第9話:乱心
第9話:乱心
※ 帝国暦四三三年九月中旬――あの二人は無事だろうか、とベティルは会議中にもかかわらず、そんなことを考える。 いや、今はそんなことを考えている余裕はない、とブルクマイヤー尚書局長の話に集中する。 きちんと話を聞かなければ足下を掬われることになる。 それだけは避けなければならない。 とは言え、ブルクマイヤー尚書局長の話に集中するのは相当な精神力を要求される。 ボウティーズ財務局長が賭博場の利権を寄越すように訴え続けているように、ブルクマイヤー尚書局長も同じ話を繰り返している。 彼の話を要約すればこうだ。 治安回復作戦――スラム掃討作戦ではない――のお陰で帝都の治安が回復した。 これはアルフォート陛下の英断のお陰である。 ボウティーズ財務局長と違う点があるとすれば語彙が豊富である点だ。 よくもまあと呆れるほど彼は美辞麗句を並べ立てる。 尚書局長など辞めて詩人にでもなった方が良いのではないかとさえ思う。 アルフォートは謙遜する素振りを見せているが、得意げな表情を見れば何を考えているのか分かってしまう。 恐らく、上手くやったと思っているのだろう。 確かに数字だけ見れば帝都の治安は劇的に回復した。 だが、それは恐怖で押さえつけているだけで根本的な解決にはなっていない。 時が過ぎれば犯罪者達は再び動き出す。 いや、暴動が起きる方が先だろうか。 小麦の値段は上昇を続け、前年同月比二割増という状況だ。 十月――納税の時期になれば小麦の値段が下がるのではないかという期待はあるが、それは祈りに近い。「……ふぅ」 ベティルは小さく溜息を吐いた。 ブルクマイヤー尚書局長の話に集中しなければならないと分かっているのにあの二人のことを考えている。 今頃、何処で何をしているだろうか。 短剣を売れば二人分の路銀を賄えるはずだが、安く買い叩かれている可能性が高い。 あの短剣は近衛騎士団長になった時に購入したものだ。 精緻な細工の施されたそれを腰から提げると、自分が上等な人間になったような気がしたものだ。 残念ながら妻の評価は芳しくなかった。 彼女は何も言わなかったが、沈黙は時に言葉以上に雄弁なものだ。「――陛下の英断により帝都の治安は劇的に回復しました。これは犠牲を覚悟で神殿勢力と決別した初代皇帝以来の――」 ブルクマイヤー尚書局長の言葉はベティルの心に触れない。 何も残さずに消えていく。「……ふぅ」 ベティルは再び溜息を吐き、二人の子どもに思いを馳せる。 無事に辿り着いてくれれば良いと思う。 辿り着きさえすればクロノは二人を保護してくれるだろう。 そこまで考え、自分の名を教えておくべきだったと後悔する。 自分の名を出せばクロノも無下には扱わないはずだ。 彼とは過去に不幸な行き違いがあったが、今はそれなりの信頼関係を築けていると自負している。 クロノの領地に遊びに行くのもありかも知れない。 もちろん、それが難しいことは理解しているが、魅力的に感じられた。「――私からは以上です」 ブルクマイヤー尚書局長は一礼して席に着いた。 アルフォートはだらしなく相好を崩している。 今日もまた誉められて嬉しいのだろう。「次はボウティーズ財務局長だな」「……陛下」 ラルフ・リブラ軍務局長がゆるりと手を上げた。 その時、ベティルは得も言われぬ不安に襲われた。 いつもと変わらぬ好々爺然とした表情を浮かべているが、それは不安を払拭する役に立たない。 彼はいつもと変わらぬ表情で治安回復作戦――スラム掃討作戦を実行したのだから。「発言を許す」 ラルフ・リブラ軍務局長はゆっくりと立ち上がった。「……これは雑談のようなものなのですが」「良い。会議には雑談も必要だ」 アルフォートは鷹揚に頷いた。「ベティル宰相。二週間ほど前から気になっておったのですが、短剣はどうされたのですかな?」「――ッ!」 ベティルは息を呑んだ。 不安が湧き上がり、心臓が早鐘のように脈打つ。 そんな目で私を見るなという言葉が喉元まで迫り上がる。