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遅刻の理由は、優しさだった。

教育係のさくらには恋心を知られてはいけない。 — www.pixiv.net · All chapters

遅刻の理由は、優しさだった。

1.いつもより少し早い朝

午前七時二十分。

いつもより少し早く目を覚ましたあなたは、カーテンの隙間から差し込む朝日を眺めながら、小さく息を吐いた。

「……よし。今日こそ、さくらさんに褒めてもらうぞ」

ベッドから起き上がり、身支度を整える。

今日は昨日までの失敗を取り返したかった。

書類の作成では確認不足を指摘され、電話対応では緊張して言葉に詰まり、報告のタイミングも遅れてしまった。

自分では一生懸命やっているつもりなのに、どうしてもうまくいかない。

けれど、そんな自分にも、会社に行くのが楽しみになる理由があった。

「……さくらさん」

名前を口にしただけで、胸の奥がくすぐったくなる。

さくらさんは、あなたの教育係だ。

仕事には厳しいけれど、困っていると必ず手を差し伸べてくれる。

間違いを指摘するときも、ただ叱るのではなく、どうすれば次はうまくいくのかを一緒に考えてくれる。

そして、あなたが落ち込んでいると、いつも気づいてくれるのだ。

『大丈夫。最初から全部できる人なんていないんだから』

以前、そう言って微笑んでくれたことがあった。

その言葉を思い出すたび、胸が温かくなる。

しかし、あなたには誰にも言えない秘密があった。

さくらさんのことが、好きなのだ。

教育係として尊敬している。

優しくされるとうれしい。

笑顔を向けられると、胸がドクンと跳ねる。

そして、ほかの社員と楽しそうに話している姿を見ると、なぜか少しだけ落ち着かなくなる。

これは、単なる憧れなのだろうか。

それとも――。

「……だ、駄目だ! 朝から考えすぎ!」

あなたは慌てて首を振った。

「さくらさんには絶対に知られてはいけない……!」

誰もいない部屋で、小さく宣言する。

恋心を知られてしまったら、きっと今までどおりに接することができなくなる。

仕事中に顔を見るだけで緊張してしまうかもしれない。

優しくされたら、うれしさを隠せなくなるかもしれない。

何より、教育係と新人という今の関係を壊したくなかった。

「よし。今日は仕事に集中!」

あなたは鞄を手に取り、玄関のドアを開けた。

そのときのあなたは、今日が忘れられない一日になるなんて、まだ知らなかった。

2.駅へ向かう途中で

朝の街は、通勤する人々でにぎわっていた。

駅へ向かう歩道を、あなたは少し早足で歩いていた。

スマートフォンで時刻を確認する。

「まだ余裕はあるな……。このまま行けば、始業時間にも間に合う」

昨日の夜、さくらさんから教わった仕事の手順を何度も復習した。

今日は自分から進んで仕事を見つけよう。

分からないことがあれば、曖昧なまま進めずに質問しよう。

そして、いつかはさくらさんに安心して仕事を任せてもらえるようになろう。

そんなことを考えていた、そのときだった。

「……あれ?」

少し先の歩道で、人だかりができていた。

通行人たちが立ち止まり、何かを心配そうに見つめている。

その中心に、ひとりのおばあさんが倒れていた。

あなたの足が止まる。

「えっ……!」

一瞬、頭の中が真っ白になった。

周囲には人がいる。

誰かが声をかけてくれるだろうか。

救急車を呼んでくれる人はいるだろうか。

そんな考えが頭をよぎった直後、あなたは鞄を持ち直して駆け寄った。

「おばあさん! 大丈夫ですか!」

膝をつき、声をかける。

おばあさんは意識がある様子だったが、苦しそうな表情を浮かべていた。

「……ああ……すみませんねぇ……。ちょっと、立ちくらみが……」

「無理に立ち上がらないでください。今、救急車を呼びますね!」

あなたは周囲の人に協力を求め、救急車を呼んでもらうことにした。

そして、おばあさんに声をかけ続けた。

「大丈夫ですよ。もうすぐ来ますからね」

本当は、あなた自身も不安だった。

医学の知識があるわけではない。

何をすれば正解なのか、すぐには分からない。

けれど、目の前で困っている人を、そのままにして立ち去ることはできなかった。

「……お兄さん、お仕事は?」

おばあさんが、申し訳なさそうに尋ねた。

「え?」

「こんな朝早くに……。会社に行く途中でしょう?」

あなたは一瞬、腕時計を見た。

時刻は午前八時を少し過ぎていた。

会社までは、まだ距離がある。

このまま救急車を待ち、必要な対応をしていれば、始業時間に間に合わない可能性が高かった。

けれど。

「大丈夫です。会社にはちゃんと連絡しますから」

あなたは、できるだけ安心してもらえるように微笑んだ。

「今は、おばあさんのことが大切です」

おばあさんは、驚いたようにあなたを見つめた。

「……ありがとうねぇ」

