第7話:不穏
第7話:不穏
※ 帝国暦四三三年七月――侯爵邸の庭園には紅白の幕が立てられていた。 その内側にはクロノと数人の事務官、大勢の兵士がいる。 演壇の向こう側には一人の獣人が立っている。 灰色の毛並みを持つ人狼だ。 最古参の兵士の一人で名をグレイと言う。 グレイは表情を引き締めてクロノを見つめている。 もっとも、取り繕えているのは表情だけで尻尾は千切れんばかりに揺れている。 よくよく見れば表情が微妙に緩み始めている。 歓喜と緊張の均衡が早くも崩れ始めているのだ。 どちらが優勢かは言うまでもない。 クロノは演台に積み重ねられた証書を見つめた。 証書に使われているのは侯爵邸の紙工房で作られた和紙である。 ピクス商会に卸している物と違い、クロフォード男爵家の紋章が透かし加工によって施されている。 透かしは紙を梳く時、厚みに差を生じさせて作っているらしい。 ゴルディはそれほど難しい技術ではないと言っていたが、それを鵜呑みにする訳にはいくまい。 クロノは一番上にある証書を手に取った。 すると、グレイの背後にいた大勢の兵士が息を呑んだ。「……卒業証書授与」 クロノが厳かに告げると、兵士達がどよめいた。 卒業証書授与の言葉が示す通り、今日は卒業式だ。 残念ながら卒業式だからと一斉に兵士を休ませる訳にはいかず、第一回卒業式を何度もやることになったが、可愛い部下のために手間を惜しんではいられない。 こういう行事はきちんとやっておくべきなのだ。 まあ、そんな風に考えるのは軍学校を卒業しながら士爵位を貰えなかったからかも知れない。「貴方は初等教育課程を修了したことを証します。帝国暦四三三年七月エラキス侯爵領領主クロノ・クロフォード」 クロノが卒業証書を読み上げると、グレイはプルプルと小刻みに体を震わせた。 自分が努力して身に付けた能力を認められたことに感動しているのだろう。 初等教育課程とは読み書きと四則演算のことだ。 どのくらいの知識を得たのかと問われると返答に困るが、小学校卒業レベルの知識を身に付けたと考えれば間違いない。 これは驚異的なことである。 二年の教育期間と言えば長く感じるが、授業の形態を考えれば実質的な教育期間は半年に満たないはずである。 ましてや彼らは兵士……勉強にだけ注力する訳にはいかない。 寸暇を惜しんで勉強したからこそ初等教育課程を終えられたのだ。 卒業試験で落第した者もいなかった。 上司として彼らに卒業証書を渡せることを誇らしく思う。「グレイ、おめでとう。身に付けた知識が君の前途を照らしてくれることを心から願っているよ」『あ、ありがたき幸せ』(が、がう) クロノが一言添えて卒業証書を差し出すと、グレイは敬礼し、震える手で卒業証書を受け取った。 グレイが再びクロノに敬礼し、新人事務官が口を開く。「第二五三号、ドラゴ」『……はっ』(しゅ~) 新人事務官の声が拡声用のマジックアイテムを通して響き、一人のリザードマンがやや間を空けて立ち上がる。 全身に刻まれた傷が潜り抜けた修羅場の凄惨さを物語る。 ドラゴが歩き出すと同時にグレイはクロノの前から立ち去る。 尻尾がパタパタと揺れている。 歓喜は未だに彼を内側から焼いているようだ。 身に付けた知識が君の前途を照らしてくれますように、と心の中で願う。 絶対の保証を約束できないからこそ、そんな思いを抱いてしまうのだろう。 不意に視界が翳る。 ドラゴが演壇の前に立ったのだ。「……卒業証書授与、貴方は初等教育課程を修了したことを証します。帝国暦四三三年七月エラキス侯爵領領主クロノ・クロフォード」 クロノは卒業証書を手に取り、文面を読み上げた。「ドラゴ、卒業おめでとう。身に付けた知識が君の前途を照らしてくれることを心から願ってる」『……はっ』(しゅ~) ドラゴは敬礼するとクロノが差し出した卒業証書を受け取った。 リザードマンだけに表情は分からないが、それでも、何となく喜んでいるような気がする。