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第2話:帰還

クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです — novelup.plus · All chapters

第2話:帰還

※ 帝国暦四三三年四月中旬――もう四月だというのに大気は冷たく、草木は寂しげな姿を晒している。 しかし、アルデミラン宮殿にある霊廟には一足早い春が訪れていた。 もっとも、春を謳うのは草木ではないが。 ラマル五世の遺体が納められた棺の前には二人の人物がいる。 一人は豊かな髭を蓄えた『純白神殿』の大神官、もう一人はアルフォートだ。 煌びやかな衣装に身を包んだ二人を大勢の貴族達……アルフォート派の貴族と七人の近衛騎士団長が見守っている。 ファーナはハンカチで首筋を拭った。 熱気が霊廟を包んでいる。 それもそのはず、今日は彼らが待ちに待った戴冠式の日なのだ。 緊張しているのか、アルフォートは先程からしきりに唾を飲み込んでいる。 それにはここが霊廟であることも関係しているかも知れない。 霊廟は機密性が高く、儀礼を行うのに不向きな場所なのだが、アルフォートはここで戴冠式を行うことを望んだ。 前皇帝の前で戴冠式を行ってこそ、正統性を主張できる。 確か、そんな理解しがたいことを言っていた。 見目麗しい女性神官が大神官の傍らに跪き、恭しく箱を差し出した。 大神官は箱から帝冠を取り出し、高々と掲げた。 アルフォートはゆっくりと跪いた。「『純白にして秩序を司る神』よ』 大神官が祈りを捧げると、光が霊廟に差し込んだ。 神威術……奇跡によって生み出された純白の光が帝冠を輝かせる。「……『純白にして秩序を司る神』の御前にて冠を戴き、皇帝たる聖別を施す」 大神官が帝冠をアルフォートに被せる。「汝、神より賜りし剣を抱き、臣民を守ることを義務とせよ」「『純白にして秩序を司る神』よ」 女神官が祈りを捧げると、霊廟は光に包まれた。 まるで春の日差しのように柔らかな光だった。 床に撒かれた種が芽吹き、瞬く間に大輪の花を咲かせた。「神よ、この者を守り給え」「神よ、この者を守り給え」 女神官は大神官の祝詞に続く。 蔓が柱の根元から伸び、鮮やかな花を咲かせる。「皇帝よ、長き世を築き給え」「皇帝よ、長き世を築き給え」 さらに祝詞を続ける。 目に見える変化はなく、参列者がざわめく。 わずかに間を置いて、無数の花弁が雪のように舞い降りてきた。「新たなる皇帝に栄光を! ケフェウス帝国に光を!」「新たなる皇帝に栄光を! ケフェウス帝国に光を!」 光が生まれる。 七色の光が降り注ぎ、帝冠が虹で作られているかのように輝いた。 アルフォートはゆっくりと立ち上がり、参列者に向き直った。「皆の者、苦労を掛けて済まなかった。余は、今日に至るまでの混乱は皇帝が不在であったが故と考える」「おお、アルフォート陛下! なんと慈悲深い!」 真っ先に跪いたのはボウティーズ男爵だ。「我ら一同、この日のために耐え難きを耐え忍び難きを忍んで参りました!」 続いてブルクマイヤー伯爵が跪いた。 我も我もと貴族達が跪き、レオンハルトが悠然と片膝を突いた。 近衛騎士達がレオンハルトに倣う。 予想外のタイミングだったのか、統一感に欠ける動作だった。 最後に膝を突いたのはケイロン伯爵だった。 その直前にやれやれと言わんばかりに肩を竦めていたのが印象的だった。「余は約束しよう! 智と徳を以て混乱を収め、再び帝国に安寧を取り戻すと!」 アルフォートは初代皇帝が使っていた剣を引き抜いた。 その刃は柔らかな光の中にあって冷え冷えとした光を放っている。「余は約束しよう! 再び帝国に光を取り戻すことを!」「「アルフォート陛下、万歳!」」 ボウティーズ男爵とブルクマイヤー伯爵は先を争うように立ち上がり、喉も裂けよとばかりに叫んだ。 二人の熱が伝わったかのように貴族達は万歳と諸手を挙げた。 確かにそれは熱に違いない。 彼らは狂熱に浮かされている。 彼らは自分達に輝かしい未来が待っていると疑っていない。 それは狂熱の中心にあるアルフォートも同じだ。 