その声を聞いたとき、あなたは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

3.会社への連絡

救急車が到着するまで、あなたはおばあさんのそばにいた。

救急隊員が到着すると、状況を分かる範囲で説明し、隊員の指示に従って対応した。

やがて、おばあさんは病院へ搬送されることになった。

「ご家族には連絡できますか?」

救急隊員に尋ねられたおばあさんは、少し困ったように答えた。

「携帯は……家に置いてきてしまって……」

あなたは、その言葉を聞いて考え込んだ。

このまま病院に着いても、身近な人と連絡が取れないのではないだろうか。

もちろん、あなたが何もかも引き受ける必要はない。

けれど、おばあさんはひどく心細そうだった。

「もしよければ、病院まで付き添ってもいいですか?」

救急隊員に確認すると、病院側の対応に支障のない範囲で付き添うことになった。

その前に、あなたは会社へ連絡を入れることにした。

スマートフォンを取り出す。

画面に表示された連絡先の中に、さくらさんの名前が見えた。

「…………」

指が止まる。

さくらさんに直接連絡したら、心配してくれるだろうか。

それとも、また迷惑をかけてしまったと思われるだろうか。

昨日までの失敗が、頭の中によみがえる。

しかし、あなたは小さく首を振った。

「……ちゃんと連絡しなきゃ」

仕事に責任を持つこと。

それも、さくらさんから教わった大切なことだった。

あなたは会社の連絡先に電話をかけた。

「お疲れさまです。新人の者です」

事情を簡潔に説明する。

通勤途中で倒れているおばあさんを見つけ、救急車を呼んだこと。

現在、病院への付き添いが必要な状況であること。

始業時間に間に合わない可能性が高いこと。

そして、状況が分かり次第、改めて連絡すること。

電話口の社員は、事情を理解してくれた。

『分かりました。こちらから上司にも共有しておきます。おばあさんを優先して、落ち着いたらまた連絡してください』

「ありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

電話を切ると、あなたはほっと息を吐いた。

会社への連絡は済んだ。

これで、無断で遅刻することにはならない。

しかし、胸の奥には別の不安が残っていた。

「……さくらさん、どう思うかな」

心配してくれるかもしれない。

事情を知れば、理解してくれるかもしれない。

それでも、あなたは少しだけ怖かった。

さくらさんに心配をかけたくない。

できることなら、いつもどおり出社して、いつもどおり仕事をしていたかった。

そして何より――。

「……こんなことで、また心配をかけたくないよ」

ぽつりとつぶやいたあなたは、病院へ向かう車を見つめた。

4.病院の待合室

病院に到着すると、スタッフがすぐにおばあさんの対応を始めた。

あなたは受付で、付き添いとして必要な情報を伝えた。

その後、案内された待合室で、静かに腰を下ろす。

白い壁。

整然と並んだ椅子。

廊下を行き交う医療スタッフの足音。

会社とはまったく違う場所にいることを、あなたはようやく実感した。

「…………はぁ」

思わず、深いため息が漏れる。

腕時計を見ると、もう始業時間を過ぎていた。

本来なら、今ごろは会社の自分の席に座っているはずだった。

パソコンを立ち上げ、今日の予定を確認しているはずだった。

そして、さくらさんがやって来て。

『おはようございます。昨日の復習、できましたか?』

そう聞いてくれたかもしれない。

あなたは、隣に置いた鞄を見つめた。

「……会いたいな」

口に出した瞬間、顔が熱くなった。

「ち、違う! 仕事の話! 仕事の話だから!」

慌てて周囲を見回す。

もちろん、誰もあなたの独り言など気にしていなかった。

それでも、あなたは自分の頬に手を当てた。

さくらさんに会いたい。

その気持ちは、隠そうとすればするほど、はっきりしていく。

昨日、失敗して落ち込んでいたとき。

さくらさんは、あなたの机まで来てくれた。

『今日の失敗だけで、自分のことを駄目だなんて思わないでくださいね』

そう言って、丁寧に説明し直してくれた。

あのとき、あなたは本当は言いたかった。

ありがとうございます。

あなたが教育係でよかったです。

あなたに認めてもらえる人になりたいです。

そして――。

あなたのことが好きです。

けれど、その最後の言葉だけは、どうしても口にできなかった。

「……はぁ。僕、何やってるんだろう」

頭を抱えかけた、そのとき。

診察を終えたおばあさんが、看護師に付き添われて待合室へ戻ってきた。

あなたはすぐに立ち上がった。

「おばあさん! 大丈夫ですか?」

「ええ。お医者さんが診てくださったわ。少し休んでいくことになったの」

おばあさんの表情には、先ほどよりも安心した様子があった。

あなたは、ほっと胸をなで下ろした。

「よかった……」

その言葉は、心からのものだった。

