『教育係のさくらさんには、絶対に恋心を知られてはいけない。』 〜初めて会った日から、あなたの胸はドキドキしっぱなし〜
『教育係のさくらさんには、絶対に恋心を知られてはいけない。』 〜初めて会った日から、あなたの胸はドキドキしっぱなし〜
第一章 運命の教育係
四月。
新しい職場での生活が始まったばかりの朝、あなたは緊張しながらオフィスの扉を開けた。
「今日からここで働くんだ……。うまくやっていけるかな」
机が並び、パソコンの画面が光り、電話の音が響いている。
周囲では先輩たちが忙しそうに仕事を進めていた。
あなたは自分のデスクを探していたが、どこに座ればいいのかわからず、入口付近で立ち止まってしまった。
そのときだった。
「あっ、新人さんですね?」
背後から、明るく優しい声が聞こえた。
振り返ったあなたの目に映ったのは、長いピンク色の髪をなびかせた女性だった。
白いブラウスに黒いジャケット。胸元には社員証が揺れている。髪には小さな白い花と黒いリボンが飾られていた。
そして何より、彼女はとびきりの笑顔を浮かべていた。
「初めまして。私、さくらっていいます。今日からあなたの教育係を担当することになりました!」
さくらは、あなたに向かって手を差し出した。
「これからよろしくお願いしますね!」
「あ……は、はい! よろしくお願いします!」
あなたも慌てて手を差し出した。
指先が触れた瞬間。
ドクンッ!
心臓が大きく跳ねた。
(……えっ?)
ドクン、ドクン、ドクン……!
胸の奥から、いつもよりずっと速い鼓動が聞こえてくる。
目の前にいるさくらは、何も気づいていない様子だった。
「ふふっ、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。私が一から教えてあげますからね」
「は、はい……!」
(ま、待って……!)
(声が優しい……! 笑顔もかわいい……!)
(それに、こんなに近くで話しかけられたら……!)
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン!
あなたは必死に平静を装った。
しかし、さくらが微笑むたび、胸の鼓動はますます速くなっていく。
(落ち着け、僕……! 相手は教育係の先輩なんだぞ!)
(今日初めて会ったばかりなんだから!)
そう自分に言い聞かせても、目の前のさくらから視線をそらすことができなかった。
「それじゃあ、まずはあなたのデスクに案内しますね!」
「お、お願いします!」
さくらは楽しそうに歩き始めた。
その後ろ姿を見つめながら、あなたは確信してしまった。
――自分は、この人に恋をしてしまったのだ。
しかも、出会ってわずか数分で。
(うそだろ……。僕、さくらさんのこと……)
(好きになっちゃったのか……!)
顔が熱い。
胸が苦しいほどドキドキする。
そして、これから毎日、この人に仕事を教えてもらうことになる。
嬉しい。
ものすごく嬉しい。
けれど、それと同時に、とんでもない問題が生まれてしまった。
(絶対に……絶対にバレちゃいけない!)
教育係のさくらさんに恋をしていることを、知られてはいけない。
あなたの長い、そして少し不器用な恋物語が始まった。
第二章 隣の席は危険地帯
「では、今日から使う社内システムについて説明しますね」
午前九時半。
あなたは自分のデスクに座り、隣の席にいるさくらの説明を聞いていた。
パソコンの画面には、社内システムの操作方法が表示されている。
本来なら、しっかり覚えなければならない大切な時間だ。
ところが。
「ここをクリックすると、入力画面が開きます」
さくらが椅子を少し近づけてきた。
「それから、この欄に必要事項を入力してくださいね」
「あ、はい……!」
(近い、近い、近い……!)
さくらの指が画面を指し示す。
ふわりと、彼女の長いピンク色の髪が揺れた。
あなたは慌ててモニターに視線を固定した。
(画面を見るんだ! 説明を聞くんだ!)
(さくらさんの顔を見ちゃダメだ!)
「ここまで大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です!」
「本当ですか? ちょっと早かったかな?」
さくらは首をかしげた。
「わからないところがあったら、遠慮なく聞いてくださいね。最初から全部できる人なんていませんから」
「ありがとうございます……!」
(優しい……!)
(どうしてそんなに優しいんだよ……!)
