新ビジネスのリーダーに任命された日――隣にいるのは、いちばん好きな人。
新ビジネスのリーダーに任命された日――隣にいるのは、いちばん好きな人。
第一話 突然の呼び出し
朝、出社してパソコンを立ち上げた直後だった。
「おはようございます。今日も頑張りましょうね」
聞き慣れた優しい声が、すぐ隣から聞こえた。
振り返ると、教育係のさくらさんが立っていた。
整った身だしなみ。落ち着いた表情。こちらを見つめる優しい瞳。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた笑顔。
「お、おはようございます、さくらさん!」
――ドクンッ。
心臓が大きく跳ねた。
いけない。
朝からこんなに意識していたら、いつか絶対に気づかれてしまう。
僕はさくらさんに恋をしている。
初めて会ったときから、ずっと。
でも、さくらさんは僕の教育係だ。仕事を教えてくれる大切な先輩であり、僕が困ったときに何度も助けてくれた人でもある。
だからこそ、この気持ちは知られてはいけない。
「今日は午前十時から、部長との面談が入っていますよ」
「面談ですか?」
「はい。詳しいことは私もまだ聞いていませんけど……何か新しいプロジェクトに関するお話みたいです」
新しいプロジェクト。
その言葉に、僕は少しだけ緊張した。
「僕、何か失敗したんでしょうか……?」
「どうしてそうなるんですか」
さくらさんは、思わずといった様子でクスッと笑った。
「大丈夫ですよ。最近、あなたはずいぶん成長していますから」
「……っ!」
不意打ちだった。
褒められた。
しかも、さくらさんに。
「そ、そうですか……?」
「ええ。以前なら困っていた仕事も、今は自分で考えて進められるようになりました。私も嬉しいです」
その言葉が胸の奥に染み込んでいく。
嬉しい。
ものすごく嬉しい。
けれど、顔が熱くなっていくのを感じて、僕は慌ててパソコンの画面に視線を戻した。
「ありがとうございます! 今日も頑張ります!」
「ふふっ。期待していますね」
やめてください。
そんな笑顔で期待しているなんて言われたら。
今日一日、仕事が手につかなくなってしまいます。
もちろん、そんなことは絶対に口に出せなかった。
第二話 新ビジネスの責任者
午前十時。
僕は緊張しながら、部長室のドアをノックした。
「失礼します」
「おお、来たね。座ってくれ」
部長は机の上に一冊の資料を置いた。
その表紙には、見慣れないタイトルが記されていた。
『新規事業開発プロジェクト・企画概要』
「実は、会社で新しいビジネスを立ち上げることになった」
「新しいビジネス……ですか?」
「そうだ。既存のサービスを発展させて、新しい顧客層に向けたサービスを開発する。社内でも特に重要なプロジェクトになる」
部長は資料を開き、僕に説明を始めた。
市場調査。
顧客のニーズの分析。
サービスの企画。
予算の管理。
営業部門との連携。
そして、最終的な事業計画のプレゼンテーション。
どれも簡単な仕事ではない。
むしろ、今の僕には大きすぎる仕事に思えた。
「そこで、君にこのプロジェクトのリーダーを任せたい」
「…………え?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
「ぼ、僕が……リーダーですか?」
「ああ」
「で、でも、僕はまだ経験も少ないですし……」
「もちろん、君一人ですべてを背負わせるつもりはない。各部署から経験豊富なメンバーを集める。君には全体をまとめ、方向性を示してほしい」
部長は真剣な表情で続けた。
「君は最近、自分で考えて提案することが増えた。周囲の意見を聞き、問題があれば一つずつ整理している。そういう姿勢を評価したんだ」
僕は資料を見つめた。
リーダー。
みんなをまとめる立場。
自分の判断が、プロジェクトの進み方を左右する。
正直、怖かった。
失敗したらどうしよう。
みんなの期待を裏切ってしまったら。
僕のせいで、新しいビジネスがうまくいかなかったら。
不安が次々と頭をよぎる。
けれど、そのとき。
「なお、君の教育係であるさくらさんにも、プロジェクトに参加してもらう予定だ」
「……えっ!?」
思わず声が裏返った。
「さくらさんが、ですか?」
「そうだ。彼女には企画と業務改善の面でサポートしてもらう。君にとっても心強いだろう」
心強い。
確かに、その通りだった。
さくらさんが一緒なら、わからないことを相談できる。
困ったときには、きっと助けてくれる。
だけど――。
好きな人と一緒に働きながら、その人の上司のような立場になってしまう。
そんな状況、いったいどうすればいいんだ!?
