幕間:エレナ・グラフィアス
幕間:エレナ・グラフィアス
※ あたし……エレナ・グラフィアスが性奴隷としてクロノ様に買われてから二ヶ月が過ぎた。 性奴隷として買われたものの、あたしの仕事はベッドでクロノ様に抱かれることじゃなくて、エラキス侯爵領の経理全般、最近は細々とした事務仕事も請け負っている。 クロノ様の部下には経理をこなせるだけの学力を備えたヤツがいないから、必然的に朝から晩まで机に向かうことになる。 仕事は大変だけど、給料もくれるし、自分が培った能力で働いているって状況はあたしの心を安らかにする。 自慢じゃないけれど、あたしは何年も勉強ばかりしていたから農場や鉱山で働くことなんてできない。 となれば、あたしの商品価値は女であることくらい……少なくとも奴隷商人は性欲の捌け口にしか使えないと判断したはずだ。 その商品価値だって、性奴隷というカテゴリーの中だと低い方になると思う。見目麗しいってタイプじゃないし、性的な魅力も今一つだ。これで処女じゃなかったら、場末の娼館にでも売られていたはず。 よく考えてみると、この性奴隷ってヤツは立場が非常に脆い。生産性って意味では家畜未満、ご主人様の寵愛を失ったが最後、それだけで何もかも失ってしまうのである。 だから、あたしにとって仕事は自分の居場所を確保する道具であり、最後に残された誇りなのだ。 そんな訳で、あたしは自分の仕事に誇りを持っているんだけど、その仕事が一日をひどく単調なものにしてしまっているのも事実だったりする。 あたしの一日は……朝、眠い目を擦りながらベッドから這い出す所から始まる。 現実と夢の世界を行ったり来たりしながら、侯爵邸の一階にある使用人専用の食堂を目指す。 途中で壁に頭をぶつけるのは日常茶飯事、階段を踏み外すのも珍しくない。 時々、睡魔に負けて眠りこけてしまうこともあるけれど、そんな時はメイドどもがあたしの面倒を見る。 亜人のメイドどもは高貴な人間に対する礼節を弁えていないから、あたしを荷物みたいに運ぶ。 本当に荷物のように運びやがるから、たんこぶができたり、あざができたり、鼻血が出てたりするんだけど、ケガした記憶がないもんだから、問い詰めることもできない。 食事を終えたら自分の部屋に戻り、最低限の身嗜みを整える。 それから仕事部屋に行き、夜まで数字と睨めっこだ。※ その日も、あたしは朝から数字と格闘していた。 ドアがノックされたのは昼過ぎ。 食堂で昼食を取るか、このまま仕事を続けるべきか悩んでいた時だった。「いるんなら扉を開けな!」「見て分からないの? あたしは仕事をしてるの、仕事!」 はぁ? と女将は不機嫌そうに片眉を跳ね上げ、あたしの机に腰を下ろした。「いくら忙しくても食事はするもんだよ。そうしないと、失礼じゃないか」 そんなことを言って、女将は銀のトレイを机の上に置いた。 トレイに乗っていたのはパンとシチューだ。「失礼って、農民に? それとも、『黄土にして豊穣を司る母神』?」「料理を作ったあたしに失礼ってことさね」 女将は腕を組み、偉そうに胸を張った。 ぶるん! と重量感のある胸が激しく揺れる。「アンタ、三十にもなって恥ずかしくないの?」「う、うっさいね!」 自分でも恥ずかしいと思っていたのか、女将は庇うように両腕で胸を隠した。 あたしの感覚からすると、女将のメイド服は下品だ。 スカートの丈は短いし、大きく胸の部分が開いている。 もう少し若けりゃ、それもありかな? と思えるんだけど。 自分で恥じ入っちゃ、負けを認めたようなものだ。「……でも、ありがと」「最初から文句を言わずに食べりゃ良いじゃないか」 呆れ顔の女将を横目にあたしはシチューを口に運んだ。 