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「誰にも気づかれない優しさ――残業の夜、君の力になりたくて」

教育係のさくらには恋心を知られてはいけない。 — www.pixiv.net · All chapters

「誰にも気づかれない優しさ――残業の夜、君の力になりたくて」

1.静まり返ったオフィス

午後八時三十分。

ほとんどの社員が帰宅したオフィスには、パソコンのキーボードを叩く音と、空調のかすかな音だけが響いていた。

「……よし。あと少しだな」

僕は画面に表示された資料を確認し、ゆっくりと背もたれに寄りかかった。

今日は新しいビジネスの準備が重なり、定時までに仕事を終わらせることができなかった。

とはいえ、残業そのものは珍しくない。

問題は、さっきから気になっていることだった。

――さくらさん、まだ帰っていないんだ。

僕の教育係である、さくらさん。

仕事を教えるときは丁寧で、困っている人を見つければ必ず声をかける。厳しいことを言うときもあるけれど、その言葉の奥にはいつも相手を思いやる気持ちがあった。

初めて会った日から、僕はそんな彼女に惹かれていた。

もちろん、その気持ちを本人に知られるわけにはいかない。

知られてしまったら、今までどおり仕事ができなくなるかもしれない。

だから僕は、いつもどおりの後輩を演じていた。

「……さて、そろそろ帰る準備でもするか」

そう呟きながら立ち上がり、何気なくオフィスを見渡した。

そのときだった。

さくらさんのデスクが目に入った。

「……え?」

思わず足が止まる。

机の上には、書類の山がいくつも積み重なっていた。

右側には確認待ちの資料。

左側には修正が必要な報告書。

さらに、明日までに提出しなければならないらしい企画書まである。

その向こう側で、さくらさんは一人、パソコンの画面と書類を交互に見つめていた。

いつもなら姿勢よく仕事をしている彼女が、今日は少しだけ肩を落としている。

「……さくらさん」

小さく名前を呼びかけそうになって、僕は口を閉じた。

疲れているんだ。

きっと、僕が知らないところでも、たくさんの仕事を抱えている。

教育係として新人の僕を指導しながら、自分の業務も進めているのだから、負担は相当なものだろう。

「……そりゃ、大変だよな」

僕は自分のデスクに戻った。

そして、少しだけ考えた。

声をかけるべきだろうか。

でも、さくらさんは責任感が強い。

簡単に「手伝います」と言っても、きっと遠慮するだろう。

だったら――。

「……よし」

僕は静かに椅子に座り直した。

彼女の仕事を奪うのではなく、彼女が少しでも楽になる方法を考えることにした。

2.誰にも気づかれない手伝い

まず、自分の仕事を終わらせた。

明日提出する資料を保存し、必要なファイルを整理する。

それから、僕はさくらさんのデスクに視線を向けた。

彼女はまだ書類を確認している。

「……あの量、明日の朝までに終わるのかな」

気になった僕は、自分の席から立ち上がった。

「さくらさん、お疲れさまです」

「……あっ。お疲れさまです。まだ残っていたんですね」

さくらさんは少し驚いたように顔を上げた。

「はい。自分の資料を確認していたところです。さくらさんも、まだお仕事ですか?」

「ええ。ちょっと確認しなければいけない書類が多くて」

そう言って、彼女は困ったように笑った。

「でも、もう少しで終わりますから。あなたは先に帰っても大丈夫ですよ」

その言葉を聞いて、胸の奥がちくりとした。

――まただ。

さくらさんはいつもそうだ。

自分が大変なときでさえ、周りの人間を気遣う。

だからこそ、僕も彼女の力になりたかった。

「……分かりました」

僕はいったん頷いた。

そして、自分のデスクに戻る。

もちろん、本当に帰るつもりはなかった。

ただし、勝手に彼女の仕事を持ち出すのはよくない。

だから僕は、別の方法を考えた。

まず、自分の業務で使っていた資料整理のテンプレートを開く。

確認項目を一覧にし、書類の種類ごとに分類できるように整えた。

そのうえで、さくらさんが以前共有してくれた業務マニュアルを確認する。

彼女の担当業務のうち、僕にも対応できるものがないか探した。

すると、ひとつ見つかった。

明日の会議で使用する資料のうち、すでに共有フォルダに入っているデータの照合と、添付資料の一覧作成だ。

正式な担当者はさくらさんだが、作業自体は僕にもできる。

ただし、担当者の承認が必要な部分には手をつけない。

「……これなら、少しは負担を減らせる」

僕は必要な資料を確認し、一覧表を作り始めた。

ページ番号。

資料名。

更新日時。

不足している添付資料。

ひとつずつ確認していく。

地味な作業だった。

それでも、こういう細かい作業を先に片づけておけば、さくらさんは重要な確認に集中できるはずだ。

しばらくすると、一覧表が完成した。

僕はそれを共有フォルダの所定の場所に保存し、確認事項を簡潔にまとめたメモを添えた。

