「さくらさんの初恋相手と、押して引いての恋愛作戦」
「さくらさんの初恋相手と、押して引いての恋愛作戦」
1. 朝の専務室に舞い込んだ、衝撃の情報
朝。
あなたは専務室でパソコンを立ち上げ、今日の予定を確認していた。
「よし……今日も一日、頑張りますか」
昨日までに片付けた仕事は問題なし。社員たちからの相談にも対応できるように、机の端にはいつもの相談用ノートを置いてある。
そんなとき、コンコン、とドアが鳴った。
「失礼いたします」
入ってきたのは、教育係のさくらさんだった。
「おはようございます、専務。本日の予定ですが、午後から会社見学が入っております」
「おはようございます。会社見学ですか?」
「はい。以前、こちらの会社と交流のあった方がいらっしゃるそうです。私もご案内を担当することになりました」
「なるほど。分かりました」
あなたは予定表に書き込む。
そこで、さくらさんが少しだけ懐かしそうに微笑んだ。
「実は……その方、私の初恋の相手なんです」
「…………え?」
ペンが止まった。
「……初恋?」
「はい。学生時代に、少しだけ好きだった方なんです。まさか、こんなところで再会するとは思いませんでした」
さくらさんは、いつもどおりの穏やかな笑顔。
しかし、あなたにとっては穏やかどころではなかった。
(初恋……?)
(さくらさんの……初恋相手……?)
(ちょっと待ってください。今日、会社見学に来るんですか!?)
心臓が嫌なほど大きく鳴った。
ドクン。
ドクン。
(いやいやいや! 落ち着け、僕! 初恋は昔の話だ! 今は違うかもしれない!)
(……でも、再会して好きだった気持ちが戻ったら?)
(あの人がさくらさんに告白したら?)
(……いや、そもそも僕はさくらさんの恋人ですらない!)
自分で自分に現実を突きつけ、あなたは机に突っ伏しそうになった。
「専務?」
「は、はいっ!」
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ! 初恋という言葉の響きについて、少し考えていただけです!」
「……響き、ですか?」
「はい!」
さくらさんは不思議そうに首をかしげた。
「ふふっ。専務は、ときどき面白いことをおっしゃいますね」
(かわいい……じゃなくて! 今はそれどころじゃない!)
あなたは心の中で頭を抱えた。
2. 昼休み、庭で始まる恋愛作戦会議
昼休み。
あなたは食堂で昼食を済ませると、いつもの庭へ向かった。
ベンチに座り、ノートを開く。
そこに書かれたのは、本日の緊急議題。
『さくらさんの初恋相手が現れた場合の対処法』
「……何を書いてるんだ、僕は」
自分で書いておいて、思わず苦笑いした。
だが、ここで何もしないわけにはいかない。
「よし。こういうときこそ、恋愛テクニックだ」
あなたは以前、どこかで見た恋愛指南を思い出した。
『好きな人には押してみて、次に少し引いてみる』
押して、引く。
相手が自分を意識してくれるようになる……らしい。
「……これだ!」
あなたは勢いよく立ち上がった。
「いつも僕は、さくらさんを助けたり、仕事を手伝ったり、優しくしたりしている」
実際、さくらさんからはよくお礼を言われる。
一緒に帰ることもある。
二人きりで話す時間だって、少なくない。
「つまり……今日は少しだけ引いてみる!」
いつもより話しかける回数を減らす。
いつもなら自分から声をかけるところを、あえて待つ。
いつもなら目が合った瞬間に笑顔を向けるところを、少しだけ仕事に集中する。
「よし。完璧だ!」
……ただし。
(さくらさんに嫌われたらどうしよう)
(いや、これは作戦だ!)
