誰にも告げなかった違和感と、君にだけ伝えたかった言葉
誰にも告げなかった違和感と、君にだけ伝えたかった言葉
第一話 リーダーとしての責任
新ビジネスのプロジェクトリーダーに任命されてから、数週間。
あなたは毎日、会議の進行、資料の確認、メンバーへの業務分担、取引先との調整に追われていた。
初めて任された大きな仕事。
もちろん、簡単なことばかりではなかった。
けれど、あなたの隣にはいつも教育係のさくらがいた。
「リーダー、こちらの資料の確認をお願いします」
「はい。ありがとうございます、さくらさん」
「ふふっ。最近、ずいぶん頼もしくなりましたね」
「そ、そんなことないですよ。まだまだです」
「そうですか? 私はそう思いませんけど」
さくらは柔らかく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、あなたの心臓が跳ねた。
――ドクン。
(……っ!)
(落ち着け、落ち着け! 今は仕事中だ!)
あなたは慌てて資料に視線を落とした。
さくらは、あなたが彼女のことを好きだなんて知らない。
いや、知られてはいけない。
彼女は教育係で、自分は教わる立場から成長してきた社員だ。
仕事で信頼されることと、恋愛感情を持たれることは別の話。
だからこそ、あなたは決めていた。
さくらさんには、絶対に恋心を知られてはいけない。
少なくとも、このプロジェクトが終わるまでは。
「それでは、午後の打ち合わせに向けて、最終確認を始めましょう」
あなたはリーダーとして、会議室にいるメンバーを見渡した。
「はい!」
全員の返事がそろう。
新ビジネスは、いよいよ重要な局面を迎えようとしていた。
あなたはまだ知らなかった。
この日の小さな違和感が、プロジェクト全体を左右することになるとは。
第二話 たった一つの違和感
午後二時。
あなたは、取引先へ提出する最終提案書と、社内の予算管理表を照らし合わせていた。
売上予測、必要経費、人員配置、スケジュール。
どの項目も、これまで何度も確認している。
問題はない。
少なくとも、ぱっと見た限りでは。
「……ん?」
あなたの指が止まった。
予算管理表の一項目。
最終提案書では、ある業務の実施費用が適切に計上されている。
しかし、社内の管理表では、その費用の計上先が別の項目になっていた。
金額そのものに大きな差はない。
だから、見過ごしてしまう人もいるだろう。
けれど、あなたは気づいてしまった。
(……これ、どうして計上先が違うんだ?)
最初は単純な入力ミスだと思った。
ところが、関連する資料をさかのぼって確認すると、少し気になる点が見つかった。
以前の会議で決まった内容と、最新の管理表の記載が一致していない。
しかも、修正された時刻は、最新の資料が共有された直前だった。
(偶然……なのか?)
胸の奥に、小さな不安が広がった。
誰かが意図的に変更したと決めつけることはできない。
システム上の処理や、古い資料を参照したことが原因かもしれない。
しかし、このまま提出してしまえば、あとから予算の説明に食い違いが生じる可能性がある。
あなたは時計を見た。
最終提出まで、あと数時間。
「リーダー?」
背後から声がした。
振り返ると、さくらが立っていた。
「どうしました? 先ほどから、ずっと同じページを見ていますけど」
「えっ? あ、いえ……少し確認したいところがありまして」
「何か問題が?」
あなたは一瞬、迷った。
さくらに相談すれば、きっと一緒に確認してくれる。
これまで何度も助けてもらったのだから。
けれど、まだ確証がない。
曖昧な段階で騒ぎ立てて、メンバーを不必要に不安にさせたくなかった。
「いえ。まだ問題と決まったわけではないので。まずは、自分で確認してみます」
さくらはあなたの顔をじっと見つめた。
「……無理はしていませんか?」
「大丈夫です!」
少し声が大きくなってしまった。
あなたは慌てて言い直した。
「すみません。大丈夫です。リーダーとして、最後まで責任を持って確認したいんです」
さくらは、ほんの少し目を細めた。
「……分かりました。でも、何かあったら、必ず相談してくださいね」
「はい。ありがとうございます」
さくらが離れていく。
あなたは、その背中を見送ってから、小さく息を吐いた。
(……心配させちゃったかな)
本当は、さくらに頼りたかった。
一緒に考えてほしかった。
けれど、それ以上に、リーダーとして自分の仕事を全うしたかった。
そして、あなたは再び資料に向き直った。
第三話 誰にも知らせずに
あなたは、周囲に気づかれないよう、静かに確認作業を進めた。
ただし、問題を一人で抱え込むことと、必要な報告を怠ることは違う。
まず、あなたは変更履歴を確認し、関連する会議の議事録と照合した。
次に、正式な予算承認記録を確認した。