息子は自分が皇帝になれば混乱が収まり、内乱期以前の権勢を取り戻せると本当に信じているのだ。 だから、レオンハルトがこの場を無難に乗り切るために臣下の礼を取ったことに気付けないのだ。 きっと、あの子に忠誠心を抱いている近衛騎士団長はいないわね、とファーナはこの場にいない近衛騎士団長を思う。 エルナト伯爵はノウジ皇帝直轄領に、レサト伯爵はキンザ皇帝直轄領に、コルヌ女男爵はカイ皇帝直轄領にいる。 ちなみにヒアデス伯爵は気分が落ち込んで自宅で寝込んでいるらしい。 まあ、十中八九嘘だろうが。 ふと脳裏を過ぎるのはクロフォート男爵の息子……クロノのことだ。 謁見の間で顔を合わせたことしかないが、彼は立派に領地を治めていると聞く。 何処で教育を間違えたのかしら? とファーナは再び溜息を吐いた。 母親として支えてやりたい気持ちはあるが、どうにかできる時期はとうに過ぎている。 転がりだした石、あるいは集団自殺する鼠だろうか。 どちらも決定的な破局が訪れるまで止まらない。※ カーン、カーンという音が響いている。 ああ、戻ってきたんだな、とクロノは箱馬車の中で目を覚ました。「クロノ様、おはようございます」「おはよう、レイラ」 対面の席に座るレイラと挨拶を交わす。 壁に寄り掛かって寝ていたせいか、首筋が少しだけ痛い。「やっぱり、馬車での移動は堪えるね」「……はい」 レイラは少し間を置いて答えた。 ケロッとしているので、合わせてくれたのだろう。 馬車は体が痛くなるものと割り切る姿勢が重要なのかも知れない。 箱馬車がスピードを落とす。 窓から外を見ればそこは見知った侯爵邸の庭園だ。 戻ってきたと強く実感する。 箱馬車が止まる。 すると、レイラは何も言わずに馬車から下り、扉を支えた。 クロノは侯爵邸の庭園に降り立ち、背筋を伸ばした。「クロノ様! お帰りなさいみたいな!」「あたしらクロノ様の帰りを心から待ってたみたいな!」 アリデッドとデネブが飛び掛かって、もとい、抱きついてきた。 レイラが面白くなさそうな顔をしているのはご愛敬だ。「……二人ともそんなに僕の帰りを」「ティリア皇女に連れ去られたせいであたしらの連休が台無しになったみたいな!」「連休を台無しにされた補償と躾を要求するみたいな!」 てい! とクロノが押し退けると、二人は尻餅をついた。 だが、二人はそれくらいでめげるタマではない。「久しぶりに会ったのにあんまりな対応だし! あたしらの連休がダメになった責任を取って欲しいみたいな!」「領主代行がやらかした責任は領主であるクロノ様が取るべきみたいな! 飼い犬が人を噛んだら飼い主が責任を取るのが筋みたいな!」 そう言って、二人はクロノの脚にしがみついた。「ええい、放せ!」「放さないし! 補償してくれると約束するまで放さないし!」「責任を! 責任を取って欲しいみたいな! 金や物で心を癒やして欲しいみたいな!」 クロノは財布から銅貨を取り出して親指で弾いた。 すると、アリデッドは立ち上がり、空中にある銅貨を掴んだ。「補償終了!」「これはこれで貰っておくけど、誠意が足りないみたいな!」「最低でも銀貨二枚! 最低でも銀貨二枚欲しいみたいな!」 アリデッドは前から、デネブは後ろからしがみついてきた。「じゃあ、レイラを復帰させたらシフトに無理がない範囲で休暇を取る方向で」「それはやって当然のことみたいな!」「そんなんであたらしの心の傷は癒やされないし!」 二人の求めに応じるのも吝かではないのだが、求めに応じたら次を要求されそうな気がする。 いや、間違いなく要求してくる。 将来の憂いを立つためにもここは毅然と対応すべきだろう。「じゃあ、休暇はなし!」「な、何ですと!」「それはあんまりみたいな!」 クロノは二人を引き摺って歩き出した。「ちょ、ちょっと待って欲しいみたいな!」「静まり給え! 静まり給えみたいな!」 デネブはクロノの前に回り込んだ。 何とか足止めをしようとするが、所詮はエルフの力である。「交渉は終了した」「してないし! 終了してないし!」「解決してないみたいな!」 休暇がなくなるのが嫌なのか、二人は必死にクロノをその場に押し留めた。「せ、せめて、休暇を認めて欲しいみたいな!」