「怖い顔の美咲さんと、休暇中のさくらさん」
「怖い顔の美咲さんと、休暇中のさくらさん」
朝、あなたはいつもどおり出社した。
「よし……今日も一日、頑張りますか」
専務室に向かう途中、ふと前方を見ると、美咲さんが自分のデスクに座っていた。
しかし、何かがおかしい。
美咲さんは眉間にしわを寄せ、書類を睨みつけている。いつもの明るい笑顔はなく、近寄りがたいほど真剣な顔だった。
あなたは思わず足を止めた。
(……えっ?)
(美咲さん、めちゃくちゃ怖い顔してるんだけど!?)
(昨日、何かあった!? 僕、何かやらかした!?)
心当たりを探す。
昨日の仕事はきちんと終えた。頼まれた仕事も手伝った。挨拶だってした。
(まさか……僕が知らないところで何か大事件が……?)
あなたが恐る恐る通り過ぎようとした、その瞬間。
「……専務」
「ひゃいっ!?」
変な声が出た。
美咲さんが顔を上げて、こちらを見ていた。
「お、おはようございます、美咲さん……!」
「……おはようございます」
にこりともせず、低い声で返された。
(怖い怖い怖い!)
(今日の美咲さん、ラスボスみたいになってる!)
あなたは逃げるように専務室へ向かった。
ところが、ドアを閉めた直後。
ふと、あることに気がついた。
(……待てよ)
(美咲さん、昨日より顔色が悪くなかったか?)
(それに、目の下もちょっと疲れているような……)
あなたは腕を組んだ。
(怒っているというより……何かを我慢しているように見えた)
そして、あなたは決めた。
今日は、美咲さんの様子を注意して見ることにした。
もちろん、さくらさんに相談することも考えた。
しかし、今日のさくらさんは休暇だった。
(さくらさん、今日はお休みか……)
(……いや、だからって僕が気にしちゃいけない理由にはならないよな)
あなたは小さく頷き、仕事を始めた。
1.怖い顔の本当の理由
午前十時。
あなたは会議資料を届けるため、営業部へ向かった。
すると、美咲さんが一人で書類を整理していた。
「美咲さん、この資料、確認をお願いできますか?」
「……はい。ありがとうございます」
彼女は書類を受け取った。
そのときだった。
美咲さんの手が、ほんの少し震えた。
「……っ」
美咲さんはすぐに手を引っ込め、何事もなかったかのように書類を揃えた。
あなたは見逃さなかった。
「美咲さん」
「はい?」
「……体調、悪いんですか?」
「えっ?」
一瞬、彼女の表情が固まった。
「い、いえ。そんなことありませんよ」
「本当ですか?」
「本当です。大丈夫ですから」
そう言って笑おうとした美咲さんだったが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
あなたは少し考えてから、穏やかな声で尋ねた。
「……もしかして、朝から具合が悪かったんですか?」
「…………」
沈黙。
美咲さんは視線を落とした。
「……どうして、分かったんですか?」
「え?」
「私、隠していたつもりだったんですけど……」
あなたは少し困ったように笑った。
「朝、すごく怖い顔をしていたので」
「……えっ?」
美咲さんが顔を上げる。
「えええっ!? こ、怖い顔!?」
「す、すみません! でも、眉間にしわが寄っていて……!」
「うそ……私、そんな顔してました!?」
「はい……」
美咲さんは両手で顔を覆った。
「やだ……! 怒ってると思われちゃった……!」
「いえ、最初はちょっとビビりましたけど」
「ちょっと!?」
「すみません!」
二人の間に、ほんの少しだけ笑いが生まれた。
しかし、あなたはすぐに真剣な顔に戻った。
「でも、本当に大丈夫ですか?」
美咲さんは顔を覆ったまま、小さく答えた。
「……実は、朝から少し体調が悪くて」
「やっぱり……」
「でも、今日中に終わらせたい仕事があったんです。みんな忙しそうでしたし、迷惑をかけたくなくて……」
「美咲さん」
あなたは、彼女の言葉を遮るように優しく呼びかけた。
「迷惑をかけたくないって思うのは、分かります。でも、体調が悪いときに無理をしたら、もっと大変になりますよ」
「……」
「それに、困ったときは頼ってくださいって、僕、前にも言いましたよね?」
美咲さんはゆっくり顔を上げた。
「……はい」
「だったら、今日は僕にも頼ってください」
「でも、専務だって忙しいのに……」
「大丈夫です。仕事を調整するのも、専務の仕事ですから」
あなたは笑顔で付け加えた。
「それに、僕だって美咲さんに元気でいてほしいですから」
「…………っ」
美咲さんの頬が、ほんのり赤くなった。
(……え?)
