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第12話:正義 その1

クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです — novelup.plus · All chapters

第12話:正義 その1

※ 帝国暦四三三年十一月下旬――ピクス商会の会長ドミニクはアルフィルク城の地下牢に横たわっていた。 全身が燃えるように熱く、思考は熱に浮かされたように胡乱だ。 それは連日繰り返される尋問のせいだった。 いや、尋問などという生易しいものではない。 それは拷問だった。 多少、荒事の経験はあるが、肉体的なダメージに対する耐性は殆どない。 実際、爪を剥がされた時には悲鳴を上げ、涙を流して許しを請うた程だ。 どうして、拷問に耐えられるのか。 答えは簡単だ。 耐えてなどいない。 正直に話しても尋問官は信じてくれないのだ。 だから、拷問が続いている。 尋問官が望む答えを口にしなければ拷問が止むことはない。 ドミニクがそれに気付いたのは両手、両足の指を失ってからだ。 偽りを口にして安らかな死を迎えるべきではないか。 そう考えもしたが、手首から先がなくなっても事実を口にしている。 指を失った時、せめてもの抵抗をしようと思った。 事実を口にしても、偽りを口にしても商会の財を没収されて殺される。 覚悟というほどのものではない。 もし、家族を人質に取られれば簡単に気持ちが揺らいでしまっただろう。 それをしないということは家族は無事に逃げ果せたのだ。「……思い通りになって堪るかよ」 ドミニクは激痛に喘ぎながら喉を鳴らした。※「随分、ここも手狭になったな」 ティリアが練兵場で訓練に励む兵士達を見ながら呟く。 練兵場の面積は以前の三倍以上だ。 もちろん、通常の手段――地道に伐採と草刈りを繰り返して広げた訳ではない。 シオンの力だった。 『黄土にして豊穣を司る母神』の神威術の中には腐敗を操るものもある。 攻撃に使われたら恐ろしいが、こういう時には頼もしい。 ティリアは練兵場の奥を見つめた。 殆どは更地だが、模擬的に作った野戦陣地もある。 ワイズマン先生の提案によって作られた塹壕だ。 鉄の茨による障害が三重に並び、塹壕が障害を包むように掘られている。 鶴翼の陣を塹壕で再現したと言えば分かりやすいかも知れない。「クロノ?」 ティリアが心配そうに声を掛けてきた。「えっと、何の話だっけ?」「随分、ここも手狭になったと言ったんだ」「これでも、拡張したんだよ」「……それは分かっている」 ティリアは少し間を置いて応じる。「義勇兵は五千五百だったな」「その内、五百人弱がお爺ちゃんだけどね」「そんなに志願してくれるとは思わなかった」 ティリアが溜息交じりに言い、クロノは練兵場に視線を移した。 練兵場の中央を二人の老人が先を争うように駆けていく。 ガッツン、ガッツンぶつかり合っている。 マンチャウゼンとアロンソだ。 二人は同時に地面を蹴り、倒れ込みながら十字弓を構えた。 矢が放たれ、かなり離れた場所にあった人型の的を射貫く。 マンチャウゼンは頭、アロンソは胸を射貫いている。 しばらく部下の志願兵が追いつき、的に向けて矢を放つ。 外れる矢もあったが――まあ、及第点だろう。「どうじゃ、儂らの実力!」「実力はこっちの方が上じゃい!」 マンチャウゼンとアロンソは縄張りを守ろうとするオットセイか、セイウチのように胸を反らしてぶつかり合う。 初めて見た時、素手で殴り合っていたので、注意をしたら今のような戦い方をするようになった。「……あの二人は」 クロノは溜息を吐いた。 五百人の老騎士は割とくせのある人物が多いのだが、マンチャウゼンとアロンソは針を振り切っている。 その上、互いに対抗意識を持っているらしく事あるごとに競おうとする。 