ドクン、ドクン。
また胸が鳴った。
あなたは机の下で、そっと拳を握った。
恋心を隠すための作戦、その一。
――さくらの顔を見すぎない。
その二。
――話しかけられても慌てない。
その三。
――笑顔を向けられても、普通に返事をする。
完璧な計画のはずだった。
「では、練習問題をやってみましょうか!」
「はい!」
あなたはキーボードに手を置いた。
しかし、さくらはすぐ隣で画面を見守っている。
「焦らなくて大丈夫ですよ」
「は、はい!」
「うん、入力は合っていますね。すごいです!」
「えっ?」
思わず振り向いた。
さくらは、満面の笑みを浮かべていた。
「初めてなのに、ちゃんとできています!」
ドクンッ!
(ほ、褒められた……!)
ドクン、ドクン、ドクン!
(さくらさんに褒められた……!)
顔が熱くなる。
口元が緩みそうになる。
嬉しさを隠すことができない。
「そ、そんなことないです……! さくらさんの説明がわかりやすいからです!」
「あら、嬉しいことを言ってくれますね」
さくらは、くすっと笑った。
「ありがとうございます!」
(うわああああ……!)
あなたは心の中で叫んだ。
(今の笑顔、反則だろ……!)
けれど、もちろん声には出さない。
あなたは画面を見つめ、必死に平静を装った。
そんなあなたを見て、さくらは少し不思議そうに首をかしげた。
「……もしかして、まだ緊張しています?」
「えっ!?」
「お顔が赤いですよ?」
「そ、それは……!」
しまった。
早くも危機が訪れた。
(どうする!? どう説明する!?)
あなたの頭の中で、警報が鳴り響いた。
「えっと、その……今日はちょっと暑いので!」
「そうですか?」
さくらは窓の外を見た。
「今日はそんなに暑くないと思いますけど……」
「そ、そうですよね! あはは……!」
苦しい。
あまりにも苦しい言い訳だった。
しかし、さくらはそれ以上追及しなかった。
「ふふっ。緊張しているなら、少しずつ慣れていきましょうね」
「……はい」
さくらの優しい声に、胸がまた小さく跳ねた。
(危なかった……)
(今度から、もっと気をつけないと……!)
あなたは心に誓った。
さくらに恋心を悟られないよう、全力で努力することを。
ただし、この時点ではまだ知らなかった。
さくらが人の表情の変化によく気づく、なかなか鋭い女性だということを。
第三章 笑顔を見るたび、好きになる
昼休み。
あなたは社員食堂で昼食を済ませ、オフィスに戻ってきた。
デスクに座り、午後の仕事の準備をしようとした、その瞬間。
「あっ、戻ってきましたね!」
さくらが手を振ってきた。
「午後は、午前中に覚えたことを実際の仕事で練習してみましょう!」
「はい、よろしくお願いします!」
あなたは笑顔で答えた。
その直後。
ドクン。
(……ああ、もう)
心臓が鳴る。
たった一度、手を振ってもらっただけなのに。
ただ名前を呼ばれただけなのに。
どうして、こんなにも嬉しくなってしまうのだろう。
あなたは自分の気持ちを持て余していた。
(朝、初めて会ったときは、こんなことになるなんて思わなかったのに……)
(さくらさんの笑顔を見るだけで、こんなに幸せになるなんて……)
さくらはあなたのデスクまでやってくると、書類を一枚差し出した。
「これ、今日の練習用の資料です。まずは一緒に確認していきましょう」
「あ、ありがとうございます!」
「どういたしまして!」
さくらはにっこり笑った。
ドクン、ドクン。
(まただ……!)
あなたは資料を受け取ったまま、ほんの一瞬だけ動けなくなった。
「……?」
さくらが不思議そうにこちらを見る。
「どうしました?」
「い、いえ! 何でもありません!」
あなたは慌てて資料に目を落とした。
(危ない……! 今、完全に見とれてた……!)
さくらは小さく笑い、隣の椅子に座った。
「それじゃあ、始めましょうか」
「はい!」
仕事が始まると、あなたはできる限り集中した。
わからないことは質問する。
教えてもらったことはメモする。
間違えたら、きちんと修正する。
さくらに教わったことを、一つずつ身につけていった。
そして、うまくできたとき。
「完璧です!」
さくらが嬉しそうに拍手してくれた。
「すごいですね。午前中より、ずっと上達していますよ!」
「ほ、本当ですか?」
「本当です!」
さくらは大きくうなずいた。
「頑張っている人を見ると、私まで嬉しくなっちゃいます」
その言葉を聞いた瞬間、あなたの胸に温かなものが広がった。
自分の努力を認めてもらえた。
それも、大好きな人に。
(……もっと頑張りたい)
(さくらさんに、もっと認めてもらいたい)
そんな気持ちが、自然に湧き上がってきた。
ただ、あなたはすぐに自分を戒めた。
(いやいや! 待て待て!)
