第11話:協定
第11話:協定
※ 帝国暦四三三年一月下旬――何が『まだ、大丈夫』だ、ふざけやがって! とマックイーンは胸中で毒づきながら走る。 通りは閑散としている。 第十二街区が活気づき始めるのは夕方以降だ。 おかしいとは感じない。 歓楽街が真っ昼間から賑わっている方がおかしい。 少なくともマックイーンはそう感じる。 クソ、クソッ、どうして、俺がこんな目に遭わなきゃならねーんだ! 俺は真面目に仕事をしていただけなのに! と必死に足を動かした。 マックイーンはニコル組の構成員だ。 主な仕事はニコル組の縄張りで客を取る街娼からショバ代を徴収することだ。 ショバ代を払いたがらないヤツもいるが、そんな時はナイフをチラつかせる。 ショバ代を支払えばそれでよし、それでも、支払わない時はナイフを使う。 もちろん、ナイフを使う時は相手を選ぶ。 稼げそうな器量の持ち主であればこちらが本気であることを示す。 稼げそうにない街娼を殺すのだ。 目の前で殺すか、徹底的に破壊した死体を見せる。 それでも、嫌がるようであれば殺すしかないのだが、度が過ぎるとショバ代も徴収できない無能、もしくは殺人を愉しむ異常者と判断されてしまう。 だから、マックイーンは周囲の反応を考えた上で行動しているのだが、新参者にはそれが分からない。 暴力の使い方を心得ていないばかりか、組の娼館で街娼を働かせようとするヤツまでいる。 トラブルを起こして娼館にいられなくなったと考えないらしい。 ニコル組の構成員は霊廟が完成してから増え続けている。 だが、自分の食い扶持を稼げるのは一握り、いや、一摘まみだ。 自分の稼ぎが無能な新参者を食わせるために使われている。 そう考えると働くのが馬鹿らしくなる。 とは言え、仕事をサボる訳にもいかない。 真面目に仕事をこなしていたのだが、獣人の警備兵に見つかった。 今日は大丈夫と聞いていただけに度肝を抜かれた。 賄賂を突っぱねられて二度ビックリだ。 仕方がなく逃げ出したのだが、警備兵は追い掛けてきた。 そのくせ、捕まえようとしない。 いくら鎧を身に着けているとは言え、獣人の身体能力ならば簡単に追いつけるはずなのに一定の距離を空けて追い掛けてくるだけだ。 諦めたか? と肩越しに背後を見る。 すると、そこには鎧を身に着けた獣人どもの姿があった。 心なしか人数が増えているような気がした。 ふざけやがって、絶対に逃げ切ってやる、と心に誓う。 第十二街区のことは裏路地まで知り尽くしている。 獣人ども……第十三近衛騎士団は昨日帝都に来たばかりで第十二街区のことを分かっていない。 よし、あの路地に逃げ込んでやる、とマックイーンは力強く大地を蹴った。 その時、逃げ込もうとしていた路地から黒豹の獣人が出てきた。 慌てて立ち止まる。 それがいけなかったのだろう。 無様に尻餅をつく羽目になった。 ナイフを抜こうとしたが、獣人が槍の穂先をマックイーンの喉元に突き付ける方が早かった。「分かった! もう逃げねぇ!」 マックイーンは両手を挙げて抵抗の意思がないことを示した。 後ろからやってきた獣人がマックイーンを地面に引き摺り倒して手首を縛り上げる。『こちらエッジ、目標を確保しました』(グルル) 黒豹の獣人……エッジというらしい……は手甲に話しかけた。※『こちらエッジ、目標を確保しました』(グルル)「目標確保!」 エッジの声が通信用マジック・アイテムから聞こえると、詰め所……正確に言えば詰め所の二階だが……にいるエルフの女性は通信内容を復唱した。 エルフの女性が座っているのは三方の壁際にある机の一つだ。 机には地図と通信用マジック・アイテムが置かれている。 中央のテーブルには第十二街区の地図を広げたテーブルがある。 通信指令室……現在、詰め所の二階は警備担当者から報告を受け、指示を出す役割を担っている。 メンバーは指揮官一名、通信担当三名、補助一名の五人体制だ。 ただし、メンバーは指揮官を除き、一定時間ごとに切り替わる。 