第15話:南進 その6
第15話:南進 その6
※ 南進七日目――クロノは足の痛みで目を覚ました。 捻挫と火傷を合わせたような痛みが右脚の爪先から膝下までを覆っている。 神器による攻撃を受けてこの程度で済んだことを喜ぶべきか。 唯一の負傷者が自分だったことを情けなく思うべきか。「おお、ようやく目が覚めたか」「……神官さん」 クロノは枕元で胡座を組んで座る神官さんを見上げた。 朝っぱらから手酌で酒――エルフの妙薬を飲んでいた。 副官とシオンはいないようだ。「消毒薬を兼ねてるんであまり飲み過ぎないで下さいよ」「……」「なんで、黙ってるんですか?」「この酒は酔いが早く回るからのぅ」「マジでアル中ですね。肝臓がやられて死にますよ」「死ねるもんなら死んでみたいんじゃが」 クロノは体を起こして嫌味を言ったが、神官さんは全く気にしていない。 どうやら、アルコールの分解能力――肉体に依存しているのか、それとも半神としての能力かは不明だが――が尋常ではないらしい。「不老不死だけど、怪我の治りは人並みだったらよかったのに」「生き地獄ではないか」「苦しめ」「い、イグニスよりも厳しい言葉をぶつけてくるの。ワシは象に踏まれても死なんし、病気にもならんが、心は繊細なんじゃぞ」 大昔の筆箱みたいな人だ。「長生きしてるのに悟りも開けないなんて、何をしていたんですか? 何百年も生きていれば悟りの一つや二つ開けますよ」「世の中はワシを置き去りにして進んどるんじゃな~くらいの悟りは開いとるぞ」「多分、それは引き籠もりやニートでも辿り着ける境地です」 何百年も生きているのだからもう少しまともな悟りを開いて欲しい。「ニートという言葉は使わんでくれんか。ワシはこれでも……古い記憶はかなりあやふやじゃが、遠い昔には身を粉にして必死に働いとったような気がするんじゃ」「いいご身分ですね」「険があるのぅ」 およよ、と神官さんは泣き崩れる真似をした。「で、その傷は治さんでいいのか?」「シオンさんと神官さんは切り札ですからね。いざという時に神官さんに消えられても困ります」「もう少し言い様はないものかの?」「……天に召される」「間違ってないんじゃけど、間違ってないんじゃけど」 神官さんは苦しげに呻いた。「今の会話で色々と思う所があったから、この戦が終わったら旅に出てみようかの」「借金を返済してからにして下さいね」「気合を入れて布教活動をしなきゃならんの」 神官さんは深刻そうに呟き、チビチビと酒を飲み始めた。 その時、副官が幌馬車を覗き込んだ。『……大将、起きてやすか?』(……ぶも)「今、起きた所だよ」 クロノは立ち上がり、顔を顰めた。 かなり脚が痛い。 歩くことはできても走るのは無理かも知れない。「どうかしたの?」『昨日の騎士隊長が来たんで報告しにきやした。ティリア皇女の準備ができてないって待って頂いてやすがね』(ぶもぶも)「案内して」 クロノは副官の手を借りて幌馬車から下り、騎士隊長――ハリスの下に向かった。 幌馬車が一列に並び、部下達は野営陣地の片付けをしている。「部下の様子は?」『クロノ様以外に負傷者が出なかったんで気楽なもんですぜ』(ぶも)「ちょっと安心したよ」 リオは百騎の騎兵を率いているという話だった。 だが、昨夜は百騎の騎兵などいなかった。「……リオのスタンドプレーかな?」『何か言いやしたか?』(ぶも?)「いや、こっちの話」 しばらく無言で進むと、天幕が見えてきた。 周囲にはティリアの供回りである老騎士達とハリスの部下と思しき騎兵が立っている。「ハリスさんは天幕の中?」『へい、あまり人目に付きたくないってんで』(ぶも)「昨日は森の中だったのに」『街道の方が安全を確保できるって考え直したんじゃありやせんか?』