第17話:決戦 その8
第17話:決戦 その8
※ 早朝――ロイの目の前を負傷者が通り過ぎる。 疲れ果てたかのように俯く者も、軽く頭を下げる者もいる。 もちろん、憎悪に彩られた瞳で睨み付けていく者も。 仕方のないことだ、と思う。 軍団長補佐として彼らを地獄に叩き込むことを認めたのだ。 彼らには恨む権利がある。 いや、恨んで欲しいというのが本音か。 目の前を通り過ぎた負傷者は一般兵の手を借りながら荷馬車に乗る。 荷馬車に乗った後も睨み付けてくる者はいなかった。 野営陣地から荷馬車まで。 わずかな距離だが、それで体力を消耗してしまったのかも知れない。 ロイは槍にもたれ掛かり、担架で運ばれていく死体を眺めた。 一般兵が死体を荷馬車に積み重ねる。 多少は気を遣っているようだが、荷物のようだと思う。 その時、死体がこちらを見た。 積んだ拍子に首が動いただけだろう。 あるいは死後硬直か。 だが、ロイにはそれが死者の意思のように思えた。 何故、止めてくれなかったのかと。 何故、黙ってみていたのかと。 俺は今よりもマシな生活を送りたかっただけなのに。 そう訴えているような気がした。 小さく息を吐く。 錯覚だ。 死者は怒らない、嘆かない、憎まない。 死は終わりなのだ。 そう理解しているはずなのに気持ちは付いてこない。「……ふぅ」 もう一度、溜息を吐く。 死者を見送る方が消耗するような気がする。 殺された母親のことを思い出すからかも知れない。「……参ったな」「どうかなさったのですか?」「こっちのことだ」 ロイはいつの間にか隣に立っていたリチャードに答えた。 消耗するような気がするじゃなく、消耗するだな、と認識を改める。 そうでなければリチャードの存在に気付かないはずがない。「そっちはどうだ?」「負傷者の回収と治療は終わっています」「死体の回収は?」「継続していますが……」 リチャードは口籠もった。 死体を回収するのに労力を割くのなら兵士を休ませたい。 そう考えているのかも知れない。「悪ぃが、死体の回収は継続してくれ」「承知しました」「……悪ぃな」「いえ、当然の感情だと思います」 リチャードは苦笑し、ハッとしたような表情を浮かべた。「どうかしたのか?」「あ、いえ、その……」 よほど言い難いことなのか、リチャードは口籠もった。「気になることがあるんなら言ってくれ」「あ、はい、通常、負傷兵は帝都の病院に収容されますが……」 リチャードはまたもや口籠もった。 彼の言う通り、負傷兵は帝都に搬送され、病院に収容される手筈になっている。 だが、今回搬送する負傷者は正規兵ではない。 ボウティーズ財務局長が金で集めた傭兵――浮浪者だ。 帝都に到着したら放り出されるのではないかと考えているのだろう。「それについては安心してくれ。俺とアルヘナが連名で書簡を書いた。帝国のために戦った連中だから正規兵と同様に扱ってくれってな」「そうですか」 リチャードはホッとしたような表情を浮かべた。 負傷者に関心がないと思っていたのだが、違ったようだ。 優先順位は高くないが、助けられるものなら助けたい。 そんな感じだろうか。「一応、責任者に挨拶しておくか。軍学校の同期ってことはねーよな?」「残念ながら」 リチャードは困ったような表情を浮かべた。 ロイとしても残念だ。 多少なりとも縁があればお願いできたのだが。 こんなことになるのならばもっと人の縁を大事にするべきだった。 まあ、今更だ。 そもそも、アクベンス伯爵家を継いだこと自体が間違いのようなものなのだ。 正当な後継者が相次いで死んだから庶子である自分にお鉢が回ってきただけ。 兄達に子どもがいれば上官に煙たがられつつ士官をしていただろう。 いや、酒場の用心棒にでもなっていたか。 そんな風に考えていたから軍学校の同期に比べて縁を軽んじていた。 今の状況は自業自得だ。 