(僕は仕事を覚えるために頑張るんだ! 褒められたいからって、浮かれている場合じゃない!)
そう思い直し、姿勢を正す。
「ありがとうございます。これからも頑張ります!」
「はい! 期待していますね!」
さくらは優しく微笑んだ。
ドクン。
――やっぱり、好きだ。
あなたは心の中で、もう一度だけ認めた。
この恋心を、今すぐ伝えるつもりはない。
まだ仕事を覚えている途中だし、さくらは自分の教育係だ。
まずは一人前になりたい。
そして、いつか。
教育係と新人という関係だけではなく、一人の人間として、さくらと向き合えるようになりたい。
その日が来るまで。
この胸のドキドキは、自分だけの秘密にしておこう。
あなたはそう決めた。
第四章 教育係の鋭い観察眼
午後三時。
あなたは書類の入力作業をしていた。
さくらは少し離れた席で別の業務を進めている。
これなら安心だ。
隣に座られていないので、心臓が暴走する心配も少ない。
(よし……。この調子なら今日は平和に終われそうだ)
あなたは落ち着いてキーボードを打ち続けた。
ところが。
「ねえ、ちょっといいですか?」
背後から声がした。
「は、はいっ!」
勢いよく振り返る。
そこには、書類を持ったさくらが立っていた。
「この項目なんですけど、どう入力するか覚えています?」
「あっ、はい! えっと……」
あなたは画面を確認しながら説明した。
さくらは真剣な表情で聞いていたが、やがて満足そうにうなずいた。
「正解です! ちゃんと覚えていますね」
「ありがとうございます!」
「ふふっ。最初は緊張していたのに、ずいぶん慣れてきましたね」
「そ、そうですか?」
「はい。でも……」
さくらは、あなたの顔をじっと見つめた。
「私が話しかけると、今でもちょっと慌てますよね?」
「…………えっ?」
時間が止まった。
(な、何だって!?)
さくらは人差し指を頬に添え、考えるように首をかしげた。
「ほかの先輩と話すときは、そんなに慌てていない気がするんですけど……」
「そ、それは……!」
(まずい!)
(これはまずい!)
(まさか、もうバレてる!?)
あなたの頭の中では、非常事態を知らせる警報が鳴り続けていた。
さくらは少し考えたあと、ぽんと手を打った。
「もしかして、私が教育係だから、失敗しないように緊張しているんですか?」
「……えっ?」
思わぬ方向からの質問だった。
「そうなんです! さくらさんに教えてもらっているので、ちゃんと覚えなきゃって思っていて……!」
あなたは必死に答えた。
嘘ではない。
本当に、さくらに教わったことをきちんと身につけたいと思っている。
ただ、それだけではないというだけで。
「なるほど!」
さくらは納得したようにうなずいた。
「真面目なんですね。いいことだと思いますよ」
「ありがとうございます……!」
(た、助かった……!)
あなたは心の中で胸をなで下ろした。
ところが、さくらはまだ話を続けた。
「でも、私の前でも、もっとリラックスしていいんですよ?」
「リ、リラックス……?」
「そうです! わからないことがあれば聞けばいいですし、失敗したって一緒に直せばいいんですから」
さくらは穏やかな声で言った。
「私、あなたが安心して仕事を覚えられるようにサポートするのが役目ですからね」
その言葉に、あなたの胸がじんわりと温かくなった。
ドクン。
また、心臓が鳴った。
けれど今度の鼓動は、恥ずかしさだけではなかった。
さくらの優しさが、まっすぐ心に届いたのだ。
(……やっぱり、素敵な人だな)
(こんな人が教育係で、本当によかった)
あなたは微笑みながら答えた。
「ありがとうございます。さくらさんが教育係でよかったです」
「あら……!」
さくらの頬が、ほんの少しだけ赤くなった。
「そ、そんなふうに言ってもらえると、私も嬉しいです!」
今度は、さくらが少し照れたように笑った。
その表情を見た瞬間。
ドクン、ドクン、ドクンッ!
あなたの心臓は、またもや大騒ぎを始めた。
(待って……!)
