社長を助けた新人社員――秘密の恋心と突然の大抜擢
社長を助けた新人社員――秘密の恋心と突然の大抜擢
第1話 困っている女性
午前10時30分。
僕は、教育係であるさくらさんと一緒に、午前中の業務を進めていた。
「それでは、この書類の確認をお願いします。確認が終わったら、チェックリストに記入してくださいね」
「はい、さくらさん!」
「ふふっ。ずいぶん仕事に慣れてきましたね」
さくらさんが優しく微笑む。
――ドクン。
その笑顔を見た瞬間、僕の胸が大きく鳴った。
(……やっぱり、さくらさんは素敵だ)
初めて会った日から、僕は彼女に恋をしていた。
仕事に真剣で、困っている人を放っておけなくて、失敗した俺にも何度だって手を差し伸べてくれる。
そんな彼女が好きだった。
けれど、その気持ちを伝えるつもりはない。
さくらさんは俺の教育係だ。
仕事で迷惑をかけたくないし、今の関係を壊したくもなかった。
(この恋心だけは、絶対に知られてはいけない)
「どうしました?」
「い、いえ! なんでもありません!」
「そうですか? 何かあったら、いつでも相談してくださいね」
「ありがとうございます!」
危なかった。
あと少しで、顔に出てしまうところだった。
僕は慌てて書類に視線を戻した。
そのときだった。
「すみません……どなたか、少しお時間をいただけませんか?」
オフィスの入口から、女性の声が聞こえてきた。
振り返ると、上品なスーツを着た女性が、大きな書類の束を抱えて立っていた。
女性は困ったように周囲を見回している。
しかし、社員たちは会議の準備や電話対応に追われ、すぐに声をかけられる人がいないようだった。
女性が持っている書類の一部が、今にも床へ落ちそうになっている。
(あっ、危ない!)
僕は考えるより先に立ち上がった。
「大丈夫ですか? お持ちします!」
「あっ……ありがとうございます!」
僕は女性の手元から書類の半分を受け取った。
「こちら、かなりの量ですね。どちらまで運べばよろしいですか?」
「会議室までお願いできますか? 実は、急いで準備をしなければならなくて……」
「わかりました! ご案内します!」
僕は女性と並んで廊下を歩き始めた。
その途中、女性が小さくため息をついた。
「本当に助かりました。皆さんお忙しそうで、どうしようかと思っていたんです」
「いえ、困っているときはお互いさまですから!」
「……素敵な考え方ですね」
「えっ?」
「いえ、こちらの話です」
女性は柔らかく微笑んだ。
僕はその言葉の意味を深く考えることなく、会議室の扉を開けた。
「こちらに置けばよろしいでしょうか?」
「はい。ありがとうございます」
僕は書類を机の上に置くと、すぐに並べ始めた。
資料の順番がばらばらになっていることに気づき、表紙に書かれた番号を確認しながら整理する。
さらに、会議用の資料と配布用の資料を分け、人数分が揃っているかも確認した。
「これで準備は大丈夫だと思います。念のため、部数も確認しておきました」
「……そこまでしてくださったんですか?」
「はい。会議の途中で資料が足りなくなると困りますから」
女性は驚いたように目を見開いた。
そして、僕の顔をじっと見つめた。
「あなた、お名前は?」
「えっ? あ、僕は――」
僕が名乗ると、女性はその名前をしっかりと覚えるように、ゆっくりとうなずいた。
「そうですか。覚えておきますね」
「は、はい……?」
なぜ名前を聞かれたのだろう。
不思議に思いながらも、僕は軽く頭を下げた。
「それでは、失礼します!」
「待ってください」
「はい?」
女性はにっこりと笑った。
「あなたのような社員がいてくださると、会社も心強いですね」
その言葉に、僕は思わず照れてしまった。
「い、いえ! そんな、大したことでは……!」
「いいえ。とても大切なことですよ」
女性の表情は、どこまでも穏やかだった。
そのときの僕は、まだ知らなかった。
自分が助けたこの女性が、会社で誰よりも大きな権限を持つ人物だということを。
そう。
彼女こそ、この会社の社長だったのだ。
第2話 さくらさんの前では平常心
自分のデスクへ戻ると、さくらさんがこちらを見ていた。
「おかえりなさい。さっき、会議室へ向かっていましたね」
「はい。書類を運ぶのを手伝っていました」
「そうだったんですか。お疲れさまです」
さくらさんは微笑んだ。
「困っている方を見つけると、すぐに行動できるんですね」
「えっ……見ていたんですか?」
「廊下から少しだけ。あなたが一生懸命に書類を整理しているのが見えました」
――ドクン!