「……わかりました。やらせてください」
気がつけば、僕はそう答えていた。
「よし。期待しているぞ」
部長室を出た僕は、廊下で深呼吸した。
「リーダーか……」
口に出してみると、ようやく実感が湧いてきた。
そして、次の瞬間。
「お話、終わりましたか?」
背後から声がした。
振り返る。
そこには、さくらさんが立っていた。
「さくらさん!?」
「そんなに驚かなくてもいいでしょう?」
彼女は不思議そうに首をかしげた。
「部長から聞きましたよ。新しいプロジェクトのリーダーに任命されたそうですね」
「あ、はい……。まだ実感がなくて」
「おめでとうございます」
さくらさんは、まっすぐ僕を見つめた。
「あなたなら、きっとできますよ」
――ドクンッ!
心臓が鳴った。
「私もメンバーとして参加します。これからよろしくお願いしますね、リーダーさん」
最後の一言を、さくらさんは少しだけ楽しそうに言った。
「り、リーダーさんって……!」
「違いましたか?」
「い、いえ! 違わないですけど!」
「ふふっ。では、さっそく打ち合わせを始めましょうか」
さくらさんは歩き始めた。
僕はその後ろ姿を見ながら、そっと胸を押さえた。
……まずい。
これから毎日、この人と一緒に仕事をすることになる。
しかも、僕がリーダー。
恋心を隠し通せる自信が、少しずつなくなってきた。
第三話 初めてのリーダー会議
午後一時。
会議室には、プロジェクトのメンバーが集まっていた。
営業部の田中さん。
企画部の鈴木さん。
システム部の山本さん。
そして、さくらさん。
全員が僕の方を見ている。
「それでは、新規事業開発プロジェクトのキックオフ会議を始めます」
自分の声が少し硬くなっているのがわかった。
僕はホワイトボードの前に立ち、資料を確認した。
「まず、今回のプロジェクトでは、顧客が抱えている問題を明確にして、それを解決できるサービスを考えたいと思っています」
最初は緊張していた。
けれど、話し始めると、頭の中が少しずつ整理されていった。
「いきなりサービスの形を決めるのではなく、まずは顧客へのヒアリングと市場調査を優先したいです。その結果をもとに企画を作り、実現可能性を検討していきたいと思います」
営業部の田中さんがうなずいた。
「いいですね。現場の声を先に集めるのは賛成です」
「システム面でも、早い段階から実現可能性を確認しておきたいです」
山本さんも意見を出してくれた。
僕はホワイトボードに、それぞれの意見を書き込んでいった。
そして、企画部の鈴木さんが言った。
「ただ、調査に時間をかけすぎると、企画の立案が遅れるかもしれません」
「確かに……」
僕は考え込んだ。
調査は必要だ。
しかし、時間にも限りがある。
どうすればいいだろう。
そのとき、さくらさんが静かに口を開いた。
「一つ、提案してもいいですか?」
「はい、お願いします」
「調査を二段階に分けるのはどうでしょう。最初の一週間で、既存の顧客データと現場の意見から仮説を立てる。その後、優先度の高い課題に絞って追加調査を行うんです」
僕は思わず顔を上げた。
「なるほど……!」
さくらさんは、さらに説明を続けた。
「最初からすべてを調べようとすると時間がかかります。でも、仮説を立ててから調査すれば、必要な情報を効率よく集められます」
「それなら、企画の立案と並行して進められますね」
僕はすぐにホワイトボードへ向かった。
「では、最初の一週間で仮説を作る。その結果をもとに、優先課題を三つに絞って追加調査をする……という流れはどうでしょうか?」
「いいと思います」
さくらさんがうなずいた。
「営業部からは既存顧客の意見をまとめてもらい、企画部には競合サービスの調査をお願いしたいです。システム部には、現時点で考えられる技術的な制約を整理してもらえますか?」
「了解です」
「それぞれの結果を、来週の会議で共有しましょう」
会議室の空気が変わった。
さっきまで別々だった意見が、一つの計画へとまとまっていく。
田中さんが感心したように言った。
「ずいぶん具体的になりましたね」
鈴木さんも笑顔を見せた。
「これなら動きやすいです」
僕はホッと息を吐いた。
そして、ふと隣を見た。
さくらさんが、こちらを見ていた。
目が合う。
彼女は小さくうなずいた。
まるで、「その調子ですよ」と伝えてくれているようだった。
――ドクン。
また、心臓が鳴った。
いやいや、今は会議中だ!