クロノは二十四時間体制で警備をするために部下を三つのグループに分けてシフトを組んだが、流石に休憩を挟まずに仕事をするのは負担が大きい。 そこでグループを四つのチームに分け、交替で警備と詰め所を担当することにしたのだ。 クロノは扉の近くに立ち、通信指令室の様子を注意深く観察する。 今の所、上手く機能しているようだ。 部屋の中央を見ると、レイラは心なしか緊張した面持ちでテーブルの上に広げられた地図を見つめていた。 地図の上には赤い駒が一つ、黒い駒が三つ置かれている。 赤い駒は追跡中の犯人を示し、黒い駒は警備チームを示している。「おか、じゃなくて、レイラ百人隊長、目標を確保しました」「分かりました。地図から駒を移動させて下さい」 補助のスノウが報告すると、レイラは淡々と指示を出した。「駒を移動させます」 スノウは地図の上にあった赤い駒を地図の外に移動させた。「レイラ、新しい警備方法はどう?」「……犯罪者を一人泳がせてテストしてみましたが、問題はありませんでした」 クロノが尋ねると、レイラは少し間を空けて答えた。「今の所は、って感じかな?」「はい、私よりも他の二人がどう感じるかが重要だと思います」 なるほど、とクロノは頷いた。 帝都出身のレイラは通信指令室の不備を知識と経験で補えるが、帝都出身ではないシロとハイイロはそうもいかない。「クロノ様、宜しいのですか?」「新しく通信用のマジック・アイテムを作ったこと?」 はい、とレイラは小さく頷いた。 通信指令室の通信用マジック・アイテムはエリルが作ったものだ。 ピクス商会を通して購入するより安いが、それなりに費用が掛かっている。「う~ん、帝都で使うために作ったんじゃなくて、帝都で試験運用するために作っただけだから、安心して良いよ」「エラキス侯爵領とカド伯爵領に導入するために、ですか?」「それもあるけどね」 クロノは苦笑した。 もちろん、帝都で良い結果を残せれば自分の領地でも使うつもりだが……。「失礼しました。差し出がましい質問をお許し下さい」「いや、当然の質問だと思うよ」 レイラはここで話す内容ではないと判断したのだろう。 実験は始まったばかりだ。 まずは通信指令室がどれくらい役に立つのか見極めなければならない。「でも、まあ、通信指令室が機能して良かったよ。超長距離通信用マジック・アイテムを造った時もそうだったけど、新しいことをするのは緊張するね」 クロノは胸を撫で下ろした。「では、一度、屋敷に戻られては?」「レイラ、耳を貸して」 クロノが手招きすると、レイラはそっと耳を寄せてきた。「……そんなに眠そうに見える?」「はい、とても」 レイラは簡潔に答えるとクロノから離れた。 ピスケ伯爵の要望に応えるために第十二街区の警備兵長へ夜討ち朝駆けで引き継ぎを済ませた。 迷惑そうな顔をしていたが、引き継ぎをせずに詰め所だけ明け渡されても困るのだ。 警備兵も似たような反応だった。 流石に顔面蒼白になっている警備兵を見た時は申し訳ないと思ったが、ピスケ伯爵の要望に応えるためだ。 仕方がない。「……レイラは?」「私は大丈夫です」 クロノを安心させるためか、レイラは微笑むように目を細める。「何かあったらすぐに連絡してね。あ~、いつも使ってる通信用マジック・アイテムは圏外かな? もし、圏外だったら、伝令を走らせて……あとは調書! 調書も忘れないようにね」「分かりました」 レイラは忍び笑いを漏らした。※ 一週間後――通信指令室は大きなトラブルもなく機能していた。 レイラの提案で警備の偏りを防ぐために第十二街区を三ブロックに分けたお陰か、現時点で取り逃がした犯罪者はいない。 部下の半数が獣人であることやシロとハイイロが帝都の地理を把握する努力を惜しまなかったことを考えると楽観はできない。 ともあれ、第十三近衛騎士団は順調かつ真面目に警備をこなした。 問題があるとすれば……、「信じられない! 折角、捕まえた犯罪者を釈放するなんて!」「逮捕は軍務局、その後は尚書局の管轄だから、仕方がないさ」 クロノが声を荒らげて言うと、リオは溜息交じりに言った。「三回目だよ、三回目! あのマックイーンってヤツを捕まえたの!」 