(でも、寂しいと思ってくれたら……いやいや、そんな都合のいいことがあるわけ……)
考えれば考えるほど、心が落ち着かない。
そのとき。
「専務?」
「うわっ!?」
振り返ると、美咲さんが立っていた。
「何をそんなに真剣に考えていたんですか?」
「い、いや! 経営戦略です!」
「庭でノートに『押して引く』って書いてありますけど?」
「…………」
「経営戦略?」
「……新しい人材育成方針です」
「絶対に違いますよね?」
美咲さんはじっとあなたを見たあと、何かを察したようにニヤリと笑った。
「もしかして、さくらさんですか?」
「な、なぜそうなるんですか!」
「図星ですね」
「違います!」
「じゃあ、今日の午後、私も観察してみますね」
「観察しないでください!!」
美咲さんは楽しそうに笑いながら、食堂へ戻っていった。
(……終わった。僕の平穏な昼休みが終わった)
3. 会社見学に現れた、さくらさんの初恋相手
午後。
会社のエントランスに、見学者が到着した。
落ち着いた雰囲気の男性だった。
年齢はさくらさんと近く、礼儀正しい笑顔で社員たちに挨拶している。
そして、さくらさんの姿を見つけると、懐かしそうに笑った。
「久しぶり、さくらさん」
「……お久しぶりです。まさか、本当にお会いするとは思いませんでした」
さくらさんも、少し驚いた顔で笑っている。
「元気そうでよかった。昔とあまり変わらないね」
「そうでしょうか? ありがとうございます」
二人の会話は自然だった。
昔の学校の話。
学生時代に一緒に参加した行事の話。
当時の友人たちの話。
さくらさんは、ときどき楽しそうに笑っていた。
あなたは少し離れた場所で、その様子を見ていた。
(……さくらさん、あんな顔で笑うんだ)
もちろん、さくらさんは普段から笑顔を見せてくれる。
でも、今の笑顔は、懐かしい思い出を大切にしている人の笑顔だった。
(……そりゃ、初恋の相手だもんな)
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
それでも、あなたは決意する。
(よし。ここで押して引く作戦だ!)
男性がさくらさんに会社の説明を求める。
「さくらさん、よかったら案内してくれる?」
「はい。もちろんです」
二人が歩き出す。
いつもなら、あなたはすぐに声をかけていた。
「何かお手伝いしましょうか?」
「資料はこちらにありますよ」
「案内でしたら僕もご一緒します」
しかし、今日は違う。
あなたはパソコンに視線を戻した。
(……行ってらっしゃいませ)
(……いや、行ってほしくないけど!)
(でも、ここで引くんだ!)
その様子を、少し離れたところから美咲さんが見ていた。
「……あれ? 専務、今日はさくらさんを手伝わないんですね」
「今日は自分の仕事に集中する日なんです」
「へえー?」
「何ですか、その顔は」
「いえいえ。頑張ってくださいね、恋愛戦略」
「美咲さん!?」
声が大きくなり、近くの社員が振り返った。
あなたは慌てて口を押さえた。
(危ない! 恋心が漏れるところだった!)
4. 押して引いた結果、なぜかさくらさんが不安になる
一時間後。
会社見学は順調に進んでいた。
あなたは仕事を片付けながら、ちらりと廊下を見る。
さくらさんが男性に説明をしている。
男性は真剣に話を聞き、時折さくらさんに質問していた。
(……仕事の話をしているだけだ)
(当たり前だ。会社見学なんだから)
(……分かってる。でも、気になるんだよ!)
あなたは自分の頬を軽く叩いた。
「集中、集中……」
そのとき、さくらさんが専務室の前を通りかかった。
いつもなら、あなたと目が合えば笑顔を向けてくれる。
今日も、さくらさんは足を止めた。
「専務、少しよろしいですか?」
「はい。何でしょう?」
「先ほどの見学資料についてですが……」
「資料なら、共有フォルダに整理してあります。必要なものがあれば、そこから確認できますよ」
「……そうですか」
さくらさんは少しだけ黙った。
「いつもでしたら、専務が直接説明してくださることも多いので……」
「今日は自分の仕事を優先しようと思いまして」
「……なるほど」
さくらさんは微笑んだ。
けれど、その笑顔はほんの少しだけ、いつもより控えめだった。
「分かりました。お仕事中に失礼いたしました」
「いえ、お気になさらず!」
さくらさんは軽く会釈し、廊下を歩いていった。
あなたは心の中でガッツポーズをした。
(よし! 引けた!)
