LNCrawler

第1話:新兵の長い一日

クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです — novelup.plus · All chapters

第1話:新兵の長い一日

※ 帝国暦四三三年四月――シャウラは夢を見ている。 救貧院で初めてあの人と出会った時の夢だ。 夢の中で仲間と救貧院の通路に立ち、あの人が来るのを待っていた。 小さな胸を支配していたのは恐怖だった。 口には出さなかったが、あの場にいた全員がこれから売られていくのだと考えていたように思う。 そう考えなければ美味しいご飯をお腹いっぱい食べさせてくれたことやお日様の匂いがする寝床を用意してくれた理由を説明できなかった。 売られるのは嫌だったけれど、そんなことを言える立場ではなかった。 シャウラ達は孤児だった。 だから、いなくなっても誰も悲しまない者が切り捨てられるのは仕方がないことだ。 そう自分に言い聞かせた。 どんな目に遭わされるのか考えて震えていると、あの人がやって来た。 第一印象は怖いだった。 彼の顔には大きな傷があったし、ボロボロのマントは母が寝る時に話してくれた| 昏 ( くら ) き森にいる死霊を連想させた。 それにあの目だ。 まるで下らない物を見るような目で自分達を見ていた。 それが堪らなく恐ろしかった。 彼はよりにもよってシャウラの前で立ち止まった。 怖かったが、気分を害したら酷い目に遭わされると思い、必死に彼を見上げた。 すると、彼は手を伸ばしてきた。 避けてしまった後で怒らせてしまったかも知れないと猛烈に後悔した。 しかし、後悔をする時間は大して与えられなかった、彼はシャウラの頭を掴み、乱暴に揺すったのだ。 パニックに陥らなかったのは奇跡と言って良かったが、やはりと言うべきか、平静さを取り戻す時間は与えられず、名前を聞かれた。 シャウラが名乗ると、彼はぎこちなく笑い、良い名前だと誉めてくれた。 そこでようやく彼を理解できたと思う。 彼はどうして良いのか分からなかったのだ。 それでも、一生懸命考えて頭を撫でようとした。 初めての出会いはそれで終わり。 けれど、帰ってくるのを待ってるよという言葉は胸に焼き付いた。※ 目を覚ますと、光がカーテンの隙間から差し込んでいた。 パチ、パチと目を瞬かせ、体を起こす。 そこは土臭い新兵訓練所ではなく、エラキス侯爵領の城砦都市ハシェルにある兵舎だった。 ハシェルには兵舎が二つある。 街壁の外にある新兵舎と街壁の中にある旧兵舎だ。 新兵舎は古参兵が使い、旧兵舎はシャウラのような新兵が使っている。 文句はない。 旧兵舎は外観こそ古びているものの、内部はしっかりした造りで清潔感もある。 家具が据え付けられている上に二人部屋だ。 さらに食事は一日三食ときている。 これで文句を言ったらバチが当たってしまう。 部屋の反対側にあるベッドを見ると、少女が灰色のショーツに包まれたお尻をこちらに向けていた。 彼女の名前はエルザと言う。 帝都出身のハーフエルフだ。 髪と瞳の色は明るいブラウン、垂れ目がちなのに眼光は鋭い。 女性にしては長身だが、肉付きは良くない。 まあ、食事をバクバク食べているので、すぐに太るだろう。 シャウラはベッドから下り、手早く軍服に着替える。 軍服を着ると、得も言われぬ満足感が込み上げてくる。 う~ん、とエルザは唸り、俯せになった。 しばらくすると両腕で体を起こし、猫のように体を伸ばした。「おはよう、シャウラ」「おはようございます」 エルザは手早く制服に着替え、ベッドに腰を下ろした。「今日の予定は何だっけ?」「街の警備です」 正確には掃除、朝食、朝礼、街の警備、昼食、街の警備、終礼、夕食、自由時間の後に就寝となる。 訓練の日は街の警備が訓練に変わるだけなので、詳しいスケジュールは言わなくても分かっているはずだ。「警備は楽で良いわよね」「そんなことを言ったら怒られますよ」「真面目ねぇ」 エルザは苦笑いを浮かべた。 着任してから二週間……訓練は非常に厳しく、落伍しないのがやっとという有様だ。 対して街の警備は比較的楽だ。 と言っても、今は殆どできることがないから楽に感じるだけかも知れないが。 今は仕事を覚える段階、いや、仕事を覚えさせて良いか見定めようとしているように思える。「それにしてもホントに治安が良いわよねぇ」「そうですね」 同意してみたものの、正直に言えばよく分からない。 シャウラが知っているのは自分が住んでいた集落とハシェルだけだ。「お店は賑わってるし、行商人の行き来は盛んだし、これでお金があれば言うことないんだけど」「前借り制度を利用すれば良いと思います」 着任した時、ミノ副官から新兵は最大銀貨十枚まで給料を前借りできると説明を受けた。 シャウラは使っていないが、利用者は多いようだ。「借金は嫌よ。どんな目に遭わされるか分かったもんじゃないわ」 エルザは顔を顰めて言った。「借金じゃなくて前借りですよ」「同じことじゃない」 確かに未来の自分からお金を借りるようなものだろう。「賄賂も貰えそうにないしな~」「止めた方が良いと思います」 街の警備はチームを組んで行う。 全員の目を誤魔化すのは無理だし、説得するのだって難しい。