「自分のことより、誰かのために」
「自分のことより、誰かのために」
1.朝から続く違和感
朝、会社に出勤したときから、僕の体調は少しおかしかった。
頭がぼんやりする。身体が重い。いつもなら簡単にできる仕事にも、普段より時間がかかってしまう。
「……大丈夫。まだ仕事はできる」
僕はそう自分に言い聞かせながら、パソコンを立ち上げた。
すると、隣の席から聞き慣れた声がした。
「おはようございます。今日もよろしくお願いしますね」
教育係のさくらさんだった。
「お、おはようございます! 今日もよろしくお願いします!」
思わず背筋が伸びる。
さくらさんは僕の顔を見て、少しだけ首をかしげた。
「……あれ? なんだか顔色がよくないように見えますけど、大丈夫ですか?」
「えっ? そ、そうですか? 大丈夫ですよ!」
しまった。
心配してくれるさくらさんの顔を見ただけで、胸がドクンと鳴ってしまった。
(落ち着け、僕! 体調が悪いのは本当だけど、さくらさんに見つめられたせいで余計に心臓が……!)
もちろん、そんなことは口が裂けても言えない。
僕がさくらさんに恋をしていることは、絶対に知られてはいけないのだ。
「無理は禁物ですよ。具合が悪くなったら、ちゃんと言ってくださいね」
「は、はい……!」
さくらさんは優しく微笑んで、自分の仕事に戻った。
その笑顔を見送った僕は、そっと胸を押さえた。
(……危なかった)
しかし、本当に危なかったのは恋心のほうだけではなかった。
昼が近づくにつれて、僕の体調は少しずつ悪くなっていった。
2.午後休暇を取るべきか
午前中の仕事を何とか終えたころには、僕はすっかり疲れ切っていた。
昼休み、給湯室の近くにある休憩スペースで椅子に座り、額に手を当てる。
(これは……午後、休んだほうがいいかもしれない)
病院に行くべきだろうか。
それとも、少し休めば回復するだろうか。
午後休暇を申請すること自体は問題ない。けれど、担当している仕事も残っている。
(途中で帰ったら、みんなに迷惑をかけるかな……)
考えれば考えるほど、決断できなくなった。
そのときだった。
「すみません……どなたか、少し相談してもいいですか?」
近くから、困り果てたような声が聞こえた。
顔を上げると、別の部署の社員が書類を抱えて立っていた。
表情には焦りが浮かんでいる。
「あの、取引先に提出する資料なんですが、数字が合わなくて……。担当の方にも連絡がつかなくて、どうしたらいいのか分からないんです」
社員は手元の資料を見つめ、途方に暮れていた。
「今日中に確認しないといけないのに……」
その言葉を聞いて、僕は少し考えた。
自分も具合が悪い。
できれば、午後休暇を取って病院に行きたい。
でも、この人も困っている。
(……いや、待て。全部を僕が解決する必要はないんだ)
そう思い直し、僕は椅子から立ち上がった。
「よかったら、資料を見せてもらえませんか?」
「えっ? いいんですか?」
「はい。僕に分かる範囲で、一緒に確認します」
社員の表情が、ほんの少し明るくなった。
その笑顔を見て、僕は自分の体調のことを一瞬だけ忘れていた。
3.小さな違和感を見逃さない
資料を会議スペースに広げ、僕たちは数字を一つずつ確認していった。
売上の集計表、先月の報告書、そして取引先に提出する予定の資料。
一見すると、数字はほとんど一致している。
けれど、どうしても一か所だけ合わない。
「うーん……。計算式は間違っていないように見えますね」
「そうなんです。何度計算しても同じで……」
僕は画面を見つめた。
そのとき、ふと違和感を覚えた。
(……あれ?)
数字ではない。
資料の端に記載された、小さな注釈だった。
「すみません。この集計って、いつからいつまでの期間ですか?」
「え? 先月の一日から月末までです」
「こっちの報告書も、同じ期間ですか?」
「……あっ!」
社員が慌てて二つの資料を見比べた。
「こっちは、最終営業日の翌日まで含まれています!」
そう。
一方の資料には月末の締め処理後に追加されたデータが含まれていたのだ。
計算そのものは間違っていなかった。
集計対象の期間が、わずかに異なっていたのである。
「なるほど……! だから数字が合わなかったんですね!」
社員の声に、安堵が混じった。
「はい。まずは集計期間を統一して、それから数字を確認すれば大丈夫だと思います。念のため、修正後の数字も担当部署に確認してもらいましょう」
「ありがとうございます! 本当に助かりました!」
深々と頭を下げられ、僕は慌てて手を振った。
「いえいえ! 僕も一緒に確認しただけですから!」
その瞬間だった。
ふっと視界がぼんやりした。
(……あれ?)