「第二五四号……」 新人事務官が次の卒業生の名前を呼んだ。※「……天候不順のせいで今年の収穫高は去年の七割以下に落ち込むと予想されます」 ベティルはアルフィルク城の会議室でボウティーズ財務局長の話を聞いていた。 収穫高が去年の七割以下に落ち込む。 本来ならば驚くべき所だが、何度も繰り返された議題ならば話は別だ。 正直、うんざりしている。 切り口を変えてくれればこのような気分にはならなかったかも知れないが、彼は同じ議題を同じように話して同じことを要求するのである。 当然と言うべきか、この場にうんざりしていない者はいない。 アルフォートはしきりに目を擦っているし、ブルクマイヤー尚書局長は睡眠と覚醒を繰り返している。 ラルフ・リブラ軍務局長は俯いたまま動きもしない。「減収となるのは明白! 国家運営に支障を来さぬためにも賭博場に関する全ての権限を我が財務局に委譲して頂きたい!」 ボウティーズ財務局長はドンッと机を叩いた。 文官上がりであればその剣幕に恐れおののいたかも知れない。 しかし、ベティルは騎士出身である。 机を叩かれたくらいでビビっていたら近衛騎士団長など務まらない。 叩くタイミングが予想できているとなれば尚更である。 とは言え、睡魔に囚われていた三人を現実に引き戻す程度の効果はあったようだ。 ベティルは全員が目を覚ましたことを確認して口を開いた。「賭博場の利益は貧民を救済するためのもの。収穫高が七割になるのであれば尚更、財務局に権限を渡す訳にはいきませんな」「貧民の救済は財務局が行うと言っているではありませんか!」 ボウティーズ財務局長は声を荒らげた。「それは私の仕事です」「……ぐっ」 ベティルが淡々と答えると、ボウティーズ財務局長は言葉を詰まらせた。 彼が信頼に足る人物であれば譲っても良いと思うが、残念ながら信用できない。 ついでに言えば七割以下になるという主張も信用できない。 徴税官は予想収穫高を低く見積もることがあるからだ。 予想収穫高を低く見積もればその差を自分の懐に収められる。 汚職役人の巣窟と化した財務局をどうして信じられるだろう。 しかし、ベティルにできるのは自分の仕事と主張することまでだ。 予想収穫高が信用できないと言えばボウティーズ財務局長は涙ながらに無実を訴えるだろう。 自分の名誉を守るために自決すると宣言するかも知れない。 そうなった時、アルフォートはどんな行動を取るのか。 きっと、信じていると言うに違いない。 無実の罪を着せられ、命を懸けて名誉を守ろうとする貴族とそんな男を信じる皇帝。 歌劇のワンシーンに使われそうな題材である。 自分の立場を危うくしてまでそんな三文芝居に付き合おうとは思わない。「小麦の値段が上昇すれば民草は飢え、帝都の治安は更に悪化することでしょう」「帝都の治安は悪化の一途を辿っているではないか!」「……抑止力というものをご存じか?」 貴様らのせいだろうが! という言葉を呑み込み、語りかける。「帝都の治安は悪化の一途を辿っていると仰るが、我々が貧民の救済を行っているからこそ、この程度で済んでいるとは思われないのですか?」「そんなこと分からないではないか!」「そう、分からない」 そうだ。何も分からないのだ、と心の中で繰り返す。 今、帝国がどのような状況にあるのかが分からない。 ボウティーズ財務局長やブルクマイヤー尚書局長、ラルフ・リブラ軍務局長が提示する資料は何も問題がないように見えるが、そんなはずがないのだ。 まるで霧の中で戦っているような気分だった。 自分が何処にいるのか、敵は何処にいるのか、部下はどのような状況なのか。 何も分からない状況でどうしろと言うのか。 せめて、アルコル宰相が作った制度を上手く引き継げていればこんなことにならなかったものを。「抑止力とはなくなった時に初めて分かるのです。抑止力の効果が定かではないからと言って止めることはできません」 対応を誤れば民が死ぬのだ。 