困っている体験生に、そっと声をかけた日
困っている体験生に、そっと声をかけた日
1.いつも通りの朝……のはずだった
朝のオフィスには、電話の音やキーボードを打つ音が響いていた。
僕は自分の席に座り、今日の仕事を始める準備をしていた。
デスクの隅には、さくらさんと一緒に作ったチェックリストが置かれている。
以前は失敗ばかりで、何をすればいいのか分からず、落ち込んでばかりだった。
けれど、最近は少しずつ仕事にも慣れてきた。
それも、教育係のさくらさんが根気強く教えてくれたおかげだ。
「おはようございます」
「あっ、おはようございます、さくらさん!」
彼女の声を聞いた瞬間、僕の胸がドクンと鳴った。
今日も、さくらさんはいつも通りの優しい笑顔を浮かべていた。
「今日もチェックリスト、確認してきましたか?」
「は、はい! 昨日のうちに確認しました!」
「ふふっ。いいですね。最近、ずいぶんしっかりしてきましたね」
「そ、そんなことないですよ……!」
褒められた。
たったそれだけなのに、顔が熱くなってしまう。
もっと褒めてほしい。
もっと話していたい。
そんな気持ちが、心の奥からあふれてくる。
だけど……。
さくらさんには、僕の恋心を知られてはいけない。
彼女は僕の教育係だ。
仕事で迷惑をかけたくないし、今の関係を壊したくもない。
だから、僕は今日も平静を装う。
「それでは、今日も頑張りましょうね」
「は、はい!」
さくらさんが自分の席へ戻っていく。
僕は彼女の後ろ姿を見送ってから、小さく息を吐いた。
「……危なかった」
朝から心臓に悪い。
けれど、その日の僕には、思いがけない出来事が待っていた。
2.見慣れない人
午前十時を少し過ぎた頃だった。
僕が資料の整理をしていると、オフィスの入口付近に、見慣れない人が立っていることに気づいた。
若い男性だった。
胸元には、体験生であることを示す名札がついていた。
彼は手元の書類と周囲を交互に見ながら、落ち着かない様子で立ち尽くしていた。
「あれ……?」
僕は思わず手を止めた。
誰かを待っているのだろうか。
それとも、どこへ行けばいいのか分からないのだろうか。
周囲の社員たちは、それぞれの仕事に集中している。
体験生は何度か誰かに声をかけようとしたものの、結局、口を開けないまま俯いてしまった。
その姿を見て、僕は少し前の自分を思い出した。
入社したばかりの頃。
何を聞けばいいのかも分からず、質問することさえ怖かった。
間違えたらどうしよう。
忙しい人の邪魔をしたらどうしよう。
そんなことばかり考えて、結局、一人で困っていた。
「……そっか」
僕は椅子から立ち上がった。
最初は、少し迷った。
今は自分の仕事もある。
余計なことをして、仕事が遅れてしまったらどうしよう。
だけど、目の前で困っている人を、そのままにしておきたくなかった。
僕だって、誰かに声をかけてもらえたら嬉しかったはずだ。
そう思って、僕は体験生のもとへ歩いていった。
3.「何か困っていますか?」
「……あの」
体験生が、びくっと肩を揺らした。
僕はできるだけ穏やかな声で話しかけた。
「おはようございます。今日から体験に来られた方ですよね?」
「あっ、はい! そうです!」
「僕はここで働いている者です。何か困っていることでもありますか?」
体験生は一瞬、驚いたような顔をした。
それから、申し訳なさそうに書類を差し出した。
「実は……担当の方から、次の説明を受ける場所に行くように言われたんです。でも、場所が分からなくて……」
「ああ、なるほど!」
僕は書類を一緒に確認した。
指定された場所は、普段あまり使わない会議室だった。
初めて来た人なら、迷ってしまっても不思議ではない。
「この会議室ですね。ちょっと分かりにくい場所にあるんですよ」
「そうなんです……。誰に聞けばいいのかも分からなくて」
「初めての場所だと、そうなりますよね」
僕は思わず笑顔になった。
「大丈夫ですよ。僕も入社したばかりの頃は、分からないことだらけでしたから」
「えっ、そうなんですか?」
「はい。質問したいのに、忙しそうだから聞けない……なんてこともありました」
体験生の表情が、少しだけ和らいだ。
「実は、僕もさっきからずっと迷っていて……。皆さん忙しそうだったので、なかなか声をかけられませんでした」
「分かります。でも、分からないことがあったら聞いて大丈夫ですよ。僕たちも、最初は教えてもらいながら仕事を覚えたんですから」
そう伝えると、体験生はほっとしたように笑った。
「ありがとうございます……!」
その言葉を聞いて、僕の胸の中まで温かくなった。
ほんの少し声をかけただけ。
それだけで、相手が安心してくれた。