(ぶもぶも?) ミノが天幕を開け、クロノは中に入った。 天幕の中にはハリスとティリアの姿があった。「遅いぞ」「寝起きなんだよ」 言い訳し、ティリアの背後に立つ。「これで話し合いの準備が整ったな。まず、ゼギヌス男爵ではなく、お前がここにいる理由を教えてくれないか?」「叔父は死にました」 ハリスは淡々と言った。「死因は?」「森の中に伏兵が潜んでいたのです」「なるほど、それでお前が領主代行を務めていると?」「いいえ、領主代行の代行です」 ん? とティリアがわずかに首を傾ける。「本来の領主代行は叔父の息子なのですが、病弱で領主の任に堪えられないのです」「指示も出せないのか?」「病気がちなせいか、世の中のことに疎い部分がありまして」 ハリスは小さく溜息を吐いた。「で、どうするんだ?」「叔父の遺志を尊重し、ケイロン伯爵の討伐をお願いしたいと考えてます」「大丈夫なのか?」「昨夜の内に説得は済ませました」「手際がいいな」「非常事態ですからね」 ティリアが揶揄するように言ったが、ハリスは弱々しい笑みを浮かべただけだ。「一筆書いてもらっていいか? 皇軍がケイロン伯爵を討伐する代わりに領地の安全な通行を保証すると」「ええ、構いません。ただ、文面はゼギヌス男爵の遺志を尊重してとなりますが、よろしいでしょうか?」「構わん」 ティリアは呆れているかのような口調で言い、テーブルに置いてあった二枚の紙と羽ペン、インク壺をハリスの前に移動させた。「羊皮紙でなくてもよろしいのですか?」「正式な文書が残っていたらお前が困るだろう?」「お気遣い感謝いたします」 ハリスは礼を言って、悩む素振りを見せずに文面を書き上げた。 もちろん、署名も忘れない。「……一つだけお願いがあるのですが?」 ハリスは静かに切り出した。「なんだ?」「大したことではありません。叔父上の子どもが亡くなった時に私に家督を継がせて欲しいのです」「何故だ?」「もちろん、混乱を避けるためです」「皇軍が勝たなければ何の意味もないぞ?」「ええ、分かっています」 ハリスは小さく頷いた。 ゼギヌス男爵を殺したのは彼ではないかと思ったが、口にはしない。 皇軍にはゼギヌス男爵家のお家騒動に関わっている暇はないのだ。「家督の相続とは関係ないことなんだが……」「何でしょう?」「ケイロン伯爵とその部下の処遇はどうする?」「……そうですね」 ハリスは思案するように顎を撫でさすった。「そちらにお任せしたい所です」「いいのか?」「我々が処罰したら帝国を裏切ったことになってしまいます」 皇軍が領内を通り抜けることを認めている時点で十分に裏切っているのだが、面の皮が厚いとはこのことか。「都合が悪いんじゃないか?」「ティリア皇女は都合を気にされますか?」「いや、そちらの都合に合わせる程度の度量はあるつもりだ」「では、問題ないでしょう。ああ、第九近衛騎士団の処遇は皇軍に任せるとも書いておきますね」 ハリスは文章を追加し、ティリアに差し出した。「領主代行が死亡した時はお前が領主になることを認めると書けばいいな?」「よろしくお願いします」 ティリアは二枚の紙に文章を書き、一枚を自分の手元に置き、もう一枚をハリスの前に置いた。「これは独り言になりますが……」「……」 ティリアは無言だ。「この先……と言ってもかなり離れていますが、脇道があります。真っ直ぐに進めばネカル子爵領ですが、東に進めば第九近衛騎士団に滅ぼされた村があります。何かの役に立てて下さい」 ハリスは立ち上がり、天幕から出て行った。 しばらくして馬蹄の音が響く。