もっとも、あの時はそれが正しい行動だと思っていた。 もし、過去に戻ることができたとしても自分は似たような失敗をするだろう。 そして、こんなことになるのならと後悔するのだ。 多分、人間は正しいと思って過ちを犯し、帳尻合わせに四苦八苦する生き物なのだ。「ロイ殿?」「あ、ああ、何だ?」「いえ、ボーッとしていたようでしたので。よろしければ私が挨拶に行きますが?」「そんなんじゃねーよ。ちょっと物思いに耽ってただけだ」「物思いですか?」「まあ、俺みたいなヤツでも色々と考えるってことさ」 リチャードが困惑しているかのように言い、ロイは軽く肩を竦めた。「お前は死体の回収を頼む」「承知しました」「頼んだぞ」 ロイはリチャードの肩を叩き、車列の先頭に向かった。 念のため荷馬車に白い布を結んだ木の棒が設置されているか確認する。 流石に設置忘れはないようだ。 しばらくして先頭に辿り着く。 そこには補給隊の隊長――ピーターが馬に乗って待機していた。 顔色は悪い。 蒼白を通り越して土気色だ。 四割も糧秣を焼失させてしまった。 どんな処罰を受けるのか気が気でないのだろう。「おーい!」「……」 声を掛けるが、ピーターはボーッと前方を見つめている。 心ここにあらずと言った所か。「おい!」「――ッ!」 もう一度声を掛けると、ピーターは馬から転げ落ちた。 周囲には補給隊の隊員もいるが、笑う者はいない。 彼がどんな処罰を受けるのか薄々気付いているからだろう。「大丈夫か?」「あ、はい、大丈夫です」 ピーターはのろのろと立ち上がった。「ロイ殿、何の用でしょうか?」「ああ、負傷者の搬送をよろしく頼む」「あ、はい、もちろんです」 ピーターの表情は虚ろだ。「お前の処分についてだが……」「……はい」「厳罰を下さないように進言しておいた」「ほ、本当ですか?」「ああ、嘘は吐かねーよ」 ロイは頷いた。 ピーターは反乱軍に奇襲を受けて糧秣の四割を焼失したのだ。 言わば不可抗力だ。 それなのに厳しい処分を下したら人材が払底してしまう。「ああ、だからしっかりな」「はい、ありがとうございます」 ピーターの顔に生気が戻る。 まだまだひどい有様だ。 だが、これならば自殺したり、逃げ出したりせずに帝都に戻ってくれるだろう。「隊長! 負傷者と死体の収容が終わりました!」「分かった!」 背後から声が響き、ピーターは大声で返事をした。「見苦しい所を……」「気にするな」 ピーターが呻くように言い、ロイは務めて軽く答えた。「そう仰って頂けると……」「頼んだぞ」「はッ!」 ピーターは敬礼すると馬に跳び乗った。※ ピーターは油断なく視線を巡らせながら馬を進ませる。 白い布を結びつけた棒を掲げていれば反乱軍の攻撃を受けない。 そう聞いている。 事実なのだろう。 実際、ここまで反乱軍に襲われていないのだから。 それでも、疑心を抱いてしまう。 当たり前だ。 命が懸かっているのだ。 それで相手――敵を信じられる訳がない。 だが、ロイ軍団長補佐は反乱軍の指揮官と交渉した。 それも使者を介すことなく、だ。 命の価値はロイの方が遥かに高い。 つまり、騙し討ちをされる可能性が高かったということだ。 もっとも、それは相手も同じだ。 二人は騙し討ちされる可能性がある状況で交渉したのだ。 並の胆力ではない。 きっと、これが補給隊の隊長と一軍を指揮する者の差なのだろう。 さらに馬を進ませ、ようやく帝都の城壁が見えてきた。 反乱軍の奇襲を受けたからか、城壁が頼もしく見える。 しばらくして――。「隊長、帝都です!」「……ああ」 部下の一人が声を上げ、ピーターは溜息交じりに答えた。 多分、自分が何処にいるのか分からないほど憔悴していると思われているのだろう。 無理もない。 それほど無様な姿を見せてしまった。 今更と思いながら背筋を伸ばす。 城門を潜り、アルフィルク城に向かう。 道行く人々が足を止め、こちらを見る。 