「朝礼前のボカロ談義と、少しだけ嫉妬したさくらさん」
「朝礼前のボカロ談義と、少しだけ嫉妬したさくらさん」
――午前八時十分。専務室。
あなたはいつもより少し早く出社していた。
専務室のデスクに座り、パソコンを立ち上げる。今日の予定を確認し、朝礼までまだ時間があることに気づいた。
「……よし。朝礼まで、ちょっとだけ聴くか」
あなたはイヤホンを取り出し、パソコンでお気に入りのボカロ曲を再生した。
♪~~
「……やっぱり、この曲いいなぁ」
普段は仕事に追われているあなたも、好きな音楽を聴いているときだけは、少し肩の力が抜ける。
「このサビの入り方、最高なんだよな。あと、歌詞の意味を考えると……いや、ほんとにすごいな」
画面に表示された曲名を見ながら、小さく頷く。
すると。
コンコン。
「失礼します。専務、おはようございます!」
ドアから顔を出したのは、中途入社の美咲さんだった。
「あ、おはようございます、美咲さん」
「……あれ? もしかして、音楽を聴いていらっしゃったんですか?」
「あっ!」
あなたは慌ててイヤホンを外した。
「す、すみません! 朝礼まで時間があったので、ちょっとだけ……!」
「いえいえ! 全然大丈夫ですよ。私も朝、音楽を聴くことがあるんです!」
「えっ、本当ですか?」
「はい! ちなみに、何を聴いていたんですか?」
あなたは一瞬、迷った。
専務としての威厳を保つべきか。それとも、正直に答えるべきか。
しかし、相手は興味津々の美咲さん。
「……ボカロです」
「えっ!? ボカロですか!?」
美咲さんの目が輝いた。
「私も大好きなんです!」
「……え?」
「ええっ!?」
思わず、二人の声が重なった。
そして、ここからが問題だった。
あなたと美咲さんは、見事なまでに意気投合してしまったのである。
1.止まらないボカロ談義
「ちなみに、どんな曲がお好きなんですか?」
「そうですね……物語性のある曲とか、聴くたびに解釈が変わる曲が好きですね」
「わかります! 歌詞を考察するのも楽しいですよね!」
「そうなんですよ! 一見すると明るい曲なのに、歌詞をよく読むと別の意味があったりして……!」
「ありますあります!」
美咲さんは、嬉しそうに何度も頷いた。
あなたも普段の仕事中とは違い、すっかり笑顔になっていた。
「それに、サビで一気に盛り上がる曲もいいですよね」
「わかります! あと、イントロだけでテンションが上がる曲!」
「そうそう! イントロを聴いた瞬間に、あっ、この曲だ! ってなるやつ!」
「専務、話が合いすぎます!」
「美咲さんこそ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
あなたは思わず、いつもより少し饒舌になってしまう。
「実は、昨日も寝る前に聴いていたんですよ。気づいたら、次の曲、その次の曲ってなってしまって……」
「わかります! あと一曲だけ、って思っていたのに、いつの間にか時間が!」
「そうなんですよ! それで翌朝、ちょっと後悔するんです」
「あははっ!」
美咲さんの楽しそうな笑い声が、専務室に響いた。
そして、あなたは気づいていなかった。
廊下の向こうから、こちらに近づいてくる足音に。
コツ、コツ、コツ。
その足音の主は――。
さくらさんだった。
2.ドアの向こうの教育係
「……専務?」
さくらさんは、専務室の前で足を止めた。
朝礼前に、今日の予定を確認しようと思っていたのだ。
ところが、ドアの向こうから聞こえてきたのは、普段の仕事の話とは違う楽しげな会話だった。
「それで、その曲のラスサビがですね!」
「はいはい! わかります!」
「ですよね!?」
「専務、今度おすすめの曲を教えてください!」
「もちろんです!」
……。
さくらさんは、ドアの前で静かになった。
(……楽しそうですね)
別に、おかしなことではない。
あなたが社員と仲良くするのは、いつものことだ。
むしろ、専務としても、教育係の生徒としても、周囲と良好な関係を築いているのは喜ばしいことである。
なのに。
(……私には、あんなに楽しそうに音楽のお話をしてくださったこと、ありましたでしょうか)
さくらさんは、自分の胸元にそっと手を添えた。
(いえ。私は教育係なのですから。専務の趣味について、無理に聞く必要はありません)
そう考えて、納得しようとする。
しかし。
「美咲さん、今度、好きな曲をまとめたリストでも作りましょうか!」
「いいですね! ぜひお願いします!」
(……曲のリストまで!?)