さらに、経理担当者に一般的な処理ルールを問い合わせ、どのような場合に計上先が変わるのかを確かめた。
個人を疑うような話はしなかった。
あくまでも、資料の整合性を確認するための質問だった。
そして、少しずつ事実が見えてきた。
今回の違いは、以前の検討段階で使っていた仮の予算区分が、最終版の資料に一部残っていたことが原因だった。
誰かが悪意を持って変更したわけではなかった。
複数の資料を更新する過程で、一か所だけ修正が漏れていたのだ。
(……よかった)
あなたは、ようやく肩の力を抜いた。
しかし、安心するのはまだ早い。
このままでは、最終提案書と社内管理表の記載が一致しない。
あなたは、正式な承認手順を確認したうえで、必要な修正案をまとめた。
そして、関係する担当者に、確認した事実と修正が必要な理由を簡潔に伝えた。
「この項目について、最終決定時の議事録と記載が異なっています。承認済みの内容に合わせて修正したいのですが、こちらの認識で合っていますか?」
担当者は資料を見直し、すぐに頷いた。
「確かに。こちらの更新漏れですね。確認していただいて助かりました」
「ありがとうございます。では、正式な手順で修正を進めます」
大きな騒ぎにはならなかった。
誰かを責めることもなかった。
ただ、一つの小さな食い違いが、提出前に解消された。
あなたは、最後にすべての資料をもう一度確認した。
数字は一致している。
説明にも矛盾はない。
必要な確認記録も残っている。
これなら大丈夫だ。
あなたは静かにパソコンを閉じた。
(……よし)
誰にも大げさに知らせることなく、問題を解決できた。
ただし、正式な確認や修正の記録は、きちんと残してある。
それがリーダーとしての責任だと思ったからだ。
そして、ふと顔を上げたとき。
ガラス越しに、さくらと目が合った。
彼女は少し驚いたように瞬きをしたあと、にこっと笑った。
あなたの胸が、また跳ねる。
――ドクン。
(……だから、その笑顔は反則だって!)
あなたは慌てて視線を資料に戻した。
さくらは、そんなあなたの様子を見て、小さく首をかしげていた。
第四話 最高の結果
数日後。
新ビジネスの最終報告会が開かれた。
会議室には、プロジェクトに携わったメンバーだけでなく、上層部の社員や関係部署の担当者も集まっていた。
あなたは前に立ち、最終報告を始めた。
「それでは、新ビジネスの最終報告をさせていただきます」
最初は少し緊張していた。
けれど、資料を説明するうちに、気持ちは落ち着いていった。
市場調査の結果。
サービスの改善案。
予算の調整。
関係部署との連携。
そして、今後の展開について。
一つずつ、丁寧に説明していく。
途中で質問が飛んできても、慌てずに答えた。
分からないことを無理に断言せず、必要な確認事項は今後の課題として整理した。
最後に、あなたは一礼した。
「以上で報告を終わります。ありがとうございました」
一瞬の静寂。
そして。
「素晴らしい報告でした」
上司の言葉をきっかけに、会議室に拍手が広がった。
「今回の新ビジネスは、想定していた課題を適切に整理できていますね」
「関係部署との連携もよくできていました」
「今後の展開にも期待しています」
次々に寄せられる評価。
あなたは、胸が熱くなるのを感じた。
もちろん、すべてが自分一人の力ではない。
メンバーが協力してくれた。
関係部署が支えてくれた。
そして、何より。
あなたは、そっと視線を動かした。
会議室の後方。
さくらが立っていた。
彼女は、あなたと目が合うと、誇らしそうに微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、これまでの苦労が一気に報われたような気がした。
(……ああ)
(頑張ってよかった)
会議が終わり、メンバーたちが互いに労いの言葉を交わす。
「リーダー、お疲れさまでした!」
「本当にありがとうございました!」
「また一緒に仕事をしたいです!」
あなたは何度も頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました。皆さんのおかげです」
新ビジネスは、無事に、そして良い方向へと終結した。
プロジェクトは成功。
今後の継続的な展開にも、前向きな見通しが立った。
あなたはリーダーとして、一つの大きな仕事をやり遂げたのだった。
そして、胸の奥で、もう一つだけ願っていた。
(……さくらさんにも、ちゃんとお礼を言いたいな)
もちろん、仕事のことだけではない。
初めての会議で緊張していたとき。
自分の提案に自信が持てなかったとき。
失敗を恐れて、前に進めなくなりそうだったとき。
いつも、彼女の言葉が支えになっていた。
そのことを、きちんと伝えたかった。
ただし。
恋心まで伝えてしまわないように。
あなたは心の中で、何度も自分に言い聞かせた。
(お礼だけだ。お礼だけだからな……!)