突然、二人はこちら――ティリアに視線を向けた。「ギャーハッハ! ティリア皇女、儂らの活躍を見てくれましたかのッ?」「ティリア皇女! 儂らを、儂らを見て下され!」「……テンションが高い」 思わず呟く。 ヤクでも決めてるのかと突っ込みたくなるようなテンションの高さだ。 そっと様子を窺うと、ティリアは見事な微笑みを浮かべて二人に手を振っていた。 動きがギクシャクしているのは気のせいではないだろう。「ギャーハッハ! ティリア皇女が儂に手を振って下さったぞ!」「いいや、あれは儂に手を振って下さったんじゃ!」 二人は先程と同じように胸を反らしてぶつかり合った。「ティリア皇女がどっちに手を振って下さったか勝負で決めるぞ!」「ふん、儂が勝つに決まっとる!」「二人に手を振ったんだぞ」 ティリアの呟きは届かなかったらしく、二人はぶつかり合いながら元の位置に戻った。「頭痛がしてきた」「ティリアを慕って集まった騎士だよ」「それは分かっているのだが」「二人とも割と有能なんだよね」「それも分かっている」 ティリアは呻くように言った。 一人の老騎士に十人の志願兵を付けている。 他の老騎士はもちろん、マンチャウゼンとアロンソも部下をよく纏めている。「ま、まあ、何とかなりそうだな」「シルバニアも協力してくれたしね」「従うしかないのだから最初から従えば良いものを」 ティリアは苛立った様子で言った。「あそこは半ば自治を認めているからさ。時間が掛かるんだよ」「お前がいるからこその自治だろう」「それでも、手続きは必要なんだよ」 選択の余地がないとしても自分で選んだという事実は大事だ。「元はと言えばお前が……」 ティリアは途中まで言いかけ、口を噤んだ。「いや、止めておこう」「何も言わないの?」「結局、私達も承認しているからな」 ティリアは腕を組み、面白くなさそうに唇を尖らせる。 軍資金の心配をする羽目になったのはクロノが義勇兵に給与を払うと言い出したからだ。「それに結果を見れば悪い手ではなかった。義勇兵を集めることができたし、統制する役に立っている」「誉めるのならもっと早く誉めてよ」「お前以外の相手にならそうする」 ティリアは思案するように手で口元を覆った。「……念のために言っておくが、お前を軽んじている訳ではないぞ。お前なら分かってくれると思っているから、お前以外の相手にならそうすると言ったんだ。変な風に勘違いするなよ」「そんなに念を押さなくても良いよ」「こういうことはきちんと言っておくべきだ」「へ~、その心は?」「お前に後ろから刺されたくない。そんなことになったら立ち直れないぞ、私は。再起不能だ」「こっちが再起不能になりそうだよ」 クロノは俯いた。 少なくともティリアは後ろから刺される可能性がゼロではないと考えているのだろう。「待て、お前は勘違いをしている。私はお前を信じていると言ったんだ。これっぽっちも裏切るとは思っていない」「信じてるよ」「不安が込み上げてくるな」「余計なことを言うから相互不信の芽が……」「この話は終わりだ」 ティリアは腕を交差させ、模擬陣地を見つめた。 現在、模擬陣地では演習が行われている。 攻撃側、守備側ともに十字弓兵だ。 装備は同じだが、守備側が圧倒的に有利だ。 守備側は塹壕に身を隠せば攻撃を受けずに済むが、攻撃側は身を隠す場所がない。 軍学校の演習を思わせるハンディキャップ戦だ。 集団戦闘を覚えるために必要な訓練なのだが、大抵の場合、攻撃側は戦意を失う。 敗北が半ば決まっている戦いなのだ。 やる気を出せと言っても限度がある。 今回もそうかと言えば違う。 攻撃側は地面に伏せ、這うように進む。「怯むんじゃないぞ!」「おーッ!」 浅黒い肌の中年が鼓舞し、少年達が固さの残る声で雄叫びを上げる。 諸部族連合の志願兵だが、彼らは刻印術士ではない。 シフから聞いた話によれば諸部族連合の人間全員が刻印を施す訳ではないらしい。 