おばあさんは、あなたの顔をじっと見つめた。

「あなた、ずっと付き添ってくれていたのね」

「いえ、そんな……。僕にできることをしただけですから」

「でも、お仕事があるでしょう?」

あなたは、少しだけ笑った。

「会社には連絡しましたから、大丈夫です」

「そう……。本当にありがとう」

おばあさんは、あなたの手をそっと握った。

「あなたみたいな優しい人に出会えて、私は幸運だったわ」

「…………!」

思いがけない言葉に、あなたは返事を失った。

仕事では、失敗ばかりだった。

自分に自信が持てない日も多かった。

それなのに、今、目の前のおばあさんは、あなたのことを優しい人だと言ってくれた。

「……ありがとうございます」

あなたは、照れくさそうに笑った。

その瞬間、少しだけ思った。

今日の自分は、間違っていなかったのかもしれない、と。

5.教育係のさくらさん

そのころ、会社では。

「おはようございます!」

さくらは、いつものように明るい声で出社した。

自分の席に荷物を置き、パソコンを立ち上げる。

そして、ふと新人の席に目を向けた。

「……あれ?」

あなたの席が空いている。

いつもなら、そろそろ出社している時間だった。

さくらは時計を確認した。

「まだ来ていないんだ……」

少し気になったものの、電車が遅れている可能性もある。

さくらは、まず自分の仕事に取りかかろうとした。

そのとき、上司から声をかけられた。

「さくらさん、例の新人さんだけどね」

「はい?」

「通勤途中で倒れているおばあさんを見つけて、救急車を呼んだそうだよ。今は病院に付き添っているらしい」

「……えっ?」

さくらの手が止まった。

「倒れているおばあさんに?」

「ああ。会社には本人から連絡があったそうだ。状況が分かり次第、また報告するとのことだよ」

「そうだったんですね……」

さくらは、空いているあなたの席を見つめた。

胸の奥に、何とも言えない気持ちが広がっていく。

驚き。

心配。

そして、少しの安堵。

あなたは、昨日まで仕事の失敗を気にしていた。

自分には何もできないのではないか。

周囲に迷惑をかけてばかりなのではないか。

そんなふうに落ち込んでいた。

けれど、今日は通勤途中で困っている人を見つけ、迷わず行動したのだ。

「……あの人らしいですね」

さくらは、小さく微笑んだ。

あなたは、決して要領のいい新人ではない。

時々、焦りすぎて失敗する。

分からないことを質問する前に、ひとりで考え込んでしまうこともある。

それでも、誰かが困っていると、放っておけない。

さくらは、それを知っていた。

「……無理していなければいいけど」

ぽつりとつぶやく。

教育係として、あなたの成長を見守りたい。

それと同時に、ひとりの人間として、あなたが心配だった。

さくらはスマートフォンを手に取った。

そして、あなたとの連絡画面を開く。

しばらく考えたあと、短いメッセージを送った。

『おばあさんの付き添い、お疲れさまです。会社のことは気にしすぎないでくださいね。落ち着いたら、あなた自身も少し休んでください』

送信ボタンを押す。

「……これでよし」

さくらはスマートフォンを机に置いた。

しかし、その直後。

なぜか、もう一度あなたの席を見てしまった。

「……早く元気な顔を見せてくださいね」

その言葉は、誰にも聞こえないほど小さかった。

6.届いたメッセージ

午後一時。

病院の待合室で、あなたはスマートフォンの振動に気づいた。

画面を見る。

そこには、見慣れた名前が表示されていた。

さくらさん

「…………えっ?」

あなたは思わず背筋を伸ばした。

メッセージを開く。

『おばあさんの付き添い、お疲れさまです。会社のことは気にしすぎないでくださいね。落ち着いたら、あなた自身も少し休んでください』

「………………」

数秒間、画面を見つめたまま固まった。

次の瞬間。

「うわぁぁぁ……!」

声が出そうになり、あなたは慌てて口元を押さえた。

「……さ、さくらさんから……!」

心臓が、ドクン、ドクンと大きく鳴っている。

ただの仕事上のメッセージだ。

教育係として、新人を気遣ってくれただけ。

そんなことは、分かっている。

分かっているのに。

「……心配、してくれたんだ」

顔が熱くなる。

口元が勝手に緩んでしまう。

何度も読み返してしまう。

『あなた自身も少し休んでください』

その一文を見つめるたび、胸が温かくなった。

「……駄目だ。こんなの、うれしすぎる……」

あなたはスマートフォンを胸元に抱えそうになり、慌てて手を止めた。

病院の待合室だ。

落ち着け。

冷静になれ。

これは仕事の連絡だ。

恋愛のメッセージではない。

「……よし。普通に返信しよう」

あなたは文字を入力し始めた。

『ご連絡ありがとうございます。現在、おばあさんは病院で診察を受け、少し落ち着かれています。ご心配をおかけして申し訳ありません。状況が分かり次第、改めてご連絡します』