――その決意が、あとであっさり揺らぐことになるとも知らずに。
第五話 誰もいないオフィス
新ビジネスの終了から数日後。
プロジェクトに関する最後の書類整理も、ほとんど終わっていた。
定時を過ぎたオフィスには、いつもより人が少ない。
あなたはデスクで書類をまとめ、保存先を確認していた。
「……これで、最後かな」
ひと通りの確認を終え、椅子の背もたれに体を預ける。
ようやく、一息つけた。
そのとき。
「お疲れさまです」
聞き慣れた声がした。
「えっ?」
振り返る。
さくらだった。
「あ、さくらさん。お疲れさまです」
「まだ残っていたんですね」
「はい。最後の書類整理をしていました。これで終わりです」
「そうですか」
さくらは、あなたのデスクのそばに立った。
そして、少しだけ表情を柔らかくした。
「……改めて、お疲れさまでした」
「え?」
「新ビジネスのことです。リーダーとして、最後まで本当によく頑張りましたね」
その言葉に、あなたは思わず顔を伏せた。
「い、いえ……そんな。皆さんのおかげです」
「もちろん、皆さんの協力もありました。でも、あなたが中心になって進めてくれたからこそ、まとまった部分もたくさんあったと思います」
「……ありがとうございます」
さくらは少し笑った。
「最初のころを覚えていますか?」
「最初……ですか?」
「初めてリーダーを任されたときです。ずいぶん緊張していたでしょう?」
「うっ……」
思い当たる節がありすぎた。
最初の会議では、資料を持つ手が少し震えていた。
質問されるたびに、頭の中が真っ白になりかけた。
さくらがフォローしてくれなかったら、もっと慌てていたかもしれない。
「……覚えています」
「ふふっ。今では、ずいぶん落ち着いて話せるようになりましたね」
「それは……さくらさんが、いろいろ教えてくれたからです」
言ってから、あなたは少し恥ずかしくなった。
けれど、さくらは真剣に頷いた。
「そう言ってもらえるとうれしいです。でも、実際に努力したのはあなた自身ですよ」
「……」
「私は、あなたが自分で考えて、決めて、行動できるようになっていく姿を見ていましたから」
その言葉が、胸の奥に静かに染み込んでいく。
見ていてくれた。
ずっと。
失敗したときも。
迷ったときも。
うまくいかなくて落ち込んだときも。
そして、今回のプロジェクトを最後までやり遂げるまで。
あなたは、少しだけ俯いた。
「……ありがとうございます、さくらさん」
声が、思ったよりも小さくなった。
「本当に、感謝しています」
さくらは、いつものように穏やかな笑顔を浮かべた。
「どういたしまして」
それから、彼女は隣の空いている椅子を指さした。
「少し、座ってもいいですか?」
「も、もちろんです!」
さくらが隣に座る。
二人きりのオフィス。
静かな空調の音。
窓の外には、夕暮れから夜へと変わっていく街の明かりが見えた。
あなたは、ふと思った。
(……この時間、ずっと続けばいいのに)
――ドクン。
(いやいやいや! 何を考えてるんだ、僕は!)