「……あれ、絶対に殺してるよね」「自分で殺したのか、ケイロン伯爵を利用したのかは分からんがな」 ティリアは腕を組み、背もたれに寄り掛かった。「リオは……」「襲撃してくるな」 ティリアは溜息を吐くように言った。「説得できないかな?」「試してみないと分からんが、お前は試すのだろう?」「我ながら酷いヤツだとは思うんだけどね」 イザベラとアークを殺しておきながらリオには生きていて欲しい。 とんでもないエゴイストだ。 だが、それが本当の気持ちだ。「いいかな?」「正直に言えば止めて欲しいが、試す価値はある。ケイロン伯爵を味方に引き入れることができればかなりの戦力増強になるし、敵対していても恭順の意を示せば厚遇されると示せるからな」 だが、とティリアは続ける。「死ぬかも知れないぞ?」「覚悟はしてるよ」「……そうか」 ティリアは小さく溜息を吐いた。「……分かれ道に野営陣地を敷き、ケイロン伯爵達を誘き出す。私達がケイロン伯爵の騎兵を足止めして、あとはお前が説得して終わりだ」「そう説明されるとできそうな気がしてくるよ」「まあ、口で言うのは簡単だからな」「そうだね」 クロノは頷いた。 この作戦は博打的要素が大きすぎる。 そもそも、リオ達が何処から攻めてくるか分かっていないのだ。 さらにリオ達がクロノとティリアのどちらを殺害するか決めていたら分断は困難だ。「それでも、やるしかない」 クロノは拳を握り締めた。※ 夕方――皇軍は脇道に到達し、そこで野営の準備に取り掛かった。 行軍が始まって七日が過ぎていることもあり、部下の手際はいい。「そこの爺さん達! 手が空いてるんなら食事の準備を手伝っとくれよ!」「儂らはティリア皇女の供回りじゃぞ! 大事な仕事があるんじゃ!」「そうじゃそうじゃ! これ以上働いたら天に召されてしまうわい!」 女将とマンチャウゼン、アロンソの三人が怒鳴り合っていたが、野営の準備は順調に進んでいる。 リオを説得することができるだろうか、とクロノは幌馬車に寄り掛かった。 気配を感じて顔を上げると、ティリアがこちらに近づいてくる所だった。 クロノの隣に立ち、幌馬車に寄り掛かる。「緊張しているのか?」「ティリアは?」「多少はな」 と言いながら緊張しているようには見えない。 流石、皇女と誉めるべきだろうか。「作戦の内容は覚えてるな?」「リオ達が現れたら僕は脇道に逃げる」 クロノは脇道に視線を向けた。 道幅は馬車がようやく通れるくらいで穴だらけだ。「伏兵はいないんだよね?」「そこは先遣隊を信じるしかないな」「信じてはいるんだけどね」 クロノは軽く肩を竦めた。 脇道の先にあるのは五十戸にも満たない小さな集落だ。 集落の三方は斜面に囲まれている。 植物が生い茂っているために分かりにくいが、斜面は階段状になっているらしい。「クロノ様、馬を連れてきました」「……ぐぬ」 レイラが馬を引いてクロノの下にやってくると、ティリアは小さく呻いた。「……大きな馬だね」「馬車馬ですから」 クロノが手を伸ばすと、馬は嫌々するように頭を振った。「馬車に乗っていた兵士は?」「他の馬車に分乗させました」「仕事が早くて助かるよ」「いえ、当然のことですから」 レイラは照れ臭そうに俯いた。「……あの、クロノ様?」「何だい?」「馬は準備しましたが、大丈夫ですか? その、クロノ様は馬に乗れないと……」 レイラがおずおずと切り出すと、ティリアは噴き出した。「苦手なだけで乗れない訳じゃないんだよ」「私はお前が馬に乗っている所を見た覚えがないんだが?」「軍学校時代にちゃんと乗ってたよ」「そうだった、だろうか?」 ティリアは眉根を寄せ、こめかみを押さえた。 