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第4話:花と刺繍【カリス編】

クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです — novelup.plus · All chapters

第4話:花と刺繍【カリス編】

※ トントンという音が響き、カリスは目を覚ました。 そこは山羊の毛皮で作られたテントではなく、船室のベッドだった。 両腕を広げれば指先が壁に触れる程度の広さしかないが、ここが船の中であることを考えれば仕方がない。 それに四方を囲む木材や家具の新しさを考えれば自分を迎えるためにかなり気を遣っていることが分かる。「……ぐっ」 カリスはベッドから体を起こし、口元を押さえた。 原因は船酔いだ。 自由都市国家群の港を出てから二週間が経過しているのに吐き気が治まらない。 船員によればいつになく穏やかな波らしいが、初めて海に出る者と海に生きる者の差を思い知らされた旅だった。「……旅」 口の中で言葉を転がすと、視界が涙で滲んだ。 これは旅ではない。 自分には帰る場所がないのだから。 カリスは顔も見たことのない男の妾になるのだ。 事の発端は諸部族連合が進めている移住計画……その移住先の領主が女を欲したことだった。 これだけなら不自然なことではない。 領主が自分に逆らわないという保証……人質を欲するのは当然のことだ。 こちらにも部族の者を領主の近くに送り込めるというメリットがある。 本来ならば結婚適齢期……十五歳前後の娘が妾になるはずだったのだが、選ばれたのはカリスだった。 長老会が土地のために女を差し出すのかと言い出したのだ。 族長は長老会を無視できずにカリスを選んだ。 石女 ( うまずめ ) は女ではないという理由だった。 それを聞いた時、カリスは自分の芯が折れたような気がした。 トントンという音が再び響く。 誰かが扉を叩いているのだ。「もう少しだけ待って下さい」 カリスは涙を拭い、ベッドから立ち上がった。「……酷い顔」 壁に据え付けられた鏡を見て、溜息交じりに呟く。 髪はボサボサ、顔色は悪く、目元はクマで縁取られている。 船酔いで食事と睡眠をまともに取れなかったことを思えば当然かも知れない。 もう三十路を意識する年齢だ。 十代の頃のように疲れ知らずとはいかない。 トントンという音が響き、カリスは壁に掛かっているケープに手を伸ばした。 ケープを羽織り、フードを目深に被る。 これで少しは誤魔化せるはずだ。 誤魔化せないにしても何もしないよりマシだ。「……ふぅ」 溜息を吐いて扉を開けると、赤毛の青年が立っていた。 カリスと同じムー族の出身の若者だった。 彼の背後には鋭い眼差しの女性……フー族のリュカが立っている。 彼女も自分と同じように故郷を追われたらしい。「お待たせしました。何の用でしょうか?」「船がシルバニアに到着したので、呼びに来ました」 下船の準備をするように言わなかったのは荷物を持っていないことを知っているからだ。 カリスは腰紐から吊した小さな革袋に触れる。 荷物を呼べるのはこれだけだ。 あとは何もない。「どうぞ、こちらに」 赤毛の青年に先導されて甲板に出ると、風が頬を撫でた。「……っ!」 カリスは船の手摺りに駆け寄り、海に向かって吐瀉物をぶち撒けた。 磯の臭いを嗅いで吐き気を催したのだ。 殆ど食事を取っていないので、出てくるのは胃液だけだ。 それでも、吐き気はなかなか治まらず、胃がひっくり返るような不快感が断続的に襲い掛かってくる。 不快感がようやく収まり、その場にへたり込む。 すると、誰かがハンカチを差し出してきた。 カリスは手を伸ばし、動きを止めた。 と言うのもハンカチに見事な刺繍が施されていたからだ。「……早く取りなさいよ」 顔を上げると、リュカが不機嫌そうにこちらを睨んでいた。「……あ、あの、あまりに見事な刺繍なので」「大したもんじゃないわ。使わないなら海に捨てるけど?」「ありがとうございます」 悪い人じゃないのかも知れない、とハンカチを受け取って口元を拭う。「洗って、お返します」「いらないわ。新しいのを縫うから」 リュカはプイッと顔を背けた。「……大丈夫ですか?」 赤毛の青年が遠慮がちに声を掛けてきた。「すみません」「いえ……では、付いてきて下さい」 赤毛の青年に先導されて歩き出す。 ゆらゆらと揺れる桟橋を通り抜けた先には二人の男性が立っていた。 一人はシフだ。 傭兵として働いている者からは高く評価されているが、族長や長老会からは良く思われていない。 いや、警戒されていると言うべきか。 人の上に立つ者にとって有能な人間は自分の立場を脅かす敵なのだ。 長老会に至っては警戒を通り越して敵対的だ。 もっとも、実権を失っているので、文句を言う以上のことはできないが。 もう一人は軽薄な笑みを浮かべた男だ。 黒を基調とした服を着ている。 かなり身分が高いように見えるが、服と雰囲気がマッチしていない。「シフ様、お二人をお連れしました」「ご苦労だったな。長旅で疲れただろう。今日はゆっくりと休め」「はい! ありがとうございます!」 赤毛の青年が報告すると、シフは低い声で答えた。 労いの言葉にしては暖かみが感じられない。 それでも、彼は興奮した面持ちで返事をし、元気良く頭を下げた。 擦れ違い様、軽く肩を叩く。 彼は一瞬だけ振り返る。 何を見たのか。 嬉しそうに破顔し、街に向かった。「カリス殿、リュカ殿、こちらの都合で呼び立てて申し訳ない」「いえ、こんな私が部族のために役立てるのならこれに勝る喜びはありません」「……」 シフが軽く頭を下げる。 恨み言の一つも言ってやりたかったが、そんな言葉を口にしたら自分の価値を下げてしまう。 同じことを考えているのか、リュカは腕を組んでそっぽを向いている。