思わず、笑みが零れる こんな自分で恥じ入っちゃうような格好をしているのに、女将の作る料理は美味しい。 空腹だったこともあり、あたしは夢中でパンとスープを口に運んだ。 料理を食べ終え、イスに寄り掛かる。 何か、幸せ。「昼食を抜かなくて良かっただろ?」「……」 あたしは勝ち誇ったように言う女将を無言で睨み付けた。 すると、女将は意地の悪そうな笑みを浮かべ、あたしの首輪を掴んだ。「何してんのよ」「おかしいね? 少し前はクロノ様に掴まれて、腰砕けになってたのに」 少し前……ドワーフに暴言を吐いて、クロノ様に窘められた時のことだ。 誰にも見られていないなんて思っちゃいないけど、さ。「アンタって、それなりの経験者よね?」「何だい、藪から棒に」「だから……って、いい加減に首輪から手を離しなさいよ!」 あたしは乱暴に女将の手を払い除け、大きく深呼吸をした。「クロノ様に首輪を掴まれたり、冷たい視線を向けられたりすると、立っていられないくらいドキドキするんだけど、これって恋かな?」 あたしは恥ずかしさを堪えて告白したんだけど、女将は理解できないもの……いや、何というか、虫でも見るみたいな目であたしを見ていた。「そりゃあ、恋じゃなくて変じゃないのかい?」「何が、変よ!」 あたしは立ち上がり、バンバンと机を叩いて猛抗議した。「女のあたしが、男のクロノ様を意識してるんだから、恋でしょうが!」「そういう風に言い換えられると、恋って感じがしなくもないね」「だから!」 バン! とあたしは机を叩き、「どうして!」 ババン! と連続で叩き、「否定から入ってんのよ!」 バンッ! と最後に一際強く机を叩いた。「あたしゃ、あんたの助けにゃなれないね」「チッ、クロノ様の部屋で六回もシテたくせに役に立たねーわね」「ど、どうして、それを知ってるんだいっ?」 あたしが言うと、女将は顔を真っ赤にして叫んだ。 けれど、女将はすぐに冷静さを取り戻し、にやりと口の端を歪めた。「はは~ん、さては覗いてたね?」「の、覗いてねーわよ! 偶々、偶然、通り掛かったら、アンタがクロノ様の部屋に入ったから」「それで思わず、覗いちまったと?」「盗み聞きしてただけよ!」 あ~、と女将は憐れむような視線をあたしに向けた。「明け方まで盗み聞きって、バカなのかい?」「ば、バカじゃねーわよ、バカじゃ!」 初めは部屋に戻ろうと思ったんだけど、余裕たっぷりだった女将が切羽詰まっていく過程が面白くて……明け方まで。「で、アンタは何がしたいんだい?」「これが恋なのか、確かめたいのよ」 ふ~ん、と女将は気のない返事。「案外、気が合うかも知れないね」「どういうことよ?」「コックとして雇われる前に、あたしが食堂をやってたのは知ってるだろ?」「そりゃ、あたしがアンタの給料から返済分を差し引いてるんだし」 現在、女将の借金は金貨九十九枚。 月々に金貨一枚ずつ借金を返済しているから、完全返済まで八年以上だ。 まあ、住み込みの仕事だから、こんなアホみたいな返済プランが成り立つんだけど。「パトロンになってもらおうと、クロノ様を誘惑したことがあるんだけどね」「アンタ、歳を考えなさいよ」「こ、これでも、クロノ様は綺麗だって言ってくれたんだよ!」 女将は真っ赤になって言った。 旦那じゃなくて、クロノ様か。 自分じゃ自覚してないかも知れないけど、もう女将は立派にクロノ様の愛人だ。 きっと、旦那さんは草葉の陰で泣いてると思う。「……その時に、『地下室に閉じ込める』って言われてね」「へ?」 女将は腕を組み、恥ずかしそうに頬を赤らめた。「『奴隷みたいに首輪を付ける』とか、『鞭で叩く』とか、『四つん這いで御飯を食べさせて……お尻の××に××して、●●を△△する』とか」「で、でも、そんなことシてなかったじゃない!」