうございます! こちらは大変ですが、なんとか頑張っています。さくらさんに教えてもらったことが、すごく役立っています!』

さくらさんの表情が、ぱっと明るくなった。

「……よかった」

それだけで、胸の中にあった寂しさが少し和らいだ気がした。

続けて、もう一通届く。

『まだ分からないことも多いですが、いつかさくらさんに成長した姿を見せられるように頑張ります!』

さくらさんは、スマートフォンを両手で持った。

「……もう、十分成長していますよ」

思わず、声に出してしまう。

誰もいない部屋で、彼女は優しく微笑んだ。

その笑顔には、いつもの教育係としての誇らしさだけではない、本人にもまだ説明できない気持ちが、ほんの少しだけ混じっていた。

第六章 あなたの知らない寂しさ

翌日。

新会社では、朝からトラブルが発生していた。

共有システムの設定がうまくいかず、予定していた業務の一部が進められなくなってしまったのだ。

「すみません、設定を確認したのですが、原因が分からなくて……」

担当者が困った顔で報告する。

あなたはすぐに資料を開いた。

「大丈夫です。一緒に確認しましょう」

ログを調べ、設定を見直し、関係者に確認を取る。

一つずつ問題を整理していくうちに、原因が見えてきた。

「これですね。設定の一部が、以前の運用のままになっています」

必要な修正を行い、動作を確認する。

数十分後、システムは無事に復旧した。

「助かりました!」

「いえ、直ってよかったです」

同僚たちが安堵する中、あなたはふと時計を見た。

以前のオフィスにいた頃なら、こういうトラブルが起きたとき、まずさくらさんに相談していたかもしれない。

けれど、今は違う。

自分で考え、周囲と協力し、解決しなければならない。

「……さくらさんに頼ってばかりじゃ、いけないよな」

あなたは小さく笑った。

さくらさんに教えてもらったことを、今度は自分の力に変えていく。

それが、彼女への恩返しになると思ったからだ。

そして、夜。

仕事を終えたあなたは、スマートフォンを開いた。

さくらさんとのメッセージ画面。

何度も文章を考えて、ようやく送信する。

『今日は大変でしたが、なんとかトラブルを解決できました! さくらさんに教えていただいたことを思い出して、頑張りました!』

返信は、すぐに届いた。

『そうですか! よく頑張りましたね。あなたならできると思っていましたよ』

あなたは画面を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。

「……やっぱり、さくらさんはすごいな」

たった一言で、疲れが軽くなった気がした。

けれど、あなたは知らない。

その返信を打つ前、さくらさんが何度も文章を読み返していたことを。

あなたから連絡が来るのを、少しだけ期待していたことを。

そして、メッセージが届いた瞬間、思わず笑顔になってしまったことを。

あなたがいなくなってから、さくらさんは初めて気づき始めていた。

あなたの成長を見守ることが、いつの間にか自分にとって大切な日常になっていたのだと。

「……また、会いたいですね」

さくらさんは窓の外を見つめた。

すぐに会える距離ではない。

明日、あなたの姿を見られるわけでもない。

それでも、あなたは新しい場所で頑張っている。

だから、自分も頑張ろう。

そう思いながら、彼女は明日の仕事の準備を始めた。

第七章 秘密のままの恋心

新会社の立ち上げから、一週間が過ぎた。

あなたは少しずつ、新しい環境に慣れ始めていた。

業務の流れが整い、同僚たちとの連携もうまくいくようになってきた。

もちろん、忙しい毎日は続いている。

それでも、以前より自信を持って仕事に取り組めるようになっていた。

その日の帰り道。

駅へ向かう途中で、あなたはふと立ち止まった。

夜空には、小さな星が見えていた。

「……さくらさん、今頃どうしているかな」

声に出した途端、胸が少しだけ痛くなった。

会いたい。

仕事の相談をしたい。

何気ない話をしたい。

あの優しい声を聞きたい。

でも、そんな気持ちを伝えるわけにはいかない。

教育係のさくらさんには、恋心を知られてはいけない。

あなたはスマートフォンを取り出し、メッセージ画面を開いた。

『さくらさん、今日もお疲れさまでした』

そう打ち込んで、しばらく考える。

そして、送信した。

数分後。

『あなたもお疲れさまです。新しい会社の仕事には慣れてきましたか?』

あなたは微笑んだ。

『はい! 少しずつですが、慣れてきました!』

『それならよかったです。ちゃんと食事を取って、休むときは休んでくださいね』

『はい! さくらさんも無理しないでください!』

やり取りは、それだけだった。

特別な言葉はない。

恋心を匂わせるような言葉もない。

それでも、あなたにとっては十分だった。

「……明日も頑張ろう」

スマートフォンをしまい、再び歩き出す。

あなたは知らない。

同じ頃、さくらさんも自分のスマートフォンを見つめていたことを。

「……ふふ。元気そうでよかった」

そう呟いた彼女は、少し迷ってから、心の中で本音をこぼした。

――でも。

――本当は、もう少しだけ、あなたと話したいです。

送ることのできない言葉。

伝えることのできない気持ち。

それでも、明日もあなたが元気でいてくれることを願っている。

そして、いつかまた同じ場所で働ける日が来ることを、ほんの少しだけ期待していた。

あなたの恋心は、まだ秘密のまま。

さくらさんの寂しさも、まだ秘密のまま。

二人は離れた場所で、それぞれの仕事に向き合いながら、少しずつ互いの存在の大きさに気づき始めていた。

新章は、まだ始まったばかり。

そして、このときのあなたは、まだ知らなかった。

新会社の立ち上げが軌道に乗った頃、さくらさんから思いがけない連絡が届くことを。

そのメッセージには、いつもの仕事の相談とは違う、一つのお願いが書かれていた。

『今度、お休みの日に少し会えませんか? あなたに、直接お話ししたいことがあるんです』

――その言葉を見たとき。

あなたの胸は、かつてないほど大きく鳴ることになる。