「あの、そちらの方は?」 カリスは軽薄そうな笑みを浮かべる男に視線を向けた。 シフが目配せすると、男はズイッと歩み出た。「俺はケイン、カド伯爵領の代官を務めてる。今日は……」 男……ケインは言葉を句切り、服の内ポケットを探り始めた。 取り出したのは二枚の封筒だった。「俺が渡そう」「ああ、頼む」 シフは封筒を受け取るとカリスとリュカに差し出した。 封筒には名前が書いてあるが、どちらに渡せば良いのか分からなかったからだろう。「これは?」「そいつは在留許可証だ」 カリスの問いに答えたのはケインだった。「開けても宜しいでしょうか?」「ああ、構わねーよ」 封筒を開けると、中から紙が出てきた。「小難しい文章が並んでいるが、要は領民に準じた扱いを約束するって書いてある。これを持ってりゃ他の領地でもそれなりの扱いを受けられるはずだ」「……それなり、はず」 この紙が自分の命綱……あまりに頼りないが、今の自分には相応しいように思う。「ふざけないでよ」「……リュカ殿」 シフが窘めるように言ったが、リュカは一歩も引かずに睨み返す。「これは俺の言い方が悪かった。クロノ様も、俺もアンタらが他の領地で不当な扱いを受けたら全力で守る」「口では何とでも言えるわ」「署名欄を見てくれりゃ口だけじゃないって分かるさ」 許可証を見ると、三人分の署名があった。「三人の領主が身分を保障してるんだ。まともな領主なら三人の領主に喧嘩を売るような真似をしないさ」 カリスはまじまじと許可証を見つめた。 先程までは頼りないと感じていたが、殺してでも手に入れようとする輩がいても不思議ではない。「メサルティム男爵、ボサイン男爵、トレイス男爵には根回しをしている最中だが、次の許可証は六人の連名になる。安心したか?」 そう言って、ケインはニヤリと笑った。「だったら、初めからそう言えば良いじゃない」「大丈夫だって言い切れるもんじゃねーからな。ま、 呪 ( まじな ) いよりは頼りになるぜ」 恥ずかしくなったのか、リュカはそっぽを向いた。「二人には傭兵ギルドで休んで貰い、明日の朝にクロノ様の下へ向かって貰う」「大丈夫か?」「傭兵ギルドに不埒者はいない」 シフが言うと、ケインは苦笑した。「それに開拓村には女もいる」 他意はないのだろうが、女という言葉に引っ掛かりを覚えてしまう。「そっちじゃねーよ」 ケインがチラリと視線を向けてきたので、カリスはフードを目深に被った。「二週間の船旅で疲れてるみたいだぜ?」「……ふむ」 シフは値踏みをするような目でカリスとリュカを見つめた。「クロノ様は一日や二日到着が遅れたくらいで騒いだりしねーよ」「頼めるか?」「ああ、話すだけだから大した手間じゃない」 ケインは気安く請け負った。 代官に任じられているくらいだから領主に信頼されているのは間違いない。 会話から察するにシフとも気の置けない関係のようだが、どうすれば傭兵ギルドのギルドマスターが代官とこんな関係を築けるのか分からない。「すまんな」「俺が怒られたくねーだけだ。それと、何のために呼ばれたか説明しておいてくれよ」 ケインは上体を傾け、シフを指差した。「説明は受けているはずだが?」「俺の経験上、クロノ様の所にいる女は最初から勘違いしているか、途中で勘違いするかのどっちかだ。だから、どういう経緯でこんなことになったのか……裏の意味がないことまで説明するんだよ」「分かった」 シフは溜息交じりに言った。※ 傭兵ギルドの拠点は街外れにあった。 外観はここにくる途中にあった幾つかの建物に比べて地味だが、大きさは圧倒的に勝っている。 これに匹敵する建物は港に並んでいた倉庫くらいだろう。 だが、自分の力をアピールしようという意図は感じられない。 質実剛健を体現しようと頑張ったが、これ以上はどうにもならなかった。 そんなストイックさと諦観を感じさせる建物だ。 それは併設された庭園を見れば分かる。 いや、練兵場と言うべきか。 丸太が何本も並んでいるだけで何もない。 激しい訓練のせいか、下生えの草さえ四隅に追いやられている。 もったいない、とカリスは腰紐から吊した革袋に触れる。「……ここが傭兵ギルドの拠点だ」「随分、静かですね」「村で生活する者が多くてな。今ここに住んでいるのは独り者だけだ」 カリスが感想を口にすると、シフは苦笑しながら答えた。 ボーッと建物を見ていると、扉が開いた。 建物から出てきたのは恰幅の良い中年女だった。「彼女はサーラ。普段はギルドで雑用をこなしているんだが……」「まあまあまあ、遠路はるばるようこそお出で下さいました。お二方の世話係を務めさせて頂くサーラにございます」 サーラは素早く歩み寄ると頭を垂れた。「……頼めるか?」「ええ、もちろんですよ。どうぞ、こちらに」 サーラに先導されて建物に入ると、そこには横長のソファーが幾つも並んでいた。 その先は急激に狭まり、長い廊下になっている。「ギルドに用のある方はこちらのソファーでお待ちになり、奥の部屋に移動されます」「ああ、それで」 カリスは小さく頷いた。 建物の内部にはインテリアが飾られている。 もっとも、その多くは呪具の類だったが。「お二人の部屋は二階になります」「……体を洗いたいんだけど」 リュカがポツリと呟く。 やや険のある声音だったが、カリスも同意見だった。「ええ、湯浴みと着替えの準備は済んでますよ」「湯浴みができるんですか?」 ええ、とサーラは自慢気に頷いた。 湯浴みはベテル山脈で贅沢の代名詞だったので、気持ちは分かる。「では、浴室に案内いたします」 サーラに先導されて浴室に向かう。 浴室は廊下の突き当たりにある階段を登り、廊下を挟んだ対面にあった。 扉を開けて入ると、そこは脱衣所になっていた。 大きな棚が壁に据え付けられ、籠が二つずつ納められている。 よく見ると、着替えの入った籠が二つあった。