詳しいことは教えてくれなかったが、もしかしたら刻印術士を特別な存在とすることで傭兵志願者を募っているのかも知れない。「うんうん、諸部族連合の連中はいつもやる気満々だな」「他の志願兵にやる気がないって訳じゃないんだけどね」 ティリアが満足そうに頷き、クロノは軽く肩を竦めた。 諸部族連合の志願兵は総じて士気が高い。 これは志願した理由――モチベーションの差だ。 諸部族連合の志願兵は未来を勝ち取ろうとしている。「連合部隊にしなかったのは成功だったな」「まあ、ね」 これを切っ掛けに融和できればと思っていたのだが、ここまでモチベーションに差があると難しい。「傭兵達の様子はどうだ?」「まあ、概ね上手くやってるよ。新しくやってきた二百五十人もね」「……そうか」 ティリアはホッと息を吐いた。 新しくやってきた二百五十人の傭兵は隊商の護衛を務める。 一人でも戦力が欲しい時期ではあるが、神聖アルゴ王国との縁を切る訳にはいかない。「初戦を華々しく飾りたいのだが……」「格好良く勝つのは無理かな」「……クロノ」 ティリアは不満そうな表情を浮かべた。「今からそんな心構えでどうするんだ」「心構えは誰にも負けてないよ。ただ、貴族らしくない戦い方をしなきゃならないってだけで」 志願兵は防衛戦力だ。 守るだけでは勝てないし、士気と練度を考えれば戦闘を長引かせるのも得策ではない。「まあ、殿を務めた時より上手くできると思うよ」「……」 ティリアはぶるりと身を震わせた。「お前がベッドでそういう表情を浮かべた時は不安しか感じないが……」「今は頼もしい?」「もっと不安だ」 ティリアは溜息交じりに言った。「……お前は軍人なのだな」「何を今更」「軍学校時代を懐かしんでいたんだ」 ティリアが囁くような声音で呟き、クロノは右目の傷をそっと撫でた。「あの時はこんな風になるとは思っていなかった」「軍学校時代に反乱軍を率いることになると予想してたんなら、そもそもこんな状況に陥ってないよ」「反乱軍じゃなく、皇軍だ」「言い直したら意味が通じなくなるよ?」「それは分かっている」 ティリアはムッとしたように言い、ふっと力を抜いた。「クロノ、死ぬなよ?」「善処するよ」 そう言って、クロノは肩を竦めた。※ ルーカス・レサトは馬に乗り、街道を北へと進む。 水筒の水を口に含み、口をゆすいで地面に吐き出す。 ボウティーズ男爵領で汲んだ水はすっかり温くなっていた。「軍団長、宜しければ水を汲みに行かせますが?」「……いらん」 ルーカスは短く答え、制服の袖で口元を拭った。「お前はどう思う?」「二万の兵士がいればシルバニアの制圧も、ハシェルの制圧も楽勝でしょう」 副官は酒場に行くような気楽さで言った。 その姿は誇らしげですらある。 まあ、二万からなる軍団のNo.2になれば気分も良いだろう。「エラキス侯爵の領地は潤っているって話ですからね。今から楽しみです」「そうか」 副官は勝利を疑ってもいないようだ。 疑うどころか、すでに勝った後――略奪のことを考えている。 その脳天気さを欠片ほどでも良いから分けて欲しいと思う。 ルーカスは優れた指揮官ではないが、今回の作戦が厳しいものになると考えていた。 不安材料を上げればキリがないが、まずは練度の低さが問題だった。 二万の兵力と言えば聞こえは良い。 数字に惑わされれば副官のように気が大きくなる。 だが、その実体は烏合の衆だ。 軍団を構成する時は大隊をそのまま引き抜くか、半数を引き抜くものだ。 その上で訓練を積んで軍団としての練度を引き上げる。 今回は一つの大隊から百名前後の兵士を引き抜いて軍団を構成している。 一斉に集まった訳ではない。 それぞれの大隊が個別に兵士を送り出したせいで訓練を行う時間がなかった。 いや、時間があったとしても効果的な訓練を行うことはできなかっただろう。 ルーカスの部下にはそれができる人材がいないのだから。 次に兵科の偏りだ。 騎兵はルーカスの部下――千騎だけだ。 