「まあ、そういう願望があるってことだろ?」 そんなことを考えているなんて、とあたしは恐怖に身震いした。 お尻の××に××されたら、た、垂れ流しよね? きっと、そんなあたしをクロノ様は嫌悪の表情を浮かべて見下すに違いない。「どうして、にやけてるんだい?」「へ?」 女将に指摘され、初めてあたしは自分が締まりのない笑みを浮かべていることに気付いた。「ち、違うんだからね!」「あ、あたしゃ、仕事に戻るから」 トレイを手に取り、女将は未知の恐怖から逃れるように部屋から出て行った。※ あたしが自分の気持ちを確かめるに当たり、解決しなければならない問題があった。 毎晩、クロノ様の部屋を訪れる愛人の存在だ。 愛人……本を返しに行った時、クロノ様とギシギシアンアンやっていたハーフエルフのことだ。 メイドどもの話を聞く限り、クロノ様は毎晩のようにハーフエルフを部屋に呼び、朝まで離さないらしい。 ちなみにハーフエルフの名前はレイラといい、三ヶ月前にあった神聖アルゴ王国との戦いで重大な役割を担い、現在は五十人隊長を務めているようだ。 ハーフエルフ如きに頭を下げるのは癪だけど、話を付けないとクロノ様の部屋を訪ねることもできない。 という訳で、あたしは太陽の光に焼かれながら、街の外にある演習場にやって来た。 演習場といっても、木の杭が突き立っているだけだ。 よく見ると、人間が亜人に混じって木剣で殴り合っていた。 クロノ様が部下に引き込んだ盗賊どもだ。『何か、用ですかい?』「ここにレイラってヤツがいるでしょ? そいつと話をしたいんだけど」 のそり、のそりとやって来たミノタウルスに頼んでみる。 多分、こいつってあたしを抱き上げたヤツよね。『クロノ様の命令でなければ、訓練が終わるまで待って欲しいんですがね?』 この牛が! とあたしは激昂しかけたけど、すぐに思い直した。 こいつは小汚い格好のあたしを浴室まで運んでくれたのだ。「分かったわ。訓練が終わったら、あたしの部屋に来るように伝えてくれない?」『分かりやした』 すぐに侯爵邸に戻ろうと思ったけれど、あたしは街を視察することにした。 治安が悪い外縁部は足早に通り抜け、商業区で立ち止まった。 相変わらず雑然としているけど、一ヶ月前に比べ、少しは治安が改善したっぽい。 あの時は浮浪者と街娼が目に付いたけど、今は殆どいない。 まあ、許可を受けた娼館しか売春ができないってのもあるけれど、救貧院の存在が大きいと思う。 クロノ様が何を考えているのか分からないけれど、ハシェルの救貧院は宿泊施設と職業斡旋所の役割を担っている。「退いた、退いた!」 あたしが慌てて道の脇に寄ると、山のように木の枝を積んだ荷車と木の樽を積んだ荷車が通り過ぎる。 どちらも紙工房の従業員……救貧院の居住者でもある……だ。 木の枝は近くの森で集めた紙の素材、樽の中身はハシェルの街から集めた灰だ。 ドワーフの紙は木の皮から繊維を分離させて作るんだけど、そのために灰を溶かした水で煮込まなければならないらしい。 ついでだし、ということであたしは救貧院に寄ることにした。 救貧院は商業区と居住区の間……来た道を戻らなきゃならないんだから、ついででも何でもないじゃないの、とあたしは心の中で突っ込んだ。「院長いる?」「今、戻った所だけど、入居希望者かい?」 救貧院の入口にいた女に声を掛けると、まるで女将のような口調で返された。「あたしはエラキス侯爵領の経理担当者よ」「へ~、あんたが噂にゃ聞いてるよ」 にやりと女は笑った。 マトモな噂じゃないんだろうな、とあたしは女を睨んだ。「まあ、そんな怖い顔しなさんな。奴隷商人に殺されそうになるまで逆らうなんてできることじゃないよ」「バカって言われてるみたいで、今一つ喜べないのよね。