入力した文章を読み返す。

丁寧だ。

問題ない。

変なことは書いていない。

「よし……送信!」

送信ボタンを押した。

そして、スマートフォンを伏せる。

「………………」

三秒後。

あなたは、もう一度スマートフォンを手に取った。

「……返信、来るかな」

自分でも呆れてしまう。

たった一通のメッセージに、こんなにも心を揺さぶられるなんて。

「さくらさんには、絶対に知られてはいけない……」

そうつぶやいたあなたの頬は、まだ赤かった。

7.おばあさんのお願い

しばらくすると、おばあさんがあなたを呼んだ。

「ねえ、ちょっといいかしら」

「はい。どうしました?」

あなたはスマートフォンをしまい、そばへ歩み寄った。

「あなた、お名前を聞いてもいい?」

あなたが名乗ると、おばあさんは何度もうなずいた。

「そう。素敵なお名前ね」

「いえ、そんな……」

「あなたは、これからも困っている人を見つけたら、助けてあげるの?」

突然の質問だった。

あなたは、少し考えた。

「……はい。できる範囲で、ですけど」

「そう」

おばあさんは、優しく微笑んだ。

「でもね、ひとつだけ覚えておいてほしいことがあるの」

「はい?」

「人を助けることは、とても素敵なこと。でも、あなた自身のことも大切にしてね」

あなたは、言葉を失った。

「誰かを助けるために、あなたが全部を我慢する必要はないのよ。困ったときは、周りの人を頼ってもいいんだから」

その言葉が、胸の奥に静かに染み込んでいく。

あなたは、会社でも同じことをしていた。

分からないことがあっても、迷惑をかけたくなくて質問をためらう。

失敗しても、心配をかけたくなくて平気なふりをする。

さくらさんが優しくしてくれるほど、もっと頑張らなければと思ってしまう。

そして、自分の気持ちを隠すことにも必死になっていた。

「……ありがとうございます」

あなたは、ゆっくりとうなずいた。

「僕、もっと周りの人に頼ってもいいんですね」

「ええ、もちろん」

おばあさんは、うれしそうに笑った。

「あなたにも、あなたを心配してくれる人がいるでしょう?」

その瞬間、あなたの頭に浮かんだのは。

さくらさんの顔だった。

『落ち着いたら、あなた自身も少し休んでくださいね』

「…………!」

また、胸がドクンと鳴った。

「……は、はい」

あなたは、思わず顔をそらした。

おばあさんは、そんなあなたを不思議そうに見つめていた。

「まあ。どうしたの?」

「い、いえ! 何でもありません!」

「そう?」

「はいっ!」

あなたは慌てて姿勢を正した。

けれど、心の中では、さくらさんのことばかり考えていた。

8.午後の報告

午後二時過ぎ。

おばあさんの体調が落ち着き、病院側の案内に従って、あなたは必要な情報の確認を手伝った。

その後、おばあさんの家族と連絡が取れたことを確認し、あなたの付き添いはひと区切りついた。

「本当にありがとうね」

おばあさんは、何度もお礼を言ってくれた。

「あなたがいてくれて、心強かったわ」

「いえ。お大事になさってください」

あなたは深く頭を下げた。

病院を出ると、午後の風が頬をなでた。

朝はあんなに慌ただしかったのに、今は少しだけ落ち着いた気持ちになっていた。

そして、あなたは会社へ連絡を入れた。

おばあさんの状態が落ち着いたこと。

家族への引き継ぎができたこと。

そして、本日の出社について、会社の指示を仰ぎたいこと。

連絡を終えると、あなたはスマートフォンを握りしめた。

「……さくらさんにも、ちゃんと報告しなきゃ」

しばらく迷ったあと、教育係のさくらさんへメッセージを送る。

『お疲れさまです。おばあさんの状態が落ち着き、ご家族にも連絡が取れました。ご心配をおかけしました。お気遣いいただき、ありがとうございます』

送信。

そして、少しだけ考えてから、もう一文を付け加えた。

『さくらさんも、お仕事頑張ってください』

「……送っちゃった」

あなたはスマートフォンを見つめた。

