第17話:決戦 その13
第17話:決戦 その13
※ 窓から温かな日差しが差し込んでくる。 レオンハルトは屋敷の一角で本を読んでいた。 戦記――初代皇帝が記したとされる本だ。 本当に初代皇帝が記したのか。 実際の所は分からないが、まあまあ愉しめる。「……さて」 どうなるか、と小さく呟く。 アルヘナ・ディオスの戦死を知ったのはつい先日のことだ。 ショックはさほど受けなかったように思う。 むしろ、納得さえしていた。 彼は自分であることに苦しんでいたように思う。 仮に、この戦いを生き延びたとしても死んでしまったに違いない。 この戦いがなければ苦しみを乗り越えることができただろうか。 できたかも知れないし、できなかったかも知れない。 神ならざる人の身だ。 未来を見通すことはできない。「……ああ」 思わず声を漏らす。 未来だけではなく、人の心も見通すこともできない。 できるだけ理解しようとはしているが、本質的な意味では理解していない。 理解できたことがない。 自分はそういう人間なのだ。 そんなことを考えていると、ドタドタという足音が聞こえた。 リーラだ。 もう少し静かに歩いて欲しいものだが、仕方がない。 彼女はそういう人間なのだ。 本を閉じ、居住まいを正す。 すると、見事なタイミングでリーラが姿を現した。 手には筒状に丸めた羊皮紙――書簡を持っている。「どうしたのかね?」「御館様から書簡が届いただよ」「ありがとう。渡してくれないか?」「分かっただ」 レオンハルトはリーラから書簡を受け取り、封を解いた。 そこに書かれた文章を目で追い、驚愕に目を見開く。「まったく、あの男は……」 レオンハルトは呻いた。 呻くしかなかった。 帝国軍と反乱軍の戦い――その趨勢が明らかになるまで中立を保つべきだ。 そう父に進言した。 父もそのように判断するものだと思っていた。 にもかかわらず、父の返事は『新貴族の風下には立てない』というものだった。 ぐらりと視界が傾くような感覚さえ覚えた。 精神的なショックが原因で目眩を起こすなど初めての経験だった。 さらに『一族の者を率いて援軍に向かう』と妄言を記している。「……何故だ」 そんな言葉が漏れる。 何故、様子を見ることができない。 何故、新貴族の風下に立てないなんて理由で家を危険に晒すのか。 理解できない。 デメリットがないのだから様子を見れば良い。 新貴族の風下に立つのが何だと言うのだ。 そんなもの、一族郎党を危険に晒すことに比べれば些末なことではないか。 理解できない。 家の利益を考えよと教えたその男が逆のことをしでかしたのだ。 しかも、分家の連中を巻き込んで。 ティリア皇女が勝てば家を潰される。 政治力を駆使して逃れることなどできない。 パラティウム家は明確にティリア皇女に敵対したのだから。 どうする? とレオンハルトは自問した。 いくつもの案が脳裏を過ぎったが、どれを採用しても不利益が生じる。 父が挙兵してしまったのが致命的だ。 だが、選ばなければならない。 現実的な路線としては家督を継いだ後、国の実権を奪うという所か。 ティリア皇女を殺し、必要があれば父とアルフォートを殺す。 何とも乱暴な計画だ。 自分の、パラティウム家の名は地に落ちるだろう。 しかし、家そのものがなくなることに比べればどうということはない。 そもそも、自分はすでに友を裏切っている。 家の利益を優先した結果だ。 自分は裏切り者なのだ。 自分の名が汚れることに何の躊躇いがあるだろう。 そう思うが、時間が欲しかった。 時間があれば別の方法を思いつける。 パラティウム家の不利益を最小化できる。 そんな確信めいた思いがあった。 だが――。「……私には時間がないようだ」 レオンハルトは窓から外を眺め、小さく溜息を吐いた。 窓の外には武装した部下の姿があった。 ご丁寧にレオンハルトの愛馬を連れている。 さて、とレオンハルトは立ち上がった。「レオンハルト様、どうするだか?」「仕事だよ」 レオンハルトは軽く肩を竦めた。 