酷い視線だった。 命懸けで戦い、帰還した兵士に向けて良い視線ではない。 部下が何人も死んでいるのだ。 若い、子どもと評しても差し支えのない者もいた。 同情で良いからもっと優しい視線を向けて欲しかった。 だが、それが難しいことも分かっていた。 自分達は帝都から食料を持ち去った。 食料の価格が高騰している状況で、だ。 彼らにしてみれば自分達は盗人同然なのだ。 それも帝国公認の。 面と向かって文句を言うことなどできない。 睨まれる程度で済んで御の字と考えるべきなのだろう。 ピーターは俯き、胸を張った。 虚勢だった。 だが、自分が俯いたら部下も俯いてしまう。 帝都の住民に理解してもらえなくても自分達は命懸けで役目を果たしたのだ。 せめて、自分達くらい仕事を全うしたと思わなければますます惨めな気分になる。 それに、ロイ軍団長補佐であれば胸を張ると思ったのだ。 新市街、旧市街を抜ける。 アルフィルク城はすぐ目の前だ。 ピーターは跳ね橋の前で馬を止め、地面に下りた。 門番を務める近衛騎士に歩み寄り、背筋を伸ばして敬礼する。「補給隊隊長ピーターであります! 補給を終え、帰還しましたッ!」 門番は呆気に取られたような表情を浮かべ、背筋を伸ばして敬礼した。 近衛騎士に相応しい見事な敬礼だった。「軍団長補佐殿から書簡を預かって参りました! 軍務局長殿にお取り次ぎ下さいッ!」「分かった。ご苦労だった」 ピーターが震える手で書簡を差し出すと、門番は敬礼を解いた。 そして、丁寧と言えなくもない態度で受け取った。 正直に言えばもっと丁寧に受け取って欲しかった。 門番はもう一人に視線を向けると踵を返した。「一旦、兵舎に戻ったら――」「いえ、それはできません」「何だ……ああ、そういうことか」 門番は合点がいったとばかりに頷いた。 ピーターの肩越しに大勢の負傷者と死体の山を見たのだろう。 大勢の負傷者と死体の山をどうすれば良いのか。 特に負傷者の扱いだ。 それを聞くまで動くわけにはいかないのだ。「……そんなに酷いのか?」「私は……よく見ていません」 自分のことに手一杯で戦場の様子を確かめる余裕がなかった。 仮にも一隊を任される身だというのに情けない。 こんなだから自分は駄目なのだ。「小耳に挟んだ程度で構わないんだが……」「……」 門番が申し訳なさそうに言い、ピーターは記憶を漁った。 まあ、これだけ死んでいて酷くないなんてことはありえないのだが……。「傭兵が全滅したと聞きました。生き残ったのは……」「マジかよッ?」「え、ええ、まあ」 ピーターは曖昧に頷いた。 近衛騎士が『マジ』なんて言葉を使って良いのだろうかと思わなくもない。 一般兵と違い、近衛騎士はエリートだ。 そもそも家格が違う。 目の前にいる門番だって名だたる名家出身に違いないのだ。 エリートに相応しい言動を心掛けて欲しいと言うのが本音だ。「……失敗したな」 近衛騎士はぼやくように言った。 やはりエリートらしい言動を心掛けて欲しい。 これでは自分達が馬鹿みたいだ。 とは言え、心情は理解できるし、自分が彼の立場であれば同じことを考えたはずだ。 まあ、口にするかは別として……。 ピーターは小さく溜息を吐き、城壁を見上げた。※「……全滅か」 ラルフはざっと書簡に目を通し、あまりの惨状に顔を顰めた。 期待はしていなかったが、傭兵どもの無能さに怒りを覚える。 敵野戦陣地の弱所を発見したのなら無能とは思わなかっただろう。 使えると判断したはずだ。 良くやった、と祈念碑の一つも建ててやったかも知れない。 だが、傭兵どもは一万人で挑み、敵の守りは堅固であると証明しただけなのだ。 無駄飯を食い、糞をひり出し、薬まで浪費した。 それで、敵の守りは堅固だと言うのだ。 まったく、呆れた無能ぶりだ。 反吐が出る。 この程度の能力しかないのであれば食い詰めるのも道理だ。 