最後の一文は、余計だっただろうか。

距離感を間違えてしまっただろうか。

そんな心配が、また頭をよぎる。

けれど、すぐに返信が届いた。

『報告ありがとうございます。おばあさんが落ち着かれたようで、安心しました。あなたも今日は大変でしたね。明日、また会社でお話ししましょう』

「…………!」

明日。

また、さくらさんに会える。

たったそれだけのことが、こんなにうれしい。

あなたは思わず笑顔になった。

「……はい。明日、ちゃんと会いに行きます」

もちろん、仕事をしに行くのだ。

教育係と新人として。

それ以上の意味なんて、ない。

――少なくとも、あなたはそう自分に言い聞かせた。

9.帰宅後の反省会

その日の夕方。

自宅に戻ったあなたは、鞄を置くと、ソファに倒れ込んだ。

「……疲れたぁ……」

朝から、いろいろなことがあった。

倒れているおばあさんを見つけたこと。

救急車を呼んだこと。

会社へ連絡したこと。

病院で付き添ったこと。

そして、さくらさんからメッセージをもらったこと。

最後の出来事を思い出すと、疲れているはずなのに、頬が緩んでしまう。

「……さくらさん、優しかったな」

天井を見つめる。

「心配してくれたんだよな……」

教育係として。

新人が困っていないか、気にかけてくれただけ。

何度もそう考える。

それなのに、心は簡単に納得してくれない。

さくらさんの優しさが、うれしい。

声を聞きたい。

笑顔を見たい。

明日、会社で会えるのが楽しみだ。

そして、同時に不安でもある。

今日のことを直接聞かれたら、うまく話せるだろうか。

目を見て話せるだろうか。

「……いやいやいや!」

あなたは勢いよく起き上がった。

「明日は普通にする! 絶対に普通にする!」

人差し指を立て、自分に言い聞かせる。

「さくらさんに恋心を知られてはいけない!」

宣言した直後、スマートフォンの画面に、今日のメッセージが表示された。

『明日、また会社でお話ししましょう』

「…………」

あなたは静かにスマートフォンを手に取った。

「……明日、会えるんだ」

そして、また顔が赤くなった。

「……駄目だ。もう、好きって気持ちが顔に出そう……」

クッションに顔を埋める。

ドクン、ドクン。

胸の音が、いつもより大きく聞こえた。

10.翌朝、さくらさんと再会

翌朝。

あなたは、いつもより早く会社へ向かった。

昨日の出来事を思い出しながら、駅から会社までの道を歩く。

おばあさんは大丈夫だろうか。

会社での仕事は、どこから取りかかろうか。

そして――。

さくらさんに、どんな顔で会えばいいのだろう。

「……よし」

会社の入口で立ち止まり、深呼吸をする。

「普通に。いつもどおり。仕事の話だけ!」

あなたは自分の頬を軽く叩く代わりに、両手で顔を覆って気合を入れた。

そして、オフィスに入った。

「おはようございます!」

「おはようございます」

何人かの社員が挨拶を返してくれる。

あなたは自分の席へ向かった。

すると。

「おはようございます」

聞き慣れた、優しい声。

あなたは、ぴたりと足を止めた。

振り返る。

そこには、さくらさんが立っていた。

いつもと同じ、穏やかな笑顔。

「……さ、さくらさん!」

声が裏返りそうになる。

「お、おはようございます!」

さくらは、あなたの顔を見て微笑んだ。

「昨日は大変でしたね」

「い、いえ! そんなことは……!」

「おばあさん、落ち着かれたんですよね。よかったです」

「は、はい! おかげさまで!」

「あなたも、ちゃんと休めましたか?」

「えっ?」

思いがけない質問だった。

さくらは、少し首をかしげた。

「昨日は朝から大変だったでしょう? 疲れが残っていないか、気になっていたんです」

「…………!」

胸が、ドクンと鳴った。

心配してくれていた。

昨日のメッセージだけではなく、今も。

あなたは、何か返事をしようとした。

しかし、頭の中が真っ白になってしまった。