で、入って良いの?」「ああ、構わないよ」「……ありがと」 小さく呟いて、あたしは救貧院の扉を潜った。 救貧院の一階はホール……入居者に自分だけの時間や空間を与えたいという院長の意向により衝立で区切られている。「……思ってたより綺麗に使ってるのね」 すぐに汚れ果ててしまうだろうと思ったけど、職員がマメに掃除をしているらしく救貧院が再開された時と同じくらい綺麗だ。 あたしは階段を登り二階へ、突き当たりにある院長の部屋にノックもせずに入った。 そこではクロノ様が院長を組み敷いて……ないわよ、全然。「ああ、経理の……」 何やら手紙を書いていたらしい院長……『黄土神殿』の神官シオンは柔らかな微笑みを浮かべ、あたしを迎えた。「エレナよ、エレナ・グラフィアス」 挨拶もそこそこにあたしは部屋の隅にあるソファーに腰を下ろした。「あ、あの、エレナさん? 今日は、どのような御用件で?」「ん~、暇だから来ただけ。お茶は出してくれないの?」 ぐるりと部屋を見渡すと、頑丈そうな机と椅子があり、本と小汚い袋が収められた本棚があり……全然、神官っぽくない。「お茶はお客様にだけ出しています」「あたしは客じゃないの?」「エレナさんは身内ですから」 にっこりとシオンは微笑んだ。「まあ、良いけど……で、アンタは仕事中なの?」「クロノ様のお陰で寄付金が再開されたので、中央に報告を入れようと思いまして」「ああ、そんなのもあったわね」 何となく気になって、あたしは本棚の本を手に取った。「……っ!」「そ、それは!」 シオンはもの凄い勢いで走り寄り、あたしから本を奪い取った。「ねえ?」「な、なんでしょうか?」「今、神官に似つかわしくない内容が書かれていたんだけど?」 えふえふとシオンは咳払いをした。「『黄土にして豊穣を司る母神』様は繁殖と多産も司っています。な、なので、神官の嗜みとして男女の営みについても学ばなければならなかったのです」「じゃ、借りていくわね」「ま、待って下さい! 一応、神殿の秘儀ですよ!」「本当に秘儀なの?」「だから、そう言ったじゃないですか」 シオンは情けなさそうに……多分、本当に情けないのだろう……肩を落とした。 うん、まあ、こんなのが秘儀ってのも情けないと言えば情けない。「だけど、今のあたしには必要なの」「そ、そこまで言うのなら貸しますけど、ちゃんと返して下さいね?」「『純白にして秩序を司る神』に誓うわ」 神様が聞いたら、怒りそうだけどね。 あたしが信仰する『純白にして秩序を司る神』……『純白神殿』の神官は結婚まで純潔を守るべしみたいなことを言ってたし。 救貧院を出たあたしは来た時と同じように太陽の光に焼かれながら侯爵邸に戻り、仕事を再開した。 新しい事務員から娼館と奴隷商人の審査結果を受け取り、クロノ様がサインをするだけの状態に仕上げ……、 とっぷりと日が暮れ、扉が遠慮がちにノックされた。「入って良いわよ」「……失礼いたします」 あたしが許可すると、褐色のハーフエルフは少しばかり緊張した面持ちで入室した。 ふ~ん、とあたしは目の前に立つハーフエルフを眺めた。 クロノ様の寵愛を受けているハーフエルフは人形みたいな女だった。 人形のように可愛らしいでも、綺麗でもなく、人形のように感情がない。「アンタがクロノ様の寵愛を受けているって聞いたんだけど?」「はい、事実です」 ハーフエルフは淡々と答えた。 ここであたしはハーフエルフに対する認識を少しだけ改めた。 このハーフエルフはクロノ様の権力が自分の物でないと弁えているようだ。 まあ、そういう風にクロノ様が仕込んでいるのかも知れないけれど。「アンタって、クロノ様から毎晩のように寵愛を受けているのよね?」「はい。