仕事――そう、仕事だ。 割り切った方が楽で良い。 この先、何十年も友を殺した事実と向かい合わなければならないのだ。 せめて、今くらいはリラックスしておきたい。※ ロイは毛布を捲り、顔を顰めた。 最初の犠牲者と同じように腋に小さな傷がある。 毛布で顔を隠し、対面のベッドに移動する。 すでに毛布が捲ってあるが、これはリチャードが気を利かせてくれたのだろう。 シーツは血に塗れ、当然のことながら兵士は死んでいる。 腕を上げてみると、やはり腋に小さな傷があった。 毛布で顔を隠し、手を組む。 そう言えば、とロイは最初の犠牲者のことを思い出した。 あの時、祈りを捧げただろうか。 捧げたような気もするし、捧げなかったような気もする。 多分、捧げなかったはずだ。 信心とは無縁の生活を送ってきた。 祈りを捧げるという習慣がない。 何故、今になって祈りを捧げているのか。 考えるまでもない。 アルヘナが死んだからだ。 彼の死が自分に影響を与えている。 そう考えると奇妙な気分になる。 死とは終わりだと思っていた。 確かにそうなのだろう。 少なくとも当人にとって死は絶対の終わりだ。 だが、残された人間にとっては違う。 生きている人間は他人の死から何かを得る。 そういうものなのだろう。 ロイは毛布で兵士の顔を隠し、立ち上がった。 すると、リチャードはおずおずと声を掛けてきた。「……どうしますか?」「前回と一緒だ」「ですね」 リチャードは溜息交じりに言った。 文句の一つも言われると思ったのだが、杞憂に過ぎなかったようだ。 もっとも、内心はどう思っているのか分からない。 アルヘナが戦死して三日が経つ。 その間、ロイは何もしていない。 待機せよという命令を守っているだけだ。「不審者の目撃情報は?」「ねぇな」「そうですか」 リチャードは落胆したように言った。「……今回は二人」「次は三人か、四人か」「勘弁して下さい」「そうだな」 リチャードが顔を顰め、ロイは頷いた。 次の犠牲者が何人かなんて話しても楽しくない。 そんなことを考えるくらいなら聞き込みした方が有益だろう。「……姿の見えない暗殺者ですか」「まあ、手練れだな」 正体が露見した暗殺者は三流、隠し通せる暗殺者は一流だ。 今の所、暗殺者は一流だ。 しかし――。「解せねぇな」「と言うと?」「これだけの腕があるのに、どうして一般兵を殺すんだ?」「不安を煽るためではないでしょうか?」「それもあるかも知れねぇが、不安を煽るってのは効率が悪くねーか?」「確かに、一般兵を殺しても不安を煽れるとは限りませんね」 リチャードは神妙な面持ちで頷いた。 軍を行動不能にしたければ指揮官を殺すべきだ。「では、誰が?」「そうだな」 ロイは顎を撫でた。 無精髭がちくちくと指先を刺激する。「帝国軍でも、反乱軍でもねぇ何者かが行きがけの駄賃に殺したんじゃねーか?」「妙に具体的ですね」「言うだけなら、ただだからな」 想像を口にしているだけで確証はないが、そうかも知れないという気はする。「どちらでもないとすると、周辺諸侯でしょうか?」「行きがけの駄賃って言っただろ?」 リチャードは不思議そうに首を傾げた。 答えを口にしたようなものなのだが――。 まあ、仕方がない。 想像の埒外にある答えにはなかなか辿り着けないものだ。「これからどうなるんでしょう?」「あと一日か、二日待機して……運が良けりゃ撤退だろうさ」「運が良ければ、ですか?」「ああ、運が良ければだ」 ロイは軽く肩を竦めた。「運が悪かったらどうなるんでしょう?」「あと一回は突撃させられるな」「運が良い方じゃないんですけどね」「俺もだ」 リチャードが溜息交じりに言い、ロイは笑った。「どれくらいの確率ですかね?」「十中八九って所だな」「駄目じゃないですか」「そうだな」 ロイは苦笑した。 ラルフ・リブラ軍務局長が自分の力で勝ちたいと思っていれば撤退だ。 他人の力を借りても勝ちたいと思っていれば再突撃だ。 後者――再突撃の可能性が高いとロイは考えている。 ラルフ・リブラ軍務局長は引き際を心得ていないギャンブラーのようなものだ。 