あなたは慌てて咳払いをした。
「そ、それで……さくらさんは、今回の新ビジネス、どう思いましたか?」
「私ですか?」
「はい。実際に一緒に仕事をしてみて、どうだったのかなって」
さくらは少し考え、窓の外に目を向けた。
「そうですね……」
そして、ゆっくりと話し始めた。
「最初は、あなたがリーダーとしてどこまでできるのか、少し心配していました」
「うっ……やっぱりですか」
「ふふっ。でも、それは当然です。初めての大きなプロジェクトでしたから」
「はい……」
「けれど、途中からは、私のほうが勉強させてもらうこともありました」
「えっ?」
あなたは顔を上げた。
「僕が、ですか?」
「はい。あなたは、すぐに答えを出すよりも、一度立ち止まって考えるでしょう?」
「……そうでしょうか」
「そうですよ。今回だって、最後まで資料を確認していましたよね」
一瞬、心臓が跳ねた。
違和感に気づいた日のことだ。
「……見ていたんですか?」
「ええ。ずっと同じ資料を見ていたので、何か気になることがあるのかなと思っていました」
「……」
「でも、必要な確認を済ませたあと、きちんと関係者と調整していましたよね。最後の報告も、とても分かりやすかったです」
あなたは驚いた。
さくらは、あなたが思っていた以上に、仕事への取り組みを見てくれていたのだ。
「……ありがとうございます」
「私は、今回のプロジェクトを通して、あなたのことをもっと信頼できるようになりました」
――ドクンッ。
今度は、はっきりと心臓が跳ねた。
信頼。
さくらから、その言葉をもらえた。
それがうれしくて、たまらなかった。
「……さくらさん」
「はい?」
あなたは、伝えようと思った。
仕事で助けてもらったこと。
教育係として支えてくれたこと。
そして、彼女がいてくれたから頑張れたこと。
ただ、それだけを伝えるつもりだった。
本当に、それだけだったのだ。
ところが。
第六話 告白みたいな言葉
「僕……」
あなたは、ゆっくりと言葉を探した。
「今回の新ビジネス、最初は正直、すごく不安だったんです」
「はい」
「自分にリーダーなんて務まるのかなって。みんなに迷惑をかけたらどうしようって、何度も考えました」
さくらは、黙って聞いていた。
「でも……さくらさんがいてくれたから、頑張れました」
「……私が?」
「はい」
言葉が止まらなくなっていた。
「会議のときも、資料を確認するときも、僕が迷っていたときも……さくらさんが声をかけてくれると、不思議と落ち着くんです」
「……」
「さくらさんが大丈夫って言ってくれると、本当に大丈夫な気がして。もっと頑張ろうって思えて……」
言いながら、自分でも気づいていた。
これは、ただの仕事の感想ではない。
もっと個人的な気持ちが、言葉に混じっている。
それでも、止まれなかった。
「だから……今回のプロジェクトで、一番うれしかったことは……」
あなたは、さくらを見た。
彼女の瞳が、まっすぐこちらを向いている。
その優しい眼差しに、胸が苦しくなるほど高鳴った。
――ドクン。
――ドクン、ドクン。
(……落ち着け)
(ここで変なことを言ったら、全部終わるぞ……!)
しかし、あなたの口から出てきたのは。
「……さくらさんと、一緒に仕事ができたことです」
静寂。
「……え?」
さくらが、小さく声を漏らした。
あなたは、自分の発言を頭の中で再生した。
(……あれ?)
(今、僕……何て言った?)
『さくらさんと、一緒に仕事ができたことです』
(いや、それは仕事の話だから! 仕事の話だからセーフ!)
慌てて付け足そうとする。
「い、いえ! もちろん、仕事の進め方とか、いろいろ勉強になったという意味で!」
「……ふふっ」
さくらが笑った。
「分かっていますよ」
「……っ!」
(分かっていますよ、って……何を!?)