「大丈夫なの?」「何がでしょう?」「……覗きとか」「お二人が湯浴みを終えるまで見張っておりますので、ご安心下さい」 リュカがボソボソ言うと、サーラはニコニコ笑いながら答えた。「だったら、良いんだけど」「では、ごゆっくり」 サーラが一礼して扉を閉めると、リュカは棚の前に移動し、服を脱ぎ始めた。 上着を空の籠に入れる。 カリスはリュカの隣に立ち、着替えを手に取った。 生地も、縫製もベテル山脈で使ったいた物とは比べものにならない。 こんな高そうなものを使っても良いのかとさえ思う。「……入らないの?」「あ、いえ、入ります」 カリスはゆっくりと服を脱ぐ。 隣を意識しないように自分に言い聞かせるが、そうすればするほど気になってしまう。 リュカはすでに裸になっていた。 服の上からでは分からなかったが、かなり豊かな胸をしている。 下腹部には刺青が彫られていた。 恐らく、子宝に恵まれるようにと呪医に彫って貰ったのだろう。 デザインは異なるが、カリスの下腹部にも同じ刺青が彫られている。 まあ、結果から言えば何の役にも立たなかったが。 溜息を吐きつつ、下着を脱いで籠に入れる。 革袋は腰紐から外して着替えの入っている籠に入れる。 どちらからともなく浴室に向かう。 扉を開けると、湯気が押し寄せてきた。 タイル貼りの浴室は広く、浴槽がその四分の一程度を占めている。「傭兵ってのは贅沢ねぇ」 リュカは吐き捨てるように言って、荒々しい足取りで浴槽に向かった。 浴槽の縁に置いてあった手桶でお湯を掬い、肩から掛ける。 カリスはやや遅れて浴槽に歩み寄り、肩から湯を浴びた。「……体を洗う物は」「多分、これよ」 リュカが差し出してきたのはタオルだった。 手に取ると、固い感触が伝わってくる。「お風呂は初めて?」「……これだけ大きな所は」「そうなんだ」 リュカは興味なさそうに言うとその場に跪いた。 石鹸らしき物でタオルを泡立てる。 らしき物と表現したのはそれが自分の知る石鹸とは似て非なる物だったからだ。「使い方は分かるでしょ?」「は、はい」 石鹸くらい分かりますよ、と心の中で言い返して受け取る。 もっとも、自分の知っている石鹸はこんなに泡立たないし、良い匂いもしないが。 跪いて体を擦ると、やや茶色っぽい泡になった。 船酔いに苦しみながらも一日一度は体を拭いていたのだが、あまり役に立たなかったようだ。 チラリとリュカに視線を向けると、茶色っぽい泡が目に付いた。 安堵しながら体を擦り続ける。 石鹸で髪を洗い、お湯を被る。 泡と垢が流れていく光景は堪えたが、めげてばかりはいられない。 もう一度、髪と体を洗う。 今度は泡が茶色っぽくならなかった。 そのことに満足しながら浴槽に浸かる。「はぁ、生き返るわ」「そうですね」 贅沢をしていることに多少なりとも罪悪感を覚えたが、これくらいの役得はあっても良いのではないかとも思う。「アンタ、何年?」 質問の意図が読めずに首を傾げる。「結婚生活よ」「十年です。十五歳で嫁いで……去年、第二婦人に子どもができて離縁されました」「都合の良い時だけ一夫多妻とか言って、勝手なもんよね」 ムー族は他の部族と同じく一夫多妻制だ。 それはベテル山脈の過酷さに由来する。 死は身近にあり、傭兵を生業にすれば更に身近なものになる。 一夫多妻制は残された女が困窮しないための知恵なのだ。 だから、普通は第二婦人を迎えても追い出されることはない。 ただし、それは子どもがいるか、子どもを授かる可能性がある場合だ。 カリスは子どもを授かる可能性がないと判断された。 元々、一族同士の繋がりを強固にするための結婚だったのだ。 子どもを産めなかった自分が残れるはずがない。 それに夫の愛が冷めていることも分かっていた。 あのまま一緒にいても辛い思いをするだけだったはずだ。 だが、離縁した後の生活も辛いものだった。 人目を避け、息を潜めるように過ごした。 兄夫婦の幸せそうな姿を見ているだけで辛かったし、陰口を叩かれるのも辛かった。「リュカさんは?」「五年よ」 リュカは不愉快そうに顔を顰めた。 自分と同じくらいの歳に見えるが、もっと若いのだろうか。「結婚したのは二十歳よ」「そうですか」「実家に戻ってからは二年ね」 リュカはお湯を叩き付けるように顔を洗った。「……良い人だといいですね」「女を要求するヤツだもの、期待するだけ無駄よ。ま、こんな年増が来るなんて相手も思ってないだろうけど」 ははは、とリュカは笑った。 自虐的な笑いだった。「……こんな風になるなんて思ってなかったわ」「私もです」 カリスは顔を伏せた。※ 風呂に入ったせいか、体が怠かった。 ただ、不愉快さはない。 心地良いとさえ感じられる怠さだった。 夕食まで一眠りしたかったが、そのためには長い廊下を通らなければならない。 歩きながら眠ってしまいそうな自分を励ましながら廊下の端に辿り着く。「こちらがお二人のお部屋になります」「随分、広い部屋ね」 サーラが扉を開けると、リュカはそんなことを言った。 確かにかなり広い部屋だ。 大部屋として使っていたのかも知れないが、今は二人分の家具しか置いていない。 壁際にはベッドと化粧台が置かれ、中央には机とテーブルが置かれている。 鏡に映したように対称的な家具の配置だった。「夕食の時間になったら参りますので、それまでおくつろぎ下さい。食事について希望があったら仰って下さい」「特に希望は……」「久しぶりに肉が食べたいわ」 リュカがカリスの言葉を遮り、希望を口にする。 船の上では魚ばかり食べていたので、獣の肉が恋しいと言えば恋しい。「承りました」「お願いね」 サーラは軽く頭を下げると扉を閉めた。「……あの」「アンタだって肉が食べたいでしょ?」 リュカは中央にあるテーブルに着くと刺繍を始めた。 もう少し言い方があるのではないだろうか。 そんなことを考えていると、リュカは口を開いた。