LNCrawler

「体調不良の専務と、二重人格のフリを見抜く教育係」

教育係のさくらには恋心を知られてはいけない。 — www.pixiv.net · All chapters

「体調不良の専務と、二重人格のフリを見抜く教育係」

朝。

あなたは自宅で身支度を整え、鏡の前に立っていた。

「……よし。今日も仕事、頑張るか」

そう口にしたものの、今日は朝から体調があまり良くなかった。

頭が少し重い。身体もいつもよりだるい。

しかし、今日は専務として片付けなければならない仕事が山積みだった。

「休むほどじゃない……と思う。たぶん」

自分に言い聞かせ、あなたは会社へ向かった。

ただし、専務室に着くまでに、ひとつだけ作戦を思いついてしまった。

「……そうだ。今日は二重人格のフリをしよう」

なぜそうなったのか。

本人にも、よく分からない。

「いつもの僕が体調不良でも、別人格の僕なら元気……という設定なら、周りに心配をかけずに済むはずだ」

我ながら無茶な理屈だった。

けれど、あなたは真剣だった。

「よし。バレたら……そのときは素直に言おう」

こうして、奇妙な一日が始まった。

1.専務室に現れた、いつもと違う専務

専務室に入ると、あなたは鞄を置き、パソコンを起動した。

「さて……今日の予定は……」

書類を確認しようとした、そのとき。

コンコン。

「失礼します。専務、今日の予定についてご相談が――」

入ってきたのは、教育係のさくらさんだった。

いつも通り、きちんとしたスーツ姿。

そして、あなたを見ると優しく微笑んだ。

「おはようございます、専務。今日もよろしくお願いいたします」

「……おはようございます」

まずい。

いつもの自分なら、ここで心臓が跳ねる。

何しろ、さくらさんの笑顔は反則なのだ。

しかし、今日のあなたには作戦がある。

あなたはすっと背筋を伸ばし、普段より少し低い声で言った。

「……おはよう。今日の予定を見せてくれ」

「……はい?」

さくらさんが、ぴたりと止まった。

「専務?」

「何か問題でも?」

「い、いえ……」

さくらさんは予定表を机に置いた。

そして、じっとあなたの顔を見つめた。

「……専務。何かありましたか?」

「別に」

「……そうですか」

さくらさんは首をかしげた。

あなたの心の中では、警報が鳴り響いていた。

(やばい。もう疑われてる!)

しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。

「……今日の仕事は、すべて私に任せてくれ」

「……私?」

「……いや、僕だ」

「今、私とおっしゃいましたよね?」

「気のせいだ」

「そうでしょうか……?」

さくらさんは微笑んだ。

ただし、その目はまったく笑っていなかった。

(さくらさん、鋭すぎる……!)

