「出社途中に出会った妹と、知らなかったさくらさんの過去」
「出社途中に出会った妹と、知らなかったさくらさんの過去」
朝の通勤時間。
あなたはいつものように会社へ向かっていた。
「今日は午前中に資料をまとめて、午後は美咲さんの仕事を手伝って……あとは、さくらさんに昨日頼まれた書類を提出すればいいか」
そう呟きながら、鞄の中身を確認する。
そして、ふと思い出してしまった。
(……今日も、さくらさんに会うんだよな)
思い浮かべたのは、隣の席で優しく仕事を教えてくれる女性。
丁寧な言葉遣い。 困ったときに見せてくれる、安心する笑顔。 ときどき、こちらの心臓に悪いくらい近くで資料を覗き込んでくる仕草。
「……いやいや、仕事だ。仕事!」
あなたは自分の頬を軽く叩いた。
(恋心を知られてはいけない。絶対にだ)
そう決意して歩き出した、そのときだった。
「あれ……?」
前方に、見覚えのある女性が立っていた。
女性はスマートフォンを片手に、少し困ったように周囲を見回している。
そして、あなたに気づくと、ぱっと表情を明るくした。
「あっ! もしかして、さくら姉さんの会社の方ですか?」
「……え?」
あなたは足を止めた。
その顔には、確かに見覚えがあった。
以前、会社見学に来ていた高校生たちの中にいた少女。
そして、さくらさんが話していた――妹さんだった。
「おはようございます! 以前、会社見学でお会いしましたよね?」
「ああ! おはようございます。えっと、今日はどうしたんですか?」
「実は、これから学校に行くところなんです。でも、道を一本間違えちゃって……」
「なるほど。ここをまっすぐ行けば駅ですよ」
「ありがとうございます!」
妹さんはぺこりと頭を下げた。
そのまま別れるつもりだったあなたに、彼女はふと思いついたように尋ねた。
「……あの、少しだけお話ししてもいいですか?」
「え? いいですけど……」
「さくら姉さんのこと、聞いてみたくて」
「……さくらさんの?」
その名前が出た瞬間、あなたの心臓が跳ねた。
ドクン。
(ま、待て。落ち着け。妹さんだぞ。普通に話せばいいんだ)
あなたは何事もないように頷いた。
「私、姉さんが会社でどんなふうに過ごしているのか、あまり知らないんです。家では仕事の話をしてくれないので」
「そうなんですか?」
「はい。だから、ちょっと気になっていて」
妹さんはいたずらっぽく笑った。
「それに……姉さん、最近ちょっと変なんですよ」
「へ、変?」
「はい!」
あなたの背筋が伸びた。
(まさか、僕のことが……いやいやいや! そんなわけない!)
妹さんは楽しそうに話し始めた。
1.妹が語る、昔のさくらさん
「姉さんって、昔からすごく真面目だったんです」
「真面目……確かに、そうですね」
「小さい頃からですよ。宿題は必ず終わらせるし、頼まれたことは最後までやるし。私が困っていると、いつも助けてくれました」
妹さんは懐かしそうに目を細めた。
「私が小学生の頃、学校で失敗して落ち込んでいたことがあったんです」
「失敗?」
「はい。みんなの前で発表することになっていたのに、緊張して何も言えなくなっちゃって……。帰ってからもずっと泣いていました」
あなたは静かに耳を傾けた。
「そしたら姉さん、私の隣に座ってくれたんです。何も聞かずに、しばらく一緒にいてくれて」
「……優しいですね」
「そうなんです。それで、姉さんが言ったんですよ」
妹さんは、当時の姉を思い出すように、少しだけ声を変えた。
「『一度失敗したくらいで、あなたの頑張りがなくなるわけではありませんよ。次にどうするか、一緒に考えましょう』って」
「……」
あなたは思わず微笑んだ。
それは、会社で何度も聞いたことのある言葉だった。
あなたが仕事で失敗して落ち込んだときも。
初めて大きな仕事を任されて、不安になったときも。
さくらさんは、決してあなたを責めなかった。
ただ、隣にいてくれた。
「……今も、同じことを言ってくれますよ」
あなたがそう答えると、妹さんは嬉しそうに笑った。