しかも、糧秣の四割が焼失と言う。 いや、焼失は仕方がない。 痛手ではあるが、戦いとはそういうものだ。 奇襲も、まあ、仕方がない。 戦っているのだ。 敵は騎兵の機動力を活かし、後方撹乱を行った。 騎兵の特性を理解した戦術だと誉めてやっても良い。 問題は周辺諸侯が敵騎兵を素通りさせたことだ。 連中は帝国に従うふりをしながら反乱軍に媚びを売っていたのだ。 許しがたい罪だ。「……くッ」 不意に内乱期の記憶が甦り、ラルフは呻いた。 命令に従うと言いながら従わなかった 貴族 ( クズ ) ども。 逃げ出しておきながら作戦が悪いと嘯いた 無能 ( クズ ) ども。 傭兵団のお陰で勝ったくせにこちらを見下すクズども。 そんな連中に無能と嗤われたのだ。 戦術が何たるかも知らない低能に見下されたのだ。 何年も、何年も、何年も――ッ! 鮮やかに甦った屈辱の記憶がラルフの脳を、体を内側から焼いた。「――ッ!」 ラルフはハッと我に返った。 全身がぐっしょりと濡れている。 小さく頭を振り、居住まいを正す。 今は昔のことを考えるべきではない。 ようやくチャンスが巡ってきたのだ。 怒りを沈め、知恵を巡らせなければ汚名返上も、歴史に名を刻むこともできない。 大丈夫だ。 こんなこともあろうかと命令書は用意してある。 ラルフは小刻みに震える手で命令書を掴み、口を開いた。「……糧秣を手配せよ」「は、はぁ」 副官は困惑しているかのように眉根を寄せた。「何だ?」「ボウティーズ財務局長が――」「ああ、分かった分かった。皆まで言わずとも良い」 ラルフは部下の言葉を遮った。 臨時で金を使う時はボウティーズ財務局長の決裁が必要になる。 戦場でも署名くらいはできると考えていたが、残念ながらヤツは囚われの身だ。 書簡には勇猛果敢に突撃し、奮戦虚しく捕虜になったと記されていたが、馬鹿面晒して突っ込んでとっ捕まったのだろう。 やはり、アルフォートを止めるべきだったか。 いや、無駄か。 殺された妻と子の無念を云々と言われたら一も二もなく頷くだろう。 あれはそういう男だ。 殺されたことにするかと考え、すぐに思い直す。 そんなことをしたら足下を掬われる。「……しかし」 もっと自由に戦うために権限の強化は必要か、と心の中で呟く。 ボウティーズ財務局長の死を偽れば追求される。 部下に指示しても同様だ。 だが、偶発的なものであれば――。 そんなことを考えていると、副官がおずおずと口を開いた。「……軍務局長殿」「何だ?」「負傷者と死体は如何なさいますか?」「負傷者など……」 放っておけと言いかけて口を噤む。 上手くいけば権限を強化できる。 運頼みの、博打のようなものだが、失敗しても損はしない。 駄目で元々だ。 試す価値はある。「対応を考える。しばらく……夕方まで待て」「はッ!」 副官は返事をして踵を返した。※「何ですって?」 ピーターは戻ってきたばかりの門番に聞き返した。「だから、夕方まで待機だ」「そんな! 彼らは怪我をしているんですよッ?」「私だって、それは分かっている」 門番はムッとしたように顔を顰め、小さく溜息を吐いた。「分かっているが、命令なんだ」「俺、いや、私は軍団長補佐に彼らのことを頼まれたんです。それに彼らには治療が必要なんです。火傷している者もいるし、矢で射られた者も、爆風で吹き飛ばされた者もいる。夕方まで保たないかも知れない」「なあ、無駄だって分かってるだろ?」 門番は理解を求める優しい声で言った。 もちろん、分かっている。 軍において命令は絶対だ。 軍務局長が夕方まで待機と言ったら従わなければならない。 何を言っても無駄なのだ。「お前はお前の仕事を果たしたんだ。部下と一緒に兵舎に戻れ」「ですが……」「折角、処罰されずに済んだのにチャンスを棒に振る気か? よく考えろ。お前は軍団長補佐の命令を守った。あとは軍務局長の命令を守るだけで良いんだ。