(さくらさんに見られていた……!?)
僕の心臓が急に騒がしくなった。
好きな人に、自分の行動を見られていた。
それだけのことで、どうしてこんなに落ち着かなくなるのだろう。
「そ、それは……困っているようでしたので!」
「ふふっ。あなたらしいですね」
さくらさんは、僕のデスクに一枚の書類を置いた。
「ところで、午後の打ち合わせですが、こちらの資料を一緒に確認しましょう。あなたの意見も聞いてみたいんです」
「僕の意見、ですか?」
「はい。最近、あなたは仕事の全体像を考えながら動けるようになってきましたから」
「……ありがとうございます!」
嬉しかった。
さくらさんが、自分の成長を認めてくれた。
そのことが何よりも嬉しかった。
(もっと頑張ろう。さくらさんに、仕事で恩返しできるように)
僕はそう心に決め、書類を手に取った。
もちろん、彼女への恋心は胸の奥にしまったまま。
ところが、その日の午後。
僕の平穏な会社生活は、思いもよらない形で変わることになった。
第3話 突然の社長室への呼び出し
午後2時。
僕がさくらさんと資料を確認していると、内線電話が鳴った。
「はい、営業企画部です」
さくらさんが電話に出る。
「……はい。えっ?」
彼女の表情が、少しだけ変わった。
「承知いたしました。本人に伝えます」
電話を切ったさくらさんは、僕を見つめた。
「社長室から連絡がありました」
「社長室……ですか?」
「はい。あなたに、社長室まで来てほしいそうです」
「…………え?」
頭の中が真っ白になった。
(社長室!? 僕、何か失敗したのか!?)
書類の提出漏れ?
メールの誤送信?
それとも、午前中に何か問題を起こしてしまったのだろうか。
心当たりを探していると、さくらさんが不思議そうに首を傾げた。
「どうしました? ずいぶん顔色が変わりましたけど……」
「い、いえ! 社長室なんて初めてなので、緊張してしまって!」
「大丈夫ですよ。何かあったとしても、まずは落ち着いてお話しすればいいんです」
さくらさんは、安心させるように微笑んだ。
「あなたなら大丈夫です」
――ドクン。
また、胸が鳴った。
(……そんなことを言われたら、ますます頑張りたくなるじゃないか)
「ありがとうございます。行ってきます!」
僕は深呼吸してから、社長室へ向かった。
扉の前でノックをする。
「失礼いたします」
「どうぞ、お入りください」
聞き覚えのある声だった。
扉を開けた瞬間、俺は目を丸くした。
そこに座っていたのは――午前中、書類を運ぶのを手伝った女性だった。
「あっ……!」
女性は楽しそうに笑った。
「こんにちは。先ほどはありがとうございました」
「えっ!? あの……もしかして……!」
「はい。この会社の社長です」
「しゃ、社長!?」
思わず声が裏返ってしまった。
僕は慌てて姿勢を正した。
「も、申し訳ございません! 社長だと知らずに、失礼な態度を……!」
「まあまあ、落ち着いてください」
社長はくすっと笑った。
「あなたは何も失礼なことをしていませんよ。むしろ、私のほうがお礼を言いたくて呼んだんです」
「お礼……ですか?」
「ええ」
社長は机の上に置かれた書類を指さした。
「今朝、私は急な会議の準備で困っていました。社員の皆さんが忙しいこともわかっていたので、自分で運ぼうと思っていたんです」
「はい……」
「そんなとき、あなたが真っ先に声をかけてくれました。私の役職を知らなかったにもかかわらず、自然に手伝ってくれた」
社長はまっすぐ俺を見た。
「私は、そういう姿勢を大切にしたいと思っています」
僕は言葉を失った。
「仕事ができることも大切です。でも、誰かが困っているときに気づけること。そして、自分にできることを考えて行動できること。それも、会社にとって大きな力になるんですよ」