(今の照れた顔、かわいすぎる……!)
(落ち着け! 僕は今、仕事中だ!)
あなたは慌ててパソコンに向き直った。
しかし、口元がどうしても緩んでしまう。
さくらはそんなあなたを見て、くすくすと笑った。
「ふふっ。何だか、今日は面白いですね」
「えっ!? な、何がですか!?」
「秘密です!」
さくらはいたずらっぽく笑い、自分の席へ戻っていった。
あなたは、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。
(……もしかして、からかわれた?)
(いや、まさか……)
(……でも、ちょっと楽しそうだったな)
あなたは頬を押さえた。
恋心は、まだ秘密のまま。
けれど、さくらとの距離は、朝よりもほんの少しだけ近づいた気がした。
第五章 残業のオフィス、二人きり
午後六時。
終業時間を迎え、オフィスの社員たちが少しずつ帰り始めた。
あなたも帰る準備をしていたが、机の上に残った資料が目に入った。
(あれ……?)
明日のために整理しておこうと思っていた書類だった。
今のうちに片づけておけば、明日の朝に慌てずに済む。
あなたはもう一度椅子に座った。
そのとき。
「あれ? まだ帰らないんですか?」
顔を上げると、さくらがバッグを持って立っていた。
「さくらさん。はい、ちょっとだけ資料を整理してから帰ろうと思って」
「そうなんですね。真面目だなあ」
さくらは感心したように笑った。
「でも、無理はしないでくださいね。新人のうちは、仕事に慣れることも大切ですけど、ちゃんと休むことも大切ですから」
「はい。ありがとうございます」
さくらは一度、出口のほうへ向かった。
ところが、数歩進んだところで立ち止まった。
「……そうだ!」
振り返り、明るい声で言った。
「私も、少しだけ残って手伝いましょうか?」
「えっ!?」
あなたは思わず声を上げた。
「い、いえ! 大丈夫です! もう少しで終わりますから!」
(だめだ! 二人きりはだめだ!)
(いや、二人きりになりたい気持ちはあるけど……!)
(そんなことになったら、絶対に緊張して何もできなくなる!)
あなたの心は激しく揺れていた。
さくらと一緒にいたい。
でも、一緒にいると胸がドキドキしてしまう。
話しかけてもらえるのは嬉しい。
でも、嬉しすぎて顔に出てしまう。
どうすればいいのか、まったくわからなかった。
「本当に大丈夫ですか?」
さくらが心配そうに尋ねる。
「はい! 大丈夫です!」
あなたは、できる限り自然な笑顔を作った。
「さくらさんは、もう帰って休んでください!」
「……ふふっ」
さくらは、なぜか楽しそうに笑った。
「わかりました。それじゃあ、先に帰りますね」
「はい! お疲れさまでした!」
「あなたも、あまり遅くならないようにしてくださいね」
「ありがとうございます!」
さくらは手を振って、オフィスを出ていった。
扉が閉まる。
静かになったオフィス。
あなたは椅子の背もたれに、ゆっくりと体を預けた。
「……はあああ……」
大きなため息がこぼれた。
(危なかった……!)
(もし、さくらさんと二人きりで作業していたら……)
想像しただけで、胸がドキドキする。
隣で書類を整理するさくら。
わからないところを尋ねれば、優しく教えてくれるさくら。
ふと顔を上げたとき、目が合って笑いかけてくれるさくら。
(……だめだ)
ドクン、ドクン、ドクン。
(想像するだけで、こんなにドキドキするなんて……)
あなたは両手で顔を覆った。
そして、誰もいないオフィスで、小さくつぶやいた。
「……好きだなあ、さくらさんのこと」
言葉にした瞬間、胸の奥がくすぐったくなった。
普段は絶対に口にできない気持ち。
誰にも知られたくない秘密。
それでも、ひとりきりの今だけは、素直になってもいい気がした。
「……明日も、会えるんだよな」
その事実が、たまらなく嬉しかった。
あなたは残っていた資料を整理し、いつもより少しだけ軽い足取りでオフィスを後にした。
第六章 さくらさんからのメッセージ
翌朝。
あなたはいつもより少し早く出勤した。
理由は簡単だ。
さくらに会う前に、気持ちを落ち着かせておきたかったのである。
(よし……今日は冷静にいこう)
(普通に挨拶して、普通に仕事をして、普通に帰る!)