「もしや、盗まれたのではないですかな?」「……」 ベティルは答えられない。 治安回復作戦はアルフォートの許可を得て、実行された作戦だ。 それを邪魔したと見なされれば罰を受けなければならない。 呼吸が荒い。 指先がチリチリと痛む。 心臓が張り裂けそうだ。 ラルフ・リブラ軍務局長が手を叩くと、会議室の扉が開いた。 入ってきたのは二人の近衛騎士だ。 一人はベティルの短剣を、もう一人は蓋のされた箱を持っている。 ベティルの目の前に短剣と箱が置かれる。「その短剣はベティル宰相の物ですな?」「ええ、その通りです」「おお、やはり。その短剣はスラムの住人が所持しておりましてな」 ベティルは桶を見つめる。「下手人はその場で始末しましたぞ。部下の話によればとにかく凶暴であったと……そう言えばベティル宰相は脚にケガをされておりましたな?」「大した傷ではありません」「それは良かった。ベティル宰相には陛下を支えて貰わねばなりませんからな」 この箱の大きさは――。 いや、そんなはずがない。「確認をお願いできますかな?」「――ッ!」 この悪魔め、とベティルは心の中で毒づいた。 しかし、開けるしかないのだ。 ベティルは箱の蓋を開けた。 そこにあったのは塩漬けにされた少年の生首だった。 カッと目を見開いた姿は死の瞬間を切り取ったかのようだった。 彼は何を思っていたのか。 恐怖に支配されていたのだろうか。 憎しみを抱いていただろうか。 それとも、妹の無事を祈っていたのだろうか。 意味のない問いだ。 その答えはすでに失われているのだから。「……ふぅ」 ベティルは静かに息を吐き、そっと蓋を閉じた。「覚えがありません」「それは手間を掛けさせてしまいましたな」「……失礼します」 近衛騎士は箱を持ち、会議室から出て行った。 ベティルは自分の席に腰を下ろした。 こんなことをしてラルフ・リブラ軍務局長に何の得があるのか。 今の所、利害は対立していないはずだ。 だが、もし、嫌がらせのつもりだったのならば最高の一手だった。「……ボウティーズ財務局長、お時間を頂いて申し訳ありませんな」「ベティル宰相のためならば構いませんとも」 ボウティーズ財務局長は嬉しそうに言った。「単刀直入に申し上げますが、治安回復作戦により帝都の治安は劇的に回復しました。ここまで帝都の治安が回復したのですから貧民のために金を使う必要はないと考えます」「また、帝都の治安が悪化したらどうされるつもりで?」 ベティルは静かにボウティーズ財務局長に尋ねた。 言葉を発するたびに力が抜けていくのが分かる。 分かっているのだ。ここは耐えなければならない。 だというのに――。「再度、治安回復作戦を実施すれば良いのです。武力こそが最大の抑止力ではありませんか」 ボウティーズ財務局長は当然のように言い放った。 かつての自分とアルフォートを見ているようだと思う。 ラルフ・リブラ軍務局長はかつてのベティルと同じように他人を誤らせてしまった。「帝都の治安が回復した今、天候不順による税収の低下に対応するべきです。そのために賭博場の権限を財務局に委譲して頂きたい」 断らなければならない。 賭博場の権限を委譲してしまったら貧民を救済できなくなってしまう。 それは帝国の寿命を縮めることに他ならないのに――。「……分かりました」 ベティルは承諾した。 ボウティーズ財務局長の話に納得したからではない。 ラルフ・リブラ軍務局長に心をへし折られたからだ。 もう抗う気力さえ残っていない。 わずかな善意でさえ悪意に駆逐される。 前に進もうとしても引き戻される。 それが今の帝国なのだと分かってしまった。「おお!」 ボウティーズ財務局長は大きく目を見開き、咳払いをした。「賭博場の権限を得られたことは喜ばしいことですが……陛下、私は小麦の価格を安定させるために南辺境から徴発することを提案します」「徴発に応じなかった時はどうされるおつもりで?」 ベティルは最後の気力を振り絞ってボウティーズ財務局長に尋ねた。