「分かってるわよ」「一回目で営倉行き、二回目は……教えてくれませんでしたね」 分かっているな? とだけ言われた。「でも、よくできてる制度よね。領主様が営業の許可を出してるんだから、私達に賄賂を渡してもしょうがないものね」「そうですね」 取り敢えず、相槌を打っておく。 正直、制度なんて言われても分からない。「全体が腐ってれば別だけど、そういう雰囲気じゃないしね」「そうですね」 シャウラが再び相槌を打つと、エルザは訝しげに目を細めた。「分かってないでしょ?」「はい、分かってません」「ったく、アンタって子は。情報くらい仕入れておきなさいよ」 エルザは溜息交じりに言った。「情報?」「そ、情報。たとえばエラキス侯爵だけど……って、アンタらは知ってるか」 シャウラは首を横に振った。 クロノについて知っていることと言えば優しい人であることくらいだ。「どうして、知らないの?」「神聖アルゴ王国から逃げてきて、すぐに新兵訓練所に行ったからです」「つまり、流民ってこと?」「……そう」「ああ、そういうことね」 エルザは納得したと言わんばかりに頷いた。「エラキス侯爵について説明した方が良い?」「お願いします」「じゃあ、ご要望にお応えして……エラキス侯爵は」 エルザはもったいぶるように言葉を句切った。「女癖が悪い」「掃除道具を取ってきます」「ちょっと待ってよ! かなり重大な情報でしょ!」 部屋を出ていこうとしたら、回り込まれてしまった。 仕方がないので、自分のベッドに戻って腰を下ろした。「詳細は不明だけど、ハーフエルフにも手を出してるらしいわ。きっと、荷馬車の御者席に座っていた女がそうね」 言われてみれば銀髪と褐色の肌を持つハーフエルフがいた。「それなら私にも目があると思わない?」「……」 何と言えば良いのだろうか。「同意してよ、同意。これでも地元じゃ……ごめん。今のなし」「分かりました」 自分の過去を明かしたがらない女性兵士は多い。 ここでは互いに詮索しないのがルールだ。 下手に聞き出せば相手ばかりか、自分の傷まで抉ることになる。「じゃ、やり直すわね?」「どうぞ」「同意してよ、同意。いつまでも兵士を続けられるものじゃないんだし、貴族の愛人になれば……別れる時に手切れ金くらいは貰えると思うのよ」「勉強して事務員になれば良いと思います」 ミノ副官は教育制度についても説明していた。 何でも希望者は無料で勉強を教えて貰える上、退役後は事務員として雇って貰えるらしい。「シャウラは申し込んだの?」「はい。順番が来るまで時間が掛かるみたいですけど」「物好きねぇ」「クロノ様のお役に立ちたいんです」 シャウラはちょっとだけ嘘を吐いた。 クロノの役に立ちたい気持ちに嘘はないが、読み書きができれば格好良いと思ったからだ。「う~ん、ただで勉強を教えて貰える訳だし、私も申し込んでおこうかな」「それが良いと思います」 シャウラとエルザのシフトは同じだ。 これはよく眠れるようにという配慮らしい。 それはさておき、知り合いが一緒なのは頼もしい。「さて、掃除しますか」「……はい」 シャウラは小さく頷き、立ち上がった。※ 食堂は賑わっていた。 トレイを手に列に並び、横長の配膳台の向こう側に立つ女性から料理を受け取る。 女性は民間人だ。 調理、配膳、皿洗い、洗濯、風呂の準備もしてくれるが、掃除だけはしてくれない。 シャウラは料理を受け取り、空いている席に座った。 エルザは隣の席だ。 対面の席が空いているのに隣の席に座る理由は分からない。「今日の料理も美味しそうね!」 エルザはテーブルにトレイを置き、手を摺り合わせた。 メニューは大きなパン、肉団子と野菜のたっぷり入ったスープ、キャベツたっぷりサラダだ。 ちなみお代わりは自由だ。「太りますよ?」「大丈夫よ。皆、太るから」 確かに仲間も太ったと言っていた。 それでも、パッツンパッツンな制服を着ている者がいないのは無料で仕立て直して貰えるからだ。 仕立て直す限界を超えてしまった場合には新しい制服を仕立てることになる。 まあ、シャウラはどちらも利用する予定がないのだが。「んー、美味しい!」 エルザはスープを口に運び、幸せそうに相好を崩した。「シャウラ、空いてる?」 顔を上げると、エルフの少年……リゲルが立っていた。 髪と瞳の色はブラウン、中性的な顔立ちで体の線は細い。「空いてます」「ありがとう」 リゲルは対面の席に座った。「今日の予定は?」「街の警備です」 ふ~ん、とリゲルは興味なさそうに相槌を打ち、パンに齧り付いた。「リゲルは?」「俺達は訓練だよ。だから、控え目に食べないと」 言われてみればトレイに載っている料理は少なめだ。 食事制限をされている訳ではないのだが、食べ過ぎると訓練に支障を来す。 訓練の厳しさに嘔吐することもあるので、控え目に食べなければならない。「シャウラ、話してないで紹介してよ」「彼女は同室のエルザ、彼は仲間のリゲルです」 シャウラは手の平でエルザとリゲルを指し示す。「よろしく」「こちらこそ」 エルザとリゲルは身を乗り出して握手を交わした。「ここの訓練は新兵訓練所とは比べものにならないほどキツいよね」「先輩方はあれこれやってくるものね」 シャウラはスープを口に含みながら頷いた。 先輩方は強い。 新兵とは言え、獣人が組み手でエルフやドワーフに手も足も出ないのだ。 