さくらさんの足が、ぴたりと止まった。
(……私も、音楽くらい聴きますけれど)
なぜか、少しだけ悔しい。
いや、悔しいというより……。
(……なんでしょう、この気持ちは)
さくらさんは小さく頬を膨らませた。
「……むぅ」
自分でも驚くほど、子どもっぽい声が出た。
そして、ハッとする。
(わ、私ったら! 何をしているのでしょう!)
さくらさんは咳払いを一つすると、いつもどおりの表情を作った。
コンコン。
「失礼します」
3.「さくらさん、おはようございます!」
「おはようございます、専務」
ドアが開き、さくらさんが入ってきた。
「あっ、さくらさん! おはようございます!」
あなたはいつもどおり挨拶をした。
美咲さんも笑顔で振り向く。
「さくらさん、おはようございます!」
「おはようございます、美咲さん」
さくらさんはにこやかに微笑んだ。
……ただし。
その笑顔は、ほんの少しだけいつもより硬かった。
「お二人とも、朝から楽しそうですね」
「はい! 実は、専務とボカロの話で盛り上がっていたんです!」
美咲さんが嬉しそうに説明する。
「専務、すごく詳しいんですよ! 歌詞の考察までできるんです!」
「へ、へえ……」
さくらさんはあなたを見た。
「……そうなのですね」
「えっ、あ、はい。まあ、趣味の範囲ですけど」
「そうですか」
さくらさんは微笑んだまま、手元の資料を机に置いた。
「専務。今日の朝礼の資料ですが、こちらをご確認いただけますか?」
「はい、ありがとうございます!」
あなたが資料を受け取ると、さくらさんは一歩近づいた。
「それと……」
「はい?」
「朝礼まで、まだ少し時間がありますね」
「そうですね」
「……その、もしよろしければ」
さくらさんは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「私にも、おすすめの曲を教えていただけませんか?」
「…………え?」
あなたの思考が、一瞬停止した。
(えっ!? さくらさんから音楽の話!?)
(いや待て、落ち着け! これは普通の会話だ! 普通の会話だからな!)
ところが、さくらさんはあなたの返事を待つ間、なぜか美咲さんのほうをちらりと見た。
美咲さんは満面の笑みである。
「もちろんです! さくらさんも、ぜひ一緒にお話ししましょう!」
「……はい。ありがとうございます」
さくらさんは微笑んだ。
そして、あなたにだけ聞こえるくらいの小さな声で付け加えた。
「……私も、専務の好きなものを知りたいですから」
ドクンッ。
(――――っ!?)
あなたの心臓が跳ねた。
(な、何をおっしゃるんですか、さくらさん!?)
(いや、普通だ! 教育係として、私のことを知ろうとしているだけだ!)
(そうだ! 絶対そうだ!)
必死に自分へ言い聞かせるあなた。
一方、さくらさんは、そんなあなたの反応を見て、少しだけ嬉しそうに目を細めていた。
4.朝礼直前、まさかの三人組
「では、さくらさんは普段どんな曲を聴くんですか?」
あなたが尋ねると、さくらさんは少し考えた。
「そうですね……落ち着いた曲を聴くことが多いでしょうか。仕事のあとに聴くと、気持ちが休まりますので」
「なるほど! じゃあ、ゆったりした曲もおすすめできますね」
「本当ですか?」
「はい! あと、物語性のある曲がお好きなら、こちらも――」
あなたがパソコンの画面を見せようとすると、美咲さんが隣から覗き込んだ。
「あっ、これ知ってます! この曲、すごくいいですよね!」
「ですよね!」
「私、特に二番の歌詞が好きで!」
「わかります! そこから最後に繋がるのがいいんですよ!」
再び盛り上がる二人。
さくらさんは、静かに二人を見ていた。
(……あれ?)