捕まえるたびに釈放されていたのでは治安回復なんて夢のまた夢だ。 おまけに登城して尚書局に抗議しても取り合ってくれない。「クロノ、もう少し声のトーンを落としてくれないかな? 声が聞こえないようにしているけれどね」 リオは一瞬だけ横……アルフォートと謁見するために登城した貴族達を見る。 大声で喚いているように見えるのに声が聞こえないのは逆に不自然ということだろう。 クロノは反論したい気持ちをグッと堪える。「どうして、釈放しちゃうのかな?」「元々、大した罪じゃないからね。罰金を払えばそれでおしまいさ」 リオは大仰に肩を竦めた。 どうやら、ケフェウス帝国には犯罪組織の資金源を断つという発想がないようだ。 何か問題が起きたら軍を投入すれば良いと考えているのかも知れない。「罰金が支払えなければ?」「鉱山とかで強制労働だね。まあ、刑期が明けるまでに死ぬケースが多いみたいだけど」「罰金を払えなくてもおしまいだよ」 空腹に耐えかねてパンを盗んだだけで人生が終了する。「……『ああ、無情』か」「上手いこと言うね」 リオはクスリと笑った。「それにしてもお金で解決ってどうなの?」「悪法も法なりさ」「リオが言うと重みがあるんだか、ないんだか分からないね」「どういう意味だい?」 リオは可愛らしく首を傾げた。「悪法に従って刑罰を受けるんならともかく、悪用してるんだもん」「クロノ、決闘で相手を殺しても罪じゃないよ? 実力差があり過ぎて一方的な展開になってしまったけれどね」「……下男は?」「おや、ボクは獣の餌になったと言っただけで殺したとは言ってないよ」 リオはニッコリと微笑んだが、目が笑っていない。「本当の所はどうなんでしょうか?」「クロノは猫なのかな?」 死にたいの? と言われたような気がした。「……あの、リオさん? 一応、僕はリオさんの恋人なのでは?」「その恋人が仕事を優先しているせいでボクは寂しい思いをしているんだけれどね?」「はい、時間を作らせて頂きます」 やはり、リオはプライベート優先らしい。 まあ、そうでなければ十ヶ月以上も仕事をほったらかしたりしないだろう。「話は戻るけど、警備の方はどうするんだい? 今のままじゃ、底の抜けた桶で水を汲んでいるようなものだよ」「罰金を支払っている訳だから、相手が音を上げるまで捕まえ続けるよ」 徹底抗戦だ、とクロノは拳を握り締めた。※ 一週間後――クロフォード邸の食堂、「駄目でした」 クロノはテーブルに突っ伏した。「いきなりそんなことを言われても訳が分からねぇよ」「捕まえた犯罪者が次から次へと釈放されるんで、犯罪組織と根比べしたら、こっちが音を上げる羽目になりました」「……おう、よく分かったぜ」 クロノが説明すると、対面の席に座る養父はしばらく間を開けてから言った。「何か解決策はないでしょうか?」「黒幕が出てくるまで暴れりゃ良いんじゃねぇか?」 養父は当然のように言った。「俺が若い頃の話なんだが、命を狙われたことがあってな。片っ端から刺客を返り討ちにしてたら黒幕が出てきたぜ。あとは……内乱期に舐めたマネをされた時は適当なヤツを締め上げてってのを繰り返したら黒幕に辿り着けたけどな」「……そ、それは斬新な解決策で」 だろ、と養父は満足そうに頷いた。 駄目だ。 相談する相手を間違えた。「その方々は?」「命を狙ってた方は訳の分からねぇことをほざいてたんで斬った。舐めたマネをしたヤツは戦場で死んだ」「戦場で死んだ方は流れ矢にでも当たったんでしょうか?」「ああ、不運としか言いようがねぇな」 クロノが恐る恐る尋ねると、養父は低い声で言った。 笑みを浮かべているので、事故だった可能性は限りなく低い。「あの、その、命を狙ってた方は手打ちにしようとしてたんじゃ?」「人の命を狙ったくせに手打ちも、糞もねぇだろ。一度裏切ったヤツは二度裏切るし、一度命を狙ってきたヤツは時期を見て命を狙ってくるもんなんだよ」 どうやら、寛容という言葉は養父の辞書に載ってないようだ。 ここまで突き抜けてしまうのはどうかと思うが、徹底抗戦と言っていた自分の生温さを思い知らされる。