僕は慌てて前を向いた。
恋心を隠せ。
仕事に集中しろ。
リーダーとして、しっかりしろ。
そう自分に言い聞かせながら、会議を進めた。
第四話 さくらさんと二人きりの作戦会議
午後五時半。
メンバーが帰り始め、会議室には僕とさくらさんだけが残った。
机の上には、書き込んだ資料とホワイトボードの写真が並んでいる。
「お疲れさまでした」
さくらさんが資料をまとめながら言った。
「初めてのリーダー会議、どうでしたか?」
「……正直、ものすごく緊張しました」
「そうでしょうね」
「みんなの意見をまとめるのって、思っていたより難しいですね。誰かの意見を採用すれば、別の人の意見が後回しになることもありますし」
僕は今日の会議を思い返した。
「それに、もし判断を間違えたらって考えると、怖くなります」
さくらさんは、すぐには答えなかった。
代わりに、手元の資料を机に置いて、僕の方を向いた。
「あなたは、リーダーになったからといって、すべての答えを一人で出す必要はありませんよ」
「え……?」
「リーダーの仕事は、誰よりも正しい答えを知っていることではありません。みんなの意見を聞いて、必要な情報を集めて、チームが前に進めるようにすることです」
彼女の言葉は、穏やかだった。
「今日のあなたは、ちゃんとそれができていました」
「……さくらさん」
「もちろん、これから失敗することもあると思います。予定どおりに進まないこともあるでしょう。でも、そのたびに考えて、修正すればいいんです」
そして、彼女は微笑んだ。
「私は、あなたが成長していくところを見てきましたから」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
この人は、いつだってそうだ。
僕が不安になったとき、ただ「大丈夫」と言うだけではない。
何が不安なのかを聞いて、どうすれば前に進めるのかを一緒に考えてくれる。
だから、好きになった。
初めて会った日から、ずっと。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
僕は少し迷ってから、口を開いた。
「さくらさんがメンバーにいてくれて、本当に心強いです」
言ってしまった。
いや、仕事の話だ。
仕事の話としては、ごく普通の言葉だ。
問題ない。
問題ないはずだ。
しかし、さくらさんは一瞬だけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「そう言ってもらえると、私も嬉しいです」
――ドクンッ、ドクンッ。
心臓が、うるさい。
「これからは教育係としてだけでなく、プロジェクトのメンバーとしても、あなたを支えますね」
「は、はい!」
「でも、リーダーとして判断するところは、ちゃんと自分で判断してください」
「わかりました!」
「ふふっ。頼もしくなりましたね」
その笑顔を見た瞬間、僕は危うく本音を口にするところだった。
『さくらさんがいるから、頑張れるんです』
『本当は、仕事のことだけじゃなくて……』
そこまで考えて、慌てて頭を振った。
だめだ。
絶対にだめだ。
僕の恋心は、まだ秘密だ。
「……どうしました?」
「な、何でもありません!」
「そうですか?」
さくらさんは少し不思議そうにしていたが、それ以上は聞かなかった。
助かった。
本当に、助かった。
第五話 思いがけない評価
それから一週間。
僕たちは、新規事業の調査と企画立案を着実に進めていった。
営業部からは顧客の声が集まり、企画部からは競合サービスの分析結果が届いた。
システム部は、開発に必要な期間と技術的な課題を整理してくれた。
僕はそれぞれの資料を確認し、共通する問題点を探していった。
すると、一つのことが見えてきた。
顧客が求めているのは、単に新しい機能が増えることではない。
複雑な手続きを簡単にし、必要な情報をすぐに確認できること。
つまり、使いやすさそのものが大きな価値になるのではないか。
僕は、その考えを企画書にまとめた。
そして、さくらさんと何度も話し合いながら、サービスの方向性を整えていった。
「この部分は、利用する人の立場から考え直してみましょう」
「確かに……。機能を増やすことばかり考えていました」
「それなら、最初の画面で必要な情報がわかる設計にするのはどうですか?」
「いいですね! それなら、手続きの流れも短くできそうです」
「では、その方向でシステム部に相談してみましょう」
不思議だった。
さくらさんと話していると、頭の中で散らばっていた考えが、次々につながっていく。
僕が思いついた案の足りない部分を、さくらさんが補ってくれる。
さくらさんが出した案に、僕が別の視点を加える。
意見が食い違うこともあったが、話し合うたびに、最初よりも良い案が生まれた。
それは、まるでパズルの最後のピースが、自然にはまっていくような感覚だった。
そして、企画書の提出日。
部長への説明を終えると、部長は資料を閉じて言った。
「よくまとまっているな」
「ありがとうございます」
「特に、顧客の課題からサービスの方向性を導き出している点がいい。実現可能性も考えられている」