所持金が尽きたくせにあちこちから金を借りてギャンブルをする。 非常に質が悪い。 もっとも、今回に限って言えば気持ちは分かる。 何しろ、手元に切り札が残っている。 戦況を打開しうる切り札だ。 勝てるという誘惑には抗いがたい。 負け続けているのだから尚更だ。 ロイも切り札を使えば勝てるんじゃないかという気がする。 ただ、ラルフ・リブラ軍務局長の尻馬に乗って良いものか不安が残る。 次も負けるんじゃないかという気がしてくる。 そんなことを考えていると――。「レオンハルト殿だ!」「第一近衛騎士団が援軍に来たぞ!」「これで勝てる!」「帝国は勝てるぞ!」 そんな声が外から聞こえてきた。「援軍が来たみたいです」「そうみてぇだな」 ロイは深々と溜息を吐いた。「第一近衛騎士団が援軍に来たのに嬉しくないんですか?」「再突撃する羽目になったからな」「ああ、そういうことですか」 喜べませんね、とリチャードは呻くように言った。※「こちらが作戦会議用の天幕になります」「……ああ」 レオンハルトが天幕に入ると、リチャードと名乗った男はそそくさと去って行った。 天幕の中にはロイ・アクベンス伯爵がいた。 友人が死んだばかりだというのに平然としている。 意外と言えば意外だ。 彼はもっと感情的なタイプだと思っていたのだが、自分の見立ては間違っていたらしい。「よう、久しぶりだな」「さて、久しぶりと言って良いものか」「どっちでも構わねーよ」「ああ、そうだな」 レオンハルトは中央のテーブルに歩み寄り、そこに広げられた地図を見つめた。 反乱軍――敵野戦陣地は湾曲している。 恐らく、陣地で鶴翼を再現したのだろう。 反乱軍の、クロノの苦肉の策だ。 果たして、これまでにどれほどの知恵を絞ったのか。 想像するしかないが、かなり苦しんだに違いない。 まあ、だからと言って手を抜くつもりはない。 クロノが自身と同盟領の命運を背負っているように、自分にも背負っているものがある。 さて、自分ならばどう攻略するか。 ふと顔を上げると、ロイがこちらを見ていた。 しまった、と思う。 ロイは友人が死んだばかりなのだ。 お悔やみの言葉を口にするべきだった。「……アルヘナ殿は残念だった」「白々しすぎるぜ」 何が気に入らないのか、ロイは吐き捨てるように言った。「私はアルヘナ殿の死を悼んでいるとも」「そう言えばルーカスの旦那が死んだんだってな」「悲しいことだね」「リオ・ケイロン伯爵も死んだ」「残念でならないよ」「で、次はクロノか」「仕方のないことだよ、それは」 本当に、心の底からそう思う。 利害が一致していれば友人でいられたのに残念でならない。「…………それで、作戦は?」「ところで、アルヘナ殿は何処で?」 問い返すと、ロイは顔を顰めた。 間違った返答はしていないつもりだが、気に障ったようだ。 何が気になったのか尋ねたいが、余計に怒りを買うことになるだろう。 理解できないものには触れない方が良い。 ロイは地図の一点――敵左翼を指差した。「この障害物は?」「そいつは撤去済みだ」「なるほど」 レオンハルトが頷くと、ロイはますます顔を顰めた。「で、どうするんだ?」「敵左翼に戦力を集中させる」「中央ほどじゃねぇが、二方向から攻撃が来るぞ?」「陽動だよ」「そうかい。じゃ、本命は何だ?」「本命は私だよ。囮が敵を引き付けている間に――」 レオンハルトは地図の中央を指差した。「私が中央突破する」「できるのか?」「できるとも」 神威術を使えば矢から身を守り、柵を跳び越えられるだろう。 ただし――。「突破するには敵を引き付けてもらう必要があるがね」「そうかよ」 やはり、吐き捨てるように言う。 ほんのわずかな遣り取りで嫌われてしまったらしい。 残念なことだ。 彼の信用を得られれば成功率が上がったかも知れないのに。「こいつは提案なんだが、先陣はお前の部下に切って貰いてぇ」「何故だね?」「分からねぇのか?」 ロイは深々と溜息を吐いた。 彼が言わんとしていることは分からないでもない。