「お願いします! お願いします! 何もなしは勘弁してほしいみたいな!」 クロノは足を止めた。「シフトに無理がない範囲で休暇を取る。これでいい?」「そ、それでいいです」「で、でも、ティリア皇女に躾はお願いします」 えぐえぐ、と二人はえずきながら言った。 しおらしい態度を取っているが、すぐに元気を取り戻すだろう。「もう行って良いよ?」「……うぐ、うぐ」「……えぐ、えぐ」 二人はその場から動こうとしない。「お、お土産」「て、帝都のお土産」「ないよ」 二人は顔を見合わせて笑った。「またまた、可愛い部下にお土産くらいあるでしょみたいな」「あたしら帝都土産を心待ちにしてたみたいな」「無事に帰ってきたのが一番のお土産です」「あたしらだけ除け者にするつもりみたいな!」「二人だけお土産を貰えない気持ちが分かってないみたいな!」「いや、誰にもお土産を買ってきてないから」 二人は愕然とした顔で後退ると顔を覆って、うぐうぐ言い始めた。 もう元気になってしまった。「分かりました。女将に言って、アイスクリームを作って貰います」「こ、この寒いのにアイスなんて」「こ、凍えちゃうし」 二人は自分の体を抱き締め、手の平で二の腕を擦った。「じゃあ、はい」「うはー! やっぱり、お土産みたいな!」「ちゃんと用意してたみたいな!」 仕方がないので、ポーチから飴玉の入った袋を取り出して差し出すと、二人は嬉しそうに諸手を挙げた。「ただの飴玉だよ?」「こういうのは形が大事みたいな!」「その通りだし!」 収まらないようならワインを一本渡そうと思っていたのだが、満足しているのなら渡す必要はないだろう。「じゃ、どうぞ」「ありがたく頂くみたいな!」 アリデッドは袋を受け取るとポーチにしまった。「デネブと分けるんだよ?」「分かってるし!」 突然、軽い衝撃を受ける。 デネブが抱きついてきたのだ。 顔を上げ、だらしなく相好を崩す。「アリデッドから飴玉を分けて貰ってね?」「うへへ、私はクロノ様が無事に戻っただけで十分かも」「なんと、可愛らしいことを」 抱き締めようとしたが、腕は空を切った。 アリデッドがデネブを引っ張ったのだ。「抜け駆け禁止みたいな!」「一騎駆けは戦場の華だし!」 二人はギャー、ギャーと言い争いを始めた。「それにしても、ティリアを注意しなくちゃいけないのか」 クロノは深々と溜息を吐いた。「注意できますか?」「まあ、多分」 理を説けばこちらの提案を呑んでくれるはずだ。「クロノ様、この後の予定は?」「ティリアと話した後、夕飯まで自分の部屋でゴロゴロしたいです」「……帰還の挨拶をするべきだと愚考します」 レイラはやや低めのトーンで言った。 言われてみればティリアに会う前に女将達に顔を見せておくべきだろう。※ クロノはレイラを連れて食堂に向かった。 まずは女将、次にエレナ、気が向いたらエリルと会う予定だ。 何故、この三人かと言えば他の面々と違って働く場所が決まっているからだ。 席を外していることもあるだろうが、その時は改めて会いに行けば良い。 しかし、運命……そこまで大層なものではないが……はクロノの思惑を酌んでくれなかったようだ。 廊下の角を曲がったらセシリーがいた。「……もう帰って来ましたのね」 セシリーは吐き捨てるように言った。 虫でも見るような視線を向け、不愉快そうに唇を歪めている。 今までしてきたことを思えば当然の反応だ。 好意を抱かれる方がヤバい。 その時は転地療養を勧めなければならないだろう。 あからさまに嫌悪感を抱かれるのは何気に堪えるのだが、この程度で落ち込んでいたらセシリーとは付き合えない。 彼女はこういう生き物なのだ。 むしろ、あれだけやったのに反抗心を失っていないことを誉めるだ。 相手が何者であれ、認めるべき所は認めなければならない。 その上で適切な負荷を考えねばなるまい。 ヴェルナがセシリーを陥れたことは墓場まで持って行こう。 二人の友情を壊す訳にはいかない。「……っ!」 クロノが嗤うと、セシリーは後退った。「やあ、久しぶり」「随分、お早いお帰りですわね」 クロノが歩み寄ると、セシリーは廊下の隅に寄った。 さっさと何処かに消えてくれませんこと? とでも言いたいのだろうが、そうは問屋が卸さない。 