2-2 開戦
2-2 開戦
『出立』という言葉が好きだった。 未開の地を踏破する興奮、馴染みの場所を訪れたときの安堵感、それらの旅の過程で出会う、みずみずしい発見と感動。 王宮という、華やかではあっても限定的な世界に閉じこもる幼少期を過ごした私にとっては、天井のない景色のすべてが、どんな煌びやかな装飾品よりも輝いて見えた。 だから、いつか悪いことが訪れるかもしれないという漠然とした不安も、きっと新しい刺激が忘れさせてくれるに違いないと前を向くことができた。 そして今、唇を噛んで淡々と準備を進めているこの時間がたまらなく辛いのは、きっと私の覚悟が足りていなかったということになるのだろう。「…………」 顔を合わせるといつも微笑みかけてくれる近臣、根無し草のように大陸を飛び回る私を陰から支えてくれる近衛兵たち。家族のように接してくれていた彼らの姿は今はなく、誰もがみな、ただただ自分のすべき作業を事務的に繰り返している。 覇気はない。ましてや笑い声など沸くはずもない。目の前の仕事が終わる時、それが始まってしまうことをみなが知っているからであった。 ひどくやりがいのない準備を早々に切り上げて、自室のテラスに足を向けた。少しでも気が紛れるかと思ったが、昼前の陽射しは眩しく、背中を押す風は生ぬるく、結局、ベッドに身を放り出して、高いだけの天井ををぼうっと眺めることにした。 ふと、肌身離さず身につけている短剣をとりはずし、なめした革細工でできた鞘に指を這わせた。「セイジさま、お力をお借りいたします。この剣をお返しするまで、私は誰にも負けませんから……」 弱々しい言葉の語尾に、猛々しい喇叭の音がつづいて、クリスは上体を起こして窓の外を眺めやった。 ――ひと月ほど前、クリスの国フェルミーナの王都に、隣国ルーレインの使者団が訪問した。それまでの外交といえば、内密の事項こそあったものの、概ね穏やかな情報交換に過ぎなかった。であるから、この時訪れた使者団の厳かな全身鎧から放たれる殺気めいた気迫には、戦場に散る血の色を知らない新参兵ですら息をのんで、王宮へと足を延ばすその背を不安げに見送った。「聖騎士クリスティア・フェルミーナは、彼の地へと赴き、諸国に報せる委細の枠外に生じた不当な益を祖国フェルミーナにもたらしている」 かいつまんで述べると、使者の言い分はこのようなものであった。『聖騎士』という称号を持つ者だけに許された最大の特権、境界線を越えた先、『彼の地』と呼ばれる未開の地の踏破。その特殊な功績から、拾得物に関しては持ち主、つまりその聖騎士が所属する国家に帰属するが、知り得た情報はその限りではない。国境を問わず、広くその情報を共有し、彼の地の脅威に備えるべきである── 「いつもはすっとろいくせに、今回はやたらとお早いお越しだったな」 王宮に背を向けて歩き去る使者団の背に向けてそう吐き捨てたのは、謁見に立ち会った第一王子レオンハルトであった。第二王子であるクリスがそうであるように、レオンもまた、風に舞って光るあざやかな金髪と、クリスより少しだけ濃い琥珀色の瞳をもつ青年である。その瞳に苦々しげな色を浮かべながら、クリスを呼び寄せるよう命じたレオンは、独り言でも呟くかのように口を開いた。「さて、どうしたものですかね」 凱旋したクリスのもたらした不当な益という言葉がしめすものは、十中八九その手に握られていた剣のことであろう。セイジから借り受けたと聞いたときはさすがに面食らったが、失った得物の代替品というだけでなく、セイジなりの生存報告も兼ねているのだろう。 しかし、その仮定が正しいとなると、別の問題が浮上する。ルーレイン国がクリスの動向だけでなく、所持品までをも把握しているということは、綿密な調査だけでなく密使を寄越していると断定してもよいだろう。 同じように、フェルミーナもまたルーレインに密使を遣わせている。