「やっぱり!」
「やっぱり?」
「姉さん、変わっていないんですね」
妹さんはそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
「でも……姉さんも、昔からずっと強かったわけじゃないんです」
あなたは顔を上げた。
「強くなかった?」
「はい。姉さんって、何でも一人で抱え込んじゃう人なんです」
その言葉に、あなたの胸が少しだけ痛んだ。
思い当たることがあったからだ。
自分の仕事が終わっていないのに、あなたの相談に乗ってくれたこと。
疲れているはずなのに、周りの社員を気遣っていたこと。
そして、あなたが知らないところで、ひっそりと努力を重ねていたこと。
「姉さんは、周りの人に頼られるのが好きなんです。でも、自分が誰かに頼るのは苦手で」
「……そうなんですね」
「だから私、昔から姉さんに言っているんです。『お姉ちゃんも、誰かに甘えていいんだよ』って」
妹さんは小さく笑った。
「でも姉さん、いつも『私は大丈夫ですから』って言うんですよ」
あなたは思わず、心の中で呟いた。
(……さくらさんらしいな)
そして、もう一つ思った。
(もし、さくらさんが本当に困ったときは……僕が力になれたらいいな)
――その考えが、どれだけ危険なものか。
あなたはまだ、気づいていなかった。
2.妹が気づいた、姉の小さな変化
「……ところで」
妹さんが、ふいにあなたの顔を覗き込んだ。
「はい?」
「あなたは、姉さんに助けてもらったことがありますか?」
「えっ?」
あまりにも突然の質問だった。
「そ、それは……仕事を教えていただいていますし、何度も助けてもらっていますよ」
「やっぱり!」
妹さんは、なぜか嬉しそうだった。
「姉さん、家でも時々、会社の話をするんです」
「さくらさんが?」
「はい。でも、誰の話をしているのかは、なかなか教えてくれなくて」
あなたの心臓が、嫌な予感を告げた。
ドクン。
「たとえば?」
「『最近、よく頑張っている方がいるんです』とか、『あの方は、困っている人を放っておけないんですよ』とか」
「……」
「それから、『今日は少しだけ、その方とお話しできました』って、嬉しそうに言ったり」
「…………」
(待って。待って待って待って)
あなたの脳内で警報が鳴り響いた。
(それ、僕じゃないよな? いや、僕かもしれないけど! いや、違うかもしれない!)
妹さんはあなたの顔を見つめて、首を傾げた。
「あれ? どうしたんですか? 顔が赤いですよ?」
「い、いえ! 朝なので! 朝日が! そう、朝日が眩しくて!」
「ここ、日陰ですよ?」
「……」
完全に詰んだ。
妹さんは、くすくすと笑った。
「ふふっ。あなたって、面白い人ですね」
「……ありがとうございます」
(褒められているのか、これは……)
妹さんは笑いを収めると、少しだけ真剣な顔になった。
「でも、私、嬉しいんです」
「嬉しい?」
「はい。姉さんって、仕事の話をするとき、いつも大変そうだったんです。責任もあるし、後輩のことも気にかけているし」
彼女は一度、空を見上げた。
「それなのに最近は、ちょっとだけ楽しそうなんですよ」
あなたは、何も言えなかった。
「帰ってきたときの表情とか、食事中にふと思い出し笑いをしたりとか。スマートフォンに通知が来ると、少し気にしたり……」
「……」
「私が『何かいいことあったの?』って聞いても、『何でもありませんよ』って言うんです」
妹さんは、姉の真似をして、少しだけすました顔をした。
「『気のせいではありませんか?』って」
その声が、あまりにもさくらさんに似ていて。
あなたは思わず吹き出してしまった。
「ふっ……!」
「わっ、笑いましたね! 結構似ていると思うんですけど!」
「す、すみません! あまりにもそっくりで……!」
「でしょう? 家族公認なんです!」
二人はしばらく笑い合った。
けれど、笑いが落ち着いたあと。
妹さんは、あなたをまっすぐ見つめた。