軍人の本分を全うしろ。それだけを考えろ」「あ、ああ……」 ピーターは小さく声を上げ、項垂れた。 軍団長補佐ならば、ふざけるなと啖呵を切るに違いない。「お前はよくやったよ。本当だ。嘘じゃない」「……はい」 門番が労うように肩を叩き、ピーターは頷いた。 踵を返し、とぼとぼと部下の下に向かう。 こんな時、軍団長補佐であれば納得できないと抵抗するのだろう。 だが、ピーターは補給隊の隊長だ。 軍団長補佐ではない。 口惜しいという気持ちはある。 情けなさもだ。 けれど、安心していた。 気分が軽いのだ。 厳罰に処されるプレッシャーから解放された。 無駄だと知りながら負傷者のために抗弁してみせた。 仕事を果たしたのだ。 こんなものだ。 自分はこの程度の人間なのだ。 多分、軍団長補佐に影響されただけなのだろう。 まあ、よくよく考えれば軍団長補佐は名家の出身だ。 多少の我が儘に振る舞っても許される。 計算した上で動いているに違いないのだ。 本当に馬鹿みたいだ。 馬の所に戻ると、部下がおずおずと近づいてきた。「……隊長」「帰るぞ」 疲労感を覚えながら答える。「ですが、負傷者が……」「俺達の仕事は終わった」「……ですが」 ピーターは深々と溜息を吐いた。「俺達には何もできねーんだよ。それとも、お前がこいつらのために金を出すのか?」「い、いえ、それは……無理です」「だろう? だから、無理なんだ。何にもできねーんだ。上が夕方まで待機させろって言ったら従うしかねーんだよ」 ピーターは部下を押し退け、馬に向かった。 馬に跳び乗ると、部下がまたしても口を開いた。「馬車はどうしますか?」「馬だけ回収しろ」「…………はッ」 かなり間を置いて部下は返事をした。※ ロイは無力化した障害物に寄り掛かりながら最後の死体を見送った。 見送ったと言っても補給隊は帝都に戻ってしまったので死体は野営陣地の外に並べることになるが。 しばらくしてリチャードがやって来た。 彼はロイの前で立ち止まると敬礼した。 軍学校出身であることを物語る見事な敬礼だ。「死体の回収が終わりました」「……そうか」 ロイは小さく息を吐いた。「ボウティーズ財務局長はいつ解放されるのでしょうか? それに、攻撃は……」 緊張のせいか、リチャードはゴクリと生唾を呑み込んだ。「肩の力を抜けよ」「分かってはいるのですが……よく平気ですね?」「まあ、大丈夫だろ」 ロイは空を見上げた。 槍に結んだ布と中天に輝く太陽が見える。 すでに休戦は終わっていると言って、攻撃することも可能だろう。 それをしないのは攻撃するつもりがないからだ。「――ッ!」 リチャードが息を呑み、ロイはゆっくりと振り返った。 すると、クロノとミノタウルスが野戦陣地から出てくる所だった。 ミノタウルスは肩に人――ボウティーズ財務局長を担いでいる。 武装は解除されているようだが、拘束はされていない。 子どものように手足をばたつかせている。 ミノタウルスが迷惑そうにしているのは気のせいではないだろう。 しばらくしてクロノ達がロイ達の下に辿り着く。『よい、しょッ!』(ぶもッ!) ミノタウルスがこちら側にボウティーズ財務局長を下ろした。 次の瞬間、ボウティーズ財務局長はミノタウルスにしがみついた。「今だ! 私が押さえている内にこの亜人を殺せッ!」『……』(ぶも~) ミノタウルスは気まずそうに頭を掻いた。「私のことなら構うな! やるんだぁぁぁぁッ!」「昨日からこの調子で。貴族の誇りとか、生きて虜囚の辱めは受けないとか言いながらうるさいんですよね」 クロノはうんざりしたように――実際にうんざりしているのだろうが――言った。「そろそろ、止めてくれねーか?」「何を言っている! 今がチャンスなのだぞ!」「分かった」「おお! 分かってくれたかッ?」「帰るぞ、リチャード」 ロイは溜息を吐き、踵を返した。「よ、よろしいのですか?」