(私にも、おすすめしてくださるのでは……?)
「専務、次はこれも聴いてみてください!」
「おお、懐かしい! この曲もいいですよね!」
(……また美咲さんと……)
さくらさんは、机の上の資料を揃えた。
トントン。
必要以上に、きっちりと。
「……専務」
「はい?」
「そろそろ朝礼のお時間です」
「あっ! もうそんな時間ですか!?」
時計を見ると、朝礼開始まであと二分だった。
「すみません! つい話し込んでしまいました!」
「いえ、構いません」
さくらさんは微笑んだ。
「ただ……」
「ただ?」
「おすすめの曲のお話は、私にも続きを聞かせてくださいね?」
「も、もちろんです!」
「……約束ですよ?」
さくらさんは、少しだけ首を傾げた。
その仕草が、あまりにも可愛らしかった。
(――――っ!!)
あなたは危うく、手に持っていた資料を落としかけた。
(ダメだ! 今日のさくらさん、なんだかいつも以上に可愛い!)
(恋心を知られてはいけない! 絶対に!)
あなたは必死に平静を装った。
「は、はい! 約束します!」
「ふふっ。ありがとうございます」
さくらさんは、満足そうに微笑んだ。
そして、あなたの隣を通り過ぎるとき。
「……美咲さんばかり、ずるいですから」
「えっ?」
「……なんでもありませんよ?」
さくらさんは、何事もなかったかのように専務室を出ていった。
しかし、扉が閉まる直前。
あなたは見てしまった。
さくらさんが、ほんの少しだけ頬を膨らませていたことを。
5.昼休み、庭で一人反省会
昼休み。
あなたはいつもの庭のベンチに座っていた。
「……今日の朝、何だったんだ」
空を見上げながら、頭を抱える。
「美咲さんと趣味の話で盛り上がっただけだぞ……?」
「それなのに、さくらさんが……」
『私にも、おすすめの曲を教えていただけませんか?』
『私も、専務の好きなものを知りたいですから』
『……約束ですよ?』
「…………」
あなたは顔を両手で覆った。
「無理だ……」
「何が無理なのですか?」
「うわあっ!?」
突然、隣から声がした。
振り向くと、そこにはさくらさんが立っていた。
「さ、さくらさん!? いつから!?」
「今、来たところですよ。驚かせてしまいましたか?」
「い、いえ! 全然!」
さくらさんは、あなたの隣に座った。
「お昼休みですから、少しご一緒してもよろしいですか?」
「も、もちろんです!」
しばらく、二人で静かに庭を眺めた。
そして、さくらさんがぽつりと言った。
「……今朝は、楽しそうでしたね」
「え?」
「美咲さんと、音楽のお話をされていたときです」
「ああ! はい。趣味が合ったので、つい盛り上がってしまって」
「そうなのですね」
さくらさんは、膝の上で両手を重ねた。
「……私、少しだけ羨ましかったんです」
「…………え?」
「専務が、あんなに楽しそうにお話しされていたので」
彼女は困ったように笑った。
「私とも、そんなふうにお話ししていただけたら嬉しいな……と、思ってしまいました」
ドクン。
あなたの胸が、大きく鳴った。
(さくらさん……?)
「もちろん、教育係として専務のお仕事を優先しなければいけないのはわかっています。でも……」
さくらさんは、ほんの少しだけあなたを見上げた。
「お仕事以外のお話も、もっとしてみたいです」
「…………」
言葉が出なかった。
いつも優しく仕事を教えてくれる人。
困ったときには助けてくれて、落ち込んだときには励ましてくれる人。
そんなさくらさんが、今は少しだけ不安そうな顔をしている。
(……そんな顔をされたら、断れるわけないじゃないか)
あなたは、そっと息を吐いた。
「……もちろんです」
「えっ?」
「僕……あ、いや、私も、さくらさんといろいろお話ししたいです」
危うく本音が出そうになり、慌てて言い直す。
しかし、さくらさんは気づかなかったのか、気づいていて聞かなかったふりをしたのか。
優しく微笑んだ。
「……本当ですか?」
「はい!」
「ふふっ。嬉しいです」
その笑顔を見た瞬間。
あなたは心の中で叫んだ。
(――好きだあああああっ!!)