それによると、近日、ルーレインの正規軍の訓練が活発になっていたり、軍が傭兵を募ったりと、ただならない空気が漂っていることは耳に入っていた。ルーレインの使者たちは直接的な表現こそ口に出さなかったものの、必要以上に武力をちらつかせる行動は、この状況では邪推するに相当する意味をはらんでいる。「あの様子は、今か今かと口実を待ち、手ぐすねを引いていたのだろうな。遅かれ早かれというやつだろう」「では、出兵の準備だけでも手配しておきますか」 あっさりと言い放ったレオンの言葉に眉をひそめて、国王はゆっくりと玉座から立ち上がった。「ふむ。私のほうでも手は打っておくとするか……ところでレオンよ、アルティアの大陸に伝わる神の言い伝えについて、おぬしはどう思う?」「争いによって神の怒りを買えば大陸が粉々にされる、とかいうあれですか?」 国王の唐突な問いかけに、口調と態度が言葉に先んじて返答をした。「常識はずれな力に溢れる現代ですが、それでもさすがに胡乱であると考えます。都合のよいことならまだしも、不利益にしかならないことの実現を願っても仕方ありませんし」「うむ。だが、一般兵の端々まで統一の徹底された意見というわけではあるまい」「ええ。ですが、それはあちらの国も同じことでしょう」「だからこそ、全面衝突は避けたいのだが……」 戦う意志のない者たち同士が、ごく一部の、地位だけに恵まれた人間たちのために命を張る必要はない。何より、和平を乱す恐れがあるから、武力で従える、というあちらのやりようは、短絡的かつ矛盾のある言い分だといえよう。 どちらからともなく押し黙った空気を割って馳せ参じたクリスは、レオンの話を聞いてはじめに驚愕し、次に憤慨した。「彼の地の情報共有の義務なんて、初耳ですわ」「いや、そんな約定はない。すべきである、っていう、あちら側の都合でできたでっち上げの決まり事」「……つまり、わたくしは都合だけで悪者扱いされているのですか?!」「まあ、そういうことになるな」 だからといって、戦になる可能性のある状況下では『気にするな』などと気楽なことも言ってはいられない。開戦の可能性を仄めかすと、兵たちに累が及ぶことを憂いたクリスは、然るべき手配にとりかかる旨を了承し、ふたりのもとを去っていった。 聖騎士としてのクリスの主な責務はむろん『彼の地』の探索であるが、人の世に留まる間はあくまで騎士である。その頂点に立つ存在として、つづく騎士たちの歩む道を切り開く騎士のなかの騎士。それが『聖騎士』という称号に意図せずして与えられた役目でもあった。 レオンもまた、明言こそされなかった出兵の手はずを整えるべく、謁見の間をあとにした。人気のない、ただただ広く長大な赤絨毯の上に視線を落としながら歩いていた、その足の動きがぴたりと止まった。「あいつ、大丈夫かな……」 作戦参謀と宮廷魔術師長を兼業するレオンにとって、国内の状況は把握できて然るべきことである。国外の事情もまた、あらゆる情報収集を怠らないことで、ある程度の事態の想定は可能である。 クリスは、控えめに見えてあれでなかなか頑固で図太い。今回の件にしても、ひとたび開戦さえしてしまえば、放たれた矢のように敵陣に斬り込んでいくことを躊躇ったりはしないだろう。 が、ただひとつ、クリスが『息災でおいででしたわ』と嬉しそうに報告していた旧友の心情だけは推し量れずにいた。「自分が貸した剣が争いごとの引き金になったなんて知ったら、落ち込むだろうなあ、セイジは……」 この時はまだ、レオンの思考には、迫っているであろう隣国との戦争の内容はおさまっていなかった。隣国の目的が侵略ではないことを承知していたからであったが、そのわずか三日後、密使から隣国の出兵の報告を受けた際には、さすがに目を白黒させて出陣を命じた。 かくして、長い間にわたって和平を保ち続けてきた二国の兵は、双方の領地にまたがって広がる丘陵にて相まみえることとなった。