セシリーの前で立ち止まって壁に手を突いた。 こんな美人を相手に壁ドンをしていると思うと妙に興奮した。「ヴェルナは立派な兵士になったよ」「そうですの」 興味なさそうにしているが、頬が仄かに紅潮している。「立派な兵士として僕の下に戻ってきた」「何が言いたいんですの?」「分からない?」 クロノはわざとらしく首を傾げた。「これからも立派な兵士として活躍できるかどうかはセシリーに掛かっているってこと」「……くっ」 セシリーは悔しそうに唇を噛み締めた。「これからもお願いね?」「わ、分かってますわ!」 怒りによってか、耳まで赤くなっている。「もう行って良いよ。仕事、頑張ってね」「失礼しますわ!」 セシリーはクロノを突き飛ばすと荒々しい足取りで去って行った。 クロノは軽く肩を竦め、食堂に向かう。 クロノが食堂に入ると、そこには誰もいなかった。 美味しそうな匂いが漂っているので、留守ではなさそうだ。 食堂を横切り、開け放たれた扉を潜る。 目の前にある壁を迂回し、慎重に厨房に続く階段を下る。 階段を下りると、女将が厨房の中央にあるテーブルで魚を捌いていた。 厨房の入口でジッとしているとレイラが口を開いた。「……クロノ様?」「ここで喜び勇んで抱きついたら不幸な事故が起きると思うんだ」 茶目っ気を発揮して刺されたくない。「刺しゃしないよ」 魚を捌き終えたのか、女将はこちらに向き直った。「まずは包丁をテーブルに置いて下さい」「護身のために持ってた方が良いかねぇ?」「誰から身を守るつもりなの?」「さて、誰からだろうねぇ?」 女将は意地の悪い笑みを浮かべ、包丁をテーブルに置いた。「随分、早く帰って来たね」「予定通りだよ」 クロノはテーブルとコンロを交互に見た。 ティリア一人の食事を作っているとは思えない量だ。 この量を見る限り、先行させた部下から報告を受けていたのは間違いない。「任務が任務だからもっと時間が掛かると思ってたんだよ」「ああ、そっちね」 クロノは女将に歩み寄り、少し離れた場所で立ち止まる。「どういう訳か、急に帰ることになってさ」「そいつは災難だったね」 災難で済めば良いんだけど、とクロノはテーブルに寄り掛かった。「それで仕事はどうだったんだい?」「色々あったけど、期待された働きはしたんじゃないかな?」 結果を残せたと自負しているが、評価するのはクロノではない。「クロノ様は立派に仕事をやり遂げました。犯罪発生件数を激減させたばかりか、汚職役人を追放し、違法賭博を合法化することで福祉関連の予算を確保したのですから」「仕事は警備のはずだろ?」 レイラは誇らしげに言ったが、女将は今一つ理解できなかったらしく首を傾げた。「治安回復するために汚職役人の追放や違法賭博を合法化したんだよ」「そんなことまでしなきゃならなかったのかい」 まあ、とクロノは言葉を濁した。「そこまでしなきゃならないってのは末期的だね」「何とか持ち直すと思うけどなぁ」 クロノは警備兵長達を思い出す。 治安回復の道筋は立てたし、彼らならば効果が現れるまで踏み止まってくれるはずだ。「楽観的だねぇ」「脅かさないでよ」 自分とリオの解任、城に押し掛けていた貴族達のことを考えると不安が湧き上がってくる。 と言うか、不安しか感じない。「う、胃が痛くなってきた」「相変わらずだねぇ。アンタはやるべきことをやった。それで良いだろ?」「不安を煽ったのは女将なんだけど?」「そ、そう言えば親孝行はしてきたのかい?」 女将は誤魔化すように言った。「家でダラダラしてただけだし、親孝行らしいことはしてないかな?」「元気な姿を見せるのだって立派な親孝行さ」「女将は実家に戻らないの?」「ぐ、藪蛇だったね」 女将は小さく呻き、バツが悪そうに頭を掻いた。「若気の至りとは言え、男を追って家を出ちまったからねぇ」「僕の父さんなら笑って許してくれそうだけど」「あたしの両親も笑いそうだね」 女将は真顔で頷いた。 マイラでも、オルトでも笑いそうだ。「……普通に戻れそうな気が」「そんなにあたしを家に帰したいのかい?」 女将は不機嫌そうに眉根を寄せ、ズイッと身を乗り出してきた。「孝行したい時に親はなしって言うからね」「……」 沈黙が舞い降りる。 