3-2 ★ 初々しくて尊い
3-2 ★ 初々しくて尊い
兄上 あにうえ の愛馬に乗る許可を得た僕は、戸棚の地図を 懐 ふところ に入れ、 厩 うまや へ向かった。オスカルに 鞍 くら などの馬具をとりつけ、早速 跨 また がる。
――少し、目立つかな。
変装は完璧だが、命を狙われている身の上なので、馬で堂々と町を練り歩くのは危険だ。
――兄上の言った通り、森に行こう。
僕はこの町の地図を開いた。東の方角に広大な森がある。
数日前、森に住む信徒さんの自宅を兄上と訪れた。病弱な七歳の娘さんを持つ夫婦の家で、礼拝はもちろん学校にも通うことのできない少女の寂しさを紛らわす為、兄上が度々訪れて話し相手になっているのだという。
――あの子、だいぶ弱っているようだったな。大丈夫だろうか。
帰りに様子を見に行こう。「王都に行ってみたい、旅がしてみたい」と話していた。生まれ住んだ土地のことなら、観光案内ができるくらい詳しい。慰めになるなら、いくらでも語り聞かせよう。
地図を見ながら馬を走らせ、森の道の入口に着く。手綱を打ち、木漏れ日の中へ飛び込んだ。ここでなら思い切り駆け抜けられそうだ。それにしてもなんて清々しいのだろう。これは確かに名馬である。兄上は乗馬がお好きだと話していた。ミミを乗せて散歩にでかけたことがあると。愛する伴侶との二人乗りは最高のひとときだろう。しかし僕は一人乗りで十分だ。
――僕はもう誰も愛さなくて良いんだ。もう誰も!
人を愛する資格が無いのだ。
【 賢女 けんじょ ミミを振り、 悪女 あくじょ の嘘にそそのかされ、疑いなくそれを信じた 愚直 ぐちょく な王子様。次のお相手は誰?】
新聞でこのように叩かれた。その次は暗殺予告だ。
――チャールズは王に 相応 ふさわ しくない、と皆が言う。
暗澹《あんたん》たる過去を振り払いたく、オスカルと思い切り風を切る。国中どこにいても、僕の悪口が聞こえてくる。誰の声も聞こえないくらいに速く駆けたい。いっそ風になれたらどんなに良いか。
――全てから逃げ出してしまいたい。この夏が終わって欲しくないよ。
城に帰ったら、またあの 憂鬱 ゆううつ な日々の始まりだ。けれども全て 愚 おろ かな僕が招いたこと。ミミを傷つけた当然の 報 むく いである。「王の 器 うつわ ではない」と言われても仕方が無い。誰よりも分かっているんだ。
――兄上が王様で、ミミが王妃なら。
父上は内心それを望んでいるような気がしてならない。兄上が隠し子であることを世間に明かす機会を待っているのではないか。僕よりも兄上に心を配っているのは端から見ても明らかだ。でなければ兄上が蹴破った法廷の扉の修繕を受け入れ、わざわざ馬の絵を 彫 ほ らせたりはしない。
父上 ちちうえ の愛情の 天秤 てんびん は間違い無く 兄上 あにうえ へ 傾 かたむ いている。そして 兄上 あにうえ の愛情は妻のミミへ一心に注がれている。一人の女性を心から愛する 兄上 あにうえ の姿は、親から見ても、世間的にも印象が良い。けれど僕には 唯々 ただただ 眩しかった。
――対して僕の 体 てい たらくといったらどうだ。
救いを求めて兄上の 懐 ふところ に転がり込み、かつての元婚約者が愛される姿から目を逸らし、馬に乗りながら泣いている。
――馬鹿だなぁ。僕は本当に馬鹿だ。
何も無い、森の小道の真ん中で馬をとめた。
――死んでしまいたい。もういっそ、誰か殺してくれないか。
僕は小道の脇にそれ、森の中の道なき道を進んだ。オスカルは少し困惑しているようだった。途中でオスカルを止め、手綱を近くの樹にくくりつけると、草むらの上に横になった。
「暑いなぁ」
オスカルが身を屈め、僕の頬をべろりと舐めた。
「や、やめろ、くすぐったい」
オスカルはそれでもベロベロと舐める。
「まさか塩? 僕の汗がご馳走なのか? ハハハ、やめろ、やめろったら」
オスカルとじゃれ合いながら笑い転げる。くだらないことで大笑いしただけで気分が転じた。
「もう少し、ここにいていいか? ここは気持ちが良いな」
やはり外に出て正解だった。
「兄上とミミは本当に仲が良いな。オスカル、おまえは本当に良い家族と縁があったんだよ」
オスカルは僕をじっと見つめた。
――おまえも家族だろう、とオスカルに言われている気がする。オスカルとはやはり通じ合えているのではないか。
「家族は良いな。 殊 こと に相思相愛の夫婦は」
リンドバーグ夫婦を 傍 かたわ らで眺めていると、幸せをお 裾分 すそわ けされたような心地になる。
「兄上は今朝、ミミにキスしている間、ずっと手を握っていたんだ。ミミは嬉しそうだった。僕は彼女の手を握ったことも無い。婚約者だったのに」
――握り方が分からなかった。触れるのが怖かった。
「ミミと兄上は 初々 ういうい しくて 尊 とうと い。二人も僕と同じで、恋に 不慣 ふな れだと分かる。上手に 触 ふ れられなくても幸せになれるのだね」
愛し方に上手も下手も無いのだ。
不器用ながらも二人で知っていく幸せは僕にも用意されていたのに、僕は 随分 ずいぶん 汚れてしまった。夏草の香りの中で 瞼 まぶた を閉じると、並々と溜まっていた涙が頬を伝った。
――みんな子どものままなら良いのに。綺麗なままで、恋がしたかった。
お城にいる時も、同じことを何度考えたか。
夏空を眺めていると 瞼 まぶた が重くなり、夢の世界へゆっくりと沈んだ。
【つづく】