仮にも地方領主を務めていたというのに、どうしてそんな単純なことが分からないのだろう。 一方で地方領主だからこそ分からないのかも知れないと思う。「万が一、暴動が起きれば軍を、皇帝陛下の剣たる近衛騎士団を出動させなければならないのです」「……」 言い含めるように言うと、ボウティーズ財務局長は救いを求めるようにアルフォートに視線を向けた。「以前も言った通り、賭博場はベティル宰相の管轄だ。申し訳ないが、今しばらくは我慢して貰う」「はっ、御心のままに」 素直に頷いたが、どうせ次の会議で同じ話を蒸し返すのだ。「しかし、だ。帝都の治安が悪化しているのは事実だ」「……恐れながら」「発言を許す」 ベティルが伺いを立てると、アルフォートは得意げに鼻をひくつかせながら頷いた。「貧民に仕事を斡旋する件はどうなっているのでしょうか?」「……ボウティーズ財務局長」「その件については滞りなく進んでおります」 アルフォートが目配せすると、ボウティーズ財務局長は淀みなく答えた。「だそうだ」「失礼致しました」 ベティルは深々と頭を下げた。 アルフォートがこの調子では調査などできない。 いや、三文芝居が始まるのがオチか。「……陛下」「ラルフ・リブラ軍務局長、発言を許す」「陛下はティリア皇女の動向をご存じですかな?」「そんなものに興味はない」 アルフォートは吐き捨てるように言ったが、動揺しているのか、目尻が小刻みに痙攣していた。「何でもティリア皇女が発起人となって経済同盟を立ち上げたとか」「経済同盟?」「領地間の移動に伴う税を撤廃し、商業制度……露店の出店に関するルールを統一したと聞いております」 ラルフ・リブラ軍務局長の話に警戒心を刺激される。 もっとも、それはティリア皇女やクロノに対してではない。 自分の情報収集能力が彼に比べて格段に劣っていることに気付いたからである。 放置すれば足下を掬われる可能性がある。「露店と言ったか?」「その通りでございます」 ラルフ・リブラ軍務局長は穏やかな笑みを浮かべる。「それは貧み、いや、平民が日銭を稼ぐためのものだろう? そんなものの制度を統一してどうするのだ?」「それは分かりかねますが、七つの領地で制度が導入されたのは事実です」 ベティルが露店と言われて思い付くのは市場なのだが、どうも二人は別のものをイメージしているようだ。「ふん、 義姉 ( あね ) 上は民草に媚びを売りたいと見える。いや、辺境の領主どもを纏めることで権力を取り戻した気になっているのかも知れないな」「憐れなものですな」「いやはや、何ともいじらしい」 アルフォートが嘲るように言い、ボウティーズ財務局長とブルクマイヤー尚書局長が追従する。 何を考えているのか、ラルフ・リブラ軍務局長は穏やかに微笑んでいる。「ベティル宰相はどう思う?」「お三方の仰る通りかと」 ベティルは嘘を吐いた。 発起人となっているのはティリア皇女だが、主導しているのは間違いなくクロノだろう。「そう言えばティリア皇女はエラキス侯爵と懇意になさっているとか」「……ふむ、エラキス侯爵か」 ラルフ・リブラ軍務局長が言うと、アルフォートは難しそうに眉根を寄せた。 自分はクロノに目を掛けていると思い込んでいるが故の反応だろう。「今の| 義姉 ( あね ) 上ならばエラキス侯爵で丁度良かろう」「そうですな」「釣り合いが取れてますな」 よくもまあ、ここまで軽んじられるものだ、と同情を通り越して感心してしまう。 そうなるように振る舞っているのならば恐るべき才能である。「……では、次の議題だが」 アルフォートは興味を失ったかのように別の話題を振った。※ 会議が終わり、ベティルは第十二街区にあるニコル組の拠点にむかった。 当然、徒歩ではなく、箱馬車を使ってだ。 途中の喧噪は酷いものだったが、ニコル組の拠点付近は嘘のように静まり返っていた。「……ふむ」 ベティルは箱馬車から降りて視線を巡らせた。 第十二街区であるにもかかわらず、喧噪は遠く、道は掃除が行き届いている。 