(今の言い方、ちょっと恥ずかしかったか?)
(いやいや、これは同僚としての心配! そう、同僚として!)
あなたが心の中で必死に言い訳していると、美咲さんは小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます」
朝からずっと張り詰めていた表情が、ようやく和らいだ。
あなたはその顔を見て、ほっとした。
(やっぱり、いつもの美咲さんの笑顔のほうがいいな)
2.専務、こっそり作戦を実行する
あなたは美咲さんと相談し、彼女が抱えていた仕事を整理した。
急ぎの案件はあなたが担当部署と調整し、今日でなくてもよい仕事は翌日以降に回す。
そして、美咲さんには上司にも体調不良を伝えてもらい、休憩を取ってもらうことにした。
「……本当に、ここまでしてもらっていいんでしょうか?」
「もちろんです」
「でも……」
「美咲さん」
あなたは少しだけ真面目な顔をした。
「普段、誰かが困っていたら、美咲さんだって助けるでしょう?」
「それは……はい」
「だったら、今日は助けられる側になってください」
美咲さんは、しばらくあなたを見つめていた。
やがて、ふっと笑った。
「……専務って、ずるいですね」
「えっ!? な、何がですか!?」
「そんなことを言われたら、頼らないわけにはいかないじゃないですか」
「そ、それは……作戦成功ということで!」
「ふふっ。何ですか、それ」
美咲さんは楽しそうに笑った。
そのあと、彼女は上司に相談し、早めに帰って休むことになった。
帰り際、美咲さんがあなたのところへやってきた。
「専務、本当にありがとうございました」
「いえいえ。お大事にしてくださいね」
「……あの」
「はい?」
「明日、元気になったら、またお話ししてもいいですか?」
「もちろんです!」
あなたが即答すると、美咲さんは少し驚いたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「……約束ですよ?」
「はい、約束です」
美咲さんは小さく手を振り、帰っていった。
あなたはその背中を見送り、ようやく息を吐いた。
(……よかった)
(無理していることに気づけて、本当によかった)
ところが。
あなたはふと、あることに気づいた。
(……あれ?)
(今日、さくらさんがいたら、僕のことをどう思ったんだろう?)
(美咲さんの仕事を手伝って、心配して……)
(いやいやいや!)
(さくらさんは今日、休暇! 今は考えなくていい!)