実戦形式になるともうお手上げだ。 ただでさえ力の差があるのに先輩方は汚い手まで使ってくる。 しかし、あれだけ強い先輩方がなりふり構わずに戦っている所を見ると、自分もなりふり構わずに戦わなければならないという気になる。「けど、強くなってる実感はあるな。弓も……機工弓だっけ? 新兵訓練所で使ってたヤツとは使い勝手が違うけど、凄い威力だし」「確かに凄い威力だけどね」 エルザはパンを小さく千切りながら呟く。 弓が凄いのであって、リゲルが凄いのではないと言いたいのだろう。 確かに機工弓は凄い武器だ。 支給される鎧も、補助武装の短剣も新兵訓練所で使っていたものとは性能に差がありすぎる。「早く戦争にならないかな。そしたら戦功を立てられるのにさ」「私は戦争なんて勘弁して欲しいわ」 そう言って、エルザはパンを頬張った。 シャウラはサラダを食べながら頷いた。 自分の力量ではクロノの役に立つどころか、古参兵の足を引っ張って終わりだろう。「シャウラはそれで良いの?」「それで良いです」 同意を得られなかったからか、リゲルは面白くなさそうな顔をした。 彼は神聖アルゴ王国の兵士を殺して家族の仇を討ちたいのだろう。 もちろん、シャウラだって家族の仇を討ちたいが、そのために戦争を望むのは間違っているような気がする。 あの国は亜人を根絶やしにしようと、要らないものと考えているのだから、自分達がクロノの領地の発展に貢献すれば鼻を明かしてやれるはずだ。「……シャウラなら分かってくれると思ったんだけど」 リゲルはスープを掻き込むと席を立った。「良かったの、同郷なんでしょ?」「それはそれです」 もう少し頭が良ければ別の言い方をできたかも知れないが、今はこれが精一杯だ。「まあ、同じような経験をしたからって同じ感情を抱くとは限らないものね」「そういうことです」 シャウラはパンを頬張った。※ シャウラは背筋を伸ばして前方を見つめる。 奥には街壁が聳え立ち、その手前にミノ副官と百人隊長……アリデッド、デネブ、タイガ、ナスルが並んでいる。 さらにその手前には頑丈そうな台がある。 ミノタウルスであるミノ副官が乗ってもビクともしない台だ。 百人隊長の中で比較的縁があるのはタイガとナスルだ。 タイガは警備の責任者、ナスルは弓兵の訓練担当だ。 アリデッドとデネブは騎兵隊に所属しているので、朝礼の時くらいしか顔を合わせる機会がない。 ナスルが歩み出て、声を張り上げる。「ただ今より朝礼を始める!」 四方から声が響く。 これは通信用マジック・アイテム……厳密には通信用ではないらしいが……を使っているからだ。「ミノ副官より訓示がある!」 ミノ副官は台の上に上がり、背筋を伸ばした。「ミノ副官に敬礼!」 ナスルの号令に合わせて敬礼をすると、ミノ副官は少し間を置いて敬礼をした。「直れ!」 号令に合わせて直立不動の姿勢を取る。『……新兵が補充されて二週間が過ぎた。ようやく雰囲気に慣れてきた頃だと思うが、だからと言って、舐めたことをするな』(ぶも、ぶも~) 四方から押し殺したような低い声が押し寄せてくる。『舐めたことってのは悪さってことだ。悪さをする兵士は俺達が築き上げた信用って財産を食い潰す害虫だ。俺に害虫駆除をさせるな。分かったな?』(ぶもぶも) 背筋が凍りつくとはこのことだろう。 何故か、アリデッドとデネブが目を泳がせていたが、気のせいに違いない。『俺からは以上だ』(ぶも)「ミノ副官に敬礼!」 再びナスルの号令に合わせて敬礼する。 先程の敬礼よりも揃っているような気がするのは気のせいではないだろう。「以上で朝礼を終了する! 解散!」 朝礼が終了し、シャウラは分隊長……ザグの下に向かう。 彼の前にはシャウラ、エルザの他に八人のエルフとハーフエルフがいる。 八人中、四人が古参兵、残り四人が新兵だ。「皆、揃ったな」 ザグは自分の部下が集まっていることを確認すると咳払いをした。「ミノ副官も仰っていたが、馬鹿なことをするんじゃないぞ」 エルザを含めた新兵はまたかという表情を浮かべる。 ザグもそのことに気付いているはずだが、気分を害するどころか、理解に似た表情を浮かべている。「今のハシェルからは想像もできないかも知れないが、クロノ様が領主になる前は治安が非常に悪かった。民は重税に喘ぎ、汚職が横行していた。そして、俺達はそれを受け容れていた」 古参兵は同意するように頷いた。「領主になられたクロノ様は税を軽減し、自らが範を示すことで金で便宜を図る時代は終わったと知らしめた」 ザグはそこで言葉を句切った。 その瞳は恋する乙女のように輝いている。「だが、それで終わりじゃない。治安を回復させるためには今までとは違うと信じて貰う必要があった。もちろん、一朝一夕で信用されるもんじゃない。地道な努力の積み重ねで今のハシェルがあるんだ」 ザグを始めとする古参兵は何処か誇らしげだが、エルザを含めた新兵は今一つ理解できていないようだ。 自分はどんな表情を浮かべているだろう。 きっと、エルザ達と同じような表情をしているに違いない。 治安が悪かったと言われても信じられない。 街は活気に満ち、多くの住民は幸せを享受しているように見える。 もちろん、そう見えるだけで実際には様々な不幸があるのだろう。 