「……姉さんのこと、よろしくお願いします」
「えっ?」
「姉さん、きっとあなたの前でも頑張りすぎちゃうと思うんです。だから、もし姉さんが無理をしていたら、少しだけ気にかけてあげてください」
あなたは、ゆっくりと頷いた。
「……はい。僕にできることなら」
「ありがとうございます!」
妹さんは、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、あなたは改めて思った。
さくらさんが、なぜこんなにも優しい人なのか。
少しだけ、分かった気がした。
3.妹が知っている、姉の本当の願い
駅へ向かう道の途中。
妹さんが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、姉さんって昔、将来の夢があったんですよ」
「将来の夢?」
「はい。人に何かを教える仕事がしたいって」
あなたは驚いた。
「……それって、今のお仕事に近いですね」
「そうなんです! 姉さん、小さい頃から私に勉強を教えるのが好きだったんですよ」
妹さんは、懐かしそうに続けた。
「私が問題を解けるようになると、自分のことみたいに喜んでくれて。『できましたね。素晴らしいです』って、頭を撫でてくれるんです」
あなたの胸が、じんわりと温かくなった。
その光景が、簡単に想像できたからだ。
初めて仕事を一人でやり遂げた日。
さくらさんは、あなたの成果を確認すると、優しく微笑んでくれた。
『よくできましたね。ここまで頑張った成果ですよ』
あのとき、あなたはどれほど嬉しかっただろう。
「……だから、姉さんは今の仕事が好きなんだと思います」
妹さんはそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
「ただ、姉さんって教える相手が成長すると、自分のことより喜んじゃうんです」
「……」
「だから、いつか姉さん自身も、誰かに支えてもらえるようになったらいいなって。私はずっと思っているんです」
あなたは足を止めそうになった。
誰かに支えてもらえるように。
その言葉が、胸の奥に残った。
今まで、あなたは何度もさくらさんに助けてもらった。
仕事の失敗も、悩みも、不安も。
さくらさんは、いつも真剣に向き合ってくれた。
ならば、今度は自分が。
(……少しくらい、さくらさんの力になってもいいのかもしれない)
もちろん、恋心を知られるわけにはいかない。
そんなことが知られたら、今まで通りに接することができなくなるかもしれない。
でも。
(好きだからこそ、ちゃんと支えたいんだ)
その気持ちは、隠しようがなかった。
「……あの」
あなたが口を開くと、妹さんが振り向いた。
「はい?」
「さくらさんって、昔から今みたいに笑う人だったんですか?」
妹さんは、一瞬驚いた顔をした。
そして、とても嬉しそうに笑った。
「……いいえ」
「え?」
「昔の姉さんも優しかったですけど、今の姉さんのほうが、もっと楽しそうに笑うんです」
「……」
「だから、きっと会社で素敵な人たちに出会えたんですね」
その言葉に、あなたは何も返せなかった。
ただ、胸の鼓動だけが、いつもより大きく響いていた。
ドクン。
ドクン。
4.そして、会社に着いたら……
「それでは、私はここで!」
駅前に着くと、妹さんはぺこりと頭を下げた。
「今日はありがとうございました!」
「いえ、こちらこそ。学校、気をつけてくださいね」
「はい!」
妹さんは数歩進んだところで、くるりと振り返った。
「あっ、そうだ!」
「はい?」
「今日、姉さんに会ったら、伝えておいてください!」
「……何をですか?」
妹さんは、にっこり笑った。
「『お姉ちゃん、最近楽しそうだね』って!」
「えっ!?」
「それじゃ、また!」
妹さんは手を振りながら、駅のほうへ走っていった。
残されたあなたは、その場で固まった。
「…………」
(待ってくれ)
(それを僕が伝えるのか?)
(本人に?)
(しかも、妹さんが言ったって分かる形で!?)