(……いや、待てよ)
(今の、ちょっと冷たかったか?)
(……でも、これが恋愛テクニックなんだ!)
その直後、専務室の外から小さな声が聞こえた。
「……私、何かしてしまったのでしょうか」
さくらさんの声だった。
あなたは椅子から立ち上がりかけた。
(えっ!?)
(さくらさん、落ち込んでる!?)
しかし、すぐに思いとどまる。
(いや、ここで押したら作戦が……!)
……数秒後。
「……いや、何をやっているんだ、僕は」
あなたは額を押さえた。
好きな人を不安にさせてまで、恋愛テクニックを試す必要があるのだろうか。
答えは、たぶん。
ない。
けれど、まだあなたは、すぐに素直になれるほど器用ではなかった。
5. 夕方、初恋相手から聞いた意外な話
会社見学が終わり、見学者たちが帰る時間になった。
あなたは最後の書類を確認していると、専務室のドアがノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、さくらさんの初恋相手だった。
「あれ? 何かご用でしょうか?」
「いえ、少しだけお礼を。今日はありがとうございました」
「こちらこそ、見学にお越しいただきありがとうございます」
男性は丁寧に頭を下げた。
そして、少し照れくさそうに笑った。
「それにしても、さくらさんは本当に変わっていませんね」
「そうなんですか?」
「ええ。昔から、困っている人を放っておけない人でしたから」
あなたは黙って耳を傾けた。
「学生時代、私が失敗して落ち込んでいたときも、彼女はずっと相談に乗ってくれたんです」
「……そうだったんですね」
「実は、当時は彼女のことが好きでした」
あなたの手が止まった。
(……え?)
「ただ、結局、告白はできませんでした。今となっては、いい思い出です」
男性は穏やかに笑った。
「今日、久しぶりに会えてよかったです。彼女が元気そうで、安心しました」
「…………」
「それでは、失礼します」
男性が部屋を出ていった。
あなたはしばらく、画面を見つめたまま動けなかった。
(……好きだった)
(やっぱり、向こうもさくらさんを好きだったんだ)
胸の奥に、ちくりとした感情が残る。
それでも、男性の言葉を思い出す。
『今となっては、いい思い出です』
(……そっか)
(過去の恋って、そういうものなのかもしれない)
あなたは小さく息を吐いた。
そして、ノートを開いた。
『押して引く作戦』
その文字を見つめて、そっと二重線を引いた。
「……僕には向いてないな」
6. さくらさんからの、思いがけない質問
定時後。
あなたが帰り支度をしていると、さくらさんが専務室にやってきた。
「専務、今、お時間よろしいですか?」
「はい。大丈夫ですよ」
さくらさんはドアを閉め、少しだけためらうように口を開いた。
「……今日、何かありましたか?」
「え?」
「いえ……いつもより、私と距離を置かれているように感じまして」
心臓が跳ねた。
ドクンッ!
(気づかれていた!?)
「そ、そんなことはありませんよ!」
「本当ですか?」
「ほ、本当です!」
さくらさんはじっとあなたを見つめた。
その瞳には、いつもの優しさと、ほんの少しの不安が混じっていた。
「私、何か専務に失礼なことをしてしまったのでしょうか?」
「ち、違います! さくらさんは何も悪くありません!」
思わず、声が大きくなった。
さくらさんが目を丸くする。
あなたは慌てて声を落とした。
「……すみません。違うんです。今日は、その……少し考え事があって」
「考え事、ですか?」
「はい」
本当は言いたかった。
初恋相手が来ると聞いて、嫉妬したこと。
さくらさんが楽しそうに笑う姿を見て、胸が苦しくなったこと。
そして、少しでも自分を意識してほしくて、わざと距離を置いたこと。
でも、それを言えば、隠してきた恋心が全部ばれてしまう。
「……ただ、いつも僕から話しかけてばかりだったので、たまには仕事に集中しようと思ったんです」
「……そうだったのですね」
さくらさんは少し考えてから、ふわりと笑った。
「でしたら、安心しました」
「安心……ですか?」
「はい。専務に避けられているのかと思って、少し寂しかったので」
「…………えっ?」
今度こそ、完全に固まった。
(寂しかった!?)