「……ムカつくのよね」「すみません」「アンタじゃないわ。あたしがムカついているのは自分の部族と諸部族連合よ」 リュカは手を休め、悔しそうに唇を噛み締めた。「勝手に結婚を決められて、勝手に離縁されて、好き勝手に陰口を叩いて、挙げ句の果てに何処の馬の骨とも分からないヤツの妾になれなんてふざけてるわ」 石女は女じゃないって言ったくせに、とリュカは血を吐くような声で言った。「アンタはムカつかないの?」「……分かりません」「へぇ、良い子ちゃんね。部族のためなら妾にでもなるっての?」「そういうことではなくて……多分、そんな気力が残っていないんだと思います」 ああ、とカリスは小さく喘いだ。 ようやく合点がいった気分だった。 自分の芯が折れただけではなく、怒る気力すらないのだ。 だから、部族のためになるならと受け容れた。 これなら部族のために犠牲になったと自分を慰めることができる。「ごめん。あたしが悪かったわ」「いえ、良いんです」「酷い顔よ」 顔に触れてみるが、どんな顔をしているか分からない。「少し休んだ方が良いわ」「そうします」 カリスはベッドに潜り込んだ。 干したばかりなのか、布団はポカポカと暖かく、訳もなく涙が出てきた。※ 目を覚ますと、枕が涙で濡れていた。 どんな夢だったか覚えていないが、良い夢ではなかったはずだ。「もう少し寝てても良いわよ」「いえ、大丈夫です」 カリスは目元を拭い、ベッドから下りた。「寝言を言ってましたか?」「静かなもんだったわよ」 リュカが答えた直後、扉を叩く音が響いた。 カリスが扉を開けると、シフとサーラが立っていた。「随分、顔色が良くなったな」「ありがとうございます」 軽く頭を下げると、シフは微苦笑を浮かべた。「食事の前に事情を説明しておきたい。席に着いてくれるか?」 はい、とカリスは頷き、リュカの対面の席に座った。 シフはテーブルの前に立ち、深々と頭を垂れた。「まず、こちらの都合で呼び立てたこと、次に心ない言葉を浴びせかけてしまったことを族長に代わって謝罪したい。本当にすまなかった」「……いえ」 カリスは震える声で答えた。 それだけで精一杯だった。 謝られたからと言って、自分が部族にとって不要な存在であることは変わらない。「代官が説明しておけって言ってたけど?」「ああ、今から説明する」 シフは顔を上げ、思案するように手で口元を覆った。「……我々がいるカド伯爵領とその東にあるエラキス侯爵領を治めているのはクロノという男だ」「その男が妾を寄越せって言ったのね?」「クロノ様は何も言っていない。彼の妻が屋敷で働くメイド……要するに使用人に欠員があるから推薦するようにと言ったんだ」 その言葉を聞いた瞬間、目眩を覚えた。 その言葉が事実だとしたら、求めているのは労働力ということになる。「……使用人として働かせるなら誰でも良いじゃない」 リュカは顔を伏せ、押し殺したような声音で言った。「彼の妻は前皇帝の娘だ。現在は何の権限も持ち合わせていないが、我々の誠意を示す必要があった」「アンタの娘……クアントだっけ? そいつを送り込めば良いじゃない」「あれは勘当した」 シフは即答した。「は?」「あれは勘当した。今は代官所で世話になっている」 リュカが問い返すと、シフは淡々と言った。 嘘を言うタイプではないので、本当のことだろう。 それにしても、自分の娘を異国の空の下に放り出すなんて酷い父親だ。「私達は、その、メイドとして働けば良いのですか?」「いや、妾になる努力をしてくれ」 あまりに直接的な物言いに二の句が継げなかった。「クロノ様は女好きだ。恐らく、アプローチをすればかなりの高確率で手を出してくるだろう」「そうならないように説明しろって言ってたんじゃないの?」「勘違いしないように説明しろと言われただけだ」 シフはしれっと言った。「あの、妾になったら何を要求すれば良いのでしょうか?」「特に要求することはない」「どういうことよ?」「そのままの意味だ」 シフは平然とリュカに答えた。 妾になれるようにアプローチしろと言いながら、要求は何もない。「クロノ様は公私混同を嫌う。愛人になることができても権力を振るったり、金銭を得ることはないだろう」「じゃあ、意味なんてないじゃない」「部族の者が身内になればあの男は容易に我々を切れなくなる。それだけで十分だ」 シフは静かに言った。「……現在、我々は領民と同等の権利を保障され、切り拓いた土地を自分の物にすることができる。この待遇を失う訳にはいかん」 努力すれば相応に報われる環境を与えられたのだ。 それを維持したいと思うのは当然のことだろう。「いつ、私達は、その、クロノ様の下に?」「明後日だ」「一度、村を見に行きたいのですが?」「明日、案内させよう」「ありがとうございます」 カリスは軽く頭を下げた。 たとえクロノが極悪人だったとしても自分が何のために身を捧げるのか理解していれば耐えられると思ったのだ。「他に質問や要望はないか?」「……」「……」 カリスとリュカは答えなかった。「では、食事を楽しんでくれ」 安堵したのか、シフは小さく息を吐くと部屋から出て行った。「はいはい、お待たせしました」 サーラは木製のワゴンを押して部屋に入り、テーブルの上に料理を並べ始めた。 大きなパンとクリームシチュー、肉の香草焼き、サラダだ。 カリスは軽く目を見開いた。 パンの大きさもさることながら、シチューとサラダに使われている野菜の豊富さに驚いたのだ。「冷めない内に召し上がれ」 カリスとリュカは手を組み、精霊に感謝の祈りを捧げた。 それから怖ず怖ずとパンに手を伸ばし、二つに割る。「……白い」 今度は大きく目を見開いた。 パンの断面は雪のように白い。 これはパンの素材となる小麦に混ぜ物がないことを示している。 耕作地に適した土地が少ないベテル山脈では混ぜ物の多い灰色のパンが普通だ。 