弓兵は千に満たず、重装歩兵も千に満たない。 歩兵が主の軍団なのだ。 これでは柔軟な作戦など立てようがない。 数を頼りに突撃を繰り返すしかない。 最後に補給だ。 帝国領内を進軍していることもあり、経由する領地で糧秣を補給しているのだが、その方法は徴発だ。 物資の輸送に兵を割かずに済むというメリットはあるが――。 止めよう、とルーカスは頭を振った。 ラルフ・リブラ軍務局長はこれらの問題を踏まえた上でこの作戦を立てたのだ。 何を今更、とルーカスは自嘲した。 自分は真っ当な指揮官ではないし、作戦の再考を求める権限もない。 今の自分にできることはこの流れに流されることだけなのだ。 自分に相応しい最期ではないかと思う。 ルーカスは人間の本質を悪と考えている。 人間が悪に染まっていく姿を見ると心が安らいだ。 その一方で自分を裁いてくれる正義の出現を望んでいた。 どちらも本心だ。 そのつもりだったが、今にして思えば正義が存在すると信じたかっただけなのかも知れない。「ところで、トレイス男爵領はどうするんですか?」「お前は作戦概要を聞いていなかったのか?」「シルバニアとハシェルを落とすって話は聞いてたんですけどね」 副官が照れ臭そうに頭を掻き、ルーカスは溜息を吐いた。「……無防守を宣言させてお終いだ」「無防守?」 副官が不思議そうに首を傾げる。「軍学校で習わなかったのか?」「記憶にないですね」 ルーカスは再び溜息を吐いた。 今度は深々と、だ。 一体、軍学校では何を教えているのかという気持ちが湧き上がる。「溜息なんて吐かないで教えて下さいよ」「領主に降伏を宣言させれば良いんだ」「口約束ならいくらでもできますよ?」「だから、武装を解除させ、城門を開け放った状態にする」「……なるほど」 副官は頷いたが、今一つ納得していないようだ。 まあ、気持ちは分かる。 結局の所、無防守宣言なんてものは双方が約束を守らなければ成立しないものだ。「ハシェルを攻め落とすまで保てば良いんだ」「ああ、なるほど」 副官は合点がいったという風に頷いたが、ルーカスは嫌な予感しかしなかった。※ トレイス男爵領グリニッジ――ルーカスは老執事に先導され、調度品がバランス良く配置された通路を進む。 老執事は廊下の途中で立ち止まり、ゆっくりと扉を開けた。「こちらでお待ち下さい」「……ああ」 ルーカスは部屋――応接室に入るとソファーにドッカリと腰を下ろした。「……ぐッ」 不意に息が詰まり、胸を押さえる。 心臓が握り潰されようとしている。 そんな錯覚を覚えるような痛みだった。 しばらくすると痛みが徐々に和らぎ始めた。 痛みが我慢できる程度に和らぎ、ルーカスはソファーに寄り掛かった。 ハンカチを取り出し、脂汗を拭う。 心なしか、痛みの感覚が短くなっているような気がした。 ハシェルを制圧するまで保つだろうか。 そんな不安が胸を過ぎり、苦笑いを浮かべる。 その時、扉が開いた。 扉を開け、応接室に入ってきたのは肥え太った男である。 と言ってもルーカスよりは痩せているし、年齢も十歳は若いはずだ。 トレイス男爵で間違いないだろう。 彼はルーカスと目が合うと、歩み寄り、跪いた。「レサト伯爵! これは何かの間違いです!」「……まずはソファーに座って下さい」 どんな説明をしたんだ、とルーカスは使者として派遣した怒りを覚えながらも冷静さを装い、着席を促した。「は、はい」 トレイス男爵は対面のソファーに浅く座った。「部下がどのような説明をしたのか分かりませんが、誤解をさせる表現があったのならば謝罪します」「……」 トレイス男爵は無言だったが、その目は忙しく動いている。「我々は貴方の領地を通り抜けたいだけなのです」「皇帝陛下の命令でしたら是非もありません」 トレイス男爵はハンカチで脂汗を拭いながら答えた。「……ただ」「ただ?」「部下の中には貴方がエラキス侯爵と経済同盟を結んだことを快く思っていない者がおります」 これは嘘だった。 