朝から感じていた身体の重さが、また戻ってきた気がした。
僕は机に手をつき、ゆっくり息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
社員が心配そうに尋ねる。
「ええ、大丈夫です。ちょっと疲れただけですから」
そう答えたものの、身体は正直だった。
やっぱり、午後は休んだほうがいい。
そう決心しかけた、そのとき。
「ありがとうございました! これで何とか間に合いそうです!」
社員が、ほっとした笑顔を見せた。
その顔を見ているうちに、僕の胸の中にも不思議な温かさが広がった。
(……よかった)
誰かの困りごとが解決した。
それだけのことなのに、僕まで少し救われたような気がした。
4.さくらさんに見つかった!
会議スペースを出て、自分の席に戻ろうとしたときだった。
「……やっぱり、ここにいましたね」
聞き慣れた声。
振り向くと、そこにはさくらさんが立っていた。
「さ、さくらさん!?」
「探しましたよ。お昼休みが終わっても戻ってこないから、どうしたのかと思って」
「す、すみません! ちょっと別の部署の方のお手伝いを……」
「そうだったんですね」
さくらさんは、僕の顔をじっと見つめた。
「それより……やっぱり具合が悪いんじゃありませんか?」
「えっ?」
「顔色がよくありません。午前中から気になっていたんです」
僕は言葉に詰まった。
(まずい……!)
さくらさんは僕の教育係だ。
僕が無理をしていることなど、簡単に見抜いてしまう。
「実は……ちょっと体調が悪くて。午後休暇を取って病院に行こうか、迷っていたんです」
「迷っていた?」
「はい。でも、困っている社員の方がいたので、資料を一緒に確認していました」
さくらさんは少し驚いたように目を丸くした。
「……自分の体調が悪いのに、誰かを助けていたんですか?」
「い、いえ! そんな大したことじゃありません!」
「大したことですよ」
さくらさんは、いつもより少し真剣な声で言った。
「困っている人を助けるのは素敵なことです。でも、自分のことも大切にしてください」
その言葉が、胸にすっと染み込んだ。
「あなたが倒れてしまったら、今度はあなたが助けを必要とすることになりますからね」
「……はい」
僕は小さくうなずいた。
さくらさんは、ふっと表情を和らげた。
「それに、あなたが誰かを助けたことは、ちゃんと伝わっていますよ」
「えっ?」
「さっき、あの方がとても感謝していました。あなたが一緒に確認してくれたおかげで、問題の原因が分かったって」
胸が、ドクンと鳴った。
(やめてください、さくらさん……!)
(そんな優しい言葉をかけられたら、また好きになってしまうじゃないですか……!)
もちろん、そんな本音は絶対に言えない。
「そ、そうですか……。よかったです」
僕は必死に平静を装った。
さくらさんは、そんな僕を見て微笑んだ。
「では、午後休暇を取りましょう。仕事の引き継ぎは私も手伝います」
「で、でも……!」
「でも、じゃありません」
さくらさんは、少しだけ先生らしい口調になった。
「体調が悪いときは、きちんと休む。これは仕事を続けていくうえで、とても大切なことですよ」
「……はい。ありがとうございます」
僕はようやく、午後休暇を申請することにした。
5.いつの間にか、体調が……?
午後休暇の申請を済ませた僕は、帰る準備をする前に、休憩スペースで少し休むことにした。
椅子に座り、ゆっくりと水を飲む。
さくらさんに言われたとおり、今日は無理をしない。
(……そういえば)
ふと、気がついた。
朝からずっと感じていた身体の重さ。
頭がぼんやりする感覚。
そして、仕事中も気になっていた、あの不調。
それが、今はずいぶん和らいでいた。
(……あれ? さっきまで、あんなにしんどかったのに)
僕は自分の手を見つめ、それからゆっくりと肩を回した。
身体が軽い。
頭も、さっきよりすっきりしている。
もちろん、完全に治ったと決めつけることはできない。だからこそ、今日は予定どおり休んで、必要なら病院で診てもらおう。
それでも、不思議だった。
困っている社員を助けていたとき。
問題の原因を見つけたとき。
そして、相手が安心した笑顔を見せてくれたとき。
僕は、自分の不調を忘れるほど集中していた。
(誰かの役に立てたことが、こんなに嬉しいなんて……)
胸の奥が、じんわり温かくなる。
そのとき、休憩スペースの入口から声がした。
「……少し、顔色が戻りましたね」
「さくらさん!?」
またしても、僕は飛び上がりそうになった。
さくらさんは僕の向かいの椅子に座った。
「少し休めましたか?」
「は、はい。さっきより楽になった気がします」
「そうですか。でも、無理はしないでくださいね。体調の変化には気をつけて、必要なら病院で診てもらいましょう」
「はい」
さくらさんは安心したように息をついた。
「それにしても、あなたは不思議な人ですね」
「えっ? 不思議、ですか?」
「はい。自分が困っているときでも、困っている人を見つけると放っておけないんですから」
「そ、そんなこと……」
「今日のこと、私はいい経験になったと思いますよ」
さくらさんは、穏やかな笑顔で続けた。