普通の授業に参加したのは一回だけなので覚えてなくても無理はない。 むしろ、覚えていたら怖い。 レイラの耳がピクッと動いた。「……クロノ様?」「分かってる」 クロノは幌馬車から離れた次の瞬間、視界の隅で緑色の光が瞬いた。 そこは神器による攻撃だ。 光の奔流が押し寄せてくる。 攻撃は前方から――リオ達は脇道ではなく、街道の先で待ち伏せていたことになる。 まあ、それが分かってもクロノにはこの攻撃を防ぐ術はないのだが。「フェイ!」「分かっているであります!」 フェイがクロノ達の前――先頭にある幌馬車のさらに先に飛び出す。「神器召喚! 抜剣でありますッ!」 腰だめに構え、剣を抜き放つような動作を行う。 手元から噴き出した闇が神器――妖しくも美しい剣に変わる。 光の奔流は間近に迫っている。「根性でありますッ!」 フェイが神器を地面に突き刺す。 次の瞬間、光がフェイを呑み込んだ――かのように見えた。 神器が光を押し返し、二つに斬り裂く。 二つに引き裂かれた光は大蛇のようにのたうち、その先にある物を破壊していく。 灌木が吹き飛び、地面が抉れ、鍋がひっくり返る。 まるで前回と同じ光景だが、今回は光が途切れない。 光は際限などないかのように押し寄せる。 ギシィッという耳障りな音が響いた。 フェイの手にしていた神器に亀裂が走ったのだ。 さらに消えたり現れたりを繰り返す。 信仰する神は違っても同じ神器召喚。 いや、だからこそ、使い手の力量が現れるのだろう。「根性根性ド根性でありますッ!」 フェイの叫びに呼応するかのように神器が強い光を放つ。 不意に光の奔流が途絶えた。 フェイが力尽きたように片膝を突き、神器が粉々に砕けた。 その破片は地面に触れるよりも早く空気に溶けるようにして消えた。 攻撃を凌ぐことはできたが、安心してはいられない。 馬蹄の音が響き、騎兵がこちらに迫ってくる。 リオの攻撃に紛れて接近していたのだ。 先頭を走るのはリオの副官――初老の騎士だった。「……クロノ」「分かってるよ」 ティリアが身を翻し、騎兵とは反対方向に走り出す。「ティリア皇女だ!」「追え追え追え!」「捕らえれば任務は終了だ!」「エラキス侯爵は無視しろ! アレはリオ様の獲物だ!」 敵騎兵はクロノの目の前を通り過ぎ、ティリアを追った。「敵じゃぁぁぁッ!」「ティリア皇女を守るんじゃぁぁぁッ!」「今こそ忠義を示す時!」「儂らがここにいると知らしめるんじゃぁぁぁッ!」 マンチャウゼンを始めとする老騎士達が叫び、騎兵に立ち向かう。 ティリアが駆け抜け、老騎士達が槍を構える。「蹴散らせ! 突撃ぃぃぃぃッ!」「臆するな! 我らはティリア皇女と共にありぃぃぃッ!」 敵騎兵が一丸となって突っ込み、老騎士がいとも容易く吹き飛ばされる。 老騎士は吹き飛ばされ、地面に叩き付けられ、敵騎兵に食らいつく。 老騎士の命を懸けた働きによって敵騎兵の動きが完全に止まる。 平原ならばまだしもここは街道だ。 街道を一歩離れれば荒れ地が広がり、馬を走らせることなどままならない。「それ! 引き摺り下ろすんじゃッ!」 老騎士が敵騎兵に掴みかかる。「一旦、引け!」「囲め囲め囲むんじゃぁぁぁッ!」 敵騎兵が馬首を巡らせて走り出すよりも老騎士が退路を断つ方が早かった。 老騎士は敵騎兵を取り囲み、槍や剣を突き出す。 もちろん、敵騎兵も負けてはいない。 剣を抜き、振り下ろす。 短い悲鳴が上がるが、老騎士は怯まない。 ティリア皇女のために、と叫びながら挑みかかる。『爺さん、退いてくれ!』(ぶも!)『ど、退いて欲しいでござる!』(がうがう!) 副官とタイガが叫ぶ。 何とか援護しようとしているが、乱戦状態のためにそれもままならない。