白いパンは祭や婚礼などでしか食べられない。 更にパンを割って頬張る。 芳ばしく、ほんのりと甘い。 パンを皿に置き、スプーンでクリームシチューを掬う。「これは鶏肉?」 スプーンに載っているのは肉の塊だった。 口に入れると、ホロホロと崩れていく。 卵を産めなくなった鶏ではこうはいかない。「凄いシャキシャキしてる」 顔を上げると、リュカがサラダを食べて大きく目を見開いていた。 クリームシチューに後ろ髪を引かれつつ、サラダを口にする。「……っ!」 シャキシャキした歯応えにまたしても目を見開く。 新鮮な野菜だと分かっていたが、これほどとは思わなかった。 これに比べればベテル山脈で採れた野菜など萎れた雑草のようなものだ。「傭兵ってのは贅沢ね」 リュカはスープを食べ、ボヤくように言った。 傭兵が贅沢なのはある意味で当然のことだ。 彼らは命懸けで金を稼ぎ、部族を養っているのだ。 これくらいの役得がなければやっていられない。「これくらい贅沢の内に入りませんよ」「は?」「ここではちょっとお金を出せばこれくらい食べられるんですよ」 リュカが問い返すと、サーラはニコニコ笑いながら答えた。「今年はお金を出さずに済むかも知れませんねぇ」「開拓は順調なのですか?」「ええ、そりゃあ、もう! 頑張れば頑張るだけ楽になるってんで、うちの旦那も非番の日に森を切り拓いてますよ!」 サーラはカラカラと笑った。「クロノ様はどんな方なのですか?」「直接会ったことはありませんが、女好きって話はよく聞きますねぇ。何でも嫁さんが三人いて、愛人も両手の指じゃ数え切れないくらいいるんだとか」「最低じゃない」 リュカは吐き捨てるように言ったが、カリスは気が滅入った。 年増で男を誑かす手管などないのにそこに分け入り、寵愛を勝ち取れと言われているのだ。「街の連中は『英雄色を好む』って笑ってますよ。あたしらだって、気にしちゃいませんからね」「それはどうなの?」「街の連中も、あたしらも現実主義なんですよ。ま、あたしは旦那が愛人をこさえたらぶん殴ってやりますけどね。領主様は誰に迷惑を掛けている訳でもなし、善政を敷いてくれてるんだから文句なんざ言いませんよ」「そりゃ、そうなんだろうけど」 リュカはモゴモゴと口を動かした。 もう少し気遣いが欲しいと思うが、傭兵の女房というのは図太くなければやっていけないのだろう。「さあ、どんどん食べて下さい」 カリスは釈然としないものを感じたが、パンに手を伸ばした。白いパンはふっくらとしていて美味しかった。※ カリスとリュカが食事を終えると、サーラは皿を重ねてワゴンに載せた。「お粗末様でした」「いえ、美味しかったです」「うちの旦那もそれくらい言ってくれりゃ良いんですけどねぇ」 サーラは腰に手を当て、小さく溜息を吐いた。「……美味しかったわ」「はは、催促したみたいで悪いですね」 リュカが刺繍をする手を休めて言うと、サーラは笑いながら答えた。 言い方によっては嫌味に感じられる言葉だが、愛嬌が感じられる。「それじゃ、ゆっくり休んで下さい」 サーラは軽く頭を下げるとワゴンを押して部屋から出て行った。「美味しかったですね」「そうね」 リュカは再び刺繍を始めた。「刺繍が好きなんですか?」「ええ、好きよ。刺繍をしていれば余計なことに関わらなくて済むもの」 黙ってろと言うことだろうか。「で、でも、良かったですね。良い人そうで」「何処がよ」 リュカは吐き捨てるように言った。 余計なことに関わらなくて済むと言ったくせに付き合いが良い。「女として求められていると思ったら家畜扱いじゃない。ベテル山脈から来させたくせに使用人って何よ、使用人って……痛っ!」 リュカは人差し指を舐めた。 どうやら、針で指を刺してしまったらしい。 全てを放り出すとベッドに潜り込んでしまった。「……皆、嫌いよ」 やはり、吐き捨てるように言った。「どうして、子どもが産めなかったくらいでこんな目に遭わなきゃならないのよ」「……」 カリスは何も言えなかった。 反抗する気力があれば自分も同じことを考えていたかも知れないのだ。 いたたまれなくなって自分のベッドに入ると、啜り泣きが聞こえてきた。※ カリスが目を覚ますと、リュカはすでに席に着いて刺繍をしていた。 目元が赤くなっているが、敢えて指摘しない。「よく眠ってたわね」「すみません」 ベッドから下り、化粧台に座る。 鏡に映った自分を見て、安堵の息を吐く。 眠ったお陰か、顔色は良くなり、クマも薄くなっている。 陶製の水差しからタライに水を注ぎ、顔を洗う。 昨夜はなかったので、リュカか、サーラが運んでくれたのだろう。 鏡を見つめ、髪の毛がボサボサであることに気付く。「櫛なら引き出しに入ってるわよ」「ありがとうございます」 櫛を手に取り、丁寧に梳く。 大きな鏡を見ながら髪を梳くのは贅沢をしているようで後ろめたく、気恥ずかしく感じられる。 扉を叩く音が聞こえたのは櫛を引き出しにしまうと同時だった。「……どうぞ」「おはようございます。今日も良い天気ですよ」 リュカが扉を開けると、サーラがワゴンを押して部屋に入ってきた。 ちなみにシフの姿はない。「シチューは昨日の残りですけどね。味がしっかりと染みて美味しいですよ」 サーラはそんなことを言いながら料理を並べていく。 バターたっぷりのトーストとクリームシチュー、サラダ、ベーコンエッグだ。 カリスは精霊に祈りを捧げ、トーストに手を伸ばした。 パンの縁はカリカリで、口に入れるとバターが染み出してきた。 くどさはなく、塩っぱいのに甘みを感じる。 次にシチューを口に運ぶ。 昨夜は野菜が固さを残していたが、今日は芯まで柔らかい。 サラダは昨日と同じく新鮮だった。 いや、昨日よりも瑞々しく感じる。「野菜は朝一で買いに行ったんですよ」「……凄いですね」 思わず呟く。 朝一番に野菜を買いに行ったことではなく、朝から食材を買えることが凄いと思う。