「……ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう」
社長は優しく微笑んだ。
「あなたのことを、もっと知りたいと思いました」
第4話 社長に気に入られた新人
社長室での話は、思いがけず長くなった。
社長は俺の担当業務や、入社してから苦労したことについて尋ねてきた。
僕は緊張しながらも、正直に答えた。
「実は、まだ失敗することも多いんです。教育係のさくらさんに、何度も助けてもらっています」
「さくらさん?」
「はい。俺の教育係です。仕事の進め方だけでなく、困ったときの相談にも乗ってくださるんです」
「なるほど。良い教育係に恵まれたのですね」
「はい。本当に感謝しています」
さくらさんのことを話すと、自然と声に熱がこもってしまう。
(いけない。顔に出ていないよな……?)
僕は慌てて咳払いをした。
社長はそんな俺を見て、少しだけ目を細めた。
「あなたは、さくらさんをとても信頼しているのですね」
「も、もちろんです! 仕事で尊敬していますから!」
嘘ではない。
尊敬している。
大切に思っている。
ただ、その気持ちが尊敬だけではないことを、僕は必死に隠していた。
「ふふっ。そうですか」
社長はそれ以上追及せず、机の上の資料を一枚取り上げた。
「実は、今後、若手社員の意見を取り入れる新しいプロジェクトを始めようと考えているんです」
「新しいプロジェクト、ですか?」
「ええ。現場で働く社員の気づきを、会社全体の改善につなげる取り組みです」
社長は資料を俺の前に置いた。
「もしよければ、あなたにも参加していただきたいと思っています」
「お、僕がですか!?」
「もちろんです。いきなり大きな責任を負わせるつもりはありません。まずは現場の意見を集め、改善案を考えるところから始めていただきます」
僕は資料を見つめた。
そこには、業務の効率化や社員同士の連携を改善するための計画が書かれていた。
難しそうだ。
自分にできるのだろうか。
けれど――。
(せっかくいただいた機会だ。逃げたくない)
僕は顔を上げた。
「……ぜひ、参加させてください!」
社長は満足そうにうなずいた。
「その返事を待っていました」
そして、少しだけいたずらっぽく笑った。
「あなたには期待していますよ」
「は、はい!」
こうして僕は、社長から直接声をかけられる社員になった。
ただし、このときの俺はまだ知らなかった。
社長が俺を気に入った理由は、単に親切だったからだけではない。
困っている人を助け、必要なことを考え、自分にできる範囲で最後までやり遂げた。
その一連の行動こそ、社長が新しいプロジェクトに求めていた人物像そのものだったのだ。
第5話 教育係のさくらさん、驚く
午後4時。
僕がデスクに戻ると、さくらさんがすぐに声をかけてきた。
「おかえりなさい。社長室では、何のお話だったんですか?」
「実は……」
僕は社長から直接お礼を言われたこと、そして新しいプロジェクトに誘われたことを説明した。
すると、さくらさんは驚いた顔をした。
「えっ!? 社長直々にプロジェクトへ?」
「はい。まだ参加が決まったばかりですけど……」
「すごいじゃないですか!」
さくらさんの顔が、ぱっと明るくなった。
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます!」
「あなたが頑張ってきたことを、ちゃんと見てくださっていたんですね」
さくらさんは嬉しそうに笑った。
「私も、とても嬉しいです」
――ドクン、ドクン。
(だ、だめだ……!)