あなたは頭を抱えた。
(……さくらさん、今頃何してるんだろう)
(ゆっくり休めているといいな……)
少しだけ、会いたくなった。
しかし、あなたはその気持ちを胸の奥にしまい、仕事へ戻った。
3.休暇中のさくらさん
一方、その頃。
さくらさんは自宅で、久しぶりの休日を満喫していた。
「……今日は、お仕事のことは考えない日です」
そう宣言して、温かい飲み物を用意し、ソファに座る。
「ふぅ……」
いつも職場ではしっかり者のさくらさんも、休暇の日くらいはゆっくりしたい。
本を読んで、少し散歩をして、おいしいものを食べる。
そんな休日を過ごすつもりだった。
ところが、ふとスマートフォンを見てしまう。
(……今頃、皆さんはお仕事中でしょうか)
そして、頭に浮かぶのは、やっぱりあなたの顔だった。
(……ちゃんと、お昼ご飯を食べているでしょうか)
(また、仕事を引き受けすぎていないでしょうか)
さくらさんは、はっとした。
「……いけません」
スマートフォンを伏せる。
「今日は休暇です。仕事のことは考えないと決めたのですから」
そう言いながら、数秒後にはまたスマートフォンを手に取っていた。
「…………」
画面を見つめる。
「……専務さん」
ぽつりと、あなたの役職を口にする。
「……ちゃんと、休憩も取ってくださいね」
誰もいない部屋で、さくらさんは小さく微笑んだ。
そして、頬をほんのり赤くして付け加えた。
「……私がいないからといって、無理をしてはいけませんよ?」
その言葉が、あなたに届くことはない。
もちろん、あなたが今日、美咲さんの体調を気遣っていたことも、まだ知らない。
けれど、さくらさんはなぜか少しだけ落ち着かなかった。
「……明日、会社に行ったら聞いてみましょう」
そう決めたあと、さくらさんは再び本を開いた。
……ただし。
本の同じページを、三回も読み返していた。
4.翌朝、さくらさんの質問攻め
翌日。
あなたが出社すると、美咲さんが笑顔で挨拶してきた。
「専務、おはようございます!」
「おはようございます! 体調はどうですか?」
「もう大丈夫です! 昨日はありがとうございました」
「それならよかったです!」
美咲さんは、いつもの明るい笑顔だった。
あなたは心の中で、そっと安心した。
(よかった……元気になってくれて)
その直後。
「おはようございます」
聞き慣れた優しい声がした。
振り返ると、さくらさんが立っていた。
「さ、さくらさん!?」
(今日から出社だったんだ……!)
「はい。昨日はお休みをいただいておりましたので」
さくらさんは丁寧に微笑んだ。
そして、あなたの顔をじっと見た。
「……ところで、専務さん」
「は、はい!」
「昨日は、何かございましたか?」
「えっ?」
「美咲さんが、今朝からずいぶん嬉しそうでしたので」
「そ、それは……!」
美咲さんが、にやりと笑った。
「さくらさん、聞いてください。昨日、専務が私の体調不良に気づいて、仕事を調整してくださったんです!」
「……そうだったのですか」
さくらさんはあなたを見つめた。
「専務さんらしいですね」
「い、いえ! たいしたことでは……!」
「いいえ。とても大切なことだと思います」
さくらさんは柔らかく微笑んだ。
「困っている方に気づいて、きちんと声をかけられる。そういうところ、私は素敵だと思いますよ」
「…………」
あなたの思考が止まった。
(素敵!?)
(今、さくらさんが僕のことを素敵って……!?)
ドクンッ。
心臓が大きく跳ねた。
「……専務さん?」
「は、はいっ!」
「お顔が赤いようですが……大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です! 健康です! 絶好調です!」
「ふふっ。そうですか」
さくらさんは少しだけ目を細めた。
「でも、専務さんも無理をなさらないでくださいね」
「……はい」
「昨日、私がいなかったからといって、何でも一人で抱え込んでいたのではありませんか?」
「ギクッ!」
「……やはり、何かありましたね?」
「ち、違います! その、いろいろありまして……!」
隣で聞いていた美咲さんが、とうとう吹き出した。
「ふふっ……! 専務、さくらさんには敵いませんね!」
「美咲さん!?」
さくらさんまで、くすくすと笑い始める。
「では、詳しいお話は、お昼休みにでも聞かせてくださいね」
「お、お昼休みですか!?」
「はい。……久しぶりに、専務さんとゆっくりお話ししたいので」
ドクンッ!
あなたは固まった。
(……待って)
(さくらさん、今……僕とゆっくり話したいって……?)
(いや、仕事の話! 絶対に仕事の話!)
そう自分に言い聞かせる。
しかし、さくらさんが去り際に見せた優しい笑顔が、頭から離れなかった。
美咲さんが、あなたの肩を軽く叩く。
「専務?」
「……はい」
「今日も、顔が赤いですよ?」
「……忘れてください」
「ふふっ、無理です♪」
その日の朝、専務室には、あなたの小さな悲鳴と、女性社員たちの楽しそうな笑い声が響いた。
そして、あなたは改めて誓った。
(……やっぱり、さくらさんには恋心を知られてはいけない)
(絶対に……絶対にだ!)
――ただし。
さくらさんは、あなたが思っている以上に、あなたのことをよく見ているのだった。