「旦那様、差し出がましいようですが、旦那様が若い頃とは時代が違うかと」 いつの間にやってきたのか。 マイラはクロノと養父の前に香茶を置いた。「私達じゃなくて、父さん限定なんだね」「クロノ様、私は今も若いですが?」 クロノがカップを傾けながら言うと、マイラはしれっと言った。「時代が変わっても人間は変わらねぇだろ?」「失礼するッス! お客様が来たッスよ!」 養父がシニカルな笑みを浮かべたその時、ジョニーが食堂に入ってきた。 マイラはジョニーの肩に手を置いた。「旦那様、コレが時代です」「何のことッスか?」 ジョニーは状況が分かっていないようだ。 養父はジョニーを見つめ、深々と溜息を吐いた。「……時代か」「はい、時代です」 養父とマイラはしみじみと呟いた。 よく分からないが、ジョニーは新しい時代を体現しているようだ。「そう、時代が……どひぃぃぃっ!」「咄嗟に投げちゃったッス」 ジョニーが照れ臭そうに言った。 視線の先……先程まで誰も座っていなかった席に白い軍服に身を包んだ青年が座っていた。 人差し指と中指で短剣を挟んでいる。 どうやら、青年はジョニーが投げた短剣をキャッチしたようだ。 十代後半にしか見えないが、近衛騎士に相応しい技量の持ち主のようだ。「いきなり人を殺そうとするなんて鬼ですか、貴方は」「許可なく他人の家に入るのは空き巣と一緒ッスよ。文句を言うのはお門違いッス」 青年は短剣をテーブルに置き、非難がましい目でジョニーを睨んだ。 だが、ジョニーは平然と言い返した。「……てめぇ、良い度胸してるじゃねぇか」「クロードさん、お久しぶりですね」 青年はまるで旧友に接するような口調で言った。「父さん、知り合い?」「ああ、内乱期にな。こいつはラマルのヤツを暗殺しようとしやがったんだ。四人がかりで何とか追っ払ったんだが……いや、見逃してくれたのかも知れねぇな」 全盛期の父さんやマイラと? とクロノは青年を見つめた。「何歳なの?」「五十は越えてると思います」 ふ~ん、とクロノは頷いた。「驚かないんですね?」「まあ、別に驚くようなことでも」 マイラは六十歳を超えているし、神官さんはもっと年上だ。「話の腰を折って、すみませんでした。続けて下さい」「何気に無茶振りしますね」 青年はコホンと咳払いをした。「……クロードさんは自分を過小評価しすぎです。あの時のクロードさんは本当に強かった。あのままやり合ってたら、負けていたのは僕でしたよ」「嬉しいぜ。決着をつけにきたってのか?」「今のクロードさんじゃ僕に勝てません。自分でも気付いているんじゃないですか?」「試してみるか?」 養父が獰猛な笑みを浮かべたその時、バタバタという足音が聞こえた。「てめぇっ! 勝手に入ってるんじゃねぇよ!」 足音の主……ヴェルナは青年に歩み寄ると、思いっきり拳を振り下ろした。「痛っ!」「何が痛いだ! この野郎!」 ヴェルナは青年を何度も小突いた。「……時代か」 養父は遠い目をして呟いた。※「……エラキス侯爵に折り入って相談があって参りました」 全盛期の養父達と互角以上に渡り合った暗殺者は食堂の床に正座しながら言った。 ヴェルナは苛々した様子で青年を見下ろしている。「僕は第六近衛騎士団の団長を務めるネージュ・ヒ……」「近衛騎士団長っ?」 青年……ネージュはヴェルナに邪魔をされて最後まで名乗れなかった。「あれ? 言いませんでしたっけ?」「言ってねーよ! 初めて会った時は訓練所の教官って言ってたし、名前だって今の今までアッシュ・キルマーで通してたじゃねーか!」「あれは嘘です」「知ってるよ!」 ヴェルナは叫んだ。「今日は何のために?」「エラキス侯爵が尚書局の対応に不満を抱いていると聞き、協力させて頂ければと馳せ参じた次第です」 クロノが尋ねると、ネージュは平坦な……今一つやる気のなさそうな口調で言った。「いえね、僕は面倒ごとを避けたいんですけど、部下……ああ、第六近衛騎士団の部下じゃありませんよ。『死の腕』時代の部下とその子ども達です」「ちょっと待て! お前、『死の腕』はなくなったって言ったじゃねーか!」