もちろん、勝手に彼女の名前で提出したりはしない。

最後に、自分の名前と作成した範囲を記載した。

「……これでよし」

時刻は午後九時を過ぎていた。

僕はそっと立ち上がり、さくらさんのデスクから少し離れた共有スペースに、作業内容を書いたメモを置いた。

これなら、彼女が確認するときにすぐ見つけられる。

「……気づいてくれるといいな」

そう呟いた直後。

「……何をしているんですか?」

背後から声がした。

「うわっ!」

思わず肩が跳ねた。

振り返ると、さくらさんが立っていた。

「さ、さくらさん!?」

「そんなに驚かなくても……。どうしたんですか?」

彼女は不思議そうに首を傾げた。

「い、いえ! ちょっと資料を整理していただけです!」

「そうですか?」

さくらさんの視線が、共有スペースに置かれたメモへと移る。

「あれ……。これ、明日の会議資料の一覧ですか?」

「えっ、あ、はい。共有フォルダの資料を照合して、一覧にまとめました。僕の担当ではない部分もあるので、確認が必要な箇所はそのまま残しています」

「……あなたが作ってくれたんですか?」

「はい。僕にもできそうな作業だったので」

さくらさんは、しばらくメモを見つめていた。

そして、ふっと表情を和らげた。

「……ありがとうございます」

その声が、いつもより少しだけ柔らかく聞こえた。

「とても助かります。これ、明日の朝に確認しようと思っていたんです」

「それなら、よかったです」

僕は笑顔で答えた。

――よかった。

本当に、それだけでよかった。

さくらさんの仕事が少しでも楽になるなら、それで十分だった。

……そう思っていたのに。

「でも」

彼女がこちらを見つめた。

「どうして、何も言わずに手伝ってくれたんですか?」

「……え?」

まずい。

まさか、気づかれるとは思っていなかった。

「えっと……その……」

僕は必死に言葉を探した。

まさか、好きな人が疲れている姿を見ていられなかったから、なんて言えるはずがない。

「さくらさんには、いつも仕事を教えていただいているので。そのお礼です」

なんとか、それらしい理由を口にした。

すると彼女は、少しだけ目を細めた。

「……ふふっ」

「な、何ですか?」

「いえ。あなたらしいな、と思って」

「僕らしい……ですか?」

「はい。周りをよく見ていますし、誰かが困っていると、さりげなく助けようとするところがありますから」

「そ、そうでしょうか……」

「そうですよ」

さくらさんは優しく微笑んだ。

その笑顔を見た瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。

ドクン。

――落ち着け。

ドクン、ドクン。

――いつもどおりだ。いつもどおりにしろ。

「……ありがとうございます」

僕は何とか平静を装って頭を下げた。

けれど、顔が熱い。

彼女に褒められただけで、こんなにも嬉しくなるなんて。

「……やっぱり、帰ろうかな」

「えっ?」

「い、いえ! 何でもありません!」

危ない。

心の声が漏れるところだった。

さくらさんは不思議そうに僕を見ていたが、やがて小さく笑った。

「では、私もそろそろ終わりにしますね」

「はい。お疲れさまでした」

「あなたも、お疲れさまでした」

その言葉を交わして、僕たちはそれぞれ帰る準備を始めた。

さくらさんのデスクには、まだ書類が残っていた。

けれど、さっきよりも山は低くなっている。

そして、彼女の表情も少しだけ明るくなっていた。

それを見て、僕は密かに安堵した。

――よかった。

僕の小さな手伝いが、ちゃんと役に立ったんだ。

3.さくらさんの相談

翌日の昼休み。

僕は給湯スペースで紙コップにお茶を注いでいた。

すると、後ろから聞き慣れた声がした。

「……あの、今、少しお時間いいですか?」

振り返る。

そこには、さくらさんが立っていた。

「さくらさん? はい、大丈夫です」

「ありがとうございます。ちょっと相談したいことがあって」

「相談……ですか?」

意外だった。

いつも僕に仕事を教えてくれる彼女から、相談を持ちかけられるなんて。

「ここだと人が来るかもしれませんから、休憩スペースでお話ししてもいいですか?」

「もちろんです」

僕たちは休憩スペースへ移動した。

窓際のテーブルに向かい合って座る。

さくらさんは温かいお茶を両手で包みながら、少し考えるように視線を落としていた。

いつもの明るい表情とは違う。

何か、悩んでいるようだった。

「……実はですね」

彼女がゆっくりと口を開いた。

「最近、少し仕事の進め方に悩んでいるんです」

「仕事の進め方……ですか?」

「はい。新人の教育をしながら、自分の担当業務も進めているのですが、どうしても時間が足りなくなってしまって」

僕は黙って話を聞いた。

「教育係だから、きちんと教えなければいけない。担当者としても、仕事に責任を持たなければいけない。でも、両方を完璧にしようとすると、どちらかに無理が出てしまうんです」