「クロノ様!」「分かってる!」 クロノは馬に飛び乗り、脇腹を蹴った。 馬は竿立ちになり、走り出した。「曲がれ!」 手綱を引き、何とか馬を脇道に誘導する。 ホッと息を吐いた直後、背後から爆風が押し寄せてきた。 肩越しに背後を見ると、馬に乗ったリオが追い掛けてきていた。 手に持っているのは普通の弓だが。「おや、馬には乗れないかと思ってたよ」 涼やかな声が耳に届く。 恐らく、神威術を使って声が届くようにしているのだろう。 これなら話し合うことができる。「乗れないだなんて一言も言ってない」「苦手と言っていたんだったかな?」 クロノがムッとして言い返すと、リオが茶化すように言った。 その通り、苦手と言っていただけで乗れないとは言っていない。 まあ、馬の背に乗ることと走らせることしかできないが。 断続的に爆風が押し寄せる。「リオ、頼むから止めて」「おや、命乞いかい?」「君と戦いたくないんだよ。僕らが戦う理由なんてない」「クロノはボクを選んでくれなかったじゃないか」「それはレオンハルト殿がリオを殺そうとしていたから!」 だから、来いと言えなかったのだ。 ボタンを掛け違ってしまったとすればここだ。 きちんと説明すればきっと分かってくれる。 だが――。「どうでもいいよ。そんなことは」「何だって?」「……クロノはティリア皇女を選んだじゃないか」 リオはぞっとするほど冷たい声で言った。「クロノはティリア皇女を選んだんだ」「違う」 クロノは咄嗟に否定した。 確かにクロノはティリア達と戦うことを選んだ。 だが、それは部下が立ち上がったからだ。 自分のために帝国と戦う道を選んだからだ。「違わないよ。あの時、クロノはボクを選んでくれなかった」「僕はリオを選ばなかったんじゃ……」 そこでようやく気付く。 リオの中ではクロノの決断と彼女を選ばなかったことが同義であると。「……部下を見捨てれば良かったってこと?」「そうだよ」 リオはあっさりと言った。「そんなの、おかしいよ」 ちゃんと説明している。 そのはずなのに理解してもらえない。 あまりに自分本位だ。「おかしい? おかしいだって? あははは、クロノ! ボクは前からこうだよ? いつからボクがまともだと思ってたの?」「――ッ!」 クロノは息を呑んだ。 考えてみればリオは告白を断った相手を殺しているのだ。 最初からボタンを掛け違っていた。 リオに告白されたその時からいつこうなってもおかしくなかったのだ。 幸運にも均衡を保っていただけだったのにそれが普通だと勘違いしていた。「リオ! やり直すことは――」 爆風がクロノの言葉を遮る。 不意に攻撃が止み、肩越しに背後を確認する。 そこにいたのは馬だけだ。 リオの姿はない。「……どうすれば」 クロノは唇を噛み締めた。 破綻すべきものが破綻しただけ。 予感が現実に変わっただけ。「――ッ!」 突然、馬が前のめりになり、クロノは空中に投げ出された。 咄嗟に刻印を起動したが、空中で一回転して着地するような真似はできない。 精々、ダメージを緩和する程度だ。 クロノは地面に叩き付けられ、それから立ち上がった。 やや遅れて馬が倒れる。 いや、そんなに生易しいものではない。 レースカーのクラッシュのようだ。 クロノは倒れた馬に歩み寄る。 馬は血の泡を吹き、死んでいた。「……神威術?」 じゃないか、と頭を振る。 馬は全力疾走すると死ぬと聞いた覚えがある。 普通の生き物は限界が来る前に力を緩めるが、馬は限界が来ても力を緩めないのだ。 ごめん、と心の中で詫びながら周囲を見回す。 そこは村の入口だった。 建物の屋根は焼け落ち、土壁は崩れている。