女将は家を捨ててでも添い遂げたかったという気持ちを大切にしたのだろうが、生きている内に会った方が良いと思う。「話は変わるけど、帝都でカナンさんに会ったよ」「ホントに唐突だね」 女将は軽く肩を竦めた。「けど、どうして、帝都に?」「……婚活」 クロノがボソリと呟くと、女将は渋い顔をした。「そんなに相手がいないんならロバートと結婚すりゃ良いじゃないか」「ロバートさんには婚約者がいるそうで」 女将はあちゃーと言わんばかりに顔を覆った。「エクロン男爵家もお終いかね」「カナンさんもそう言ってたけど、僕と女将が励めば大丈夫」「せめて、頑張るにしとくれ」 女将は呆れたように溜息を吐いた。「二人纏めて面倒を見るのもありかなと」「ある訳ないだろ!」 女将は声を荒らげた。「でも、僕と女将の子どもがエクロン男爵家を継いだらカナンさんは辛いだろうな~」「だったら、カナンとだけ励みな!」「僕は女将とも励みたいんだよ」「清々しいほど自分勝手だね、アンタは」「それほどでも」「誉めちゃいないよ!」 クロノが頭を掻くと、女将は突っ込んできた。「はぁ、頭痛がしてきたよ」「それはいけない。僕が擦って……何でもないです」 クロノは女将から離れた。 と言うのも女将が包丁を手に取ったからだ。 もちろん、刺されるなんて思っていないが。「じゃあ、僕はこの辺で」「そうかい」 クロノは女将に背を向け、すぐに向き直った。「まだ、用があるのかい?」「ただいま」「……お帰り」 女将は少し間を置いて答えた。 頬が朱に染まっているように見えたのは気のせいではないだろう。※ クロノは扉の隙間から執務室の様子を窺った。 と言ってもクロノの執務室ではなく、一階にあるエレナの執務室だ。 エレナは机に向かって事務仕事をしている。 テキパキと仕事をこなす様はベテランの風格を感じさせる。「入らないのですか?」「もう少しエレナの様子を見ていたい」 はぁ、はぁ、と荒い呼吸を繰り返してみる。 ふと目が合う。 エレナはイスから立ち上がると扉に歩み寄り、無言で閉めた。 クロノが再び扉を開けると、エレナはまたしても無言で扉を閉めた。「それが久しぶりにあった御主人様にすること?」「普通に扉を開けて入ってきなさいよ!」 クロノが扉を開けて言うと、エレナは腰に手を当てて言い返してきた。「レイラ、見張りを宜しく」「分かりました」「ちょ、何をするつもりよ」 怯えているのか、エレナは後退った。「何もしないよ。ちょっと二人で話し合いたかっただけ」 クロノは部屋に入り、後ろ手に扉を閉めた。「さあ、仕事を続けて」「わ、分かってるわよ」 何もしないという言葉を信じていないのか、エレナはおっかなびっくりと言った風に自分の席に戻った。 クロノは窓際に行き、陶製の花瓶を見つめた。 全体的に青みがかり、首は細長く、口は広がっている。 ピンクの花が一輪だけ挿してあるが、摘んでから時間が経っているのか、少しだけ萎れている。「先に言っておくけど、それは露店で行商人から買ったヤツよ」「うちの領地で作ったヤツだね」「へ~、よく分かったわね」 花瓶を元の位置に戻して振り返ると、エレナは目を丸くしていた。「露店で売るような物を他所から持ってくるとは思えないからね」「ああ、そういうこと」 エレナは面白くなさそうに頬杖を突いた。「仕事をしないの?」「アンタが邪魔しに来たんでしょうが」 クロノは机に歩み寄り、書類に手を伸ばした。 ペシッと軽い衝撃が手の甲に走る。 エレナが叩いたのだ。「……僕は領主だよ?」「あたしは経理担当よ。場所が判らなくなるから勝手に触らないで」 この借りはベッドで返そう、とクロノはエレナの隣に移動して机に腰を下ろした。「仕事の邪魔なんだけど?」「息抜きだよ、息抜き」 エレナは拗ねたように唇を尖らせた。「……お帰り」「先に言われるとは思わなかったよ」「べ、別に普通のことでしょ」「そうだね」 エレナは恥ずかしそうに顔を背け、クロノは苦笑しながら脚を組んだ。「もっと時間が掛かると思ってたわ」「僕もだよ」 クロノは太股を支えに頬杖を突いた。「僕がいない間に変わったことはなかった?」「アホみたいに新兵が来たわ」「工房の予算を追加しないとね」「そうね」 エレナは素っ気ない態度で頷いた。 