しばらくすると扉が開き、小綺麗な格好の青年が出てきた。「どうぞ、こちらに」「貴様らはここに残っていろ」 護衛の騎士に命令し、青年の後に続く。 通されたのは応接間だ。 準備が整っていないのか、ニコルの姿はない。 ベティルはソファーに腰を下ろし、視線を巡らせた。 そこに置かれた家具や調度品はアルフィルク城のそれに及ばないが、一級品のようだ。「よう、待たせたな」「構わん」 禿頭の大男……ニコルはテーブルの上にワインボトルとグラスを置き、ソファーにどっかりと腰を下ろした。「で、何の用だ? 賄賂の催促か?」「馬鹿を言うな。お前のような人間から賄賂を貰ったら骨までしゃぶられると相場が決まっている」「じゃあ、何の用だ?」 ニコルは気分を害した様子もなく尋ねてきた。「情報を仕入れにきた」「高いぜ?」「私の名前を勝手に使ったんだ。サービスしろ」 チッ、とニコルは舌打ちをした。「いつ、気付いた?」「この建物周辺の様子を見れば分かる」 帝都の治安は悪化の一途を辿っているにもかかわらず、この建物周辺は静かだ。 恐らく、ニコルは第十二街区を掌握したのだ。「まあ、確かに俺は宰相殿の名前を使ったけどよ。それはそんなに悪いことなのか?」「騙ったの間違いだろう?」 問い返すと、ニコルはまたしても舌打ちをした。「分かった分かった。そんなに怖い顔をするなよ。情報を仕入れにきたんだな? それでどんな情報を知りたいんだ?」「帝都の治安はどうだ?」「ひでぇもんだが、まだまだ最悪じゃねーな」 もっと悪くなると言うことか。「失業者対策はどうなっている?」「ありゃダメだ。行った先でバタバタ死んでるって話だぜ」「そうか」 やはりと言うべきか、ボウティーズ財務局長は嘘を吐いていた。「何にもしてねぇヤツらでもそれだからな。犯罪者連中は捕まったら殺されるって、死に物狂いで抵抗してるのさ」 ニコルはボトルを開け、ワインをグラスに注いだ。 ベティルは溜息を吐いた。 最初から期待をしていなかったが、帝都の治安を悪化させる要因になっているとは思わなかった。「小麦の出来具合はどうだ?」「おいおい、そんなことまで説明しなきゃならねーのかよ」 ニコルはうんざりしたように言ったが、内心では快哉を叫んでいることだろう。 帝国の宰相が状況を把握していない。 どうやって、それを利用するか考えているに違いない。「例年に比べて収穫高が減りそうって話は聞くな」「何割程度だ?」「八割、いや、九割程度だ」「……そうか」 ベティルは努めて冷静に答えた。 ニコルには馬鹿だと思われているかも知れないが、こちらは怒りを抑えるのに必死なのだ。 七割だ。天候不順のせいで収穫高が昨年の七割まで落ち込むと言われたのに実際は九割もあるのだ。「そうかそうかってそれしか言えねーのかよ」 ニコルは吐き捨て、身を乗り出してきた。「それでどうするんだ?」「どうとは?」「この情報で政敵を失脚させるとか色々あんだろうが」 ニコルは苛立ったように言った。「それに答える義務があるのかね?」「チッ、ねーよ」 ニコルは吐き捨てるように言ってグラスを呷った。 重要な情報だが、ボウティーズ財務局長を失脚させることはできないだろう。 収穫高の見積もりが間違っていると指摘しても担当者が処罰されて終わりだ。 恨みを買うだけで何のメリットもない。 ニコルはベティルに危険な役割を押し付け、上手くいけばおこぼれに与り、失敗すれば新しい寄生先を探そうと考えているのだろう。「さて、私はこれで失礼する」「また会えると良いな」「ああ、そうだな」 ベティルは静かに頷いた。 本人は挑発のつもりなのだろうが、心の底から同意する。 自分の立場は盤石とは言い難い。 ドアノブに手を伸ばし、振り返る。「まだ、何か用があるのか?」「何故、お前みたいな男がエラキス侯爵に従った?」「言う必要があるのか?」「いや、ただの好奇心だ」 ハッ、とニコルは笑い、ふて腐れたようにそっぽを向いた。