「……あ、あの……」

「はい?」

さくらが、あなたの顔をのぞき込む。

「……っ!」

近い。

いつもより、少しだけ近い。

あなたは慌てて視線をそらした。

「だ、大丈夫です! ちゃんと休めました!」

「そうですか。よかった」

さくらは、安心したように微笑んだ。

「でも、無理はしないでくださいね。何かあったら、ちゃんと相談してください」

「…………はい」

あなたは、うつむきながら答えた。

心の中では、いくつもの言葉が渦巻いていた。

ありがとうございます。

心配してくれて、うれしいです。

あなたの言葉に、いつも助けられています。

あなたのことが――。

「……大好きです」

「え?」

「…………えっ?」

あなたは、自分が何を口にしたのか、すぐには理解できなかった。

さくらが不思議そうに首をかしげる。

「今、何か言いましたか?」

「い、いえっ! 何も言ってません!」

「そうですか?」

「はいっ!」

あなたは勢いよく頭を下げた。

「きょ、今日もよろしくお願いします!」

「ふふっ。こちらこそ、よろしくお願いします」

さくらは笑顔で自分の席へ戻っていった。

あなたは、その背中を見送る。

「…………あっぶな……!」

胸を押さえる。

ドクン、ドクン、ドクン。

心臓が、まだ落ち着かない。

今のは、危なかった。

あと少しで、本当に気持ちを伝えてしまうところだった。

「……駄目だ。絶対に気をつけないと……」

あなたは、自分の席に座り、パソコンを立ち上げた。

今日こそ仕事に集中する。

さくらさんの笑顔に見とれない。

優しくされても、変な反応をしない。

そして、恋心を悟られない。

そう決意した、その直後。

「そうだ。昨日の件も含めて、今日の仕事の進め方を一緒に確認しましょうか」

さくらが、あなたの隣に立った。

「……えっ!」

「昨日の分もありますし、何か分からないことがあったら、遠慮なく聞いてくださいね」

「…………は、はい」

さくらは、あなたのパソコン画面を見ながら、仕事の手順を説明し始めた。

あなたは必死に話を聞いた。

聞こうとしていた。

けれど、隣から聞こえる優しい声に、胸の音が何度も大きくなる。

ドクン。

ドクン。

ドクン。

「……ここまで、大丈夫ですか?」

「は、はいっ!」

「よかった。では、まずはこの作業からやってみましょう」

「分かりました!」

さくらは微笑んだ。

「期待していますよ」

その一言で、あなたの心臓は再び大きく跳ねた。

「…………!」

さくらは気づいていない。

あなたが、どれほど彼女の言葉に一喜一憂しているのか。

どれほど彼女の笑顔を大切に思っているのか。

そして、どれほど必死に恋心を隠そうとしているのか。

今のところは、まだ。

第4章・終わり

その日の昼休み。

あなたは、社員食堂の窓際でお弁当を食べていた。

ふと、オフィスの方へ視線を向ける。

そこには、同僚と楽しそうに話しているさくらさんの姿があった。

笑顔で相づちを打ち、ときどき楽しそうに笑っている。

その姿を見ているだけで、胸が温かくなる。

「……さくらさん」

あなたは、小さくつぶやいた。

昨日、倒れていたおばあさんを助けたこと。

会社に連絡を入れたこと。

病院で過ごした時間。

そして、さくらさんから届いたメッセージ。

どれも忘れられない出来事になった。

おばあさんは、あなたに教えてくれた。

誰かを助けることだけではなく、自分自身も大切にしていいのだと。

そして、さくらさんは、あなたを気遣ってくれた。

その優しさを思い出すと、また胸がドクンと鳴る。

「……いつか、ちゃんと伝えられる日が来るのかな」

そうつぶやいて、あなたは慌てて首を振った。

「ち、違う! 今は仕事! 仕事に集中!」

しかし、窓ガラスに映った自分の顔は、どう見ても笑っていた。

さくらさんには、恋心を知られてはいけない。

そう決めている。

それでも、彼女の優しさに触れるたび、隠していた気持ちは少しずつ大きくなっていく。

第5章へ続く。