兵士が巡回していても暴力から逃れられるとは限らない。 それでも、殆どの住民は明日が来ると信じているはずだ。「……今は信用が財産と言われても分からないだろうが、真面目に仕事をしろ。そうすれば分かるようになる」 本当に分かるようになるだろうか? とシャウラは内心首を傾げた。※ シャウラは露店区に立つ。 朝が早いこともあってか、露店区は閑散としていた。 昼時ともなれば人々でごった返すのだが、今は殆どの店が開店の準備をしている。 開店の準備をしていない店もあるのかと言えば違う。 食材を扱っている露店はすでに営業を開始しているのだ。 露店区の一角では威勢の良い掛け声が響いている。「安いよ! 新鮮な魚だよ!」「こっちはさっき収穫したばかりのキャベツだよ!」「豆で~す! 豆がありますよ!」「山菜だよ! 山菜! 昏 ( くら ) き森から命懸けで採ってきた山菜だよ!」「これぞ、珍味! 歩き出すほど活きの良いタコだよ!」「酢漬けです! 我が家秘伝の酢漬けですよ!」 どの店主も食材を買って貰おうと必死だ。「……シャウラ」「っ!」 シャウラはエルザに脇腹を指で突かれて飛び上がった。「あ、ごめんね」「ビックリしました」 シャウラは油断なく周囲を見回した。 幸いと言うべきか、目撃者はいない。 ザグを始めとする古参兵は店主に声を掛け、新兵は眠そうな顔で突っ立っている。 小さく息を吐き、胸を撫で下ろす。「そんなに気を張らなくても大丈夫よ」「そうでしょうか?」 新兵とは言え、ハシェルの治安を守る兵士なのだ。 無様な姿は見せたくない。「余裕がないと思われる方が問題でしょ?」「……そうかも知れません」 緊張は伝染するのだ。 兵士が緊張していたら住民は何かあるのではないかと不安になってしまう。「で、何を見てたの?」「露店を見てました」「それは分かるわよ」 エルザは呆れたような口調で言った。「凄い活気です」「売れ残ったら料理を扱っている店に安く買い叩かれるから必死なのよ」「料理を扱う露店を出せば良いと思います」「そりゃ、無理でしょ」 良いアイディアだと思ったのだが、エルザはそう考えていないようだ。「食材を扱っている店はそれだけやってりゃ良いってもんじゃないのよ」「……?」 シャウラが首を傾げると、エルザは苦笑した。 小馬鹿にしたような笑いではなく、可愛いわねとでも言いたげな笑いだ。「あそこの店主は兼業……本職が別にある人達が殆どなの。漁なり、畑仕事なりをしていて、そこで採れたものを売りに来てるのよ」「……そう」 他の人より長く働いているのなら今以上に働くのは難しいだろう。「詳しいですね?」「普通でしょ、普通」 エルザが普通なら自分は何なのだろう。 そんなことを考えていると、ワシワシと頭を撫でられた。「心配しなくても大丈夫よ。情報を仕入れなきゃダメって言うヤツはいると思うけど、私の経験上、普通に仕事をしていれば情報なんて勝手に入ってくるわ」「そういうものなんですか?」「そういうものなのよ」「いや、普通に仕事をしていても情報は得られんぞ」 突然、背後から声を掛けられ、シャウラとエルザは反射的に振り返った。 すると、そこには黒髪の美女が立っていた。「シャウラ、久しぶりじゃな」「……?」 女性を見つめ、首を傾げる。「わ、忘れておらんよな? ワシは命の恩人じゃぞ?」「覚えてます。ただ、名前を教えて貰わなかったので……」 女性は胸を撫で下ろした。「うむ、ワシは『漆黒にして混沌を司る女神』に仕える大神官……ここでは神官さんと呼ばれておる」「あの時はお世話になりました」 シャウラは神官さんに頭を下げた。「ハシェルに『暗黒神殿』ってあったかしら?」「あるぞ?」 神官さんは肩越しに背後を見た。 視線の先には粗末な看板と木箱があった。 看板に何と書かれているかは分からないが、困窮していることは分かった。「どうやって、生計を立てているんですか?」「うむ、人生相談で生計を立てとる」 プッという音が聞こえた。 隣にいたローブを着た女性が吹き出したのだ。 神官さんの顔が真っ赤に染まる。「生活できてますか?」「……侯爵邸で世話になっとる」 暗く沈んだ声だった。「いや、世話にはなってないかも知れん。家賃、食費、こっそり飲んだ酒まで借金として帳簿に付けられとるし」 神官さんを見ていると申し訳ない気持ちが湧き上がってくる。 仮にも命の恩人なのだ。 蔑ろにして良いはずがない。「ふ~ん、で、シャウラに何の用だったの?」「……情報を提供する代わりに寄付をして貰おうと思ったんじゃ」 エルザが問い掛けると、神官さんは申し訳なさそうに肩を窄めた。「ワシは命の恩人じゃもの」「大神官なんでしょ?」「そうじゃけど、ワシは要らない子なのかも知れん。神殿の連中は追い掛けてきてくれんし、イグニスは手紙を送ったのに連絡も寄越さん。人情紙風船とはこのことじゃ」 神官さんはとうとう俯いてしまった。「ワシ……若い頃は神聖アルゴ王国のために頑張ったんじゃぞ。死に物狂いで頑張ったワシがこんなんで、な~んにも知らん若い世代が贅沢してるなんておかしいではないか。世の中は間違っとる」 とうとう愚痴まで言い始めた。 シャウラの中で神官さんに対する評価がガンガン下がっていく。「お主らはワシを見捨てんよな?」「お主 ら ( ・ ) ?」 