「その時は街道を封鎖してしまえば良いではありませんか。塩の流れを止めてしまえばすぐに根を上げるに決まっています」「おお、それは素晴らしいアイディアだ。認めよう」 徴発よりも話し合いが先だろうにアルフォートはボウティーズ財務局長の提案を承認してしまった。 ベティルは何度目になるのか分からない溜息を吐いた。※ ベティルが精も根も尽き果てて屋敷に戻ると、屋敷の前に箱馬車が止まっていた。 不審に思いながら箱馬車から降りる。「ベティル宰相!」「どうした?」 駆け寄ってきたサイモンに尋ねる。「ベティル宰相にお客様です」「通したのか?」「いえ、不審人物を屋敷に通す訳にはいきません」「不審人物はねーだろ、不審人物は」 振り向くと、そこにはニコルの姿があった。「お前は……どうして、ここに?」「店じまいするから挨拶を、と思ってよ」 そう言って、ニコルは野太い笑みを浮かべた。 どうやら、賭博場を閉鎖して帝都から逃げ出すつもりのようだ。「報復ではないのか?」「そこまで俺は暇じゃねーよ」「……そうか」 ベティルは頷いたが、その言葉を鵜呑みにするほど馬鹿ではない。「店じまいか」「ああ、腐りきった帝都に君臨するのも悪くねーと思ったんだが、それだと先がなさそうなんでな」「……そうか」 何のことはない。 犯罪組織の長でさえ帝国を見限ったのだ。「これからどうするつもりなんだ?」「そいつは言えねーな」 ニコルはニヤリと笑った。 その笑みを見れば良からぬことを考えていると簡単に想像できる。「犯罪行為は自重してくれ」「おいおい、俺がそんなことをするように見えるのか?」 ニコルは心外だと言わんばかりに肩を竦めた。「そろそろ行きますよ!」「おう、今行く!」 少年の声が響き、ニコルは声を張り上げた。 何処かで聞いたような気がするのだが――。「あばよ!」 ニコルは踵を返し、自分の箱馬車に向かった。「あんなヤツでもいなくなると寂しいものだ」 ベティルは夕陽に染まった街並みを進む箱馬車を見ながら溜息を吐いた。※「……部下が飢えているのです。叔父上に援助を申し出る訳にはいかないのですか?」 執務室に低い声が響く。 文字に書き起こせばそれは何の変哲もない、極めて理性的な問いかけになったはずだ。 だが、アポロは脅迫の現場に居合わせたような居心地の悪さを感じていた。 恐らく、面と向かって言われている大隊長はそれ以上の居心地の悪さを感じているに違いない。 こういう時、自分は平民で良かったとつくづく思う。 声の主――大隊の副官を務めるドラゴンは凶相の持ち主である。 金壺眼で三白眼。 鼻梁は太く、唇は分厚い。 髪は短く刈られているにもかかわらず、いつも波打っている。 体は大型亜人に匹敵する大きさで、腕は太く長い。 アポロは実物を見たことがないが、ゴリラと呼ばれる猿に似ているらしい。 ドラゴンは大隊の中でも謎の多い男だ。 いや、噂の多いと言うべきだろうか。 元傭兵だの、娼婦が泣いて相手をするのを嫌がっただの、盗賊を素手で絞め殺しただの、怪しい噂に事欠かない。「申し訳ないけれど、叔父上には断られてしまったんだ」「我々は治安を守っているのですよ?」 至極、当然の問いかけだ。 それなのにドラゴンの口から発せられると恫喝にしか聞こえない。「すまない。分かってくれ」「分かりました」 ドラゴンは深々と頭を下げ、踵を返した。 その姿が怒りを堪えているように見えるのは気のせいなのだ。 アポロは執務室の外に出たドラゴンを追う。「やっぱり、ダメでしたね」「仕方がないことです。いくら領主の甥御が大隊長を務めているとは言え、我々は余所者の集まりなのですから」 ドラゴンは唸るように言った。 これもアポロが唸っているように感じているだけで本人は淡々と言っているつもりなのだろう。「どうすれば援助して貰えると思いますか?」「そうですね。今よりも小麦の値段が高騰し、領主が帝国よりも軍費を負担することになればあるいは……」 それは大隊が領主の私兵になると言うことだ。 