「……何とかしてリオを」 軽い衝撃が右の太股に走る。 太股を見ると、矢が突き刺さっていた。「――ッ!」 熱が生じ、それは激痛となって脳を直撃した。「ははは、クロノは我慢強いね」 リオがゆっくりと地面に降り立つ。「途中で殺そうと思ったんだけどね。ここで時間を掛けて殺そうと思い直したんだよ」 リオはクスクスと笑いながら近づいてきた。 どうにかしなければ、と思う。 どうにかしてリオの戦闘力を奪い、説得しなければならない。 だが、その方法が思い付かない。 思いばかりが空回りする。「さあ、行くよ?」 リオが人差し指を上に向ける。 緑色の光が人差し指を中心に渦巻き、クロノに向かって放たれる。 鋭い痛みが頬に走る。 風の刃によって引き裂かれたのだ。「どんどん行くよ」 リオが笑い、風の刃が放たれる。 クロノは『場』を強化し、風の刃を弾く。 刻印術の本質は意思による現実の改変だ。 強い意思があれば壊れた体を動かすことも可能だ。 だが、それだけの意思が今のクロノにはなかった。 最初から誤っていた。 互いの気持ちは擦れ違っていた。 自分の中にある幻想を愛していた。 そんな現実を突き付けられ、どうして強い意思を保つことができるだろう。「やるね。これはどうかな?」 リオがクロノの懐に飛び込み、人差し指で胸に触れる。 クロノは飛び退くと同時に光が炸裂する。 衝撃が貫く。「――ゲハッ!」 クロノは背中から地面に叩き付けられ、激しく咳き込んだ。 涙で視界が滲む。 避けろ、転がれ、でなければ死ぬぞ。 生存本能が命じるままに転がり、間近で光が炸裂する。 再び衝撃が全身を貫き、吹き飛ばされた小石が皮膚を斬り裂く。 手の甲で涙を拭い――。「やっぱり、クロノは良いね」 リオがうっとりとした表情を浮かべ、こちらを見下ろしていた。 何故か、片足を上げている。 何故か――理由なんて考えるまでもない。「や、止め――」「もっと声を聞かせておくれよ!」「――ッ!」 リオが太股に突き刺さった矢に足を振り下ろした。 激痛が脳を直撃し、クロノは悲鳴を上げた。「あはッ! 良い声だ、良い声だよッ!」 リオは弓を投げ捨て、クロノに馬乗りになった。 指を舐め、太股の矢に触れる。 それだけで耐え難い激痛が這い上がってくる。「もっとだよ!」「あ゛あああああッ!」 リオが矢を捻り、濁った悲鳴が迸る。「ははははッ! 最高だ! 最高だよ! 初めからこうしておけば良かった! こうしておけば良かったんだッ! クロノはボクのものだ! このクロノはボクのものだ! もっともっと――」 リオは狂気じみた声を上げていたが、スイッチが切り替わったかのように黙り込んだ。 突然、腕を一閃させる。 突風が巻き起こり、地面に矢が突き刺さる。 何者かが矢を放ったのだ。「ケイロン伯爵! クロノ様から離れて下さい!」 レイラの声が響き渡る。「……レイラか」 リオは小さく呟き、億劫そうに立ち上がった。 緑色の光が左手から溢れ、次の瞬間には弓が握られていた。 神器召喚。 だが、神器が放つ光は以前見たそれに比べてあまりに弱々しい。「そこか!」 リオが斜面に向けって光の矢を放つ。 光が炸裂し、斜面の一角が吹き飛ぶ。 だが、そこにレイラはいない。 しばらくしてレイラの声が再び響く。「ケイロン伯爵、投降して下さい!」「ははッ、いきなり矢を射かけてきたくせによく言うよ」「投降してくれればやり直せます!」「やり直してどうなるんだい? また選ばれない恐怖に怯えろって言うのかい?」「違います! クロノ様は、クロノ様は平等に愛して下さいます!」「平等? 平等だって?」 あははッ、とリオは笑った。「そんなものはまやかしだよ。どう足掻いたって、君は愛人の一人だ。