「念のために確認しただけだよ」「確認することか?」「言葉は不完全なものだからね。確認は大事だとも。我々が犠牲を払わずに栄誉だけをかっ攫って行くのが許せないということで良いかね」「まあ、そういうことだ」 ロイはうんざりしたように言った。「こっちは少なくねぇ犠牲を出してる。さらに犠牲を出した挙げ句に手柄はレオンハルト殿が独り占めなんて、部下を納得させられる訳がねーよ」「承知した。我々が先陣を切る。それで良いかね?」「ああ、それで良い」 やはり、うんざりしたような口調だ。「では、私は外で部下と打ち合わせをしてくる」「……なあ」 レオンハルトが踵を返すと、ロイが声を掛けてきた。 仕方がなく立ち止まる。「何だね?」「お前が……お前は何のために戦うんだ?」「パラティウム家のためだよ」 レオンハルトは即答した。 全てはパラティウム家のため――。 それは今までも、これからも変わらない。「……家のためか」「君はそうではないのかね?」「継いじまった家のためってのはあると思うぜ」「継いでしまったか」 そう言えばロイは庶子の出だった。 なるほど、そういうこともあるだろう。「けど、まあ、結局は自分のためなんだろうよ」「……ああ、なるほど」 レオンハルトはようやく合点がいった気分だった。 父は判断を誤ったと思っていたが、どうやら違うらしい。 レオンハルトから見れば父の判断は愚かとしか言いようがない。 今回だけではない。 今までの過ちもそうだ。 いずれも愚かとしか言いようのない判断だ。 だが、父にとっては正しいことだったのだ。「……なるほど」 もう一度、呟く。 父が間違っていたのであれば自分もまた間違っていた。 常識で考えていた。 家のためを思うならば父を殺しておくべきだったのだ。 そうすれば今回のようなことにはならなかった。 まったく、とレオンハルトは溜息を吐き、天幕を出た。 見上げると、空は分厚い雲に覆われていた。※ レオンハルトは愛馬に跨がり、戦場を眺めた。 陥没した地面、焼け焦げた障害物などが激戦を物語る。 数多の兵士が死傷した戦場を駆ける。 自分にならできる。 部下が反乱軍を引き付けてくれればだが――。 敵左翼を見ると、部下達は土塁の陰に身を隠していた。 散発的に敵弓兵が矢を放つが、幸いにも負傷者はいない。 レオンハルトはゆっくりと剣を抜いた。「……神よ」 祈りを捧げると、刃が眩い光を放つ。 光を放つだけの神威術だ。 やがて、光が消える。 そして――。「おぉぉぉぉぉぉッ!」 部下が雄叫びを上げて土塁から飛び出した。 そこに矢の雨が降り注ぐ。 だが、光が、盾が矢を防いだ。 先頭に立つのは神威術士、あとに続くのは盾を持った騎士だ。 神威術士が光の盾を展開して駆ける。 さらに矢が降り注ぐが、部下――第一近衛騎士団の足を止めることはできない。「ぎゃッ!」「ぐぎゃッ!」 短い悲鳴が響く。 第一近衛騎士団に続こうとした一般兵のものだ。 その心意気は素晴らしいが、残念ながら能力が違う。 自分の部下は帝国軍の最精鋭だ。 一般兵とは違うのだ。 しかし、それは第十三近衛騎士団――クロノの部下も同じだ。 彼らは帝国暦四三〇年から戦い続けてきた。 実戦によって鍛え上げられた者達だ。 距離を半分ほど詰めた所で敵歩兵がクロスボウで矢を、敵重装歩兵が投石紐で石を放つ。 さらに矢の雨が降り注ぐ。 神威術士が正面から飛来する攻撃を防ぐ。 盾であれば足を止めていたことだろう。 だが、神威術士が展開する光の盾は神の力だ。 足を止めずに進むことも不可能ではない。 とは言え、限界はある。 神の力は人間には過ぎた力だ。 だからこそ、神と呼ばれるのだろうが――。 ともあれ、神威術士が攻撃を防ぎ続けることはできない。 いつか限界を迎える。 レオンハルトは深く呼吸し――。「はッ!」 馬を走らせた。 馬は徐々にスピードを上げ、最も手前にある障害物の脇を通り過ぎる。 その時、敵弓兵が矢を放った。 矢が降ってくるが、密度はそれほど高くない。 部下が敵を引き付けているお陰だ。 