それが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった。
4.初めて、自分から案内する
「よかったら、会議室まで案内しましょうか?」
「いいんですか?」
「もちろんです。ちょうど、少しだけ時間がありますから」
僕は自分の仕事の進み具合を頭の中で確認した。
急ぎの作業はひと区切りついている。
このくらいなら問題ない。
「では、こちらです」
体験生と並んで、オフィスの廊下を歩き始めた。
途中、体験生は何度か不安そうに周囲を見回した。
「会社って、思っていたより広いんですね」
「そうですよね。僕も最初は迷いました」
「先輩でも迷うんですか?」
「今でも、たまに……」
「えっ!」
体験生が驚いた顔をする。
僕は思わず苦笑した。
「い、いや、いつもじゃないですよ! たまにです、たまに!」
「ふふっ。なんだか安心しました」
その笑顔を見て、僕も笑った。
以前の僕なら、こんなふうに自然に話すことはできなかっただろう。
相手が何を考えているのか分からず、会話が途切れることばかり気にしていた。
でも今は、相手の話を聞き、自分の経験を伝えることができている。
少しずつだけれど、僕も変わってきたのかもしれない。
やがて、目的の会議室に到着した。
「あっ、ここです!」
体験生の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます! 本当に助かりました!」
「いえいえ。体験、頑張ってくださいね」
「はい! 先輩もお仕事頑張ってください!」
深々と頭を下げる体験生を見送り、僕はオフィスへ戻った。
胸の中に、小さな達成感が広がっていた。
仕事の成果とは少し違う。
誰かの役に立てたことが、純粋に嬉しかった。
「……よし。戻ろう」
僕は自分の席へ向かった。
ところが。
「お帰りなさい」
「ひゃっ!?」
突然、横から声をかけられた。
振り向くと、そこにはさくらさんが立っていた。
「さ、さくらさん!?」
「そんなに驚かなくても……。ふふっ、何をしていたんですか?」
「え、えっと……それは、その……!」
まずい。
どこから見られていたのだろう。
体験生と話していたところだろうか。
まさか、さっき笑顔になっていたところまで見られていたのだろうか。
いや、待て。
別に悪いことはしていない。
していないのだけれど……。
好きな人に自分の行動を見られていたと思うと、どうしても落ち着かない。
「体験生の方を、会議室まで案内していたんです」
「そうだったんですね」
さくらさんは、僕の顔をじっと見つめた。
「困っているところに、声をかけてあげたんですか?」
「は、はい。場所が分からなくて、困っているみたいだったので……」
「そうですか」
さくらさんは、ふっと優しく微笑んだ。
「いいことをしましたね」
「……え?」
思いがけない言葉だった。
「入社したばかりの頃って、分からないことがあっても、なかなか質問できないものですよね。あなたも、そういう経験があったでしょう?」
「……はい」
「だからこそ、相手の気持ちが分かったのかもしれませんね」
その言葉が、胸にすっと染み込んだ。
さくらさんは、僕がこれまで困っていたことも、失敗して落ち込んでいたことも覚えてくれている。
そして、今の僕のことも見てくれている。
それが、たまらなく嬉しかった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。ふふっ、頼もしくなりましたね」
ドクンッ。
胸が大きく跳ねた。
頼もしくなった。
さくらさんに、そう言ってもらえた。
顔が熱い。
目を合わせられない。
でも、嬉しい。
嬉しくて、今すぐにでも、この気持ちを伝えてしまいたくなる。
――さくらさんが好きです。
ずっと前から、あなたのことが好きなんです。
だけど。
「……っ」
僕は、ぎゅっと手を握った。
だめだ。
今、言ってはいけない。
彼女は僕の教育係で、僕はまだまだ学ぶことがたくさんある。
今の関係を大切にしたい。
だから、僕はいつものように笑顔を作った。
「そ、そんな……。まだまだですよ!」
「あら、謙虚ですね」
「いえ、本当に!」
「ふふっ。では、午後の仕事も頑張りましょうか」
「は、はい!」
さくらさんが歩いていく。
僕はその背中を見送りながら、胸元をそっと押さえた。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓が、まだ落ち着かない。
「……ほんと、ずるいなぁ」
小さく呟いた言葉は、誰にも聞こえなかった。
5.午後のチェックリスト