「構わねーよ」「分かりました」 リチャードは慌てた様子だったが、すぐに付いてきた。「ちょっと! 引き取って下さい!」「いらねーから好きにしろ! 焼くなり、煮るなり、皮を剥ぐなり、その後で塩をすり込むなり、勝手にしろッ!」 ロイが叫んだ直後、背後から悲鳴が響いた。 ボウティーズ財務局長の悲鳴だ。「ま、待て!」 そう言って、ボウティーズ財務局長はロイの正面に回り込んだ。「何故、戦わないッ?」「そりゃ、休戦の約束をしてるからだよ」「今、ヤツらを殺せば帝国の勝利ではないかッ!」「ティリア皇女がいるだろうが」 確かにクロノとあのミノタウルスは反乱軍にとって重要な人物だろう。 だが、最重要人物はティリア皇女だ。 それに、とロイは肩越しにリチャードを見た。 いざと言う時のために交渉できる相手が必要なのだ。「妻子の仇なんだぞ?」「……あのな」 ロイは頭を掻いた。 当初は同情していたし、力を貸してやっても良いと考えていた。 だが、この数日で考えが変わった。 こいつには同情できないし、力も貸せない。「そんなに仇討ちがしてぇんなら自分でやれよ」「できるならそうしてる!」 ボウティーズ財務局長は声を荒らげたが、実に滑稽だ。 その滑稽さに本人だけが気付いていない。「アンタはやろうとしていないだろう?」「何を言う! 私は私財をなげうって一万もの傭兵を集めたのだぞ!」「あ~、ご立派ご立派。けどよ、本当に自分の女とガキの仇を討ちてぇんならもっとやりようはあっただろ?」 極論、捕虜になったふりをしてマジックアイテムで自爆しても良かった。 それをしなかったのは自分の命が大事だからだ。 安全を確保しながら仇を討つと喚いていたのだ。 そんなヤツにどうして力を貸せるだろう。「仇が討ちてぇんなら槍を貸してやるから行ってこいよ」「そ、それでは犬死にではないか!」 ボウティーズ財務局長は上擦った声で叫んだ。「今なら何とかなるかもしれねーぞ?」 再び肩越しに背後を見る。 クロノ達はまだこちらを見ている。 今なら仇を討てるかも知れない。 低い確率だが、ゼロではない。「チャンスだぞ? これを逃したら連中は野戦陣地の奥に引っ込んじまう」「う、うぐ、ぐぐぐ……」 ボウティーズ財務局長はだらだらと汗を流しながら呻いた。「どうした?」「し、失礼する!」 ロイが問いかけると、ボウティーズ財務局長は踵を返した。「どうするつもりでしょうか?」「適当な理由を見つけて帝都に逃げ帰るんじゃねーか?」 ロイは小さく溜息を吐き、空を見上げた。※「なあ、俺達はいつまでこうしていれば良いんだ?」 ホゼは隣に座っている男に話しかけた。 周囲は薄暗く、空気は冷たい。 このままでは凍えてしまう。 何処かに移動すれば良かっただろうか。 いや、と頭を振る。 この場を離れている間に誰かが来たらどうする。 傭兵として戦ったと主張しても信じてくれないだろう。 傷の手当てをしてもらえないだけではなく、金ももらえなくなってしまう。 そう考えたから荷馬車の荷台で膝を抱えて待っているのだ。「なあ、俺達はいつまでこうしてれば良いんだ?」「……」 ホゼは改めて隣の男に尋ねた。 返事は期待していない。 隣の男は火傷を負い、包帯で全身を巻かれているのだから。「なあ、俺た――」「うるせーな」 ホゼの言葉を遮ったのは対面に座っている男だった。「そっちこそ、うるせーよ。隣のヤツに話しかけただけで、なんでそこまで言われなきゃならねーんだよ」「そいつが死んでるからだよ」 ホゼが言い返すと、男は吐き捨てるように言った。 死んでいる? と隣にいる男の口元に手を翳す。 何も感じない。 男は呼吸していなかった。 死んでいた。「……ああ」 ホゼは小さく息を吐いた。 意外なほど感情が動かなかった。 当たり前か。 男とは友人でも何でもない。 単に乗り合わせただけの関係だ。 やはり、人間は何の意味もなく死んでいくらしい。 