正妻はもちろん、第二夫人にだってなれやしない。序列が決まっているのに、どうして平等だなんて言えるんだい?」 ガサッという音が響き、矢が飛来する。 リオが腕を一閃し、風が吹き荒れる。 先程は簡単に軌道を変えられたが、今回は違った。 矢はリオの腕を掠め、背後に突き刺さった。「……刻印術か」 リオがボソッと呟き、クロノは矢に視線を向けた。 矢は赤い光に包まれていた。「レイラ、君はクロノを愛しているんだろう? こんなことをしたらクロノを巻き込んでしまうよ?」 返事はない。 リオは小さく溜息を吐くと、クロノから離れた。「勘違いしないでおくれよ。ボクは自分で殺したいからクロノから離れたんだ」「爆炎舞!」「おっと!」 リオが跳び退り、巨大な火柱が立ち上がる。 かなり距離があるにもかかわらず、皮膚がピリピリと痛んだ。 火柱が消え、矢が飛来する。 予想していたのか、リオは体を捻って矢を躱し、反撃に転じる。 光の矢が斜面に突き刺さり、瞬きほどの時間を置いて炸裂する。 やはり、そこにレイラはいない。「逃げるのが上手いな」 リオはうんざりしたように言い――。「根こそぎ吹き飛ばしてやる!」 斜面に光の矢を次々と放った。 光が炸裂し、風が吹き荒れ、斜面が吹き飛ぶ。 地形を変えるほど苛烈な攻撃だ。「ふふ、死んだ――」 何処からか矢が放たれる。 光の盾が矢を防ぐ。 いや、止めたと言うべきか。 矢は光の盾で受け止められても尚、突き進もうとしている。 だが、それも長くは続かない。 矢はリオの力に屈し、後方に弾かれる。「ははッ、やる気満々だね! レイラ、君も愛してあげるよ!」 リオは再び斜面に光の矢を放った。 光が炸裂し、地形が変わる。 直後、矢が飛来する。 先程とは異なる方向からだ。 レイラは砲撃じみた攻撃の中を移動していたのだ。「もう魔術は使わないのかい?」 リオが呼びかけるが、レイラは答えない。「だんまりかい? まさか、ベッドの中でも黙り込んでる訳じゃないよねッ!」 そう言って、光の矢を放つ。 対極の戦いが始まる。 同じ弓兵にもかかわらず、攻撃の種類は異なる。 砲撃と狙撃――まさしく、それは動と静の戦いだ。 時間が過ぎ、趨勢が徐々に明らかになっていく。 優位に立っているのはリオだった。 リオの攻撃によって斜面とそこに生い茂っていた植物は吹き飛んでいた。 それは身を隠す場所がなくなりつつあることを示していた。 さらにレイラにはもっと切実な問題がある。 クロノは地面や焦げた土壁を見つめた。 そこには無数の矢が突き刺さっている。 リオがほぼ無限に矢を放てるのに対し、レイラは矢筒に入っている分しか放てない。「ふふふ、ボクの勝ちだね?」 リオは斜面に残った植物に話しかける。「そうだ。君には特別な栄誉をあげるよ。手足を潰して、ボクがクロノを自分のものにする所を見せてあげる」 リオはうっとりと呟いた。 表情だけ見れば恋する乙女のようだったが、その内容はおぞましい。 自分が殺される立場となれば余計に。「まあ、降参してくれるのならだけど」 リオは神器を構え、ゆっくりと弦を引いた。 光の矢が現れ、小さな音が響く。 それは神器がひび割れる音だ。 リオの力が限界に達しつつあるのだ。「と言っても降参するつもりはないよね」 その時、背後から音が響いた。「いつの間に!」 リオは反射的に振り返ったが、そこにレイラはいない。 一本の矢が微かに光っているだけだ。 今度は斜面から音が響く。 レイラだった。 機工弓を構えている。 いつも以上に無表情だ。 それは覚悟の表れだ。「クロノだけでも!」 リオがクロノの方を向くよりも早く、レイラが矢を放った。 