ドラゴンは兵舎に向かう。 兵舎は厩舎を思わせる縦長の建物だ。 内側には無数のベッドが並んでいる。 兵舎に入ると、ベッドに寝転んでいた兵士達が体を起こした。「ドラゴン隊長、どうでしたか?」「申し訳ありません。援助は断られたそうです」 あ~、と兵士達は落胆の声を上げる。 それでも、ドラゴンを責めるような意見が出ないのは人徳によるものか。 いや、単に怖いだけか。 ちなみにドラゴンはこの大隊の副官なのだが、皆から隊長と呼ばれている。「兵士になれば腹一杯食べられると思ったのにな」「こうなったら盗賊にでもなるか」 ははは、と兵士達が力なく笑う。 腹一杯食べられるというのは兵士達が最初に抱く幻想だ。 実の所、腹一杯食べられるかは大隊長の手腕による所が大きい。 さらに言えば兵士をお腹一杯食べさせられるかで大隊長の評価が決まる。 軍人としての能力が高いに越したことはないが、兵士は飯を食わせてくれる大隊長を尊敬するものなのだ。「……盗賊ですか」「ドラゴン隊長、冗談ですよ」 この後、ドラゴンが取った行動は兵士達を騒然とさせるのに十分だった。 彼は上着を脱いだのだ。「待って下さい! 我々はそこまで堕ちた状況ではありません!」 アポロは自分でも驚くほど狼狽した声で言った。「何を言っているのですか?」「盗賊になるのでは?」 ドラゴンが真顔で言い返してきたので、アポロは困惑した。 困惑するなと言う方が無理だ。「部下が飢えているのです」「だから、盗賊になるのでは?」「良い機会なので希望者を引き連れて実家に帰ろうと思ったのです」「……実家」 ドラゴンは当然のように言い放ったが、アポロは理解できなかった。 盗賊になると言ってくれた方がまだしも理解できる。 まさか、あのドラゴンに実家があるなんて誰が想像するだろう。「ご家族がいらっしゃったんですね」「私を何だと思っているのですか?」「いえ、ドラゴン隊長ならそういうことも有り得るかと」「失礼な」 そう言って、ドラゴンは失笑した。「それでご実家は?」「南辺境のジラント男爵領です」 なるほど、とアポロは納得した。 南辺境は帝国一の穀倉地帯だ。 だが――。「大丈夫なのですか? ドラゴン隊長の実家がどれほど大きいか分かりませんが、食べさせられる人数はそう多くないと思うのですが」「……千人くらいならば受け入れられるでしょう」 ドラゴンがこともなげに言い、兵舎内は騒然とした。「あ、あの、ドラゴン隊長の一存で受け入れられるのですか?」「ええ、大丈夫です。もちろん、ただ飯を食べさせる訳にはいかないので、自警団員として働くか、農作業に従事して頂く必要があります」 ドラゴンの答えは微妙に的外れだった。「ドラゴン隊長は何者なんですか?」「私はジラント男爵の息子です」 沈黙が兵舎を支配した。 ハテ、コノ人ハ何ト仰ッタノダロウ。「貴族だったのですか?」「ええ、まあ」「軍学校は?」「卒業してますよ」 そう言えば新貴族は軍で冷遇されていると聞いたことがある。「ドラゴンという名前は?」「本名です」「てっきり偽名かと」「父がドラゴンのように強い男になれと願いを込めて名付けて下さったのです」 ドラゴン――よりにもよってドラゴンである。 ジラント男爵はもっと捻った名前を付けてやるべきだったのではないか。 まあ、新興の貴族とはそんなものなのかも知れないが――。「問題があるとすれば……」「あるとすれば?」「十五年ほど実家に帰っていないことですね。手紙の遣り取りはしているのですが、見合いを勧められるので帰りづらくて」 ドラゴンは照れ臭そうに頬を掻いた。「ともあれ、私は大隊長の所に退職を申し出てきます。進退をすぐに決めることは難しいと思いますが、希望者はできるだけ早めに申し出て下さい」 はぁ、とアポロを含めた兵士達は気の抜けた返事をした。 狐につままれた気分だった。※ 帝国暦四三三年十月――この時期に集まるのは久しぶりだな、とクロードは会議室にいる面々を眺めた。 