「帝国は何処でも同じなんでしょうか?」「あたしは開拓村とシルバニアを往復するくらいなんで、他所のことは分かりませんよ」 どうやら、この街はシルバニアと言うらしい。「行商人はクロノ様の屋敷がある街は毎日がお祭り騒ぎって行ってましたけどね」「……毎日がお祭り騒ぎ」 そんな街で暮らせるだろうか、と不安が湧き上がる。「話半分に聞いておいた方が良いですよ」「そうですね」 話半分に聞いてもそんな街で暮らせるか不安で仕方がない。「そう言えばシフ様は?」「あたしが開拓村を案内するので、安心して下さい」 カリスは胸を撫で下ろした。 やはり、見ず知らずの相手ではなく、見知った相手に案内して欲しい。「……飲み物が欲しいんだけど?」「はいはい、準備してありますよ」 リュカが遠慮がちに言うと、サーラはワゴンに戻り、カップに香茶を注いだ。 やや刺激のある香りが広がる。「何処かで嗅いだような匂いね?」「生姜でしょうか?」 ああ、とリュカが納得したように頷く。「ええ、開拓や農作業の指導をしてくれる神官様に作り方を教わったんですよ。最初の頃に比べりゃマシになっていると思います」「信仰はどうしたのよ?」「精霊様を信仰してるんで安心して下さい」 サーラは胸を張って言った。「それではメリットがないのではないでしょうか?」「クロノ様が寄付してるお陰ですよ」 なるほど、とカリスは頷いた。 要するに神官様は寄付の対価として開拓や農作業の指導しているのだ。 おこぼれに与っているとも言えるし、分け隔てなく扱われているとも言える。「さあ、冷める前にどうぞ」 サーラはカリスとリュカの前にカップを置いた。 カップを手に取り、恐る恐る香茶を口に含むと、舌がピリッとした。 リュカはやや遅れてカップに口を付ける。「……悪くないわね」 気に入ったのか、再び香茶を飲む。「神官様に言わせると、今年は寒いらしいですよ」「軟弱ねぇ」 リュカが呆れたように言うと、サーラは苦笑した。※ カリス達は食事を終えると荷馬車で開拓村に向かった。 サーラが御者席、カリスとリュカは荷台だ。「良い天気ですね」 カリスは荷台で空を見上げた。 風は少し強いが、雲一つない良い天気だ。「……そうね」 リュカがやや遅れて同意した。 もっとも、刺繍をしているので、相槌を打っただけかも知れないが。 馬車がガクンと揺れる。 突然、スピードを落としたのだ。 前を見ると、牛……ミノタウルスと呼ばれる種族だ……がこちらに近づいていた。 ベテル山脈に亜人はいない。 理由を知る者はいないが、恐らく、ご先祖様が駆逐してしまったのだろう。 諸部族連合が組織された今でも他の部族は競争相手という認識が強い。 相手が人間でなければ恐怖しか感じない。 しかも、隻眼だ。 どうみても堅気ではない。 それなのに、サーラは荷馬車を止めてしまった。「おや、ハッさん。街に用でもあるのかい?」『買い物に行くように頼まれちまったんだよ』(ぶも~) カリスは耳を押さえた。 言葉と鳴き声が同時に聞こえたのだ。 リングがミノタウルスの鼻先で揺れている。 それである呪具のことを思い出した。 異なる言葉を持つ者でも意思を通わせられるようになる呪具だ。『後ろの娘さんは新しい村人か?』(ぶも?) ミノタウルス……ハッさんはカリスを見下ろした。 驚くべきことに荷台に座っている自分よりも遥かに背が高いのだ。「ああ、この二人はクロノ様にメイドとしてお仕えするんだよ」『出稼ぎってヤツか?』(ぶも?) ハッさんは顎を撫でながら首を傾げた。 違う。 違うのだが、カリスには間違いを指摘する度胸はない。「あたしらは余所者だからね。気を遣って下さったのさ」『俺達は仲間のつもりだぞ?』(ぶも?) ハッさんは心外だと言わんばかりに鼻から息を吐いた。 正直、怖くて堪らないが、自分にできるのは嵐が過ぎ去るのを待つことだけだ。「はは、それはあたしらだってそうさ。きっと、クロノ様はあたしらが余所者じゃないって知らしめようとしているんだよ」『……そう言うことか』(……ぶも) どうやら、納得したらしく何度も頷いている。『もう少し話したい所だが……』(ぶも)「話し合いはいつでもできるよ」 そう言って、サーラは荷馬車を動かし始めた。 カリスはハッさんの背中を見つめ、見えなくなった所で盛大に息を吐き出した。「ビックリさせてしまいましたかね?」「あの方は?」「開拓村の住人ですよ。あたしらの前に来て、港を造ったそうですよ」 港を? とカリスは後ろを振り返った。 港は見えないが、あれだけ大きなものをどうやって造ったのだろう。「開拓村にはエルフもいますよ」「……エルフ」 人間の数倍の寿命を持つ種族と聞いたことがある。「大丈夫なんですか?」「最初はビックリしましたけどね。付き合ってみれば気の良い連中ですよ」 はあ、とカリスは曖昧に頷いた。「ああ、村が見えて来ましたよ」「あれが?」 カリスは目を細め、前方を見た。 屋根のようなものが梢の間に見えた。 村が近づくにつれて全容が明らかになる。「リュカさん、リュカさん!」「刺繍をしてるんだから叩かないでよ」「そんなことよりも見て下さい!」 リュカは渋々という感じで刺繍を中断し、開拓村を見つめた。「……っ!」 息を呑む音が聞こえた。 無理もない。 開拓村と言っていたが、眼前に広がる光景は村のレベルを超えている。 街が森の中に姿を現したのだ。 木造の家々が軒を連ね、ミノタウルスやエルフが道を歩いている。 驚くべきことに人間はそのことを当然のように受けているようだった。「良い村でしょう?」「……はい」 カリスは頷くだけで精一杯、リュカはポカンと口を開けている。 荷馬車は街の奥へ、奥へと進んでいく。 突然、街並みが途切れ、広大な畑が現れる。 膝丈ほどに成長した麦が見渡す限り続いている。 故郷の人々に見せてあげたいと思う。 