さくらさんは困ったように笑った。

「昨日も、あなたに手伝ってもらってしまいましたし……」

「……さくらさん」

「私、教育係として、ちゃんとできているのかなって。少し考えてしまって」

その言葉に、僕は驚いた。

さくらさんほど仕事ができる人でも、そんなふうに悩むことがあるのか。

いつも的確に指示を出し、分からないことがあれば丁寧に説明してくれる。

僕から見れば、十分すぎるほど立派な教育係だった。

けれど、彼女自身はそう思えていないのかもしれない。

「……ひとつ、聞いてもいいですか?」

「はい?」

「さくらさんは、僕に仕事を教えるとき、どういうことを大切にしていますか?」

彼女は少し考えた。

「そうですね……。ただ手順を覚えてもらうだけではなくて、どうしてその作業が必要なのかを理解してもらうことでしょうか」

「ですよね」

「それから、分からないことを分からないままにしないこと。失敗したときには、原因を一緒に考えること……かな」

僕は頷いた。

「僕、さくらさんに教えてもらってから、少しずつ仕事が分かるようになってきました」

「……本当ですか?」

「はい。最初は何をすればいいのかも分からなくて、いつも不安でした。でも、さくらさんは、ただ答えを教えるんじゃなくて、僕が自分で考えられるように説明してくれます」

さくらさんは黙って聞いていた。

「それに、分からないことを質問しても、嫌な顔をしませんよね。だから僕も、少しずつ自分から確認できるようになりました」

「……」

「昨日だって、さくらさんが書類を整理しているのを見て、何かできることはないかなって考えたんです。前だったら、たぶん、何もできずに困っていたと思います」

僕は少しだけ笑った。

「でも、今は自分にできることを探せるようになりました。それって、さくらさんが教えてくれたおかげだと思います」

言い終えたあと、急に恥ずかしくなった。

――言いすぎたかな。

いや、でも本当のことだ。

僕は慌ててお茶を口に運んだ。

そのとき、さくらさんが小さく息を吐いた。

「……そっか」

彼女の表情が、少しずつ和らいでいく。

「私、ちゃんと教えられているのか、ずっと不安だったんです」

「……」

「でも、あなたがそう言ってくれるなら、少し自信を持ってもいいのかな」

「もちろんです」

思わず即答してしまった。

さくらさんが目を丸くする。

「あ……。すみません。つい」

「ふふっ。謝らなくてもいいですよ」

彼女は笑った。

「ありがとうございます。あなたに相談してよかった」

――その言葉は、反則だ。

心の中で叫んだ。

僕の好きな人が、僕に相談してよかったと言ってくれた。

しかも、こんなに優しい笑顔で。

胸の奥が熱くなる。

ドクン、ドクン。

それでも、僕は平静を装った。

「僕でよければ、いつでも相談してください」

「……はい。そうさせてもらいますね」

さくらさんは、少しだけ照れくさそうに笑った。

その笑顔を見ているだけで、午後の仕事も頑張れそうな気がした。

4.完璧じゃなくてもいい

しばらく話したあと、僕はもうひとつ提案をした。

「さくらさん。もしよかったら、仕事の優先順位を一緒に整理してみませんか?」

「優先順位?」

「はい。全部を一度に終わらせようとすると大変ですから、期限が近いものと、少し余裕があるものに分けるんです。それから、僕にもできる作業があれば、担当を確認したうえで手伝います」