女将も寵愛をうけたようですが」 少しだけ、本当に少しだけ、ハーフエルフの口調に誇らしさが滲む。 何というか、私はクロノ様に愛されてます的な? 女将といい、こいつといい、クロノ様って女の扱いが上手いのね。 最近は双子のエルフも侍らせてるし。「アンタさ、今日はクロノ様の部屋に行かないでくれる?」「お断りします」 きっぱりとハーフエルフは言い切った。「何でよ!」「来るな、とクロノ様に命じられていないからです」 チッ、骨の髄まで調教されてるわね。 でも、その愚直さが仇よ。「だったら、あたしがクロノ様の所に行っても文句ないわね?」「……」 ハーフエルフは無言だ。「文句ないわよね? 分かったら、クロノ様に伝えておいて」「……分かりました」「分かったら、帰って良いわ」 あたしが言うと、ハーフエルフは部屋から出て行った。※ その夜、あたしはいつもより早めに仕事を切り上げ、いつもより丹念に体を洗った。 いつも着ているネグリジェに着替え、ベッドの上でシオンから借りた本を貪るように読んだ。 は~、ヤバイわ。 ホント、『黄土神殿』はハンパない。 多分、これを書いた人は宗教的情熱と性欲が区別が付かなくなったに違いない。 ま、まさか、こ、こんな方法で……、 む、夢中になりすぎた! と枕を掴んで、クロノ様の部屋に走った。 全力で階段を駆け上がり、あたしはクロノ様の部屋の扉に耳を当てた。『じゃ、そろそろ寝ようか?』『はい、クロノ様』 よし、間に合った! バン! と扉を破らんばかりの勢いでクロノ様の部屋に突入した。「な、何か用?」「そ、そこのハーフエルフから伝言を聞いているでしょ?」「何を?」 二人して見つめたが、ハーフエルフはそそくさと服を脱いでクロノ様のベッドに寝転んだ。 あんな細い体のくせにあたしより胸が大きいでやんの。「だから……今夜、あたしがクロノ様の部屋に行くって」「レイラ?」 クロノ様が名前を呼ぶと、ハーフエルフは上半身を起こし、「忘れていました」 しれっと言った。「あ、アンタ! ホントは覚えてたでしょ?」「いえ、本当に忘れていました」 こ、このアマ! 「で、何しに来たの?」「……な、何って」 クロノ様に言われ、あたしは口籠もった。 正直、首輪を触られるとドキドキするから、その正体を確かめに来たなんて言いたくない。少なくとも、このハーフエルフの前では。「ど、同衾しに来たのよ」「え、それって、ヤッちゃって良いの?」「ヤらせるか、バカ!」 あたしは嬉しそうに言うクロノ様に罵声を浴びせた。「あ、あたしは『純白にして秩序を司る神』を信仰してるの。だから、そういうのは結婚までダメなの!」「そうなんだ」 クロノ様は残念そうに……ホント、心の底から残念がるように言った。「だ、だから、ホントに一緒に寝るだけよ」「……分かったよ」「って、どうして、脱ぐのよ!」「いつも脱いでるから」「ぬ、脱ぐな」 クロノ様は面倒臭そうに下着を上げ、ごろんとベッドに寝転んだ。 クロノ様が腕を伸ばすと、ハーフエルフが頭を乗せる。 こ、この敗北感は、一体! あたしはベッドに枕を置き、「……夜中に襲い掛かってきたら、な、泣くわよ」「はい、襲いません」 微妙に信じられなかったけど、その時はその時ということでベッドに寝転んだ。 クロノ様のベッドは二人で寝るには十分な広さだけど、三人で寝るには少し狭い。 狭いんだけど、久しぶりに動き回ったせいで疲れていたんだろう。 あたしはすぐに眠りに落ちた。「……っ!」 多分、深夜……あたしは飛び起きた。「……夢か、良かった」 時々、一週間に一度くらいの頻度であたしは悪夢を見る。 それは奴隷商人の所にいた頃の夢だったり、クロノ様に引き取られていなかったらっていう洒落にならない夢だったりする。 前者はともかく、後者は自分の想像力を恨みたくなるほど壮絶な悪夢だ。 