眼前に広がる光景は故郷の人々が、いや、ベテル山脈の民が先祖代々夢見てきたものだ。 これだけ広大な畑があれば飢えに苦しむことはない。 傭兵として命懸けで戦う必要もなくなるだろう。 この光景を守るためになら、とカリスは胸を押さえた。※ シルバニアに戻った後、時間は何事もなく過ぎていった。 サーラの料理に舌鼓を打ち、ゆったりと湯船に浸かる。 故郷の人々に見られたら非難されることは間違いないが、一生に一度くらいはこんな一日があっても良いと思う。 少なくともカリスはそんな風に考えているのだが、リュカは違うようだ。 刺繍に没頭し、話しかけても返ってくるのは生返事ばかりだ。「何かあったんですか?」「……別に」 リュカはふて腐れたように唇を尖らせた。「良い村でしたね」「……そうね」 カリスはすぐに自分の失敗を悟った。 険のある声を聞けば話題選びに失敗したことくらい分かる。「わ、私はもう寝ますから」 溜息を吐きつつ、ベッドに潜り込む。「……畜生。どうして、あんなヤツらのために」 壁際を向くと、リュカの声が聞こえてきた。 怨嗟に彩られた生々しい声だった。 失敗どころか、大失敗だった。 ああ、寒い。 こんなに温かい部屋なのに心が寒い。 たとえ自己欺瞞に過ぎなくても前向きな気持ちで旅立ちたかったのに嘘の力は失われてしまった。 自分達が労働力として消費されている間に彼らは幸せな人生を歩むのだ。 辛い。 とても辛い。 辛すぎる。「……寒い」 カリスは小さく呟き、目を閉じた。※ カリスとリュカが朝食を終えて外に出ると、馬車が傭兵ギルドの前に留まっていた。 荷馬車ではなく、立派な箱馬車だ。 カリスがポカンとしていると、シフとケインが箱馬車の陰から出てきた。「よう、二人とも。体調は良いみたいだな」「あの、この馬車は?」「こいつはクロノ様が出してくれたもんだ。折角、ベテル山脈から来てくれたんだから礼儀を尽くしておきたいんだと」 カリスが尋ねると、ケインは軽く肩を竦めながら答えた。「生活に必要なものを侯爵邸に送っておいた」「ありがとうございます」 シフに頭を下げる。「……それと、扉を開けようとしているのが御者のデュランだ」 ケインが親指で指し示すと、箱馬車の扉を開けようとしていた男性はピタリと動きを止めた。 黒を基調とした服を着ているが、少しだけ窮屈そうだ。 腰から剣を提げているのは道中が危険だからだろう。「剣をぶら提げてるが、これは念のためだ。何せ、盗賊が最後に現れたのは三年前だからな」「……はい」 念のためと言われても不安は拭いきれない。 せめて、短剣が欲しい。 身を守るためではなく、自決用に。「……挨拶挨拶」「あ、あ~、お、私が御者を務めるデュランです。普段は事務として侯爵邸で働いています。どうぞ、宜しく」 ケインが促すと、デュランはこちらを向き、ペコリと頭を下げた。「こちらこそ、よろしくお願いします」「……よろしく」 カリスが頭を下げると、リュカは渋々という風に頭を下げた。「じゃあ、出発しますが、忘れ物はないですか?」「はい、ありません」「ないわ」 デュランが箱馬車の扉を開けた。 内部はかなり広く、革張りのイスが向かい合うように据え付けられている。「……どうぞ」 カリスは後ろの席の窓際に、リュカは前の席の扉側に座った。「閉めますよ」 扉がパタンと閉まり、しばらくして箱馬車が動き始めた。 そして、揺れが小さいことに気付いた。 ベテル山脈から港に向かう途中で箱馬車に乗ったが、それとは雲泥の差だ。 どうすれば同じ箱馬車でこんなに差が付くのだろう。 驚きを共有したかったが、カリスは刺繍をしている。 仕方がなく景色を眺める。 この街に戻ってくることは二度とないだろう。 そう考えると、異郷の街並みが堪らなく愛しく思えた。 まあ、街から出てしばらく経った頃に眠ってしまったが。※ カリスが強めの震動を感じて目を覚ますと、狼が窓からこちらを見ていた。 バッと窓から離れると、狼は不思議そうに首を傾げて去って行った。 思わず目を擦る。 狼の首から下が人間のように見えたのだ。 見間違いかと思ったが、そうではなかった。 獣頭人身の異形が箱馬車を取り囲んでいる。「怯えなくても大丈夫よ」「え?」 対面の席を見ると、リュカが刺繍をしていた。「寝ぼけてるの?」「あ、そうですね」 ここはベテル山脈ではないのだ。 確か、あれは人狼と呼ばれる種族だ。 槍を手にしているので、戦士のようだ。 箱馬車が動き始め、カリスは窓から街を眺めた。 港に向かう途中で立ち寄った街の中にはゴミが散乱している所もあったが、この街にはゴミが落ちていない。 人の往来は激しく、その表情は明るい。 よくよく思い出してみればシルバニアもそうだった。 二つの街で同じ雰囲気を作り出せるのだから善政を敷く領主という評価に間違いはないようだ。 道を進むにつれて人の往来は更に激しくなり、粗末な店の建ち並ぶ区画を過ぎた辺りから徐々に減り始めた。 注意深く観察すると、街の雰囲気が変わっていた。 粗末な店の建ち並ぶ区画までは雑多な印象があったが、今いる区画は建物の外観が洗練されている。 ん? とリュカが刺繍を止め、顔を上げる。「どうかしたんですか?」「音が聞こえたのよ」「音?」 目を閉じて耳を澄ませる。 すると、カーン、カーンという音が微かに聞こえた。 音は段々と大きくなっていく。「……すぐそこみたいですね」 目を開けると、城とそれを取り囲む四つの塔が視界に飛び込んでいた。 その威容に言葉が出てこなかった。 これほど巨大な建造物は初めて見る。 そのせいか、この城に住んでいるのは神話の怪物なのではないかという馬鹿げた妄想が脳裏を過ぎる。 箱馬車は門を通り、城の敷地に侵入する。 スピードが少しずつ落ちていき、城の前で完全に止まった。 心臓が早鐘のように鼓動し、呼吸が荒くなる。 リュカはと言えばそそくさと裁縫道具をポーチにしまっていた。 