意味が分からずに首を傾げる。「兵士になった十人に決まっとるじゃろ。たった十人じゃが、立派な信者じゃ」 神官さんは偉そうに胸を張った。 それにしてもシャウラ達はいつの間に『漆黒にして混沌を司る女神』の信者になったのだろう。「他の人達は?」「アイツらは『黄土にして豊穣を司る母神』の信者になってしまってな」 無理もないと言うか、当然のように思える。 こんなことは言いたくないが、神官さんは神聖アルゴ王国から逃がしてくれただけでそれ以上のことをしていない。 逃げた先で温かく迎えてくれたのはクロノで、親身になって世話をしてくれたのは『黄土神殿』だ。 一回くらいならお金を渡しても良いが、信者になるのは勘弁して欲しい。 多分、仲間達も同じことを考えるのではないだろうか。「……勘弁して欲しいと考えていたじゃろ?」「ごめんなさい」 シャウラは素直に謝った。「……お金なら」「金など要らん! ワシは金のために助けた訳ではないぞ!」 じゃあ、どうしろと言うのか。「な~んか、面倒臭いわね。お金が欲しいんじゃないの?」「金のために助けたみたいに思われたくないんじゃもん!」「でも、お金は欲しいんでしょ?」「金は欲しいが、それよりも信者が欲しいんじゃ!」 う~ん、とエルザは唸った。「信者と寄付金が欲しいのね?」「うむ、まあ、そういうことじゃ」 結局、金が欲しいようだ。「じゃあ、私が信者になってあげるわ」「エルザさん?」「良いのよ。昔、漆黒し……『神殿』じゃなかったけど、助けて貰ったことがあるの。要するに恩返しね」「おお、遂に二人目の信者が!」「二人目?」 そんな奇特な者がいるのだろうか、とシャウラは首を傾げた。「一人目は騎兵隊長のフェイじゃ。まあ、ヤツはワシの所に一度も寄付金を持ってきておらんが……」「事実上、私が一人目の信者ってことね」 エルザは嬉しそうに笑った。「で、信者って何をすれば良いの?」「食事の前と寝る前、暇な時に祈りを捧げるだけで構わんぞ」「それだけで良いの?」「うむ、それだけで良いぞ」 神官さんはこれでもかと胸を張った。「そんな簡単なことで良いかしら?」「うむ、ワシは『黄土神殿』みたいに農業技術を教えたりできんからの。まあ、傷や病気の治療ならやってできんこともないが……」 大神官にできないことなどあるのだろうか。「何のメリットもないの?」「信者になることで神の愛が手に入るぞ」「愛?」 エルザは胡散臭そうに顔を顰めた。「神の愛は存在の肯定……ここにいて良いと認めて下さると言うことじゃ。それは魂の安らぎでもある。まあ、好き勝手やったら牢にぶち込まれるがな」 神官さんはニッと笑った。「取り敢えず、寄付するわね」 エルザはポーチから銀貨を取り出して神官さんに渡した。「お金を持ってたんですね」「いざと言う時のために取っておいたのよ」「おお、初めての寄付金じゃ! お主に神の祝福を!」 エルザは目を潤ませる神官さんの肩に優しく手を置いた。「私じゃなくて、自分のために祈って」「おお、世の中は捨てたもんじゃないの。それはともかく、お主に神の祝福を!」 そう言って、神官さんは自分の店……と呼ぶにはあまりに見窄らしいが……に戻って行った。※「はぁ~、ようやく食事ね」「お腹が空きました」 シャウラとエルザはそんなことを言いながら兵舎の食堂に入った。 食堂は人気がなく、土の臭いが漂っている。 太陽は中天を過ぎた頃、訓練を行っている兵士は一斉に食事を摂るが、警備を担当する兵士は交替で食事を摂る。 トレイを取り、自分でパンを手に取り、料理を皿に盛りつける。 お腹がペコペコなので、手近な席に座る。 エルザは対面の席に座り、祈りを捧げるように手を組んだ。 しばらくして目を開け、はにかむように微笑んだ。「何か照れ臭いわね」「そうですか?」「ええ、ちょっとだけ」 シャウラとエルザは無言で料理を食べる。「それにしても意外でした」 エルザはパチ、パチと目を瞬かせた。「ああ、私が寄付したことね?」「はい、エルザさんはそういう人ではないと考えていたので」 もっと金に汚いと思っていた。「酷いことを言うわね」「すみません」「けど、まあ、帝都にいた頃なら寄付なんてしなかったわね。今回だって、いざって言う時が来ないかもって思ったから寄付した訳だし」「私は挨拶に行こうと思います」 余裕があるから寄付をする。 当たり前と言えば当たり前だが、シャウラはその当たり前のことをしなかった。 兵士になったばかりで他に気を回す余裕がなかったとは言え、命を救ってくれた神官さんに挨拶をするべきだった。「神官さんに?」「いえ、『黄土神殿』にです。あとは暇な時にでも開拓村に……」 救貧院には世話になったし、ディノ達にも逃亡中は世話になった。 やはり、一度くらいは挨拶に行くべきだろう。「ふ~ん、でも、一人で行くのは厳しいんじゃない? それなりに距離があるから馬車に乗らなきゃならないでしょ?」「……頑張ります」 とは言ったものの、自信がない。 馬に乗れないので、行商人や露店の店主と交渉して馬車に乗せて貰うことになるが、どう交渉すれば良いのか分からない。「だったら、私が一緒に行ってあげようか? 馬車に乗せて貰う交渉は私がするから、お金が掛かった時は折半って感じで」「悪いです」「あ~、私にも目的があるから気にしないで」 エルザはパタパタと手を振った。