「四分五裂して連携もままならなくなっただけですよ。僕の『死の腕』は健在です」「うわっ、ムカつく!」 ネージュが説明すると、ヴェルナはブルブルと拳を震わせた。「とにかく、部下が勤労意欲旺盛で……これも時代ですかね」 ネージュはしみじみと呟いた。 養父とマイラは渋い顔をしている。「協力してくれるのは嬉しいんですが、貴方達にどんなメリットが?」「部下の報告によれば尚書局の役人は犯罪組織から賄賂を受け取っているみたいなんですよ」 なるほど、とクロノは頷いた。 道理で捕まえてもすぐに釈放されるはずだ。 この分だと罰金を払っているか疑わしい。「汚職に関与している役人がいなくなればポストが空くでしょう?」「……つまり、面倒ごとを避けるために恨まれ役を引き受けて欲しいと?」「端的に言えばそういうことです。エラキス侯爵は功績をあげ、僕らは空いたポストを頂くと。もちろん、末永くお付き合いをしたいと思ってますよ」 どうでしょう? とネージュはクロノを見上げた。「一筆書いて下さい」「……はい?」「だから、一筆書いて下さい。貴方と貴方の部下の連名で」「あの、こういうことは口頭でやりとりすべきだと思うんですが?」「嫌です。一筆書いて下さい」 クロノはネージュの提案を一蹴した。 先程の養父の話ではないが、利益のために他人を陥れようとする人間を信じられる訳がない。「……部下と相談しても良いですか?」「どうぞ」 ネージュは深々と溜息を吐き、立ち上がった。「ところで、本当の狙いは何ですか?」「この先、何が起きても良いようにしておこうと思いまして。自分の目的のために部下を利用したくせに何を言ってるんだと思うんですけどね」 ネージュは苦笑した。「目的ですか?」「僕は知りたかったんです。何故、死を目の前にした人間が安堵の笑みを浮かべられたのかを」 きっと、その人は死を望んでいたのだろう。 苦しみからの解放……そう位置づければ死は救いになる。 だが、ネージュにはそんなことさえ分からなかったのだ。 恐らく、暗殺者として純粋培養されてしまったために。「それでは、失礼します」「またな、クロノ様」 ネージュは軽く頭を下げ、ヴェルナは軽く手を上げ、食堂から出て行った。※ 数日後、クロノは幽霊屋敷の応接間で尚書局の役人と対峙していた。 役人……ネージュから預かった資料によれば管理職らしい……は顔面蒼白でテーブルの上にある紙を見つめている。 詰め所で取った調書と尚書局に保管されている書類の写しだ。「何が望みだ? 金か?」「お金には困ってないんで結構です。まあ、告発することも考えたんですけど、帝国のために何十年も働いた方を処刑台送りにするのは気が引けますし、前エラキス侯爵のように自殺されるのも困るなと」 クロノはソファーの背もたれに寄り掛かった。 役人は忙しなく目を動かしている。 この場を切り抜ける方法を考えているのだろうが、そんな物はない。「職を辞せば命と名誉を守れますよ?」「……」 役人は無言だ。 頭を垂れて唇を噛み締めている。「家族にも迷惑が掛かるんでしょうね」「……分かった」 役人は押し殺したような低い声で言った。「話が早くて助かります」「……もう帰っても構わないか?」「はい、結構です」 役人は立ち上がると足早に応接間から出て行った。 クロノは天を仰ぎ、溜息を吐いた。「……汚職に関わった役人に辞職を勧めるだけの簡単なお仕事です」 仕事は順調に進んでいる。 当然と言えば当然だ。 命、名誉、金の全てを失うか、辞職してそれらを守るかの選択を迫られて前者を選ぶ人間はいない。 となればわざわざ事を荒立てる必要はない。「……空いたポストを頂くって言ってたけど」 その役職に就いていた人物がいなくなったからと言って、ネージュの部下がその役職に就けるとは限らない。 空いたポストを狙えるポジションにいると言うことだろう。 暗殺集団の元構成員が潜り込んでいる帝国の現状も恐ろしいが、利用価値があると思われたことも恐ろしい。「早まったかな?」 クロノはもう一度、溜息を吐いた。