こんなに嬉しそうに祝福されたら、胸の鼓動が止まらない。
僕にとって、社長に認められたことも大きな出来事だった。
けれど、それ以上に嬉しかったのは、さくらさんが自分のことのように喜んでくれたことだった。
「……さくらさん」
「はい?」
「僕、もっと頑張ります」
「はい。応援していますよ」
「いつか、さくらさんに安心して仕事を任せてもらえるようになりたいです」
さくらさんは一瞬だけ目を丸くした。
それから、柔らかな笑みを浮かべた。
「もう、少しずつ任せられるようになっていますよ」
「……本当ですか?」
「本当です。ですから、焦らずに成長していきましょうね」
その言葉に、胸が温かくなった。
(ああ……やっぱり、好きだ)
けれど、口には出さない。
今はまだ、伝えない。
僕は笑顔を作り、いつもどおりに答えた。
「はい! これからもよろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね」
さくらさんは、何も知らないまま微笑んでいた。
僕の胸の中に、どれほど大きな恋心が隠されているのかも。
第6話 社長の秘密の評価
その日の夕方。
僕が退勤の準備をしている頃、社長室では一つの会話が交わされていた。
「社長、本日の新人社員についてですが」
秘書が資料を差し出した。
社長は資料に目を通しながら、静かにうなずいた。
「ええ。とても良い社員ですね」
「新しいプロジェクトへの参加を、もう決められたのですか?」
「本人の仕事ぶりを、これから見ていく必要はあります。ただ、最初の一歩としては十分です」
社長は資料を机に置いた。
「役職を知らない相手にも、分け隔てなく手を差し伸べられる。頼まれたことだけでなく、必要だと思ったことにも気づける。そして、わからないことを学ぼうとする姿勢がある」
社長は窓の外を見た。
「こういう人材は、会社の将来を支えてくれるかもしれません」
「では、今後も成長を見守られるのですね」
「もちろんです」
社長は微笑んだ。
「それに、あの社員には良い教育係がついているようですから」
「さくらさんですね」
「ええ。彼女と一緒なら、きっと多くのことを学べるでしょう」
社長は新しいプロジェクトの資料を開いた。
その表紙には、まだ誰も知らない計画が記されていた。
若手社員による業務改善プロジェクト。
そして、その参加予定者の一人として、僕の名前が書き加えられていた。
エピローグ 隠し通したい恋心
翌朝。
「おはようございます、さくらさん!」
「おはようございます。今日も頑張りましょうね」
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない笑顔。
けれど、僕の仕事は昨日までとは少し違っていた。
社長から期待され、新しいプロジェクトに参加することになった。
責任は重い。
覚えなければならないことも、たくさんある。
それでも、逃げるつもりはなかった。
「今日は、社長からいただいた資料を確認しておきます!」
「わかりました。わからないところがあったら、いつでも聞いてくださいね」
「はい!」
さくらさんがデスクへ戻っていく。
その背中を見送った瞬間、俺はそっと胸に手を当てた。
――ドクン。
(……今日も、好きだ)
昨日よりも、ほんの少しだけ成長できた。
社長にも認めてもらえた。
さくらさんにも喜んでもらえた。
だからこそ、これからも頑張りたい。
彼女に仕事で迷惑をかけないように。
いつか、一人前の社員として胸を張れるように。
そして――。
(この気持ちだけは、まだ秘密だ)
僕はパソコンを開き、新しいプロジェクトの資料に目を通し始めた。
そのとき、デスクに一通のメールが届いた。
差出人は、社長。
件名は――。
『新プロジェクトについて、追加でお話ししたいことがあります』
「……えっ?」
僕は思わず画面を見つめた。
どうやら、社長との縁はこれで終わりではないらしい。
そして、僕の知らないところで、さくらさんもまた、新しいプロジェクトの担当候補として名前が挙がっていた。
社長に気に入られた新人社員。
教育係として彼を支える、さくらさん。
二人の仕事が再び交わる日は、すぐそこまで来ていた。
第8章・完