「知り合いでもいるんですか?」「いないわよ」「じゃあ、どうしてですか?」 シャウラが首を傾げて尋ねると、エルザは苦笑した。「海ってヤツを見てみたいのよ」「……うみ?」「ああ、海ってのはね。すご~く大きな湖みたいなものね」 大きさを伝えるためか、エルザは両腕を広げた。 海は語彙にないが、湖ならば辛うじて分かる。 死んだ母によれば湖は沼よりも大きく、水が澄んでいるらしい。 湖ならば辛うじて想像できるが、それよりも大きいとなると完全に想像の埒外だ。「どれくらい大きいんでしょう?」「ん~、見渡す限りらしいわよ」「……見渡す限り」 シャウラは鸚鵡返しに呟いた。「凄すぎてイメージが湧かないけど、一度くらいは見てみたいじゃない?」「そう、ですね」 見渡す限り水……一体、どれくらい大きいのだろうか。「……けど」「けど、何?」「兵士がそんなことをしても良いんですか?」 シャウラの望みはクロノの役に立つことだ。 自分のやりたいことをやるというのは少し違うような気がする。「兵士だからって自分のしたいことを我慢しなきゃいけないなんて法はないでしょ? 少しは騎兵隊のアリデッド隊長とデネブ隊長を見習いなさい」「遠くから見たことしかないです」 アリデッドとデネブは街道を警備しているので、朝礼以外で顔を合わせる機会がないのだ。「あ、そうなの? まあ、良いわ。あの二人は非番の時に楽しそうにしてるの」「……はぁ」 適当に相槌を打つ。「分かってないわね。あれだけちゃらんぽらんにしてて隊長になれたってことはクロノ様も認めてるってことよ」「そうでしょうか?」 シャウラは首を傾げた。 どうして、実はしっかりしているとか、凄い実力を備えているとか考えないのだろう。「言いたいことは分かるわ。実は凄いのかもってことよね? けど、ミノ副官は実力があっても信用を損ねるような真似をしたら許さないと思うのよ」「それがどうかしたんですか?」「つまり、あの二人くらいのちゃらんぽらんさなら怒られないってことよ」「私はクロノ様にダメな子と思われたくないです」 エルザは小さく溜息を吐いた。「別にダメな子になれって言ってる訳じゃないわよ。クロノ様は兵士だから自分のしたいことを我慢しろなんて仰ってないんじゃないかって言いたかったの」「……ああ」 シャウラはようやく合点がいき、声を漏らした。「これで大手を振って海に行けるでしょ?」 はい、とシャウラは小さく頷いた。 ※ シャウラは早めに食事を切り上げて救貧院に向かった。 エルザは非番の日でも良いんじゃないと言ったが、今日できることは今日中にしておくべきだと思ったのだ。 救貧院の受付には中年の女性が座り、机を挟んで男性が立っていた。 浮浪者に見えないので、仕事を斡旋して貰っているのだろう。 しばらく待っていると、男性は女性から紙を受け取り、やや興奮した面持ちでその場から立ち去った。 どうやら、仕事を斡旋して貰えたようだ。「兵隊さん、何のようだい?」「あの、シオン様はいらっしゃいますか?」 受付の女性が訝しげな表情を浮かべ、シャウラは自分の失敗を悟った。 質問に質問を返すのは円滑なコミュニケーションとは言えない。「以前、この救貧院でお世話になった者です」「ああ、あの時の。確か、シャウラだったね。立派になってたんで、分からなかったよ」 忘れられているとばかり思っていたが、覚えてくれていたようだ。「シオン様に挨拶に来ました」「そりゃ、院長も喜ぶよ。何なら呼んで来るけど?」「……いえ、そこまでして貰う訳には」「分かった。院長は執務室にいるはずだよ。場所は分かるね?」 はい、とシャウラは頷いた。一度も足を踏み入れたことはないが、二階の突き当たりにあることは覚えている。「じゃ、入りな」「ありがとうございます」 会釈をして救貧院に入る。 内部はシャウラが世話になっていた頃とあまり変わっていないようだ。 いや、以前よりも入院者の人数は減っているだろうか。 まあ、救貧院が閑散としているのは良いことだ。 奥の階段を登って二階に移動。 突き当たりにある執務室の前で立ち止まり、深呼吸を繰り返した。 ノックすると、すぐに扉が開いた。 扉を開けたのは神官服の女性……シオンだった。 日に焼けた肌は相変わらず、雰囲気は以前よりも柔らかくなっただろうか。「シャウラさん、無事に兵士になれたんですね」「はい、着任して二週間も過ぎてしまいましたが、お世話になった御礼を……その、給料日前でお金はあまりないんですけど」 シオンは小さく微笑んだ。「その気持ちだけで十分ですよ。丁度、香茶を淹れる所だったんですが、一人で飲むのも味気ないですし、一緒に如何ですか?」「お言葉に甘えさせて頂きます」 シオンが踵を返し、シャウラはその後に続いた。「こちらにどうぞ」「ありがとうございます」 促されるまま執務室の一角にあったソファーに腰を下ろす。 視線のみを動かし、周囲を確認する。 執務室の印象は質素の一言に尽きる。 家具は素人目にもしっかりした造りだが、実用本位を体現したかのように飾り気がない。 恐らく、救貧院と兵舎の家具は同じ職人……侯爵邸の工房で働いているドワーフが作ったのだろう。「熱いから気を付けて下さいね」「ありがとうございます」 シオンが静かにカップをテーブルに置いた。 