安堵の溜息を吐き、あたしは再びベッドに横になった。 ネグリジェが汗でぐしょぐしょだ。「……っ!」 突然、何かが体の上に乗り、あたしはびくりと体を震わせた。 クロノ様の腕だ。 どうやら、寝返りを打った拍子にあたしに落ちてきたらしい。 起こす訳にもいかないので、あたしはクロノ様に背を向けた。 すると、く、クロノ様の手があたしのお腹に……いつの間にか、ネグリジェが捲れ上がってるし! クロノ様の手が汗で濡れたあたしのお腹から胸の方に這い上がり、「アンタ、寝たフリしてるでしょ?」「……寝てます」「起きてるじゃない!」 あたしが突っ込むと、クロノ様は首輪を掴んだ。「お、怒ったの? ご、ごめんなさい、おこ、怒らせるつもりはなくて」 首輪を掴まれただけで、あたしの心から逆らおうって気持ちがなくなっていく。「お願いだから、ぶ、ぶたないで」 あの奴隷商人の元で、あたしはつまらない意地を張るべきじゃないって学んだ。 あたしが学んだのはそれだけのはずなのに……、「ふ~ん」「な、何よ」「いや、別に」 クロノ様が耳元で囁いた瞬間、あたしの脳裏に女将の言葉が甦った。「……その時に、『地下室に閉じ込める』って言われてね」「『奴隷みたいに首輪を付ける』とか、『鞭で叩く』とか、『四つん這いで御飯を食べさせて……お尻の××に××して、●●を△△する』とか」 ゾクゾクと何かが背筋を這い上がり、シオンに借りた本に書かれていた秘儀があたしの思考を埋め尽くし、「ち、違うんだから!」 あたしはベッドから飛び出し、頭を抱えて転げ回った。「な、なに、こ、この妄想は! あたしは変じゃない、変じゃないんだから! で、出てけ、あたしの頭から出てけ!」 ゴンゴンとあたしは妄想を追い払うために何度も床に頭を打ち据えた。「ちょ、錯乱しすぎ!」「さ、錯乱なんてしてない! 変な妄想を追い出すために自分を折檻してるだけなんだから!」「それを錯乱しているっていうんだよ!」 パッと壁に取り付けられたマジックアイテムが光を放ち、室内を照らし出す。 あたしは床にへたり込み、荒い呼吸を繰り返した。「エレナ様、もう少し静かにして頂けないでしょうか?」「あ、アンタも起きてたの?」「あれだけうなされていれば、誰でも目を覚ますと思います」「だったら、クロノ様があたしの体をまさぐった時に止めなさいよ!」「私には権限がありませんので」 しれっとハーフエルフは答えた。 何も感じていませんみたいな顔をして、根に持っていたらしい。「うなされるのは分かるんだけど、いきなり頭を打ち据えるなんて変だよ?」「……私、変なのかも」「いや、それは分かってるんだけど」「だ、だから、首輪を掴まれたり、ひ、酷いことをされそうになると思うと……ゾクゾクするの。ど、奴隷商人に殴られすぎて、おかしくなっちゃったのかな?」 あたしは泣きそうになりながらクロノ様に問い掛けた。 ようやく、ようやく、あたしは自分が変なのかも知れないと思い始めていた。「マゾヒズムってヤツじゃないの、それ?」「……何、それ?」 初めて聞く言葉にあたしは驚きを隠せなかった。「叩かれて痛みを感じたり、羞恥心を煽られたりして気持ちよくなる性癖……好みみたいなものかな」 クロノ様も今一つ分かってないみたいだけど、あたしは少しだけ安心した。 あたしの症状は名前が付けられる程度に一般的らしい。「ちょっと、待って……奴隷商人に殴られた時は何も感じなかったのに変じゃない?」「ある程度までの痛みとか、精神的な負荷を楽しめるようになったんじゃないの? よく分からないけど」「……ある程度で何処までよ」 あたしが言うと、クロノ様は貴族に似つかわしくない下卑た笑みを浮かべた。「じゃ、試してみようか?」