突然、扉が開き、カリスは身を竦めた。「……驚かせてしまいましたか?」「い、いえ!」 カリスは両手を左右に振りながらデュランに答えた。「どうぞ、お降りになって下さい」「は、はい」 声を上擦らせながら降りると、リュカも後に続いた。「クロノ、様は?」「すぐに来ますよ」 デュランが言った直後、城の扉が開いた。 最初に出てきたのは女だった。 服の色を統一するというルールでもあるのか。 ケインやデュランと同じく黒を基調としたワンピースを着て、その上に白いエプロンを着けている。 思わず胸を撫で下ろす。 ワンピースを着た女の年齢が自分と同じくらいだと思ったからだ。 次に出てきたのは若いと言うよりも幼い感じの少年だった。 彼も黒を基調とした服を着ている。 髪と瞳の色まで黒だから徹底している。 右目に大きな傷があるが、戦士らしさは感じない。 事故で視力を失ったと考えた方がしっくりくる優しげな容貌の持ち主だった。「じゃあ、私はこれで」 デュランは一礼すると御者席に向かった。 箱馬車がゆっくりと動き出し、少年が近づいてくる。 女の方は陰のように少年に従っている。「初めまして、僕がエラキス侯爵領とカド伯爵領の領主……クロノです」 この時の気持ちを一言で表現するならばポカンである。 女好きという話は聞いていたが、こんなに可愛らしい子だとは思わなかったのだ。 下手をしたら自分とクロノは親子ほど歳の差があるのではないだろうか。「失礼ですが、年齢は?」「二十一歳です」 そう言って、少年……クロノははにかむような笑みを浮かべた。 そのあどけない表情を見ていると、噂が間違っているように思えてくる。「ご両親は?」「父は南辺境……アレオス山地と言って分かるかな? まあ、とにかく、その麓で領主をやっていて、母は病気で……」 クロノは言葉を濁した。 またしても間違えてしまった。 きっと、彼は母親の死から立ち直れていないのだ。 コホン、と女が咳払いをした。「……私はメイド長を務めるアリッサと申します。本日からしばらくの間、カリスさんとリュカさんを教育するように仰せつかっております」「あ、私がカリスです」「存じております」 アリッサは柔らかな笑みを浮かべた。 恐らく、ケインが何らかの方法で自分達の容姿を伝えたのだろう。「教育は明日からとなります」「アリッサ、よろしくね」「はい、旦那様」 クロノが声を掛けると、アリッサは微かに口元を綻ばせて頷いた。「お部屋に案内します。どうぞ、こちらへ」 アリッサが踵を返し、カリスとリュカはその後を追う。 城に入ると、そこは巨大な空間だった。 階段を登り、長い廊下を歩く。「凄いお城ですね」「城ではなく、城館です」「城館?」「はい、居住性を優先しているので、城としての機能はありません。と言っても、これは受け売りなのですが」 鸚鵡返しに尋ねると、アリッサは穏やかな口調で答えた。「こちらがお二人の部屋になります」 アリッサが立ち止まったのは廊下の中程にある扉の前だった。 扉を開けて貰い、一緒に中に入る。 家具の配置は傭兵ギルドに似ている。 壁際にはベッドと化粧台、窓際にはタンス、中央にはテーブルとイスが置かれている。 さらにテーブルの上には二つの木箱がある。「あの木箱は?」「シフ様から送られてきたものです」「何が入っているのでしょうか?」「さあ、そこまでは」 アリッサは微苦笑を浮かべた。「教育は明日からとなります。食堂は……食事の際に案内するとして、取り急ぎ、トイレや体を清める場所を案内します」「あ、あの!」 カリスが呼びかけると、アリッサは踵を返すのを止めた。「どうかしましたか?」「クロノ様はどのような方なのですか?」 アリッサの頬が一瞬だけ引き攣った。「クロノ様は……時折、悪ふざけをされることもありますが、基本的には真面目で優しい方です」「良かった」 カリスは胸を撫で下ろした。※ 夕方、カリスは雑草を地面に放ると服の袖で汗を拭った。 花壇を見つめ、自分の仕事に満足感を抱く。 エラキス侯爵領に来てから数日が過ぎていた。 最初は戸惑うことが多く、失敗して落ち込むこともあった。 しかし、今は上手くやっていけそうな気がしている。 アリッサは優秀な教育係で、エルフやドワーフの同僚は親切だった。 彼女達がこちらの境遇を知らないことも良い方向に作用したのかも知れない。 ただ、気になることが二つあった。 一つはリュカのことだ。 彼女は暇があれば刺繍をしている。 同僚と仲良くすれば良いのにと思うが、怒りを静めるためには時間が必要なのかも知れない。 もう一つは花壇だった。 侯爵邸の庭には幾つか花壇があるのだが、雑草が生え放題になっている。 放置しているのなら、花を育てたい。 そうアリッサに伝えた所、すぐに花を育てる許可が貰えた。「……この後、土を耕して種を植えれば」 エプロンの紐から提げた革袋に触れる。 中にはベテル山脈で採取した植物の種が入っている。「やあ、精が出るね」「……っ!」 突然、声を掛けられて飛び上がる。「……そんなに驚かなくても」 声のした方を見ると、クロノが気まずそうに頭を掻いていた。「クロノ様、何か用ですか?」「花を植えるって聞いたから見に来たんだよ。それで、どんな花を植えるの?」「あの、小さな白い花を沢山咲かせる植物です」「どれくらいで花が咲くの?」「多分、今年の夏くらいには」「詳しいね」「ベテル山脈で何年も育てていましたから」 結婚してから五回花を育てた。 最初は喜んで貰えたが、回数を重ねるたびに邪険に扱われるようになった。 六年目以降は育てるのを止めてしまった。「そっか、楽しみだね」「……はい」 カリスは頷くことしかできなかった。 アリッサはクロノのことを優しいと言ったが、その通りだと思う。 その優しさがあまりに心地良くて、もうしばらくこのままで良いのではないかと思ってしまった。