自分に言い聞かせながらパソコンを起動した。
すると、社内チャットに新しいメッセージが届いた。
送り主は――さくら。
あなたは思わず画面に顔を近づけた。
『おはようございます! 今日もよろしくお願いしますね。昨日の資料整理、頑張っていましたね!』
その下には、笑顔のスタンプが添えられていた。
「…………!」
胸が跳ねた。
ドクンッ!
(さ、さくらさんからメッセージ……!)
たった数行の文章。
それだけなのに、何度も読み返したくなる。
『今日もよろしくお願いしますね』
(今日も……よろしく……)
『昨日の資料整理、頑張っていましたね!』
(見ていてくれたんだ……!)
頑張っていたことを覚えていてくれた。
自分のことを気にかけてくれていた。
それが、何より嬉しかった。
あなたは返信欄を開いた。
『おはようございます! こちらこそ、今日もよろしくお願いします!』
これでいい。
丁寧で、自然で、問題のない返信だ。
しかし、送信ボタンを押す直前に、あなたは指を止めた。
(……何か、そっけなさすぎないか?)
(いやいや、これくらいが普通だろ!)
(変に長くしたら、意識していることがバレるかもしれない!)
悩んだ末、あなたはそのまま送信した。
数秒後。
『はい! 今日も一緒に頑張りましょうね!』
すぐに返事が届いた。
あなたは思わず笑顔になった。
ドクン、ドクン。
(……一緒に頑張ろう、か)
その言葉を、心の中で何度も繰り返す。
今日もさくらと一緒に仕事ができる。
今日も、あの笑顔を見ることができる。
それだけで、一日を頑張れる気がした。
「……よし!」
あなたは小さく気合を入れた。
今日は昨日よりも、仕事を覚えよう。
さくらに教えてもらったことを、少しでも多く身につけよう。
いつか、さくらが安心して仕事を任せられるような人になろう。
恋心を隠すために始めた努力は、いつの間にか、自分自身を成長させるための目標にもなっていた。
そして、その日の朝。
オフィスの扉が開いた。
「おはようございます!」
明るい声。
あなたが顔を上げると、さくらが笑顔でこちらに歩いてくるところだった。
「おはようございます、さくらさん!」
あなたも笑顔で挨拶した。
さくらはあなたのデスクの前で立ち止まると、嬉しそうに微笑んだ。
「今日も元気そうですね!」
「は、はい!」
「よかった!」
さくらは満足そうにうなずいた。
「それじゃあ、今日も頑張りましょう!」
「はい!」
ドクン、ドクン、ドクン。
やっぱり、胸はドキドキしてしまう。
何度会っても。
何度話しても。
その気持ちが消えることはなかった。
あなたは、さくらに悟られないように、そっと深呼吸した。
(大丈夫……)
(まだバレてない……はず!)
ところが、あなたがパソコンに向き直ったあと。
さくらは、その横顔を見つめながら、ほんの少しだけ目を細めた。
そして、小さな声でつぶやいた。
「……ふふっ。今日も、かわいい反応ですね」
「えっ?」
「何でもありませんよ!」
さくらはにっこり笑った。
あなたは首をかしげた。
(……今、何て言ったんだろう?)
聞き返したい。
でも、聞き返すのも恥ずかしい。
結局、あなたは何も言えず、仕事に集中するふりをした。
その一方で、さくらは楽しそうに自分の席へ戻っていった。
もしかすると。
もしかすると、さくらはもう、あなたの秘密に気づき始めているのかもしれない。
けれど、今はまだ確かなことはわからない。
あなたにできるのは、ひとつだけ。
大好きな教育係のさくらさんに、恋心を悟られないように頑張ること。
そして今日も、さくらが笑いかけてくれるたびに――。
ドクン、ドクン、ドクン。
あなたの胸は、幸せそうな音を立て続けるのだった。
第七章 「私のこと、避けていませんか?」
それから一週間。
あなたは少しずつ仕事を覚え、さくらの指導を受けながら、できる業務が増えていった。
最初は緊張していた電話対応も、今では落ち着いてできるようになった。
書類の入力も、確認作業も、以前よりずっと速くなった。
さくらも、あなたの成長を喜んでくれていた。
「最近、本当に頼もしくなりましたね!」
そう言われるたび、あなたは嬉しくなった。
もちろん、胸はドキドキする。
けれど、以前のように何も手につかなくなることは少なくなっていた。
(よし……少しずつ慣れてきたぞ)
(この調子なら、さくらさんと普通に話せるようになるかもしれない!)