(さくらさんが!?)
(僕が話しかけないだけで!?)
心臓が、猛烈な勢いで鳴り始める。
ドクドクドクドクッ!!
「せ、専務?」
「い、いえ! 何でもありません!」
「お顔が赤いですよ?」
「室温のせいです!」
「今日は少し涼しいと思いますが……」
「……気のせいです!」
さくらさんは不思議そうにしながらも、くすりと笑った。
「ふふっ。専務は本当に不思議な方ですね」
そして、少しだけ声を柔らかくした。
「でも、いつもどおりにお話ししてくださると嬉しいです」
あなたは思わず、うつむいた。
(……無理です)
(そんなことを言われたら、もっと好きになってしまうじゃないですか)
7. 押して引く作戦、まさかの結末
「……分かりました」
あなたは、できるだけ平静を装って答えた。
「明日からは、いつもどおりにしますね」
「はい。よろしくお願いいたします」
さくらさんは嬉しそうに微笑んだ。
そして、ドアへ向かう。
「それでは、専務。また明日」
「あ、さくらさん!」
「はい?」
呼び止めてから、あなたは一瞬だけ迷った。
初恋相手のことを聞きたい。
本当に、もう何とも思っていないのか。
今日、再会してどう感じたのか。
でも、そんなことを尋ねる資格が自分にあるのだろうか。
あなたは結局、別の言葉を口にした。
「……今日は、案内お疲れさまでした」
さくらさんは一瞬驚き、それから優しく笑った。
「ありがとうございます。専務も、お仕事お疲れさまでした」
その笑顔を見送ったあと。
あなたは椅子に座り、机に突っ伏した。
「……あああああ……」
押して引く作戦。
結果は――。
さくらさんを不安にさせ、自分は嫉妬で苦しみ、最後には優しい言葉をかけられて撃沈。
「……恋愛テクニックって、難しすぎるだろ……」
そのとき、スマートフォンが震えた。
美咲さんからのメッセージだった。
『専務、今日の作戦は成功しましたか?』
あなたは無言で返信した。
『失敗しました』
すぐに返事が来る。
『ですよね!』
『見てたんですか!?』
『さくらさん、専務が話しかけてくれなくて、午後ずっと少し気にしてましたよ』
「…………」
あなたはスマートフォンを机に伏せた。
(……本当に?)
頬が熱くなる。
すると、もう一通。
『ちなみに、さくらさんが初恋相手と話していたのは、昔の思い出話が中心でしたよ。今の気持ちは、本人にしか分かりませんけどね』
あなたはその文章を何度も読み返した。
(……そうだよな)
(過去のことを勝手に想像して、勝手に嫉妬して……)
(僕は何をやっているんだ)
そして、ノートの最後に書き加えた。
『恋愛作戦その2。
好きな人を不安にさせるより、好きな人が安心できる相手になること。』
「……よし。明日からは、これでいこう」
もっとも。
翌朝、さくらさんがいつも以上に優しい笑顔で「おはようございます、専務」と挨拶してきた瞬間。
あなたの決意は、あっさり揺らぐことになるのだが。
「お、おはようございます……!」
「? どうかなさいましたか?」
「い、いえ! 今日も素敵な一日になりそうだと思いまして!」
「まあ……ふふっ。ありがとうございます」
(あああああ! また余計なことを言ったああああ!!)
こうして今日も。
あなたの恋心は、さくらさん本人に知られてはいけないまま――。
さくらさんの無自覚な優しさによって、順調に限界を迎えていくのだった。
そして廊下の向こうでは、美咲さんがその一部始終を見て、そっと笑っていた。
「……もう、二人とも素直になればいいのに」
もちろん、その言葉があなたの耳に届くことはなかった。