2.別人格という名の、無理な演技

午前十時。

あなたは会議を終え、専務室に戻ってきた。

本来なら、いつも通り社員たちに声をかけたり、困っている人の仕事を手伝ったりする時間だ。

しかし、体調は相変わらずだった。

「……ふぅ」

思わず額に手を当てる。

その瞬間、ドアが開いた。

「専務、先ほどの資料ですが――」

美咲さんだった。

「ああ、そこに置いてくれ」

「はい! ……あれ?」

美咲さんは不思議そうにあなたを見た。

「専務、今日なんだか雰囲気が違いません?」

「そうか?」

「はい! いつもは『困ったことがあったら遠慮なく言ってください』って、すぐ声をかけてくださるのに……」

「今日は、少し厳しく仕事を進める方針なんだ」

「そ、そうなんですね……!」

美咲さんは納得しかけた。

しかし、次の瞬間。

あなたのお腹が、ぐぅ、と鳴った。

「…………」

「…………」

「…………」

「専務、お昼は食べましたか?」

「……食べた」

「まだ午前十時ですよ?」

「……朝食だ」

「今、お腹が鳴りましたけど……」

「……」

終わった。

完全に終わった。

あなたは咳払いをして、なんとか話をそらそうとした。

「……美咲さん」

「はい?」

「このことは、誰にも言わないでくれ」

美咲さんは目を丸くした。

「えっ!? まさか本当に二重人格なんですか!?」

「……え?」

「さっきから雰囲気が違うし、言葉遣いも違うし……!」

「いや、それは……」

「わ、分かりました! 誰にも言いません!」

美咲さんは資料を抱え、真剣な顔でうなずいた。

「専務にも、いろいろ事情があるんですね……!」

「美咲さん、待っ――」

バタン。

行ってしまった。

あなたは椅子に深く座り込んだ。

「……どうして信じちゃうんだよ……」

しかも、変な噂が広まったらどうするのだ。

あなたは頭を抱えた。

そのとき。

コンコン。

「専務。少しよろしいでしょうか?」

聞き慣れた、優しい声。

さくらさんだった。

「……どうぞ」

ドアが開く。

さくらさんは入室すると、静かにドアを閉めた。

そして、あなたの前まで歩いてきた。

「専務」

「……何でしょう」

「美咲さんから、少しお話を聞きました」

(あああああああああ!!)