リパイオス男爵、カガチ男爵、ジラント男爵、ベオル男爵、ゲンノウ男爵、レヴィ男爵、そして、カナン・エクロン。 昔はもっと頻繁に顔を合わせていたものだが、開拓が軌道に乗ってからは定例会議で顔を合わせるだけになった。 皆、歳を取った。 カナンが会議に参加していることがその証左だ。 あと五年もすればすっかり代替わりしてしまうに違いない。「お前らの所にも書簡が届いていると思うんだが、俺の所に帝都から小麦を寄越さなきゃ街道を封鎖するって書簡が届いた」 七人が呻くような声を上げた。 反応を見る限り、同じ書簡が届いているようだ。「ったく、マジで勘弁して欲しいぜ」 クロードがぼやくと、失笑が漏れた。 アルコルが失脚して窓口がなくなったと思えばこの有様だ。 文句の一つも出るというものだ。「この件についてだが、俺はすぐに従う必要はねぇと思っている」「従わなければ街道を封鎖されてしまいます」 異を唱えたのはカナンだ。「封鎖されても構わねぇだろ?」「……それはそうですが」 カナンが呻くように言い、他の六人は穏やかに笑う。 幽霊を怖がる娘、もしくは孫娘に向ける笑みだ。「街道を封鎖されても俺達はもう困らねぇ」 南辺境にも海はあるが、地形的な要因――切り立った崖のせいで塩田を作ることはできない。 言うなれば生命線を握られていたのだ。 だが、今はルー族から岩塩を手に入れられるようになった。 それだけではない。 稀少な薬草、食材、鉱物まで手に入る。 アレオス山地は宝の山になったのだ。 もっとも、アレオス山地はルー族の自治区なので、勝手に分け入って採取する訳にはいかない。 地道な交渉が必要になる。 若い頃ならば耐えきれず発狂していたかも知れないが、今は地道な交渉を楽しむ余裕がある。「それに、最終的には従うにしても――」「従うんですか?」「俺達には対抗できる戦力がねぇからな。まあ、最終的に従うにしても書簡を貰ってすぐに従うのはマズい。舐められちまう」 自警団程度の戦力で帝国と戦えると思うほど自惚れていないし、耄碌もしていない。 だが、ただ命令に従うのと、交渉の結果として従うのでは天と地ほど差がある。「あとは俺達寄りの敵が欲しいな」「私達寄りの敵ですか?」「交渉する窓口のねぇ戦いは泥沼になっちまうからな」「なるほど」 カナンは神妙な面持ちで頷いた。「俺はタウルの息子とそれなりに信頼関係を築けてると思うが、お前らはどうだ?」「こっちも問題はない」 答えたのはジラント男爵だ。「小麦の値が上がったとかで連中は困窮しているからな」「まあ、俺の所も似たようなもんだな」 タウルの息子――ガウルは部下だけではなく、身重の妻を食わさなければならない。 クロードにとってルー族は身内同然なので援助を惜しむつもりはない。 そのつもりなのだが、ガウルの顔を立てなければならないのが面倒臭い所だ。「取り敢えず、俺達寄りの敵はいるってことで良いな?」「……」 クロードが尋ねると、カナンは申し訳なさそうに俯いた。「そんなに申し訳なさそうにするな。こんなのは慣れの問題だ」「は、はい」 カナンが顔を上げたその時、扉を叩く音が響いた。 マイラが音もなく会議室に入室する。「……旦那様」「何だ?」「北から――」「もう来たのかよ!」 クロードは立ち上がって叫んだ。 書簡を送ってきたばかりのくせに軍を派遣するとは喧嘩というものが分かっている。「いえ、帝国軍ではありません」「何だ、焦って損したぜ」 思わず胸を撫で下ろす。「で、北から何が来たんだ」「群衆です。ドラゴン様に率いられた群衆がこちらに近づいてます」「お前の息子は何をやってんだ?」「俺が知るか」 ジラント男爵は吐き捨てるように言った。「軍で食えなくなったってことか?」「旦那様。これは個人的な意見に過ぎませんが……恐らく、まだまだ増えるかと」 マイラの声は驚くほどよく響いた。 このまま退役した軍人が集まれば南辺境は戦力を持つことになる。 少なくとも帝国はそう考えるだろう。「……そうなりゃ、交渉の席には着かせることはできそうだな」 クロードは頬杖を突き、小さく呟いた。