僕はホッとした。
「これなら、次の段階に進めそうだ。引き続き、君が中心になって進めてくれ」
「はい!」
面談が終わり、部屋を出たところで、さくらさんが待っていた。
「どうでしたか?」
「次の段階に進めることになりました!」
「本当ですか?」
「はい!」
さくらさんの顔が、ぱっと明るくなった。
「おめでとうございます!」
その笑顔を見た瞬間、僕の胸は大きく跳ねた。
「さくらさんと一緒に考えられたからです。僕一人だったら、ここまでできなかったと思います」
「そんなことありませんよ」
彼女は首を横に振った。
「あなたが最初に、顧客の課題をしっかり考えようと言ったんです。私は、それを一緒に整理しただけです」
「でも……」
「リーダーとして方向性を決めたのは、あなたですよ」
さくらさんは、少し誇らしそうに言った。
「私は、あなたのそういうところを評価しています」
――ドクン。
胸が鳴った。
仕事を認めてもらえたことが嬉しい。
大好きな人に、自分の成長を見てもらえていることが嬉しい。
そして何より、さくらさん自身が、僕と一緒に進めることを喜んでくれている。
それだけで、また頑張れる気がした。
けれど。
「……あの、さくらさん」
「はい?」
「これからも、一緒に頑張ってもらえますか?」
言った直後、少しだけ不安になった。
変な言い方ではなかっただろうか。
仕事のお願いとして、自然だっただろうか。
さくらさんは、優しくうなずいた。
「もちろんです。これからもよろしくお願いしますね、リーダーさん」
「……っ!」
また、その呼び方だ。
顔が熱くなる。
「そ、その呼び方、まだ慣れないです……」
「では、早く慣れてください」
さくらさんはクスッと笑った。
「これから忙しくなりますよ?」
「はい! 頑張ります!」
僕は慌てて返事をした。
さくらさんは楽しそうに笑いながら、先に歩いていった。
その背中を見送りながら、僕は小さく息を吐く。
――危なかった。
今の笑顔を見たら、また好きになってしまう。
いや、もうとっくに好きなのだけれど。
第六話 誰も知らない、リーダーの本音
その日の夜。
仕事を終えた僕は、自分のデスクで今日の議事録を整理していた。
新規事業は、まだ始まったばかりだ。
これから予算の調整もある。
サービスの試作も必要になる。
社内の関係部署との交渉だって、きっと簡単ではない。
リーダーとして、判断しなければならない場面も増えていくだろう。
それでも、不思議と以前ほど怖くはなかった。
一緒に考えてくれるメンバーがいる。
困ったときに相談できる仲間がいる。
そして――さくらさんがいる。
「……よし」
僕は最後の議事録を保存した。
帰る準備をしていると、スマートフォンが震えた。
社内チャットだった。
送り主は、さくらさん。
『今日はお疲れさまでした。企画書、とてもよくできていましたね。次の段階も、一緒に頑張りましょう!』
その短いメッセージを、僕はしばらく見つめていた。
そして、気づけば口元が緩んでいた。
嬉しい。
ただ、それだけなのに。
何度も読み返してしまう。
返事を打とうとして、手が止まった。
『ありがとうございます。さくらさんがいてくれると、心強いです』
……これでいいだろうか。
いや、普通だ。
仕事仲間への感謝として、ごく自然だ。
そう自分に言い聞かせて、送信した。
すると、すぐに返事が届いた。
『こちらこそ。あなたがリーダーでよかったと思っています』
「…………え?」
思わず、声が漏れた。
僕が、リーダーでよかった?
さくらさんが?
僕を選んでくれたことを、そんなふうに思ってくれていたのか。
胸の奥が、温かくなった。
だけど、同時に困ってしまった。
こんなに嬉しい言葉をもらったら。
明日、どんな顔をして会えばいいんだ。
僕は椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見上げた。
「……さくらさんには、絶対に知られちゃいけないのに」
小さな声でつぶやく。
教育係としてのさくらさんを尊敬している。
仕事仲間としてのさくらさんを信頼している。
そして、一人の人として、どうしようもなく好きだ。
その気持ちは、今も胸の中に隠したままだ。
けれど、これから同じプロジェクトを進めるうちに、もっと近くで話す機会が増えるだろう。
一緒に考えて、一緒に悩んで、一緒に成功を目指していく。
そうなればなるほど、気持ちを隠すのは難しくなるかもしれない。
それでも。
僕はリーダーとして、このプロジェクトを成功させたい。
そして、いつかさくらさんに、
「あなたと一緒に仕事ができてよかった」
そう思ってもらえるような人になりたい。
恋心を知られないまま。
今はまだ、隣に立って仕事ができるだけで十分だから。
……本当に、十分なのだろうか。
自分でも、よくわからなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
明日もまた、さくらさんに会える。
その事実だけで、僕の心臓は少しだけ速くなってしまうのだった。