そう思い始めた、金曜日の午後。
思わぬ事件が起きた。
「ねえ、ちょっと相談してもいいですか?」
さくらが、あなたのデスクにやってきたのだ。
「は、はい! 何でしょう?」
さくらは隣の椅子を引き、腰を下ろした。
そして、いつもより少しだけ真剣な表情で尋ねた。
「最近、私のことを避けていませんか?」
「…………えっ?」
あなたの頭が真っ白になった。
(ええええっ!?)
(な、何で!?)
(どうしてそんな話に!?)
「私が話しかけると、すぐにパソコンを見たり、目をそらしたりすることがあるでしょう?」
さくらは、あなたの目を見つめた。
「何か、私に気になることでもありますか?」
「ち、違います!」
あなたは思わず声を上げた。
周囲の社員がちらりとこちらを見る。
あなたは慌てて声を小さくした。
「すみません……。そういうわけじゃないんです」
「本当ですか?」
「はい!」
さくらは少しだけ黙った。
あなたは膝の上で手を握りしめた。
(どうしよう……)
(まさか、避けていると思われていたなんて……!)
もちろん、本当は避けたいわけではない。
むしろ、できることなら、いつだって話していたい。
でも、好きだからこそ、緊張してしまう。
目が合うだけで嬉しくなり、笑顔を向けられるだけで胸が鳴る。
そんな自分を知られたくなくて、つい視線をそらしてしまうのだ。
「……さくらさん」
あなたは、ゆっくり口を開いた。
「避けているわけじゃありません」
「……うん」
「ただ、まだ緊張することがあって……。でも、それはさくらさんが悪いわけじゃないんです」
さくらは、黙って聞いていた。
「僕、まだ仕事に慣れていないので。さくらさんに教えてもらうとき、ちゃんと覚えなきゃって思って……それで、少し焦ってしまうことがあるんです」
嘘ではない。
けれど、本当の気持ちをすべて伝えたわけでもない。
さくらはしばらくあなたを見つめたあと、ふっと微笑んだ。
「……そっか」
その笑顔を見て、あなたの胸が鳴った。
ドクン。
「それなら、よかったです」
「……え?」
「私、何か嫌なことをしてしまったのかなって、少し心配していたんです」
さくらは照れくさそうに笑った。
「せっかく一緒に仕事をしているんですから、気軽に話しかけてもらえると嬉しいなって思って」
あなたは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
さくらは、自分がどう思っているのかを心配してくれていた。
嫌われているのではないかと、気にしてくれていた。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
「……嫌なことなんて、ありません」
あなたは、まっすぐに答えた。
「さくらさんには、いつも感謝しています。本当に、ありがとうございます」
さくらは目を丸くした。
そして、ふわりと笑った。
「……ふふっ。どういたしまして!」
ドクン、ドクン。
あなたの心臓は、また忙しくなった。
けれど今度は、すぐに目をそらさなかった。
さくらの笑顔を、ほんの少しだけ長く見つめることができた。
(……いつか)
(いつか、この人の目を見ても、ちゃんと落ち着いて話せるようになりたい)
そんな目標が、またひとつ増えた。
さくらは椅子から立ち上がった。
「じゃあ、これからも遠慮なく質問してくださいね!」
「はい!」
「それと……」
さくらは振り返り、いたずらっぽく笑った。
「私のことも、そんなに怖がらなくていいですからね?」
「こ、怖がっているわけじゃ……!」
「ふふっ。冗談です!」
さくらは楽しそうに笑い、自分の席へ戻っていった。
あなたは、その後ろ姿を見つめながら、そっと息を吐いた。
(……危なかった)
(でも、ちゃんと話せてよかった)
恋心は、まだ秘密。
けれど、さくらと少しずつ自然に話せるようになってきたことが、あなたには何より嬉しかった。
そして、あなたが知らないところで。
さくらもまた、あなたのことを少しずつ気にかけるようになっていた。
教育係としてだけなのか。
それとも、それ以上の何かなのか。
その答えは、まだ誰にもわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
月曜日になれば、またさくらに会える。
そして、きっと。
「おはようございます!」
その笑顔を見た瞬間、あなたの胸は――。
ドクン、ドクン、ドクン。
今日も、幸せそうに鳴り響くのだ。
――続く。