「仕事は、目の前の作業を終わらせるだけではありません。誰かが困っていたら、一緒に考える。分からないことがあったら、周りに相談する。そうやって支え合うことも、大切な仕事なんです」
僕は黙って聞いていた。
「今日、あなたがしたことは、そのお手本みたいなものですね」
「……ありがとうございます」
胸がドクン、ドクンと鳴っている。
今、さくらさんは僕を褒めてくれている。
仕事のことだと分かっている。
分かっているのに。
(……やっぱり、好きだ)
初めて会った日から、ずっとそうだった。
優しく教えてくれるところ。
間違えたときも、ただ叱るのではなく、次にどうすればいいのかを一緒に考えてくれるところ。
そして、僕が無理をしていると、ちゃんと気づいてくれるところ。
知れば知るほど、好きになってしまう。
けれど――。
(この気持ちは、まだ知られるわけにはいかない)
僕は顔を上げ、できるだけ自然に笑った。
「さくらさんにそう言ってもらえると、自信になります!」
「ふふっ。では、これからも期待していますね」
「は、はい!」
危なかった。
今の言葉に、僕の本音がどれだけ混ざっていたのだろう。
さくらさんは気づいた様子もなく、立ち上がった。
「では、今日は帰ってゆっくり休んでください。明日、元気な顔を見せてくれるのを待っていますね」
「……はい。ありがとうございます!」
さくらさんは手を振り、自分の仕事に戻っていった。
僕は、その背中を見送った。
そして、そっと胸に手を当てる。
ドクン。
ドクン。
心臓の音は、まだ少しも落ち着いていなかった。
6.帰り道に気づいたこと
会社を出るころには、朝よりもずっと気持ちが落ち着いていた。
午後休暇を取ったことで、仕事の心配も少し減った。
駅までの道を歩きながら、僕は今日の出来事を振り返った。
困っている社員を見つけたこと。
一緒に資料を確認したこと。
小さな違和感に気づき、問題の原因を見つけられたこと。
そして、さくらさんに褒めてもらえたこと。
(……今日は、いろいろあったな)
僕は小さく笑った。
朝は、自分の体調のことで頭がいっぱいだった。
午後休暇を取るべきか。
病院に行くべきか。
仕事を途中で抜けてもいいのか。
そんなことばかり考えていた。
けれど、困っている人を助けているうちに、別のことにも気づいた。
自分ひとりで抱え込まなくてもいい。
誰かを助けることは大切だけれど、自分も誰かに助けてもらっていい。
そして、無理をしないことも、責任を持って仕事を続けるために必要なのだ。
(……さくらさんが教えてくれたんだ)
そのことが、何より嬉しかった。
気がつけば、朝から感じていた不調はかなり和らいでいた。
けれど、僕はそのまま帰宅し、ゆっくり休むことにした。
体調がよくなったように感じても、無理をしてはいけない。
今日のさくらさんの言葉を、忘れないようにしよう。
そう心に決めた。
そして、もう一つ。
(……明日、さくらさんに会えるんだ)
たったそれだけのことなのに、胸がまたドクンと鳴った。
「……いやいやいや!」
僕は慌てて首を振った。
「仕事! 仕事のことを考えろ、僕!」
通りすがりの人が、ちらりとこちらを見た。
僕は何事もなかったように歩き出す。
けれど、頬の熱さはなかなか引かなかった。
教育係のさくらさんには、恋心を知られてはいけない。
今日もまた、その決意を胸に刻むのだった。
次の日の朝――小さな後日談
翌朝。
僕が出勤すると、さくらさんがこちらに気づいて手を振った。
「おはようございます。体調はどうですか?」
「お、おはようございます! 昨日よりずっと楽になりました!」
「よかったです。でも、まだ無理は禁物ですよ」
「はい!」
さくらさんは安心したように笑った。
「それから、昨日の資料の件ですが、担当の方からも報告がありました。無事に確認が終わったそうですよ」
「本当ですか?」
「ええ。あなたが気づいた集計期間の違いが、解決のきっかけになったそうです」
僕は思わず笑顔になった。
「よかった……!」
「ふふっ。本当に嬉しそうですね」
「だ、だって、困っていた方が助かったんですから!」
「そうですね。そういうところ、あなたの素敵な長所だと思いますよ」
――ドクンッ!
(まただあああああっ!)
心の中で叫びながら、僕は必死に平静を装った。
「そ、そんな……。ありがとうございます!」
「これからも、その長所を大切にしてくださいね。ただし、自分のことも大切にすること。約束ですよ?」
「……はい。約束します」
さくらさんは満足そうにうなずき、自分の席へ戻っていった。
僕はしばらく、その場に立ち尽くした。
(長所って……素敵って……)
頬が熱い。
胸の音がうるさい。
昨日、体調がよくなったときよりも、今のほうがずっと心臓が忙しかった。
(……もう、さくらさんにはかなわないな)
そう思いながら、僕は自分の席に座った。
パソコンを立ち上げ、今日の仕事を確認する。
新しい一日が始まった。
そして僕は、いつものように心の中で誓う。
仕事では、さくらさんに信頼される後輩になる。
でも、この恋心だけは――絶対に知られてはいけない。
……少なくとも、今のところは。