エラキス侯爵――発起人となったのはティリア皇女だが――が周辺領主と経済同盟を結んでいると知る部下は少ない。「あれは通行税と撤廃し、露店制度を統一するだけのものです」「ほぅ、露店制度を」「ええ、その通りです」 ほんの少しだけ興味を引かれた。 通行税がなくなり、自由に領地間を行き来できるとなれば商売がしやすくなる。 それに露店制度の統一は良いアイディアだ。 平民は学がない。 学のない者が営業許可を取るのは非常に難しい。 どうすれば良いのか理解できないからだ。 だが、露店制度が統一されていれば格段に難度は下がる。 営業許可を取った経験があればそれを次に活かせるからだ。 いかんな、とルーカスはこめかみを押さえ、頭を振った。 これから攻め滅ぼす相手に興味を持っても後味の悪さが増すだけだ。「なるほど、貴方の言い分は分かりました。ですが、軍団を預かる者として将兵の言葉を無視する訳にはいかないのです」「では、どうすれば?」「無防守を宣言して頂きたい」「……」 ルーカスが切り出すと、トレイス男爵は黙り込んだ。 武装を解除し、城門を開け放つ。 これから戦争が起きるというのに身を守る術さえ捨てろと言っているのだ。 まともな領主であれば悩む。「せめて、城門の開放だけは許して頂けませんか?」「……申し訳ないが」 トレイス男爵は縋るような視線を向けてきたが、ルーカスは首を横に振ることしかできない。「実を言えば貴方はエラキス侯爵が叛旗を翻したことで微妙な立場に置かれています」「そ、そんな……」 トレイス男爵の顔色は蒼白を通り越して土気色になっている。 微妙な立場に置かれているのは事実だ。 もっとも、無防守を宣言したからと言って立場が改善されるとは限らない。 全ては皇帝の胸三寸で決まるのだ。「無防守を宣言し、糧秣を用意して下さればアルフォート陛下に進言しましょう。トレイス男爵は篤い忠誠心の持ち主であると……」「ですが、二万人分の糧秣など」 トレイス男爵は呻くように言った。 兵士は一日当たり千グラムの麦を消費する。 それが二万人となれば一日当たり二十トンだ。「失礼ですが、税が納められたばかりでは?」「最低限の小麦を残して売ってしまいました」 ルーカスは顔を顰めた。 自分達が消費する小麦を残して売るという選択は間違いではないが、今回に限って言えば悪手だ。 トレイス男爵は小麦を売って得た以上の金額で小麦を買い戻さなければならないのだから。 もちろん、強権を発動して徴発することはできるが、それでは信頼を失ってしまう。「帝国に臣を示すのは今を置いてありません」「……ぐッ、分かりました」 トレイス男爵は血を吐くような声で言った。※ フィリップは酒場で酒を飲んでいた。 酒場と言っても鄙びた村にある店だ。 納屋を改装したような店に、ブスな女給、不味い飯。 酒は生温くて、小便みたいだ。 この村を出ればカド伯爵領シルバニアまで一本道だ。 しばらく酒を断たなければならないのにこんな酒を飲まなければならない。 そのことにうんざりする。 キンザにいた時はもっとマシな酒場で酒を飲めた。 金目当てだと分かっていても女に擦り寄られるのは気分が良かった。 店主にペコペコされるのも悪い気はしなかった。 街を練り歩くゴロツキも白い制服を見れば道を空けた。 もう何年も前の出来事のようだ。「……クソッタレ」 吐き捨て、木製のジョッキをテーブルに叩き付ける。 帝都に撤退してからは何もかも最悪だった。 戦いもせずに賊軍から逃げたと嘲笑の的になった。 場末の酒場にいる女にまで馬鹿にされる始末だ。 前歯を全部折ってやったが、屈辱の記憶は薄れていない。「……俺は命令に従っただけなのに」 このことを婚約者が知ったらどう思うだろう。 エレナの件があるので、婚約を解消されることはないと思うが、賊軍と戦いもせずに逃げた男と生涯見下し続けるだろう。 