最初から読む
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ファンシーなお店だった。
落ち着いて歩いたつもりなのに、店員はこちらに向かって微笑み。店内のお客も笑顔でこちらを見つめていた。
何のことはない。
クマのぬいぐるみを娘に買ってやりたかっただけだ。
別段、急いでいるわけではないのに、足が勝手に店の一番奥のショーケースに入ったクマのぬいぐるみまで早歩きをしてしまったようだ。
恐らくは一個しなかいのだろう。
店先の看板にもそう書いてあった。
早速、ショーケースの前で店員を呼んだ。
「このクマのぬいぐるみをください」
店員は微笑みを崩さずに、「わかりました」と快くショーケースに鍵を差し込む。
これで、娘の誕生日は大丈夫だ。
娘の笑顔が見えるだけで、仕事の都合でたまにしか家に帰ってこれない身としては、これ以上ない有り難いことでもある。
埋め合わせも兼ねたクマのぬいぐるみだった。
勘定を済ませ、家路につくと、外は仄暗い。
途中、一人の女性に呼び止められた。
「あの……そのクマのぬいぐるみ。私に譲って頂けませんか? お願いします」
「?」
「お店であなたは急いで買っていました。なのに、本当に悪いのですが……譲って頂けませんか?」
「これは困った。このクマのぬいぐるみは、たまにしか会えない娘の誕生日の贈り物なんだ」
「そこをどうか……」
「うーん。ぼく自身気に入っていたんだ。娘もきっと気に入ると思うんだ。可哀想だけど、ねえ?」
女性は必死だった。
目尻に涙のような光が街灯に照らされていた。
「時間はまだあるから……じゃあ、さっきの店員を呼んで、もう一つあるか聞いてみませんか?」
「いいえ。そのクマのぬいぐるみが欲しいのです。あつかましくて申し訳ありませんが……そう、私は……」
女性にも娘の誕生日かお祝い事のためにクマのぬいぐるみが必要……か。
「いいでしょう。お譲りしますよ。その代わりそこの居酒屋で、どうして、このクマのぬいぐるみじゃないといけないのかを話して頂けませんか?」
春の始まりの春一番が明日に吹く。
今日の天気予報でそれを聞いていた。
春は嬉しい。
なんだか生き返るかのような気持ちになるのはぼくだけだろうか?
居酒屋では、カウンター席で、女性はウイスキーの水割りを注文した。ぼくはこれから娘の誕生日なので、アルコールはまずいからとお冷とホッケを頼んだ。
客はまだらだったが、喧騒だけはしっかりとしていた。
「あの、突然に本当にすみませんね」
「いえ、お互いに焦るほどに必要だった。このクマのぬいぐるみがね。それだけで十分だと思います。大切な人のためって、なにかと焦ることが多いですよね」
「ええ。でも、私は家には帰れないんです」
「ほお、というと……」
「夫はいません。あの人の妻には内緒ですが。娘はあの男との愛人関係で産まれたんです。もう、あの男には会いません。けれども、娘には……」
女性はグラスを傾けた。
酒が入っていないと話せないのだろう。
ぼくはバツが悪くなる。
それと同時に可哀想な人だと知った。
「そういうことなら、お渡しします。あ、でも……その男の人はぼくみたいですね。昔、死んでしまった女性。それも愛人みたいな関係でした」
女性は急に俯き。
「笑われるかも知れませんが、私はそれでも幸せでした……」
「え? ごめん……聞こえなかった。何か言いましたか?」
「いえ、いいんですよ。私は遠くへ行きますが、一目でも会いたかったな」
ぼくは急に居酒屋全体が仄暖かくなるのを肌で感じた。
夕方で陽が沈んでいると言うのに淡い光がカウンター席を照らす。
そう、彼女を中心に。
ああ、この人は死んでいるんだなとぼくは思った。
もう、この世にはいない。
そう、名前は佐藤 恵。
ぼくの最初で最後の愛人だった人だ。
最後の別れの時に、ぼくと娘のために、二人でクマのぬいぐるみを買おうと言ってたっけ。
「さあ、一緒にいきましょう。娘に会いに……」