あなたの心臓が跳ねた。

「……何の話でしょうか」

「二重人格、だそうですね」

「…………」

「…………」

「……さくらさん」

「はい」

「それはですね……」

「はい」

「……」

さくらさんは、じっとあなたを見つめている。

逃げ道はない。

しかし、あなたは最後の抵抗を試みた。

「……今の私は、いつもの私とは違うんです」

「そうですか」

「はい」

「では、ひとつ質問してもよろしいですか?」

「……どうぞ」

さくらさんは少しだけ顔を近づけ、優しく尋ねた。

「いつもの専務は、私が笑うと、よく目をそらしますよね?」

「…………っ!?」

「今日は、私が何度笑いかけても、ずっと目を合わせてくださいます」

「そ、それは……」

「それから、いつもの専務は、私に何か頼まれると、まず『大丈夫ですか? 無理していませんか?』と聞いてくださいます」

さくらさんの声が、ほんの少し柔らかくなる。

「でも今日は、私が書類を持ってきたとき、すぐに受け取ろうとなさいました。……手が少し震えていたのに」

「……!」

見られていた。

全部、見られていたのだ。

「それに……」

さくらさんは、そっとあなたの机に手を置いた。

「いつもの専務なら、体調が悪くても、私に心配をかけないように笑うでしょう?」

「…………」

「今日も、ずっとそうしていらっしゃいましたね」

もう、何も言えなかった。

3.さくらさんには、隠し通せなかった

「……専務」

さくらさんが、いつもより少しだけ真剣な声で呼んだ。

「本当のことを、教えていただけますか?」

あなたはしばらく黙っていた。

本当は、体調が悪いと言えばよかった。

無理をせず、誰かに頼ればよかった。

それなのに、心配をかけたくないという気持ちが先走って、こんな妙な演技をしてしまった。

「……ごめんなさい」

「……はい?」

「二重人格というのは、嘘です」

さくらさんは目をぱちぱちさせた。

あなたは観念して、正直に話した。

「今日は朝から体調があまり良くなくて……でも、仕事がたくさんあったので、周りに気づかれないようにしようと思ったんです」

「……」

「それで、なぜか二重人格のフリをすれば誤魔化せるんじゃないかと思って……」

「…………」

「……今考えると、意味が分からないですよね」

さくらさんは黙っていた。

あなたは恐る恐る顔を上げた。

「……怒っていますか?」

すると。

さくらさんは、ふっと微笑んだ。

「いいえ。怒ってはいませんよ」

「……本当ですか?」

「はい。ただ……」

彼女は少しだけ困ったように眉を下げた。

「心配しました」

その言葉が、胸に刺さった。

「専務は、いつも周りの方を助けてくださいますよね。美咲さんや、ほかの社員の皆さんのことも、ご自分の仕事が多いときでさえ気にかけていらっしゃいます」

「……」

「ですから、今日も無理をしていらっしゃるのではないかと思っていました」

さくらさんは、あなたの顔を覗き込んだ。

「でも、まさか別人格のフリをなさるとは思いませんでした」

「……本当にすみません」

「ふふっ……」

さくらさんが笑った。

「す、少しだけ面白かったです」

「そこは笑わないでください……!」

「あら、申し訳ありません。ですが……」

さくらさんは、そっと声を落とした。

「いつもの専務のほうが、私は好きですよ」

「…………え?」

ドクンッ!!

心臓が、盛大に跳ねた。

(す、好き!? 今、好きって言った!?)

「……さくらさん、それは……」

「もちろん、いつも周りを大切になさる専務、という意味ですよ?」

「あっ……そ、そうですよね!」

(危なかった……! いや、何が危ないんだ!?)

あなたが内心で大混乱していると、さくらさんは優しく微笑んだ。

「ですから、今日くらいは私に頼ってください」

「……え?」

「専務が体調の悪いときに、私まで心配をかけてはいけないと思って、無理をなさる必要はありません」

彼女は予定表を手に取り、あなたの机から少し離れた。

「急ぎでない仕事は午後以降に回します。緊急の案件はこちらで整理しますので、専務は少し休んでください」

「でも……」

「専務」

さくらさんは、ぴしっと言った。

「これは教育係としてのお願いです」

「……はい」

「それから、個人的なお願いでもあります」

「……個人的な?」

さくらさんは一瞬だけ頬を緩めた。

「心配させないでくださいね」

「…………っ!」

ドクン、ドクン、ドクン!

(無理だ……この人、優しすぎる……!)

あなたは顔をそらした。

「……分かりました。今日は、少し頼らせてください」

「はい。よくできました」

さくらさんは、まるで子どもを褒めるように微笑んだ。

「……っ」

(その笑顔は反則です……!)

4.専務の休憩と、優しすぎる教育係

さくらさんの提案で、あなたは専務室のソファで休むことになった。

「お水を持ってきますね」

「いえ、自分で――」

「専務?」

「……お願いします」

「はい。お待ちくださいね」

さくらさんが部屋を出ていく。

あなたは天井を見つめた。

「……やってしまった」

二重人格のフリをした挙げ句、さくらさんに全部見抜かれた。

しかも、優しく心配されてしまった。

「……あんなに優しくされたら、ますます好きになるじゃないか……」

ぼそっと呟いた、そのとき。

ガチャッ。

「お待たせしました。お水を――」

「…………」

「…………」

さくらさんが、入口で止まっていた。

あなたも、固まった。

(……聞かれた?)

さくらさんはゆっくりと水の入ったコップを机に置いた。

「……専務」

「は、はい」

「今、何かおっしゃいましたか?」

「い、いえ! 何も!」

「そうですか?」

「はい!」

さくらさんは、少しだけ首をかしげた。

それから、あなたの隣に腰を下ろす。

「……では、聞かなかったことにしておきますね」

「…………え?」

「ただし」

彼女は優しく微笑んだ。

「無理をしてまで隠さなければならないことは、ありませんからね」

「……」

「体調が悪いことも、誰かに頼りたいことも。私は、ちゃんと受け止めます」

あなたは胸の奥が温かくなるのを感じた。

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

さくらさんは、そっと立ち上がった。

「私は隣のデスクで仕事をしています。何かあれば、すぐに呼んでくださいね」

「……はい」

「それと、今日は二重人格の演技は禁止です」

「……はい」

「約束ですよ?」

「……約束します」

さくらさんは満足そうにうなずき、専務室のデスクへ戻った。

あなたは水を一口飲んだ。

そして、心の中でそっと呟く。

(……やっぱり、さくらさんには敵わないな)

5.午後、まさかの噂が広がっていた

午後二時。

少し休んだことで、あなたの体調は朝より落ち着いていた。

さくらさんが仕事を整理してくれたおかげで、無理をせずに済んでいる。

ところが。

コンコン!