殺すべきだろうかと考え、すぐに考え直す。 今回の戦で手柄を立て、汚名をすすげば良いのだ。 あの女は馬鹿だからフィリップが手柄を立てれば見直すだろう。 悪くない考えだ。 フィリップは婚約者に武勇伝を語る自分の姿を想像して身震いした。 その時、近くで酒を飲んでいた数人が立ち上がった。 見覚えがあるので同僚だと分かるが、名前が出てこない。 同僚達は店を出て行こうとし、店主に呼び止められた。「何だ?」「お客さん、お代を」 へへへ、と店主は愛想笑いを浮かべる。 なんて、失礼な男だろうか。 自分達はこれから戦いに行くと言うのに金を要求しているのだ。「分かった」「ありが――ッ!」 店主はもんどり打って倒れた。 同僚が殴りつけたのだ。 当然のことだ。 平民が貴族に――それも近衛騎士団の人間に金を要求したのだ。 こんな小便みたいな酒を振る舞っておきながら、だ。「これで足りるか?」「お、お客さん!」「近寄るな!」 同僚は近づいてきたブスの女給に蹴りを入れた。 ブスの女給は吐瀉物を撒き散らしながら地面を転がった。「おい! この店の店主は小便みたいな酒を振る舞い、金を要求してきたぞ! こんなことが許されて良いのか?」「いや、許されて良いはずがない!」「店を壊してやれ!」 店にいた同僚達は口々に叫び、暴れ始めた。 ストレスが溜まっていたのだろう。 テーブルをひっくり返し、酒樽を叩き割る。 店主は立ち上がって止めようとしたが、今度は地面を舐める羽目になった。「いや、手を放して!」 甲高い声が店内に響く。 顔を上げると、同僚が店の奥から少女を連れてくる所だった。 少女が同僚の手に爪を立てる。「このクソガキッ!」 同僚が殴りつけると、少女は壁際まで吹っ飛んだ。 泣き声が響く。「おい、フィリップ!」「何だよ」「婚約者に遠慮して女を買ってないんだろ。良い機会だからすっきりしとけ」「手を押さえてくれよ」 フィリップは立ち上がり、ゲップを吐いた。「おいおい、抵抗してくるのが楽しいんだろ?」「引っかかれたくないんだ」 気の利く同僚が少女の腕を押さえつけた。「許して下さい、許して下さい」「チッ、丸っきりガキじゃねーか」 フィリップは泣きながら許しを請う少女の股間を覗き込み、吐き捨てた。 うんざりした気分で少女を見下ろした。 これなら病気になる心配はいらなそうだが、顔は雀斑だらけで、鶏ガラみたいに痩せている。「まあ、我慢するか」 フィリップはゆっくりと少女にのし掛かった。※ ルーカスは悲鳴を聞いたような気がして目を覚ました。 そこは村の外に設置した天幕の中だ。 何かの焦げる臭いが鼻腔を刺激する。 昔、何度も嗅いだ臭いだ。「……まさか」 嫌な予感がして、ルーカスは天幕から飛び出した。 すると、村が燃えていた。 炎によって映し出されるのは村人を殺す、あるいは女を犯している部下の姿だ。 よりにもよって近衛騎士団が村を蹂躙しているのだ。「馬鹿か! 貴様らはッ!」 ルーカスは大声で叫んだ。 胸がズキリと痛んだが、構ってなどいられない。「軍団長、どうかされましたか?」「あれを止めさせろ!」「どうしてですか?」 ルーカスが村を指差して叫んでも、副官はキョトンとした顔をしている。「あれくらいの気晴らしは必要でしょう?」「貴様も馬鹿か! 我々は無防守を宣言した領地を襲ったのだぞッ? 信用できない相手だと自分から証明してどうする! さっさと止めてこいッ!」 ルーカスは天幕に戻り、イスに座った。 羊皮紙を広げ、謝罪文を書き始める。 トレイス男爵は糧秣を出し渋るに違いない。 それに飯だ。 金を渡して、あの村の女に飯を作らせるつもりだった。 それがご破算になった。 隣の村まで一日、シルバニアまで一日掛かる。 往復で四日も掛かる補給路を抱える羽目になってしまった。 ルーカスは羽ペンを握り、ふと力を抜いた。 悪は正義によって裁かれると信じたかったが、もしかしたら悪は自らの悪事によって滅ぶのかも知れない。