あなたの顔が一気に熱くなった。
さくらは、楽しそうに続けた。
「私も、あなたと一緒に仕事ができてよかったです」
「……え?」
「今回、何度も思いました。あなたとなら、難しい仕事でも、きちんと話し合って進めていけるんだなって」
「……」
「私が気づかなかったことを、あなたが見つけてくれることもありましたし。意見が違ったときも、ちゃんと理由を聞いてくれましたよね」
あなたは、何も言えなかった。
「ですから、私にとっても、とても大切なプロジェクトになりました」
さくらは微笑んだ。
その笑顔は、いつもと同じようで。
けれど、今のあなたには、いつも以上にまぶしく見えた。
「……さくらさん」
「はい?」
「僕……」
危なかった。
もう少しで、言ってしまうところだった。
『僕は、さくらさんのことが好きです』
その言葉が、喉元まで出かかっていた。
けれど、あなたは必死に飲み込んだ。
今は、まだ。
今は、教育係と教え子のような関係から、一緒に仕事をする仲間になったばかりだ。
自分の気持ちを押しつけるのは違う。
そう思った。
ところが、あなたは緊張のあまり、別の言葉を口にしてしまった。
「……これからも、さくらさんの隣で、仕事ができたらいいなって思います」
言った瞬間。
あなたの思考が止まった。
(…………え?)
(ちょっと待って)
(今の、何?)
(『これからも、さくらさんの隣で』って……!)
(告白みたいじゃないか!!)
心臓が、信じられないほど大きな音を立てていた。
――ドクンッ!
――ドクンッ!
――ドクンッ!
あなたは、机の下でぎゅっと拳を握った。
(終わった……!)
(絶対に変に思われた……!)
(いや、でも仕事の話だ! 仕事の話だから!)
必死に自分へ言い聞かせる。
けれど、さくらはすぐには答えなかった。
ただ、あなたを見つめていた。
数秒。
たった数秒なのに、何分にも感じられた。
そして。
「……そうですね」
さくらが、ゆっくり微笑んだ。
「私も、そう思います」
「…………え?」
今度こそ、あなたは固まった。
「これからも、一緒にお仕事ができたらうれしいです」
さくらは、そう言ってから、少しだけ首をかしげた。
「……それとも?」
「そ、それとも……?」
「ほかにも、何か伝えたいことがありましたか?」
――時間が止まった。
(…………えええええっ!?)
あなたは、心の中で叫んだ。
さくらは穏やかな表情をしている。
からかっているようにも見えない。
怒っているわけでもない。
ただ、本当に尋ねているようだった。
(ま、待って!)
(今の質問、どういう意味!?)
(もしかして、僕の気持ち……気づかれてる!?)
喉が渇いた。
何か言わなければ。
そう思うのに、言葉が出てこない。
「そ、それは……」
あなたは視線を泳がせた。
「……えっと……」
さくらは、急かさなかった。
ただ、あなたの答えを待っていた。
その優しさが、かえって苦しかった。
(言いたい)
(本当は、ずっと言いたかった)
(さくらさんが好きだって)
けれど。
「……いえ!」
あなたは、勢いよく顔を上げた。
「今は、仕事の話です! 仕事の話ですから!」
言い切ってしまった。
しかも、二回も。
沈黙。
さくらは、ぱちぱちと瞬きをした。
それから。
「……ふふっ。そうですか」
小さく笑った。
「分かりました」
(……助かった?)
あなたは、そっと胸をなで下ろした。
しかし、さくらは立ち上がる前に、もう一度だけあなたを見た。
「でも……」
「は、はい?」
「そうやって、一生懸命に言葉を選んでいるところ。私は、あなたらしいと思いますよ」
「……っ!」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
さくらは、優しい声で続けた。
「無理に急いで答えを出さなくてもいいんです。仕事でも、それ以外のことでも」
「…………」
「あなたのペースで、少しずつ進んでいけばいいと思います」
その言葉を残して、さくらは微笑んだ。
「それでは、今日は帰りましょうか。リーダー、お疲れさまでした」
「……お疲れさまでした」
さくらが先に歩き出す。
あなたは、しばらくその場から動けなかった。
(……仕事以外のことでも?)