さくらさんは考え込むように頷いた。

「なるほど……。確かに、少し整理するだけでも違うかもしれませんね」

「それに、教育係だからといって、全部一人で抱え込まなくてもいいと思います」

僕は言葉を選びながら続けた。

「僕も、分からないことがあれば相談します。さくらさんも、困ったときは周りの人に相談していいんじゃないでしょうか」

「……そうですね」

「僕だって、まだまだ教えてもらうことばかりです。でも、できることは少しずつ増やしていきたいです」

そして、最後にこう付け加えた。

「だから、さくらさんも一人で頑張りすぎないでください」

言った瞬間、少し恥ずかしくなった。

まるで、彼女を特別に心配しているみたいじゃないか。

いや、実際に特別なのだけれど。

それを知られるわけにはいかない。

ところが、さくらさんは真剣な表情で僕を見つめていた。

「……あなたって、本当に優しいですね」

「えっ!?」

「いつも周りのことをよく見ていて、必要なときには、ちゃんと言葉にしてくれる」

「そ、そんなことは……」

「ありますよ」

彼女は穏やかに微笑んだ。

「昨日も今日も、あなたに助けてもらいました。ありがとうございます」

「……いえ。僕のほうこそ、いつもありがとうございます」

しばらく、二人とも何も言わなかった。

窓の外では、午後の光が街並みを照らしていた。

やがて、さくらさんが立ち上がった。

「そろそろ戻りましょうか。午後の仕事もありますし」

「はい」

僕も立ち上がる。

休憩スペースを出る直前、さくらさんが振り返った。

「……あ、そうだ」

「はい?」

「今日の帰り、もし時間があったら、また少し相談に乗ってもらってもいいですか?」

「もちろんです」

答えた瞬間、彼女は嬉しそうに笑った。

「ありがとうございます。頼りにしていますね」

そして、さくらさんは先にオフィスへ戻っていった。

僕はその場に立ち尽くした。

「……頼りに、してる……?」

頬が熱い。

胸の音が、さっきよりもずっと大きくなっていた。

ドクン、ドクン、ドクン。

――落ち着け、僕。

――これは仕事の相談だ。

――教育係と後輩として、信頼してもらえた。それだけだ。

そう自分に言い聞かせる。

けれど、口元がどうしても緩んでしまう。

だって、嬉しかったから。

好きな人の力になれたこと。

好きな人が、自分を頼ってくれたこと。

そして何より、彼女が少しだけ安心した顔を見せてくれたこと。

それだけで、今日という一日が特別なものになった。

5.夕暮れの約束

その日の夕方。

僕は自分の仕事を終え、さくらさんと一緒に業務の優先順位を整理していた。

昨日のような書類の山は、今日はない。

代わりに、やるべきことが分かりやすく一覧になっていた。

「この資料は明日の午前中までに確認して、こちらは午後の会議の前で大丈夫ですね」

「はい。あとは、この部分だけ確認していただければ、僕のほうで一覧を更新できます」

「助かります。ありがとうございます」

さくらさんは、ひとつずつ確認を終えるたびに、表情を明るくしていった。

「……なんだか、頭の中がすっきりしました」

「よかったです」

「一人で考えていると、全部が大変な仕事に見えてしまうんですね」

「ありますよね、そういうこと」

僕も頷いた。

「でも、整理してみると、今すぐやることと、あとでいいことが分かりますから」

「本当にそうですね」

さくらさんはペンを置いた。