もちろん、声には出していない。
……出していないはずだった。
「……専務?」
「は、はい!?」
「お顔が赤いですよ。暑いのでしょうか?」
「そ、そうです! 今日は少し暑いですね!」
「そうでしょうか? 私は、ちょうどいいと思いますけれど」
さくらさんは不思議そうに首を傾げた。
そして、いたずらっぽく微笑む。
「……もしかして、私と二人きりなのが恥ずかしいのですか?」
「ち、違います!!」
即答だった。
早すぎるほどに。
さくらさんは一瞬目を丸くして、それから。
「……ふふっ」
楽しそうに笑った。
「そうですか。残念です」
「ざ、残念!?」
「はい。少しくらい意識していただけたら、嬉しかったのですが」
「…………」
(――――さくらさん!?)
あなたはベンチの背もたれに、ゆっくりともたれかかった。
(ダメだ……今日のさくらさん、攻撃力が高すぎる……!)
さくらさんは、そんなあなたを見ながら、満足そうに微笑んでいた。
けれど、その頬は。
あなたに気づかれないくらい、ほんのり赤くなっていた。
6.その日の午後、教育係の小さな決意
午後の仕事が始まる直前。
さくらさんは自分のデスクで、こっそりスマートフォンを開いていた。
検索画面には、こう表示されている。
『初心者におすすめのボカロ曲』
「……これなら、専務とお話しできるでしょうか」
一つ曲を見つけると、試しに再生してみる。
「……あら」
思っていたより、ずっと素敵な曲だった。
「ふふっ。なるほど……」
さくらさんは、イヤホンを外した。
そして、小さく呟いた。
「明日は、私からおすすめしてみましょう」
少し考えてから、さらに付け加える。
「……美咲さんに負けないくらい、たくさんお話しできたらいいですね」
自分の言葉に気づき、さくらさんは慌てて周囲を見回した。
幸い、誰も聞いていない。
「……い、いえ! 別に、競争しているわけではありませんから!」
一人で小さく言い訳をする。
そのとき。
「さくらさん?」
「ひゃっ!?」
美咲さんが、背後から声をかけた。
「どうしたんですか? スマホを見ながら、すごく嬉しそうでしたけど」
「な、なんでもありませんよ?」
「もしかして……ボカロですか?」
「…………っ!」
さくらさんは固まった。
美咲さんは、にっこり笑った。
「今度、私にもおすすめを教えてくださいね!」
「……ええ。もちろんです」
さくらさんは微笑んだ。
そして、心の中でそっと呟いた。
(……でも、専務に最初に聴いていただくのは、私のおすすめですから)
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、負けず嫌いになってしまった教育係だった。
その日の夜。
あなたは自宅で、朝に聴いていたボカロ曲を再生していた。
「……明日、さくらさんに何をおすすめしようかな」
考えるだけで、胸がドキドクする。
一方、さくらさんもまた、別の場所でボカロ曲を聴きながら、明日の会話を想像していた。
二人とも、まだ知らない。
明日の朝、あなたが専務室で音楽を聴いていたら――。
今度はさくらさんが、少し早めにやって来ることを。
そして、美咲さんまで合流して、三人で朝礼直前まで盛り上がることになるのを。
……ただし。
さくらさんは、あなたの隣の席をちゃっかり確保するつもりだった。
恋心を知られてはいけない専務と、少しだけ嫉妬してしまった教育係。
明日の朝も、二人の距離はなかなか縮まらない。
……いや。
縮まっているのに、あなたが気づいていないだけなのかもしれない。