あなたは頭を抱えた。
「……今日、会社に行きたくない……」
いや、行かなければならない。
あなたは深呼吸をして、いつもの表情を作り直した。
「よし。平常心。僕は普通の社員。さくらさんは教育係。何も問題はない」
そう自分に言い聞かせ、会社へ向かった。
――そして、オフィスに到着。
「おはようございます」
いつもの声。
いつもの席。
いつものようにパソコンを起動しようとした、そのとき。
「おはようございます」
隣から、聞き慣れた声がした。
さくらさんだった。
「……お、おはようございます!」
「……?」
さくらさんは、あなたの顔をじっと見た。
「どうかなさいましたか? 何だか、いつもより落ち着かないご様子ですが」
「い、いえ! 何でもありません!」
「そうですか?」
さくらさんは小さく首を傾げたあと、微笑んだ。
「……あの、今朝、妹に会いませんでしたか?」
「…………え?」
あなたの手が止まった。
さくらさんは、少しだけ頬を赤くした。
「実は、妹から連絡が来まして。通勤途中に会社の方とお話ししたと……」
「そ、そうなんですね!」
「はい。それで……」
さくらさんは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「私のこと、何か変なことを言っていませんでしたか?」
(言いました! めちゃくちゃ言いました! 昔のことも、家でのことも、最近楽しそうだということも!)
しかし、そんなことは口が裂けても言えない。
「い、いえ! とても素敵な妹さんですね!」
「……妹を褒めてくださるんですか?」
「はい! 明るくて、さくらさんのことを大切に思っていて……」
そこまで言って、あなたは慌てて口を閉じた。
(しまった! さくらさんのことを大切に思っているって……!)
さくらさんは、目を丸くした。
そして。
「……そうですか」
ふわり、と笑った。
「ありがとうございます。妹は、私にとって大切な家族ですから」
その笑顔を見た瞬間、あなたの心臓が大きく跳ねた。
ドクンッ!
(ああ、もう……!)
(朝から何回、心臓に悪いことが起こるんだ!)
あなたが必死にパソコンの画面へ視線を向けていると、さくらさんがそっと声をかけてきた。
「……それと」
「は、はい?」
「今日のお昼休み、少しだけお時間をいただけますか?」
「……お昼休み?」
「はい。妹から聞いたことが、少し気になりまして」
「…………」
「あなたからも、お話を伺いたいんです」
さくらさんは、いつもの丁寧な口調でそう言った。
けれど、その表情には、いつもより少しだけ柔らかな笑みが浮かんでいた。
「……二人で、お話ししませんか?」
ドクン。
ドクン。
ドクン。
あなたは、しばらく言葉を失った。
(……待って)
(妹さんから、何を聞いたんだ?)
(まさか、僕がさくらさんを好きだって……いや、そんなことは話していないはずだ!)
頭の中で、さまざまな考えが駆け巡る。
それでも、あなたは何とか頷いた。
「……わ、分かりました」
「ありがとうございます」
さくらさんは嬉しそうに微笑み、仕事へ戻っていった。
あなたは机の下で、そっと拳を握った。
(……今日のお昼休み、絶対に平常心でいられない)
そして、心の中で静かに誓った。
(でも……妹さんの話を聞いて、分かったことがある)
さくらさんは、いつも誰かを支えている。
だからこそ。
(今度は、僕がさくらさんを支えられる人になりたい)
ただし――。
その気持ちだけは、まだ絶対に知られてはいけない。
隣から、さくらさんの声が聞こえた。
「……あの、どうして先ほどから、こちらを見ないようにしていらっしゃるんですか?」
「み、見ています! ちゃんと仕事をしています!」
「ふふっ。そうですか?」
さくらさんは、少しだけ顔を近づけた。
「……では、お昼休みを楽しみにしていますね」
「…………っ!」
あなたは、静かに机に突っ伏した。
「……午前中、乗り切れるかな……」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないです……」
「えっ?」
「い、いえ! 何でもありません!」
朝のオフィスに、さくらさんの小さな笑い声が響いた。
そして、あなたはまだ知らなかった。
妹さんが姉に送った、もう一通のメッセージの存在を。
――『お姉ちゃん。あの人、すごく優しそうな人だったよ。もしかして、最近楽しそうな理由って……?』
そのメッセージを見たさくらさんは、スマートフォンを胸元に抱えながら、誰にも聞こえない声で呟いていた。
「……もう。あの子ったら……」
頬をほんのり赤く染めながら。
「……まだ、秘密なのに」