矢が胸に突き刺さり、リオはよろめいた。 神器が砕け、光となって消え去る。「……あ」 リオは呆然と自分の胸に突き刺さった矢を見つめ、その場に頽れた。「り、リオ!」 クロノは立ち上がり、リオに駆け寄った。 それは『場』の力だった。 強い意思の力が足を動かしたのだ。「……リオ」 クロノは跪き、リオを抱き起こした。 気絶しているのか、リオは目を閉じている。「……リオ?」 もう一度呼びかけると、睫毛が震え、リオは薄らと目を開けた。「ふふ、レイラにやられてしまったよ」「喋らなくて良いから! 止血して、止血!」「もう無理だよ」 リオはゆっくりと手を上げた。 その手は透けていた。 神威術の副作用――リオは神に存在を喰われつつある。「……だから、だから」「もう良いから! きっと、神官さんなら助けてくれるはずだから!」「……だから、一緒に死んでおくれよ」 神威召喚、とリオが小さく呟いた。 次の瞬間、緑色の光が視界を塗り潰した。※ どれくらい意識を失っていたのか。 目を覚ますと、リオはクロノに抱きかかえられていた。「良かった。目を覚ましたんだね?」「……ここは?」 視線を巡らせると、そこは緑色の光に満たされた空間だった。 神威召喚は神そのものを呼び出す術だ。 ということはここは神の中になるのだろう。 リオはクロノを見つめた。 全く力が入らないが、それでも首を掻き切ることくらいはできそうだ。 だが――。「もう良いや」 リオは小さく呟いた。 不思議と穏やかな気分だった。 クロノに抱きかかえられているせいか。 胸を射貫かれたせいか。 神に喰われつつあるせいか。 いずれにせよ、悪い気分ではなかった。 ふといたずらっけが湧き上がる。「……クロノ、ボクのことを愛してたかい?」「愛してるよ」 愛していたではなく、愛している。 笑いが込み上げる。 リオは笑った。 血を吐きながら笑う。 どうしてだろう。 どうして、こんなことになってしまったのだろう。 それは、きっと――。 欲しがってばかりで、 自分のことばかりで、 我慢することができなくて、 孤独で、 家も、地位も、怖くて、捨てられなくて、 置いていかれて、 自分のことだけしか見えていなかった。「……もう置いていかないでおくれよ。次はちゃんと付いて行くから」 クロノの腕に力がこもり、リオは微笑んだ。※ 光の柱が消えると、そこには何もなかった。 焼け落ちた家も、植物も、斜面も、光の柱の内側にあった物は全て消えていた。 いや――。「クロノ様!」 レイラは胸を撫で下ろし、斜面を駆け下りた。 そして、足を止めた。 クロノは跪いていた。 その腕の中には白い制服――その上着だけが残っていた。 泣いているのか、クロノは肩を震わせていた。「……あ」 小さく声を上げる。 今更のように自分がクロノからリオを奪ったことに気付いたからだ。 敵になったとは言え、リオはクロノの恋人だったのだ。 どれほど悲しんでいるだろう。 どれほど苦しんでいるだろう。 駆け寄りたかった。 そうしなければ優しいクロノは悲しみに押し潰されてしまうと思ったのだ。 だが、クロノは立ち上がった。 唇を噛み締め、涙を堪えて。「……ああ」 レイラは小さく喘いだ。 クロノは悲しみに押し潰されてしまうほど弱い存在ではないと気付いて。 悲しみや苦しみに打ちのめされることはあるだろう。 足が止まってしまうこともあるかも知れない。 それでも、彼は立ち上がるのだ。 クロノがゆっくりと、だが、力強く歩き出す。 太股に突き刺さっていた矢は消えている。 いや、太股に矢が突き刺さったままだとしても力強く歩き出したことだろう。 レイラは唇を噛み締め、クロノの後を追った。