どうやら、ティリアは工房の予算を追加していないようだ。「それにしても早かったわね」「女将にも同じことを言われたけど、期限の定められた仕事じゃなかったからね」「宮仕えの悲しい所よね」「エレナもそうでしょ?」「だから、言ってるのよ」 上司に振り回されるのはお互い様とでも言いたいのだろうか。「無理難題を吹っ掛けてるつもりはないんだけど?」「本気で言ってる?」「半分くらいは」 エレナは不愉快そうに顔を顰めた。「あたしに無理難題を吹っ掛けてる意識はない訳?」「う~ん、あんまり」「あたしに何をしたか忘れたの?」「今更、被害者面されても」 クロノが言うと、エレナは悔しそうに唇を噛み締めた。「話を戻すけど、僕が戻ってきて内心嬉しいんじゃないの?」「自惚れもそこまでいくと清々しいわね」「さっき、無礼な態度を取ったのはイジメて欲しいというアピール……」「そんな訳ないでしょ!」 エレナは声を荒らげた。「本当に?」「ほ、本当よ」 クロノが上から見下ろすと、エレナは怯えたように身を引いた。 頬を朱に染め、キスを待つように 頤 ( おとがい ) を反らしている。「し、仕事があるの」 クロノが唇を近づけると、エレナは両腕を突っ張った。 だが、その力は弱々しく、抵抗するつもりがあるのか疑わしい。 唇がすんなりと重なる。 それだけではなく、自分から舌を絡めてくるような有様だ。 クロノが離れると、透明な橋が架かる。 エレナはうっとりとしていたが、ハッとしたように唇を拭った。「ふん、やれば!」「いや、止めておくよ」 エレナは驚いたように目を見開いた。「やっぱり、仕事の邪魔はできないからね」 クロノは机から下り、手をヒラヒラさせながら踵を返した。※ クロノはエリルの部屋の扉をノックしたが、しばらく待っても反応はなかった。 後回しにしようかと思ったが、すぐに思い直す。 エリルは極端なインドア派だ。 ダイエットしている頃ならいざ知らず、今は自分から外出しないはずだ。 もう一度ノックすると、扉が開いた。 扉を開けたのはスーだった。 彼女は面食らったように目を瞬かせている。「ただいま」『オレ、嫁。待ツ、当然』 スーはこれでもかと胸を張った。「どうして、ここにいるの?」『えりる、助ケル』 手伝いをしているということだろうか。 考えてみればスーはルー族の呪医だ。 研究の助手としては申し分ない。「エリルは?」『……』 クロノが尋ねると、スーは不満そうに唇を尖らせた。「どうかした?」『オレ、嫁』「それは分かってるよ」 う~、とスーは不満げに唸った。 頭を撫でようと手を伸ばしたが、サッと躱されてしまった。『オレ、嫁。子ドモ、違ウ』「つまり、お嫁さんらしい扱いを受けたいってこと?」『……』 スーは無言で頷いた。「まだ、早いのでは?」「恐らく、クロノ様が考えているようなことではないと思います」 クロノがスーの胸を見つめて言うと、レイラから突っ込みが入った。『オレ、大人。子ドモ、生ム』「子どもと言えばララが妊娠したらしいよ」『……っ!』 スーは驚いたように目を見開き、ポロポロと涙を零した。「相手はガウルだよ」『ううっ!』 スーは獣のように唸り、クロノに拳を繰り出した。 手加減はしてくれているはずだが、かなり痛い。『オレ、悔シイ』「悔しい?」 クロノは首を傾げた。 子どもができたのだから祝福すべきだ。 それとも、この世界では祝福しないのだろうか。『オレ、子ドモ、ナイ』「クロノ様?」「分かってる」 スーはクロノの子どもを授かるために故郷を離れたのだ。 二度と故郷に帰らない覚悟をしていたかも知れない。 それなのにララが先に結果を出したのだ。 もちろん、祝福するつもりはあるはずだが、それ以上に自分が役割を果たせなかったことを悔しがっているのだ。『オレ、ダメ?』「いや、ダメじゃないよ」 スーは上目遣いにクロノを睨み付けた。「子どもって印象が強いと言うか」『オレ、大人』 ルー族的にはそうなのだろうが、クロノ的には違うのだ。「右も左も分からない子どもを騙しているような罪悪感があるんだよ」 ある意味、ガウルは凄い。 男女関係に無知な相手に手を出してしまうのだから。 