「た、試さなくて良いわよ」 クロノ様はあたしの鼻の位置まで足を上げ、それから床に下ろした。「……足を舐めて」「ば、馬鹿なことを言わないでよ!」 あのゾクゾクの正体が分かった今、クロノ様に用はない。 正体が分かれば、この感情を制御できるはず。 ふとハーフエルフと目が合った。 こ、こんなハーフエルフの前で犬みたいなマネできるわけないじゃない。 クロノ様が明らかに失望した様子で見てる。 ハーフエルフは自分なら足くらい舐められると言いたげな目だ。「……くっ、な、舐めるわよ、舐めれば良いんでしょ」 あたしは尻を突き上げ、クロノ様の足下に這い蹲った。 頭が熱で浮かされたようにボーッとする。 あたしは顔をクロノ様の足に近づけ、指の付け根を舐めようと舌を伸ばした。 こ、こんな、い、犬みたいなマネ! なんて、屈辱! けれど……けれど! 舌先が触れる寸前、クロノ様が足を引いた。 あっ、と視線だけでクロノ様の足を追い掛ける。「ご、ごめんなさい、こ、こんなに時間を掛けるつもりはなくて」「……こっちこそ、ごめん」 え? とあたしは体を起こした。「いや、本当に舐めさせるつもりはなかったんだけど」「……」 クロノ様が気まずそうに言い、ハーフエルフが薄く笑みを浮かべる。「こ、この悪魔!」 からかわれたんだと理解した瞬間、怒りが爆発した。「ごめん」「ご、ごめんじゃないわよ! ごめんじゃ! し、死ね、このクズ!」 あたしはクロノ様を罵倒し、部屋から飛び出した。 途中で足から力が抜けてすっ転んだけど。※ 翌日の昼、あたしは眠り目を擦りながら仕事をこなしていた。 昼食を食べたせいか、集中力を欠いているせいか、ミスを連発してしまう。 クロノ様の部屋に枕を置いてきたせいで首も痛い。 頭をすっきりさせるために昼寝でもしようかな? と考えてたら、扉がノックされた。「だから、いるんなら開けなって言ってるだろ!」「……今日は昼食を食べたじゃない」「半分、眠ってたようなもんじゃないか」 女将は銀のトレイをテーブルに乗せ、自慢げに胸を張った。 トレイの上には白い塊。「何よ、これ?」「食べりゃ分かるよ」 首を傾げながら、あたしはそれを口に運んだ。「……っ!」 次の瞬間、冷たさと甘みが口の中で炸裂した。「つ、冷たい? な、何よ、これ?」「クロノ様に作り方を教えて頂いたアイスクリームさ。作り方は……」 偉そうに講釈を垂れる女将を無視して、あたしはアイスクリームを夢中で食べた。「って感じで作るんだよ」「自分じゃ作らないし」 アイスクリームのお陰か、頭がしゃっきりする。「昨夜は楽しかったかい?」「な、なんで、アンタが知ってるのよ!」「あたしゃ、これでもメイド達に慕われてるんだよ」 にやりと女将は笑った。「で、どうだったんだい? ヤッたのかい? ヤッたんだろ? 素直に言いなよ」「……ヤッてないわよ、邪魔者もいたし」「三人で仲良く「できるか!」」 あたしが叫ぶと、女将は気まずそうに頭を掻いた。「そりゃ、まあ、あたしもできないね。仕方がないね、ここはウブなアンタのためにあたしが一肌脱いでやるよ」「べ、別に要らないし!」 ふふ~ん、と鼻歌交じりに女将は部屋から出て行った。 世話好きのおばちゃんみたいと思ったけれど、言ったら怒られるはず。 その晩、昨日と同じように仕事を早めに切り上げ、昨日と同じように丹念に体を洗う。 昨夜はシオンから借りた本に没頭しすぎたから、ちょっと読むだけ。 ドキドキしながら、クロノ様の部屋の扉を開けると、クロノ様がベッドに横になっていた。 あのハーフエルフはいない。 拍子抜けして、あたしは……ベッドに座って、クロノ様の寝顔を眺めた。 何か、子どもみたい。 そういえば、あたしよりも一つ年上なだけなのよね。 