シャウラはカップを手に取り、口元に運んだ。 口に含むと舌が少しだけピリッとした。 辛くて苦いが、決して不快ではない。 口に含んでいた分を飲み下し、ホッと息を吐く。 熱が体の内側から広がっていき、体が少しだけ軽くなる。 自分では意識していなかったが、緊張していたのかも知れない。「どうですか?」「美味しい、です」「まだまだ寒いので、血行促進作用のあるハーブを使ったんですよ」 シオンは嬉しそうに言って、対面のソファーに座った。「すみません。挨拶に来るのが遅くなりました」「良いんですよ」 シャウラが頭を下げると、シオンは柔らかな声音で言った。「あの、皆は……」「皆さん、元気ですよ」 安堵の息を吐く。 さっきまで気にもしていなかったのに勝手なものだと思うが、これだって本当の気持ちだ。 再びカップを口に運び、動きを止める。 まだまだ寒いというシオンの言葉を思い出したからだ。「……大丈夫でしょうか?」 シオンが不思議そうに首を傾げ、シャウラは自分の失敗を悟る。 言葉足らず過ぎる。 これでは理解して貰えないのも当然だ。「植物が育たないから」「寒さに強い麦を蒔いているので、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」 シオン様が対策していないはずがないのに、とシャウラは恥ずかしくなって俯いた。「開拓村を見に来ませんか?」「……で、でも」「馬車はこちらで手配します」 と言ってもクロノ様にお借りするんですけど、とシオンは恥ずかしそうに言った。「友達も良いですか?」「もちろんです」 シオンは嬉しそうに笑った。「あの、できれば、その……海を見に行きたいんです」「良いですよ」 シャウラはホッと息を吐いた。「いつ頃にしますか?」「できれば給料日の後で……あ、ごめんなさい」 救貧院に手ぶらで来ながら、開拓村に土産持参で行くのはあまりにも失礼だ。「気にしなくても良いんですよ」 シオンの声は慈愛に満ち、それ故にシャウラの心を抉った。※ シャウラ達は午後の仕事を終え、朝礼の時と同じように並んでいた。 何かあったのか、騎兵隊の姿はなかった。 訓練に参加していた兵士は汚れているが、新兵と古参兵の見分けは容易に付く。 今にも倒れそうになっているのが新兵だ。 新兵にとって最も苦痛に感じるのは終礼の時間だ。 と言うのもこちらが疲弊しきっているのにミノ副官達がゆっくりと動くからだ。「今から終礼を始める! ミノ副官より訓示がある!」 今日もミノ副官はゆっくりと台に上がった。「ミノ副官に敬礼!」 ナスルの号令に合わせて敬礼するが、やはりと言うべきか、訓練を終えたばかりの新兵は動きが鈍い。「直れ!」 号令に合わせて背筋を伸ばす。『新兵ども、俺は敬礼が揃うまでやり直させるような真似はしないが、お前らが第十三近衛騎士団に相応しい兵士になるまでしごいてやるぞ。第十三近衛騎士団の兵士は強いだけではなく、悪人に恐れられ、領民に愛されなければならない』(ぶもぶも、ぶも~) ミノ副官の声が四方から押し寄せる。『だが、自分が悪人になるような真似は絶対にするな。以上だ』(ぶも)「ミノ副官に敬礼!」 再び号令に合わせて敬礼する。 ミノ副官が台から下りても解散の号令は掛からない。 新兵の頭がゆらゆらと揺れる。 そろそろ、倒れる者が出てくるのではないか。 そう考えた次の瞬間、「解散!」 ナスルが声を張り上げた。 新兵が糸が切れた操り人形のように一人、また一人とその場にへたり込んだ。「新兵が耐えられるギリギリの線を突いてくるわね」「そうですね」 シャウラはエルザに同意する。「あとは浴場に行って、食事して、自由時間ね」「今日も疲れました」 シャウラは小さく溜息を吐いた。※ 新兵舎の大浴場は土の臭いが漂い、床は足を踏み出すたびにザリザリという感触を伝えてくる。 大浴場には長方形の窪みが幾つもあり、そこには水が溜められている。 シャウラは窪みの前に跪き、手桶で水を掬う。 手桶を傾け、肩から水を浴びる。 ビックリするほど冷たいが、これだけ綺麗な水を好きなだけ使えるのだから文句は言えない。 そんなことを考えていたら、「あーっ、冷たいわね! どうして、お湯を使わせてくれないのかしら?」 隣でエルザが文句を言った。「冷たっ!」 シャウラは文句を言いながら水浴びをするエルザを横目で眺めた。 体に傷らしい傷はなく、他のエルフに比べて色白だ。 同じエルフなのに自分とは違った生活を送っていたのだなと思う。「どうして、ジロジロ見てるの?」「……いえ、何でも」 垢擦りタオルを水に浸し、石鹸で泡立てる。 ラベンダーの匂いが鼻腔を刺激する。 最初は石鹸の使い方が分からずに難儀したものだ。「そんなに焦らなくても大きくなるわよ」「……」 どうやら、エルザはシャウラが胸を見ていたと勘違いしたらしい。 胸を強調するように腕を組む。 勝ち誇るような仕草にちょっとだけイラッとしたが、冷静さを装い、垢擦りタオルでゴシゴシと体を擦る。「水は冷たいけど、ただで石鹸を使わせてくれるのはありがたいわよねぇ」「お陰で体が綺麗になります」「初めて大浴場を使った時は酷かったわね」 エルザはしみじみと呟いた。 自分の体からボロボロと垢が出る様子は今思い出しても恥ずかしい。