それとも本能の為せる業だろうか。『オレ、大人!』 スーは叫ぶと両腕を突き出した。 クロノは突き飛ばされ、尻餅こそつかなかったものの大きくバランスを崩した。 バンッ! という音と共に扉が閉まった。「何が悪かったのかな?」「全部だと思います」「三行半を叩き付けられなければ良いな」 クロノは溜息を吐いた。※ 執務室の扉を開けると、アリッサが駆け寄ってきた。 目を潤ませるその姿は恋する乙女のようである。「ただいま、アリッサ」「旦那様、お帰りなさいませ」 アリッサは恭しく一礼すると指で目尻を拭った。 その後ろではティリアが腰を浮かせた状態で動きを止めていた。 目が合うと、ティリアは静かに腰を下ろした。 目を細め、口をへの字に結んでいる。 実に不機嫌そうだ。「……旦那様」 ごほ、ごほ、とティリアがわざとらしく咳払いをするが、アリッサは黙ってクロノを見つめている。「げふん、げふ……げほっ、げほっ!」「……っ! 失礼致しました!」 唾液が気管にでも入ったのか、ティリアは激しく咳き込んだ。 アリッサはその音で我に返ったらしく深々と頭を下げた。「アリッサ、二人にしてくれ。ハーフエルフ、貴様もだ」 クロノが執務室の中程まで進むと、背後から扉を閉める音が響いた。 アリッサが扉を閉めたのだろう。 ティリアは口元を隠すように手を組んだ。「義弟……アルフォートの戴冠式を行うという報せがあった」 ついでに、と引き出しから手紙を取り出す。「エリル・サルドメリク子爵が近衛騎士団長を解任された」「そっちは時間の問題だったんじゃないかな?」 エリルはティリアの監視役として派遣されてきたが、策を弄するまでもなく、あっさりと取り込めてしまった。 あくまでクロノが帝都に行く前の話だが、帝都に報告書を送るのもサボりがちになっていた。 帝都に報告書を送らなくなっている可能性もある。 明らかに人選ミスだ。 自分の知識欲と食欲を満たすことしか考えていない者を監視役に選ぶべきではない。「戴冠式には行くの?」「私は病気療養中という設定だ。それに戴冠式は今日だ。行ける訳がない」「性急に物事を進めすぎじゃない?」「邪魔が入らない内に皇位に就かせたかったんだろう」 僕も邪魔者と考えられていたのかな? とクロノはそんな疑念を抱く。 あれだけ帝国のために働いたのに酷い扱いだ。「しかし、解せないな。アルコルが失脚するまでもう少し掛かると思っていたんだが」 ティリアは背もたれに寄り掛かって腕を組んだ。「大勢の貴族が城に来てたし、圧力に負けたんじゃないの?」「そんな人間に宰相が務まる訳がないだろ」「どの道、負けは目に見えてるんだし、自暴自棄になったんじゃない?」 皇帝不在の状態をいつまでも続けられる訳がないし、アルコル宰相に多くの時間が残されているとは思えない。「アルコルが何を考えているのか分からないが、帝国が混乱するのは間違いない」「そうだろうね」 皇帝になったアルフォートはアルコル宰相の息の掛かった人物を更迭し、自分の派閥の貴族を要職に就けるはずだ。 アルフォート派の貴族は上手く国を回せると考えているかも知れないが、仕事というのは傍で見ているほど簡単ではないのだ。 追放した汚職役人どもを呼び戻す可能性もある。 そうなれば帝都の治安は再び悪化するだろう。 何とも言えない疲労感、いや、徒労感を覚える。「まあ、僕らは僕らなりに真面目に仕事をしよう。僕がいない間に何か変わったことはない? やらかしたことでも良いけど……」「そのことだが、エレインが織物工房を構えているのは知っているか?」「そりゃ、一応」「そこにあった機織り機に飛び杼を取り付けてやった」「ふ~ん、良いんじゃない? 『シナー貿易組合』のオーナーは僕だし、儲かれば儲かるほど懐が潤うし」「はぁ、その程度の認識か」 ティリアは深々と溜息を吐いた。「クロノ、飛び杼は凄い発明なんだぞ? あれがあれば三人で織っていた布を一人で織れるようになるし、三割も効率がアップするんだ」「効率がアップするのは知ってるよ」「凄い発明だから『シナー貿易組合』にだけ提供し、ゴルディ達にも命令なしに飛び杼を作ることを禁じた」「僕としては世の中に広まってくれても……ごめんなさい」 ティリアが鬼のような形相で睨んでいたので、クロノは素直に謝った。 