変に落ち着いてるから、もっと、年上に感じるんだけど。 あたしとこいつの違いって何だろう? 身分の差? 性別? それとも、軍隊経験? 顔を近づけ、あたしは右目の傷を見つめた。「アンタ、起きてるんじゃないの?」「寝てます」 白々しい演技を続けるつもりはなかったらしく、クロノ様は億劫そうに体を起こした。「右目、どうしたの?」「唐突だね」「べ、別に、前々から聞こうと思ってたけど、機会がなかっただけよ」 クロノ様は憂鬱そうに右目の傷を指で撫でた。「三ヶ月前、神聖アルゴ王国の軍が攻めて来てさ。撃退はしたんだけど、敵兵に斬りつけられて、この有様だよ」「そんなに強かったの、その兵士?」「僕が弱かっただけ。何しろ、剣も抜けずに斬られたんだから」 もう一度、クロノ様は右目の傷を撫でた。「『黄土神殿』に寄付したのって、その傷を治したいから?」「傷を治すつもりはないよ」 クロノ様は溜息混じりに言った。「僕の命令で大勢が死ん……いや、僕が殺したんだ。彼らが戻ってこないのに、目を治すなんてマネできない」 自分の台詞とやってることの意味に気付いているんだろうか? こいつは致命的なまでに指揮官、いや、為政者に向いていない。 言うべきか、あたしは迷い……結局、忠告を呑み込んだ。「何しに来たの?」「ま、枕を取りに来たのよ」「あれ、昨日の続きをしに来たんだと思ったんだけど?」 ぎくりと体を強張らせた。「まあ、座りなよ……床に」「は? アンタ、ば、ば、バカじゃないの? 枕を取りに来ただけだって、言ったでしょうが!」 と言いつつ、あたしは素直に従っていた。「ひ、酷いこと、し、しないでよね……それから、キスはダメ、結婚まで……い、入れるのもなし」「しないよ、そんなこと」 クロノ様は極上の笑みを浮かべた。「何をさせようかな?」 ち、畜生……ドキドキの正体が分かって、状況が悪化したじゃない。 こ、こいつ、ホント、楽しそう。 ああ、どんなことをさせられるんだろ?「動物の鳴き真似が良いな?」「そ、それくらいなら、犬、猫、牛?」「じゃ、ブタで」 一瞬、目の前が真っ暗になった。 ぶ、ブタ……よりにもよってブタ。「で、できる訳ないじゃない」「じゃ、枕は返さないよ」 はは~ん、好きにすればいいじゃない! 枕くらいなくても眠れるし、新しい枕くらい自分で買えるんだから。「……ぶ、ブ~」 そ、それなのに、あたしは頭を垂れて、ぶ、ブタの鳴き真似を! クロノ様の顔を盗み見ると、がっかりした感じ。「君、ブタの鳴き真似を舐めてるの?」「や、やったんだから、枕を返してよ!」 あたしの枕を手に取り、クロノ様は悪魔のように笑った。 そして、あたしは……ブタになった。※ 翌朝、あたしは体の痛みで目を覚ました。 噛まれた、舐められた、指を突っ込まれた。 恥辱の記憶が甦り、あたしは陶然と……ち、違う! 屈辱に身を震わせなきゃ、ダメ!「おはよう」「……こ、この悪魔、ネグリジェと下着を返しなさいよ!」 あたしは眠っている犬みたいに体を丸めて言った。 あたしは裸で、クロノ様も裸だ。「あ~、ごめんなさい」「謝るくらいなら初めからすんな! う~、噛まれた所がジンジンする、息が生臭い……ホント、マジで、最悪、ホントに、最悪、し、死ね!」 クロノ様を罵倒しながら、あたしは下着とネグリジェを着る。 視線を下ろすと、歯形。 主に胸の辺り。 顎も痛い。 ベッドから立ち上がった瞬間、お尻から鈍痛が這い上がる。「えっと、大丈夫?」「だ、大丈夫なはずないでしょ! ゆ、指、指ぃ……ああ、もう、ホントに死ね!」 お尻の痛みに耐え、あたしはクロノ様の寝室を後にした。 さ、最悪、ホントに最悪!「で、でも……また、枕を取りに行かなきゃ、だ、ダメなのよね?」 足を止め、あたしは胸を高鳴らせながら呟いた。