「専務! 失礼します!」

勢いよく入ってきたのは、美咲さんだった。

「……どうしたんですか?」

「専務の別人格さんは、もうお休みになったんですか!?」

「…………は?」

後ろには、なぜか数人の社員が立っていた。

「え、専務って二重人格なんですか?」

「午前中は雰囲気が違ったって聞いたんですけど……」

「もう一人の専務にも、仕事をお願いできるんでしょうか?」

「いや、ちょっと待って!?」

あなたは思わず立ち上がった。

「違います! 二重人格ではありません! 体調が悪くて、変な演技をしていただけです!」

「ええっ!?」

美咲さんが口を押さえた。

「演技だったんですか!?」

「そうです!」

「じゃあ、いつもの専務に戻ったんですね!」

「最初から僕は僕です!」

社員たちは顔を見合わせた。

そして、一斉に笑い出した。

「なーんだ!」

「専務でも、そんなことするんですね!」

「ちょっと安心しました!」

「安心するところ、そこですか!?」

あなたも思わず笑ってしまった。

そこへ、さくらさんがやってきた。

「皆さん、専務はまだ本調子ではありませんから、あまり長居をなさらないようにお願いしますね」

「はーい!」

社員たちは笑顔で退室していった。

美咲さんだけが最後に振り返る。

「専務!」

「……何ですか?」

「次からは、普通に体調が悪いって言ってくださいね! 私たち、ちゃんと手伝いますから!」

「……ありがとうございます」

美咲さんはにっこり笑って、部屋を出た。

静かになった専務室。

あなたは、さくらさんに向き直った。

「……お騒がせして、すみませんでした」

「いいえ。皆さん、専務のことを心配していらっしゃるんですよ」

「……そうですね」

「ですから、次は最初から正直にお話ししてくださいね」

「……はい」

さくらさんは少しだけ意地悪そうに微笑んだ。

「それとも、次は三重人格のフリでもなさいますか?」

「しません!!」

「ふふっ。よかったです」

さくらさんは、楽しそうに笑った。

あなたは顔を覆った。

(……もう、絶対に変な演技はしない)

(……いや、そもそも、なぜあんなことを思いついたんだ……)

そんなあなたを見て、さくらさんはまた小さく笑った。

「専務」

「はい?」

「今日は、ちゃんと頼ってくださってありがとうございます」

その一言に、あなたは思わず顔を上げた。

さくらさんは、いつもの優しい笑顔だった。

「……こちらこそ、ありがとうございます」

あなたは照れくさそうに微笑んだ。

そして心の中で、改めて誓った。

(体調が悪いときは、ちゃんと言おう)

(さくらさんにも、みんなにも、心配をかけすぎないように……)

(……それと)

ちらり、と隣のさくらさんを見る。

彼女は書類を整理しながら、ふとこちらに気づいて、にこっと微笑んだ。

ドクンッ!

(……恋心だけは、絶対に知られてはいけない!!)

……もっとも。

さくらさんは、あなたが慌てて目をそらしたのを見て、少しだけ頬を緩めていた。

「……専務は、本当に分かりやすい方ですね」

「えっ!? 何かおっしゃいましたか!?」

「いいえ。何でもありませんよ」

彼女は、今日いちばん優しい笑顔を見せた。

あなたは再び、顔を真っ赤にするのだった。

――恋心は、まだ秘密。二重人格のフリは、もう禁止。

そして専務室には、いつもの穏やかな午後が戻ってきた。

ただし、さくらさんが微笑むたびに、あなたの心臓だけは相変わらず忙しかった。