(今の、どういう意味だったんだろう)
答えは分からない。
さくらが自分の恋心に気づいているのかどうかも。
彼女が、どんな気持ちであの言葉を口にしたのかも。
何一つ、確かなことはない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
今日、自分はほんの少しだけ、本音を伝えてしまった。
そして、さくらはそれを拒まなかった。
その事実だけで、胸がいっぱいになった。
第七話 帰り道、止まらない心臓
会社を出ると、夜風が頬を撫でた。
あなたは、駅へ向かいながら、何度も先ほどの会話を思い返していた。
(……これからも、さくらさんの隣で仕事がしたい)
(……僕、よくあんなこと言えたな)
思い返すたび、顔が熱くなる。
しかも、さくらは。
『私も、そう思います』
そう言ってくれた。
それが仕事上の信頼を意味していることは分かっている。
きっと、彼女は自分を仲間として認めてくれたのだろう。
それだけでも十分うれしい。
それなのに。
『ほかにも、何か伝えたいことがありましたか?』
その質問が、頭から離れなかった。
(……もしかして)
(いや、考えすぎだ)
(さくらさんは、ただ気になっただけだ)
あなたは、夜空を見上げた。
星は、あまり見えなかった。
けれど、街の明かりが、いつもよりきれいに見えた。
新ビジネスは成功した。
リーダーとしての仕事も、無事に終えられた。
そして、さくらとの距離も、ほんの少しだけ変わった気がする。
仕事の話をしているだけなのに、心が弾む。
彼女に褒められるだけで、一日中頑張れる。
また一緒に仕事ができると思うだけで、明日が楽しみになる。
(……僕、本当にさくらさんが好きなんだな)
ようやく、自分の気持ちを認めた。
誰にも知られたくない。
特に、本人には。
そう思っていたはずなのに。
今日だけは、少し違った。
全部を伝えたわけではない。
告白したわけでもない。
それでも、ほんの少しだけ。
自分の本音が、さくらに届いたような気がした。
「……よし」
あなたは、小さく呟いた。
「明日からも、頑張ろう」
リーダーとして。
一緒に仕事をする仲間として。
そして、いつか自分の気持ちをきちんと伝えられる人になるために。
あなたは、ゆっくりと駅へ向かった。
後日談 さくらの小さな独り言
その夜。
自宅に帰ったさくらは、仕事用の鞄を置き、ソファに腰を下ろした。
「……ふふっ」
ふと、今日の会話を思い出して笑みがこぼれる。
『これからも、さくらさんの隣で、仕事ができたらいいなって思います』
そして、その直後の慌てた様子。
『仕事の話です! 仕事の話ですから!』
「……本当に、一生懸命なんだから」
さくらは、クッションを抱えながら、小さく笑った。
リーダーとして成長した姿。
周囲を気遣うところ。
自分だけで抱え込まず、必要な確認をきちんとするところ。
そして、時々、驚くほど素直な言葉を口にするところ。
彼女にとっても、今回のプロジェクトは忘れられない仕事になっていた。
「最初に会ったころより、ずっと頼もしくなりましたね」
そう呟いてから、さくらは少し考え込んだ。
今日の彼は、いつもより緊張していた。
何かを伝えようとして、途中で言葉を変えていたようにも見えた。
(……もしかして)
そこまで考えて、さくらは首を横に振った。
「……いけない、いけない。勝手に決めつけるのはよくありませんね」
そう言いながらも、彼の言葉をもう一度思い返してしまう。
『これからも、さくらさんの隣で』
「…………」
さくらは、頬に手を当てた。
「……本当に、困った人ですね」
そう呟いた声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
彼の気持ちが何なのか。
それは、まだ分からない。
けれど。
これからも、彼と一緒に仕事をしていきたい。
そう思っている自分がいることには、気づいていた。
そして、さくらは静かに微笑んだ。
「……次に会ったときは、いつもどおりに接してあげましょう」
ただし。
次に彼が、あのときのように真っ赤な顔で本音を漏らしたら。
今度は、もう少しだけ。
彼の言葉を、丁寧に聞いてみよう。
そう思いながら、さくらは明日の仕事の準備を始めた。
第9章・完
新ビジネスを成功へ導き、リーダーとして成長したあなた。誰にも知らせずに違和感を解消した責任感も、さくらからの信頼も、確かなものになった。そして、うっかり口にした告白のような言葉――。
恋心は、まだ秘密のまま。けれど二人の関係は、少しずつ変わり始めていた。