飛び杼を無償提供するのは止めた方が良さそうだ。「それと鉄の茨と十字弓を量産したい」「鉄の茨? 十字弓? ああ、有刺鉄線とクロスボウね」 クロノはポンと手を打ち合わせた。「でも、有刺鉄線なんて量産してどうするの? うちの領地って牧畜がメインじゃないから大して需要がないよ? それにクロスボウは機工弓より射程が短いし、量産しても意味がないと思うけど?」「鉄の茨は敵の行く手を阻む柵に使えるし、十字弓は短期間で習熟できる。どちらも画期的な兵器だ」「……兵器」 クロノは小さく呟いた。 言われてみれば有刺鉄線があれば敵を足止めする柵を簡単に作れる。 クロスボウだって機械的に矢を発射するだけだから誰でも簡単に使える。「うむ、そこで十字弓をベテル山脈の民に下賜することにした」「どうして?」「お前はいざという時に連中を兵士にするつもりなのだろう?」「でも、すぐに使えるようになる武器を渡すのはマズいんじゃない?」 一斉蜂起でもされたら目も当てられない。「機工弓より劣った武器なのだろう? だったら、渡しても問題ない。それにシフは一斉蜂起なんて馬鹿な真似しないはずだ」「でも、やっぱり怖いよ」 シフ以外の人間も信用できると確信するまですぐに使えるようになる武器を渡すべきではないと思う。「クロノ、使い潰すなら効率的に使い潰してやるべきだと思わないか?」「酷いことを言うね」「素人を兵士にしようとするお前の方が酷いぞ。武器を扱えない者を戦場に立たせても無駄死にするだけだ。戦場に立たせるのなら、せめて、生き延びる可能性を上げてやるべきだ」 もっともな意見だ。 いざという時に兵士として使うことを想定しているのならばどんな風に戦わせるかも考えるべきだろう。「分かった。有刺鉄線とクロスボ……」「鉄の茨と十字弓だ」「名前に拘りがあるの?」「うむ、私達の世界の技術で作られた物なのだから名前もそれらしくするべきだろう」 そんなものか、と思う。 まあ、クロノは名前に愛着がある訳ではないので、どんな名前でも構わない。「と言う訳で鉄の茨と十字弓の量産を……」「待て」 そう言って、ティリアは引き出しから紙の束を取り出した。「それは?」「運用研究に関するレポートだ。研究はワイズマン教師に担当させた。量産するかどうかはこれを読んでから判断してくれ」 どうやら、ティリアはワイズマン先生まで巻き込んでいたようだ。「分かった。できるだけ早く読むことにするよ。他にはない?」「経済同盟の件で進捗があった。メサルティム男爵、ボサイン男爵、トレイス男爵が神聖アルゴ王国から輸入している羊毛に興味を持ってくれた」「凄いじゃない」 メルサティム男爵とボサイン男爵はエラキス侯爵領の南、トレイス男爵はカド伯爵領の南に領地を構えている。「やっぱり、皇族の権威ってのは凄いんだね」「う、まあ、そういうことだ」 ふはははっ! とティリアは笑ったが、目が泳いでいた。「他には?」「騎兵隊を拡充したい」「それは希望だね?」「そうだ」 騎兵隊の拡充は以前から考えていたことだ。「隊長はどうするの? ああ、騎兵隊長じゃなくて分隊を率いる隊長ね」「うむ、育成も含めてセシリーに任せようと思う。」「人選的にどうなの?」 初めて出会った時に比べれば幾分マシになったとは言え、指導者としての適性はなさそうな気がする。「他の面子だって似たようなものだろう」「……」 言われてみればフェイは感覚派だし、レイラは自分の基準で行動しがちな所がある。 アリデッドとデネブは集中力が長続きしない。「それに騎兵を育成するために隊長を引き抜く訳にもいかん」「つまり、消去法?」「そう言うことだ」「じゃあ、新しくメイドを雇わないとね?」「……」 ティリアは無言だった。 得意げに小鼻を膨らませているので、対処済みなのだろう。「もう対処済み?」「うむ、ベテル山脈の民を二人雇うことにした。飛び杼の口止め料のつもりだったが、お前が公平な領主をアピールすることもできて一石二鳥だ」 むふー! とティリアは鼻から息を吐いた。 公平さはアピールできるだろうが、厄介事も抱え込みそうな気がした。「多分、気付いてないんだろうな~」 クロノは小さく呟いた。