第10話 ジプシー
第10話 ジプシー
すぐさま、笑顔を浮かべた夢乃が立ちあがった。 扉のほうへと振り返りながら、口を開く。「あら、ほーりゅう。あなた、いつからそこに……?」 階段へ続く扉から顔をのぞかせた転入生は、満面の笑みで弁当箱の入っているらしい袋を、持ちあげてみせる。「わたしもここで一緒にお弁当食べていいかな? ねえ、いいでしょ?」 そう言葉を続けながら全身をあらわすと、彼女は、足取り軽く近寄ってきた。 そのなれなれしい様子に、たちまち京一郎が、むっとした表情となる。そして、いままでとは打って変わって威嚇するように、低い声で応えた。「クラスにいる他の連中と一緒に食えばいいだろう?」「わたし、転入してきたばっかりで、まだ話の弾む友だちがいないのよ。朝から一緒にいてくれた夢乃と食べたいんだけれどなぁ」 転入生――ほーりゅうは、京一郎の視線に臆した様子をみせず、笑みを浮かべたままで言ってのける。 午前中のあいだに、さりげなく京一郎へ近寄るなと牽制したはずの夢乃は、呆気にとられた表情で彼女を見つめた。 そばまで近づいてきた彼女は、京一郎と夢乃へ視線をうろうろと移したあと、俺の上でぴたりと止める。そして、俺の顔をじっと直視してから――なにげない動作で右手をあげると、いきなり俺の眼鏡を奪い取った。 ほーりゅうは、その場で俺の眼鏡をかざしながらくるりと回ると、はるか遠くのビル街を眺める。「朝に見たときから気になっていたのよ。やっぱりね! この眼鏡、度が入っていないじゃない。なんで 伊達 ( だて ) なんか、かけているのよ?」 彼女の問いには答えずに、俺は、ほーりゅうの手から眼鏡を取りあげる。抵抗もなく、彼女は簡単に俺へ眼鏡を手渡した。 黙ったまま、俺は無表情で眼鏡をかけなおし、改めて彼女を見つめて考える。 初対面の人間に対して、最初に目がいくところはそこなのか? ――もしかして、こいつの朝の視線は、ただ俺の眼鏡の度を見ていただけなのか? 彼女が眼鏡を取ろうと俺へ向かって手を伸ばしたとき、避けることもできた。だが、そうしなかったのは、俺の身体の奥にある勘が、なぜか害がないと判断したからだ。 変な女。 京一郎は、かなり不機嫌な顔で俺と彼女との一連の攻防を傍観していたが、おもむろにカバンのなかへ封筒を滑りこませて立ちあがった。「アンタがよそに行かないのなら、俺がどっかに行くだけさ」 苛ついた口調で告げると、そのまま京一郎は、俺や夢乃にも声をかけずに、ひとりでさっさと階段へ向かって歩きだす。 その背へ向かって、ほーりゅうが大声をだした。「やっだなぁ。京一郎ったら照れちゃって!」 ほーりゅうの、あまりにも突然で大胆不敵な言葉に、さすがに俺と夢乃は言葉を失った。そして、その声に京一郎も振り返り、なにかを言おうと口を開きかける。 だが、いま問題を起こして、今日の俺の行動に支障が生じてはならないと考えたのだろうか。どうにか耐えたように口をつぐみ、踵を返して扉の向こうへと姿を消した。 その後ろ姿を満足げに見送ったほーりゅうは、次に、剣呑な眼差しとなっているであろう俺のほうへ、くるりと振り返る。そして、かなり強気な態度で口を開いた。「そうそう。いま、あんたたちが、気がつかなかったことを教えてあげる。どお? わたしを仲間にしない?」「なんのことかしら?」 普段は温和な夢乃が、珍しく警戒する表情となって尋ねた。 そんな夢乃へ向かって勢いよく、だが、いかにも勿体ぶった態度で、ほーりゅうは言葉を続ける。「あんたたち、いまここでなにか相談事をしていたでしょ? わたしがここへくる前に、扉の陰で立ち聞きするように様子をうかがっていた人がいたのよ。わたしと目が合ったとたんに、逃げるようにおりていっちゃったけど。まだ見たことのない男子だったから、きっとクラスメートじゃないなぁ」「あなた、それって……」 口を開きかけた夢乃の顔の前へ、すかさず俺は、片手をかざして制した。「ジプシー!」 夢乃は夢乃で、俺を引きとめるように呼ぶ。 だが、俺は遠慮なく、裏の世界で場数を踏んできた者だけがだせるであろう威圧的な眼光を湛えて、ほーりゅうを真正面から見据えた。「ご忠告ありがとう。しかしながら、これ以上俺たちにかかわらないほうが賢明だ。ろくでもないことに巻きこまれるだけだよ。――おまえだって命は惜しいだろ?」 つかの間、俺の周囲から音が消える。 どのくらい時間が過ぎたのだろうか。 教室の開かれた窓からこぼれる学生のざわめきが、足もとから風に乗り、睨み合う俺と彼女とのあいだを吹き抜けた。 ふいに、ほーりゅうはスカートをひるがえすと、扉へ向かって駆けだした。 そのまま振り返りもせず、建物の中へと消えていく。「得体のしれない不気味な人間の言葉って、妙な説得力があるわねぇ」 俺の背後から、夢乃の、ちょっと笑いを含んだような声がした。一気に脱力しながら俺は振り返り、彼女の姿が消えた扉から夢乃のほうへと視線を転じる。「どういう意味だよ」「命が惜しいだろう、なんて。これで、普通なら薄気味悪くて、もうあなたのそばには近づいてこないでしょうね。結果オーライじゃないの?」 そう続けて、夢乃は小さく微笑んだ。 得体のしれない薄気味悪い人間って、俺のことかよ。 それ、俺は笑えない。