「……あなたに相談してよかったです」

また、その言葉。

僕は内心、頭を抱えそうになった。

――さくらさん。

――お願いだから、そんなに嬉しいことを何度も言わないでください。

――好きになってしまった理由が、また増えてしまうじゃないですか。

もちろん、口には出せない。

「僕も、さくらさんと一緒に仕事ができて勉強になります」

何とか、それだけを返した。

「ふふっ。では、これからもよろしくお願いしますね」

「はい。よろしくお願いします」

二人で資料を片づける。

帰り支度を終え、オフィスの照明を確認したあと、僕たちは並んでエレベーターへ向かった。

「今日はありがとうございました」

さくらさんが言った。

「こちらこそ、ありがとうございました」

「昨日、あなたが作ってくれた一覧表のおかげで、朝の確認がとてもスムーズだったんです」

「本当ですか? それならよかったです」

「はい。だから、あまり遠慮せずに、これからも気づいたことがあったら教えてくださいね」

「……分かりました」

エレベーターの扉が開く。

僕たちは乗り込み、静かに一階へと降りていった。

扉が開く直前、さくらさんがふと思い出したように言った。

「そういえば、あなたは困ったとき、ちゃんと誰かに相談できていますか?」

「え?」

「昨日も今日も、私のことを気にかけてくれましたけど……あなた自身が無理をしていたら、意味がありませんから」

その言葉に、僕は目を見開いた。

自分のことまで、気にかけてくれていたんだ。

「……はい。大丈夫です」

「本当ですか?」

「はい。困ったときは、さくらさんにも相談します」

そう答えると、彼女は安心したように笑った。

「よかった」

たったそれだけの言葉。

それなのに、僕の心には深く残った。

さくらさんは、誰かが困っていれば手を差し伸べる。

僕が彼女を好きになったのは、きっと、そういうところだった。

だから今度は、僕も彼女の支えになりたかった。

彼女が困っているときには、一緒に考えたい。

彼女が疲れているときには、少しでも負担を減らしたい。

そして、彼女が自信をなくしているときには、ちゃんと伝えたい。

――あなたは、十分に頑張っていますよ、と。

ただし。

その気持ちが恋心だということだけは、絶対に知られてはいけない。

「……さくらさん」

「はい?」

「明日も、よろしくお願いします」

少しだけ勇気を出して、僕は言った。

すると彼女は、いつもの優しい笑顔で答えてくれた。

「はい。こちらこそ、よろしくお願いしますね」

その瞬間、胸がまた大きく鳴った。

ドクン。

僕は慌てて視線をそらした。

――危ない。

――今の笑顔は、本当に危ない。

さくらさんは気づいていない。

僕がどれほど彼女を大切に思っているのか。

彼女の笑顔ひとつで、どれほど幸せになれるのか。

そして、彼女が困っているとき、誰よりも力になりたいと思っていることも。

まだ、知られてはいけない。

今はただ、信頼できる後輩として。

彼女のそばで、少しずつ成長していこう。

いつか、自分にもっと自信が持てるようになったら。

今よりもずっと、頼りになる人間になれたら。

そのときも、変わらず彼女の力になれるように。

僕は心の中で、そっと決意した。

――教育係のさくらさんには、恋心を知られてはいけない。

けれど。

彼女が困っているときに、そっと手を差し伸べることだけは。

これからも、やめられそうになかった。