「……初めて会った時に自分も出世したもんだって言われてよ。話くらいは聞いてやろうと思ったんだよ」「ああ、エラキス侯爵なら言いそうだ」 ベティルは苦笑した。※ 夕方、ベティルは第三街区にある自宅に戻った。 玄関には近衛騎士の証である白い軍服を身に纏った男が立っている。 目付きは悪く、鼻は肉厚で丸みを帯びている。 もっとも、彼を見た者の殆どが容貌ではなく、大型亜人に匹敵する体躯を記憶することだろう。 名をサイモン・アーデンと言う。 下級貴族で軍学校時代の成績は芳しくない。 実技はともかく、座学は最下位に近かった。 本来ならば白い軍服に袖を通せるような人材ではないのだが、第十二近衛騎士団を立て直すために仕方がなく入団を許可した。 サイモンはこちらに気付くと背筋を伸ばして敬礼した。「ベティル宰相、お疲れ様です」「報告すべきことはあるか?」「何もございません」 低く、唸るような声だった。「ご苦労。そのまま職務に励むように」「はっ、命に代えましても」 その言葉に心臓の鼓動が跳ね上がる。 屋敷の警備で命に関わるような事態になったら大変だと笑い飛ばせない。 玄関の扉を開けて中に入ると、妻がいつものように出迎えてくれた。「お帰りなさい。いつもお疲れ様です」「……今帰った」 ベティルは間を置いて答えた。 妻がいつもお疲れ様ですという一言を添えるようになったのはいつからだろう。 最近でないことだけは確かだ。 つまり、自分は妻の気遣いに気付けないほど余裕のない状態が続いていたということである。 優しさに触れると、罪悪感が湧き上がってくる。 こんな気持ちになるのなら愛人など作らなければ良かった。 もし、妻に不貞を働かれたら自分はショックで死んでしまうだろう。「私はそんなに疲れているように見えるか?」「ええ、とても」 妻は心配そうな表情で頷いた。「……もし、私が」「はい」「いや、何でもない」 ベティルは頭を振った。 もし、私が宰相の職を辞して田舎で暮らしたいと言ったら付いてきてくれるか。 呑み込んだ言葉は魅力的だった。 どうして、この言葉を呑み込んでしまったのかと自分でも不思議に思うほどだ。 宰相の地位に未練があるのかと言えばないと断言できる。 ならば、どうして言葉を呑み込んでしまったのだろう。 ベティルはもう一度、頭を振った。「あなた、食事になさいますか? それとも、湯浴みですか?」「湯浴みだ」「そう仰ると思って、準備は整えてあります」 妻は少しだけ嬉しそうに笑う。「疲労回復に効くハーブを浮かべておきました」「すまんな」 眼球の奥がジンと痺れる。どうして、自分はこんなに尽くしてくれる妻を蔑ろにするような真似をしてしまったのだろう。「出てくるまでにスープを温め直しておきますね」「ああ、ありがとう」 時間が戻せるならば今度は愛人など作らない。「そう言えば小麦の値段はどうなっている?」「藪から棒にどうなさったんですか?」「いや、天候不順が続いてたから気になってな」 そうですね、と妻は考え込むように人差し指を唇に当てる。「最近、少し値上がりしましたね」「最近?」「ええ、二、三ヶ月くらい前から」 嫌な予感がした。 今の財務局ならば平気で予想収穫高を商人に漏らすだろう。 それを知った商人はどうするか。 買い占めて価格を高騰させるに決まっている。 今は価格を高騰させるための下準備を行っている段階に違いない。「小麦を仕入れられるか?」「昨日、今月分を納入してもらったばかりですよ?」「できるか?」 ええ、と妻は怪訝そうな表情を浮かべながらも頷いた。「どれくらい買えばいいんですか?」「……一年」「一年?」 妻が驚いたように目を見開いた。「……分かりました。理由は聞かない方が良いですね」「すまん」 ベティルは頭を垂れた。「念のため父にも手紙を送っておきますね。理由は適当にこじつけておきます」「ああ、ありがとう」「どういたしまして」 そう言って、妻は恥ずかしそうに笑った。