※「母上! 聞いて下さい!」 ファーナが執務室に入ると、アルフォートは気色ばんだ顔で立ち上がった。 その手には紙が握られている。 嫌な予感しかしない。「その紙がどうかしたの?」「驚かないで下さい。この紙はエラキス侯爵領で作られたものなのです」「あら、そうなの?」「母上はこの紙がエラキス侯爵領で作られたと知って驚かないのですか?」「凄いじゃない」 今まで紙は自由都市国家群から輸入するしかなかった。 帝国内で量産できるようになれば高価な輸入品を買わずに済む。 それどころか、帝国の在り方を一変させるかも知れない。「そうではありません!」「じゃあ、何なのよ」 ファーナはうんざりとした気分で返す。 自分は母親であって、読心術士ではない。 子どもの心を全て理解できる訳ではないのだ。「これはエラキス侯爵領で作られたものなのです。それが自由都市国家群からの輸入品として城内で使われていたのです」「……そう」 まあ、言いたいことは分かる。 自由都市国家群から輸入された紙と偽り、帝国内で作られた物を使っていたのだ。 その差額は何処に消えたのかと言いたいのだろう。「これはエラキス侯爵の陰謀です!」「何ですって?」「母上、これはエラキス侯爵の陰謀です」「証拠があるのよね?」「ええ、ちゃんと部下に調べさせました。この紙は紛れもなくエラキス侯爵領で作られたものです。即ち、この紙が動かぬ証拠です」「貴方、まさか、そこまで――ッ!」 ファーナは目眩を覚えた。 倒れずに済んだのは奇跡に近い。 我が子の馬鹿さ加減を目の当たりにすることがこれほど衝撃的だとは思わなかった。「その紙がエラキス侯爵領で作られたからと言って、エラキス侯爵が不正に関わっていた証拠にはならないでしょう?」 息を整え、説得を試みる。「帝国の窮状を見ればエラキス侯爵の関与は自明ではありませんか。この窮状はエラキス侯爵がボウティーズ財務局長の領民を買ったことに起因しているのです。これも調べたので間違いありません」「それは貴方が霊廟を建てたせいでしょう?」「余が霊廟建設を決意した時点でエラキス侯爵の陰謀は始まっていたのです」 ファーナは目眩を覚えて後退った。 鈍器で頭をぶん殴られたとしてもこれほどの衝撃は受けなかっただろう。 どうして、こんなことになったのか。 決まっている。 アルフォートが執務室を訪れる貴族達の話を鵜呑みにしたからだ。「おかしいと思っていたのです。帝都はこのような有様なのにエラキス侯爵の領地は栄えているというではありませんか。このような陰謀を巡らす人物なのですから帝都の警備を担当した際に治安が回復したことも犯罪者とグルになっていたと考えれば合点がいきます」 アルフォートは捲し立てるように言った。「それに、あの目です。エラキス侯爵は親の仇を見るような目で余を見ていました。あれこそが余に敵意を抱いていた明確な証拠です。酷い裏切りです。余は目を掛けてやっていたのに……」 アルフォートはブルブルと拳を震わせた。「母上、以上のことからエラキス侯爵の罪は明白なのです」「貴方は本当に……」 ファーナは大きく息を吸った。「貴方は本当に馬鹿ね!」「なッ! 母上と言えど、暴言は許しませんよ!」「私の言葉が暴言なら貴方の言葉は妄言でしょッ? 証拠証拠と言って、何一つ証拠なんてないじゃないッ!」「誰か! 母上が乱心された!」「この馬鹿ッ! アンタなんて産むんじゃなかったわ!」「余、余に、そそ、そのような口を! 蟄居です! 蟄居を命じます!」 アルフォートが喚き、近衛騎士が執務室に入ってきた。「何があったのですか?」「は、母上が、ら、乱心された! へ、部屋にと、閉じ込めておけ!」 近衛騎士はポカンと口を開けていた。 恐らく、彼の目にはアルフォートが乱心しているように見えたからだろう。 ふとアルコルの言葉が脳裏を過ぎった。 ――最悪と思っている内はまだ底がある。 まだ底があるのかしらね、とファーナは深々と溜息を吐いた。