分かっていたつもりだが、現実を突き付けられると気分が沈んでしまう。 もっと、何かあっても良いのではないかとさえ思う。 その時――。「ボウティーズ財務局長が来たぞ!」 何処からか声が響き、ホゼは火傷の痛みに耐えながら地面に下りた。 ボウティーズ財務局長は馬に乗り、こちらに近づいてきた。「財務局長!」「――ッ!」 誰かが飛び出し、ボウティーズ財務局長は手綱を引いた。 馬がいななき、前足を浮かせる。「な、なんだ、貴様はッ!」「早く治療を受けさせて下さい。火傷が引き攣るんです」「なんだ、そんなことか」 ボウティーズ財務局長は吐き捨てるように言った。「そ、そんなこと?」「私は忙しいのだ」 ボウティーズ財務局長は馬を進ませようとしたが、できなかった。 いつの間にか仲間達に周囲を囲まれていた。「……ち、治療を」「お願いします。早く病院に行かせて下さい」「医者、医者をお願いします」「火傷が引き攣るんです」「腕が、動かないんです」「金を、金を寄越せ」「う、うるさい! うるさいッ! うるさいッ!!」 ボウティーズ財務局長は子どものように喚き散らした。「大体、なんで私が金を払わなければならない!」「そんな!」「約束したじゃないですかッ!」「そうだ! そうだッ!」「貴様らは何もできなかったではないか! このゴミ屑どもがッ! 何もできなかったくせに金を寄越せだと? ふざけるなッ!」「こ、このッ!」 男が掴み掛かるが――。「ギャッ!」 短い悲鳴を上げ、尻餅をついた。 ボウティーズ財務局長が剣を抜き、斬りつけたのだ。「腹一杯飯を食えただけでも感謝しないか!」「ふざけるなッ!」 別の男が掴み掛かる、ボウティーズ財務局長が斬りつける。 斬りつけられた男も同じように尻餅をついた。 だが、掴み掛かったのは一人ではなかった。「き、貴様らッ!」「金だ! 金を寄越せ!」「ちゃんと金を払えッ!」 ボウティーズ財務局長は馬から引き摺り下ろされ、もみくちゃにされた。 大勢に掴まれながら何とか逃れようとするが、無駄な抵抗だ。「金を寄越せ!」「何故、貴様らに――ッ!」 ボウティーズ財務局長は最後まで言葉を発することができなかった。 ホゼが拾った石で後頭部を殴りつけたからだ。 まるで糸が切れたようにボウティーズ財務局長が頽れる。 打ち所が悪かったのか、ピクリとも動かない。「け、剣だ! 高く売れるぞッ!」「指輪だッ!」「靴だ!」「服も高そうだッ!」 動かなくなったボウティーズ財務局長に仲間達が群がる。 まるで蟻が獲物にたかるように。「おい! お前達ッ!」 門番が叫び、ホゼ達は逃げ出した。※ ホゼは靴を抱えながら薄暗い路地を走っていた。 ここまで逃げれば大丈夫だろう、と足を止める。 靴を見下ろし、顔を歪める。 片方だけだ。 もう片方は誰かが持ち去ってしまった。 ポロポロと涙が零れる。 なんて、運が悪いのだろう。 命懸けで戦って、火傷まで負って、報酬がこれだけでは割に合わない。 仕方がない。 足下を見られるが、これを売って飯代にしよう。 そう考えて足を踏み出す。 だが、前に進むことができなかった。 壁が行く手を塞いでいた。 ホゼは半ばパニックに陥りながら壁を押した。 しかし、壁はびくともしない。 やがて、ホゼは自分が倒れていることに気付いた。 目の前に血に塗れた石が転がっている。 恐らく、これが頭に直撃したのだ。 視線を巡らせる。 周囲には人が立っている。「だ、誰か……」 救いを求めて手を伸ばす。 手が虚空をさまよい――。「このクソ野郎ッ!」「食料を持っていきやがってッ!」「兵士ってだけでデカいツラしやがって!」 罵声と共に石が飛んできた。 ホゼは逃げだそうとしたが、できなかった。 打ち所が悪かったのだろう。 体に力が入らない。 ホゼは為す術もなく罵声と石を浴び続けた。 意識がなくなるまでかなりの時間が必要だった。