「リゲルはもっと酷い目に遭ったと言ってました」「そりゃ、そうでしょうね」 獣人の毛が排水溝に詰まったらしい。 詰まっただけならまだしも蚤と虱がいるから堪らない。 シャウラは手で石鹸で泡立て、髪を洗う。 洗った後、髪の毛がギシギシするが、これで蚤や虱と無縁でいられるのなら安いものだ。 手桶で水を掬い、目を閉じて頭から被る。 一度では泡を全て洗い流すことはできず、二度、三度と繰り返した。※ シャウラとエルザは朝食の時と同じように夕食を受け取り、空いている席に座った。 対面の席が埋まっていたので、エルザは隣に座った。 隣を見ると、エルザは祈るように手を合わせていた。 好奇に満ちた視線が向けられるが、気にもしない。 しばらくすると、エルザは口を開いた。「……先に食べても良かったのに」「いえ、一緒に食べた方が美味しいので」 シャウラはパンを頬張った。 夕食は何も考えずにお腹一杯食べられる。 この幸せを死んだ家族と共有したかった。 次にスープを口にする。 塩っ気の濃い、白身魚のスープだ。 沼の魚のような泥臭さはなく、どちらかと言えば淡泊な味わいだ。「はぁ、今日もご飯が美味しいわ」「美味しいです」 訓練の後だと夕食を味わう余裕がない。 食欲がないのに食べなければならないのは苦行に等しい。「体が慣れたら訓練が終わっても美味しく食べられるのかしら?」「……食べられるようになると思います」 シャウラは視線を巡らせた後で答えた。 制服は汚れているのに美味しそうに食べている兵士がいる。 彼らも古参兵だ。 ただし、新兵舎にいる最古参の兵士ではなく、シャウラ達の前に着任した兵士である。 目の前にいた兵士がトレイを持って立ち上がり、入れ替わるように別の兵士……リゲルが座った。「やあ、シャウラ」 リゲルは力なく手を上げた。 かなりしごかれたのだろう。 制服は汚れ、顔は青ざめている。 それでも、スープを口にする。 口に含んだ次の瞬間、顔を顰める。 激しい運動の後だから料理が鉄臭く感じるのだろう。「今日は救貧院に行ってきました」「そうなんだ」 リゲルは興味なさそうに呟いた。「開拓村に行く時、馬車に乗せて貰うことになりました」「だったら、私は一人で行こうかな」「いえ、友達と一緒に行きたいと言ったら快く頷いてくれました」「どんな交渉をしたの?」「シオン様は良い方ですから」 善意に付け込んだようで心苦しい。「リゲルも一緒に行きませんか?」「いや、俺は良いよ」 リゲルはパンを小さく千切って口に運ぶ。「どうしてですか?」「そりゃ、俺だってディノ達の世話にはなったけどさ。結局、俺達は売られちゃったじゃないか」 リゲルは囁くような声音で言った。「でも、それは余裕がなかったから」「余裕がなかったのは分かってるさ。俺だってディノの立場なら同じことをしたと思うけど、売られた事実を納得できるかと言えばそんなの無理だろ?」 あ、とシャウラは小さく声を漏らした。「……クロノ様は」「勘違いしないで欲しいんだけど、俺はクロノ様に感謝してるよ。あの人のために戦うのは悪くないと思ってる」 思わず胸を撫で下ろす。 クロノに対して悪い感情を抱いていたとしたら仲間と思えなくなってしまう。「……顔を見せるくらい」「お互いに気まずい思いをするだけさ。ディノだって俺達を売って、今の生活を手に入れたって自覚してるさ」「皆も同じことを考えてるでしょうか?」「さあ? でも、あまり期待しない方が良いよ」 鼻の奥がツンとした。「一応、皆に声を掛けておくよ」「お願いします」 ありがたい申し出だった。 他の皆もリゲルと同じ気持ちだと言われたらどうして良いのか分からない。「神官さんには挨拶しておいた方が良いんじゃない?」「神官さん?」 エルザが言うと、リゲルは怪訝そうに眉根を寄せた。「黒髪の……娼婦みたいな格好をしている女よ」「ああ、あの人ね。あの人になら挨拶したよ。信者になるのを断ったら、ムッとされたけど」「私は信者になったわよ」「それで祈ってたのか」 どうやら、リゲルはエルザが祈っている所を見ていたらしい。「信者になると良いことがあるの?」「寄付と祈りを捧げれば神様がここにいて良いって言ってくれるらしいわ」「ふ~ん、もっと面倒なものかと思ってたよ」 失敗したかな、とリゲルは小さく呟いた。※ シャウラは脱いだ制服を丁寧に畳んで机の上に置くとベッドに腰を下ろした。 エルザはと言えば下着姿でベッドで仰向けになっている。「ショックだった?」「何がですか?」 問い返すと、エルザはシャウラの方を見た。「リゲルの言葉よ」「……ショックでした」 しばらく沈黙した後で答える。「まあ、仲間と言っても気持ちを共有することなんてできないんだから、裏切られたなんて思っちゃダメよ?」「……裏切り」 ああ、と声を漏らす。 エルザの言う通り、自分は 仲間 ( リゲル ) に裏切られたと感じているのだ。 もちろん、彼は裏切ってなどいない。 シャウラが勝手に同じ気持ちを抱いていると思い込んでいただけなのだから。 けれど、何人が一緒に来てくれるのか考えるだけで気分が滅入ってくる。「楽しみね?」「何がですか?」「海を見るのが」 そう言って、エルザは子どものように微笑んだ。 まあ、悪い想像をするよりも楽しいことを考えた方が良いかも知れない。 シャウラはベッドに横たわり、静かに目を閉じた。