午後の仕事が始まると、僕はいつものようにチェックリストを確認した。
今日の作業は、資料の整理とデータの確認。
以前なら、どこから手をつければいいのか分からず、何度もさくらさんに質問していた仕事だ。
でも今は、手順を理解している。
一つずつ確認し、終わった項目に印をつけていく。
カリカリ、とペンの音が響いた。
「……よし。ここまで完了」
進捗を確認していると、ふと、先ほどの体験生のことを思い出した。
ちゃんと説明を受けられているだろうか。
緊張していないだろうか。
困ったとき、今度は誰かに質問できるだろうか。
そんなことが気になった。
すると、ちょうどさくらさんが僕の隣へやってきた。
「進み具合はどうですか?」
「順調です! 予定していたところまで終わりました」
「見せてもらってもいいですか?」
「もちろんです」
僕はチェックリストを渡した。
さくらさんは項目を一つずつ確認し、頷いた。
「うん。確認も丁寧にできていますね」
「ありがとうございます!」
「それに、今日は体験生の方にも自分から声をかけられたんですよね」
「……はい」
「仕事を覚えることも大切ですけれど、周りの人を気にかけられることも大切です。今日の行動は、きっとあなた自身の成長につながりますよ」
僕は、しばらく返事ができなかった。
ただ仕事を教えてもらうだけだった自分が、誰かを助ける側になれた。
それを、さくらさんが認めてくれた。
「……僕、もっと頑張ります」
自然と言葉が出ていた。
「仕事をちゃんと覚えて、もっと周りを見られるようになりたいです」
さくらさんは、少し驚いたように目を丸くした。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「いいですね。私も、これからが楽しみです」
――これからが楽しみ。
その言葉を、僕は心の中で何度も繰り返した。
さくらさんと一緒に仕事をしていく未来。
彼女から教えてもらい、少しずつ成長していく毎日。
いつか、彼女に胸を張って仕事ができるようになりたい。
そして、いつか。
教育係と新人という関係だけではなく、もっと自分自身を見てもらえるようになれたら……。
「……って、何を考えているんだ、僕は!」
「え? 何か言いました?」
「な、何でもありません!」
さくらさんが不思議そうに首を傾げる。
僕は慌ててチェックリストに視線を戻した。
危ない。
また、余計なことを考えてしまった。
教育係のさくらさんには、恋心を知られてはいけない。
そう心に言い聞かせながら、僕はペンを握り直した。
けれど、胸の奥にある想いは、昨日よりも少しだけ大きくなっていた。
6.帰り際の、思いがけない一言
夕方。
今日の仕事を終えた僕は、机の上を片づけていた。
チェックリストは、今日も順調に進んでいる。
明日の予定も確認済みだ。
「よし、終わり!」
鞄を持ち、帰ろうとしたところで、さくらさんに呼び止められた。
「お疲れさまです」
「あっ、お疲れさまです!」
「今日は、体験生の方に声をかけてくれてありがとうございました」
「えっ? いえ、そんな……!」
「私も、少し気になっていたんです。でも、ほかの仕事を確認していて、すぐには行けなくて」
さくらさんは、申し訳なさそうに笑った。
「だから、あなたが声をかけてくれて助かりました」
「……僕が?」
「はい。ありがとうございました」
今度こそ、言葉が出なかった。
さくらさんに感謝された。
教育係として褒められるだけではない。
一人の社員として、自分の行動を認めてもらえたのだ。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……僕、声をかけてよかったです」
「ふふっ。そう思えたなら、何よりですね」
さくらさんは、いつもの優しい笑顔を見せた。
「明日も、その調子で頑張りましょうね」
「はい!」
僕は深く頷いた。
オフィスを出て、帰り道を歩く。
夕焼けに染まった空を見上げながら、僕は今日の出来事を思い返していた。
困っている体験生に声をかけたこと。
彼が安心して笑ってくれたこと。
そして、さくらさんが僕を褒めてくれたこと。
どれも、忘れたくない思い出になった。
「……明日も、頑張ろう」
そう呟いてから、僕は小さく笑った。
仕事ができるようになりたい。
もっと成長したい。
さくらさんに、認めてもらいたい。
そして、本当は――。
「……いつか、この気持ちも伝えられたらいいな」
言葉にした途端、胸がドクンと鳴った。
けれど、今はまだ秘密だ。
彼女に恋心を知られないように。
いつか自分に自信を持てる日が来るまで。
僕は、この想いを胸の奥にしまっておくことにした。
第8章・完