スピードを緩めずに矢の雨を潜り抜ける。 すぐに別の障害物が見えてきた。 焼け焦げた毛布が掛けられている。 焼死体のように見えてしまうのは感傷だろう。 ガクン、とスピードが落ちる。 この障害物を跳び越えることはできない、と馬は判断したようだ。 レオンハルトは馬の首筋を掴んだ。「……神よ」「――ッ!」 神威術で馬の肉体性能を活性化させる。 その苦痛に馬が声なき声を上げる。 馬は口から血泡を吐きながらも障害物を乗り越えた。 思わず笑みが零れる。 ブラッド・ハマルであればこのような暴挙を許さないと思ったからだ。 許すも許さないもないか。 彼とも道が分かれている。 いや、最初から同じ方向を見ていなかった。 近衛騎士団長全員が、だ。 帝国のことを考えていたのはエルナト伯爵だけだったような気がする。 形だけの取り繕っている。 それが今の騎士だ。 矢が飛来する。 クロスボウによって放たれた矢だ。 進路を変えて躱すが、すぐに次の矢が放たれた。「神よ!」 レオンハルトは神威術『聖盾』を展開して矢を防ぐ。 再び進路を変えようとするが、それを見越しているかのように矢が飛来する。 前方を見据え、目を細める。 そこでは老人がクロスボウを構えた兵士に指示を出していた。 さらに老人は籠手――マジックアイテムに何かを叫ぶ。 矢の密度が増し、顔を顰める。 クロスボウを構えた兵士は若者だ。 恐らく、領地で集めた義勇兵だろう。 経験は乏しいはずだ。 にもかかわらず、パニックに陥るどころか、レオンハルトに神威術を使わせている。 神威術で防げるが、いつまでも防げる訳ではない。 限界がある。 ならば、と神威術によってさらに馬を活性化する。 馬が弾けるように加速する。 風がごうごうと音を立てて耳元を通り過ぎる。 あと少しという所で視界が沈む。 馬が限界に達したのだ。 だが、ここまで来れば問題ない。 レオンハルトは馬を踏み台に跳んだ。 柵を、兵士達が身を隠している穴を跳び越える。 着地の瞬間、足から痛みが這い上がってきた。 どうやら傷めたらしい。 痛みを噛み殺し、大地を蹴る。 背後から矢が飛んでくるが、全て外れた。 ティリア皇女は――、とレオンハルトは視線を巡らせた。 その時――。「不意打ち御免であります!」 視界が翳り、レオンハルトは跳び退った。 やや遅れて女――フェイ・ムリファインが降ってきた。 本気で殺しにきた。 彼女の立場からすれば当たり前だが、どうして叫んだのだろう。 声を出さなければ一撃入れられたかも知れないのに。 フェイはこちらに向き直り、きょとんとした顔をしていた。 まあ、そうだろう。 彼女は強い。 自分より優れた相手と殆ど戦ったことがないはずだ。 だから、レオンハルトが剣を振り下ろす姿をきょとんと眺めても仕方がない。『風よ!』(ぶもぉッ!) 裂帛の気合と共に緑の光がレオンハルトとフェイの間に割って入る。 風の魔術、いや、マジックアイテムか。 神威術で防ぎ、フェイを殺すこともできるが――。 レオンハルトはあえて距離を取った。 殺すのが惜しくなったとか、共に戦った仲だからという理由ではない。 ここで危険を冒す必要はないと判断したためだ。 しかし――。「神よ!」 女の声が響く。 フェイの声ではないが、聞き覚えのある声だ。 確か、シオンという娘の声だ。 地面から円錐状の岩が飛び出す。 『黄土にして豊穣を司る母神』の神威術だ。 跳び退って避けるが、次々と岩が飛び出す。 大した力だが、使う機会には恵まれなかったらしい。 レオンハルトは三人から距離を取った。『肝を冷やしやしたぜ』(ぶも)「申し訳ないであります」 クロノの副官――ミノがポールアクスを担いで歩み寄り、フェイが立ち上がる。 その向こうではシオンがこちらを睨んでいる。「死ななければ私が治せますから」『努力はしやすがね』(ぶもぶも)「なかなか無茶な要求でありますね」 ミノとフェイは軽口を叩きながら武器を構えた。「レオンハルト殿!」「何だね?」「 退 ( ひ ) いて欲しいであります」「はは、斬りかかっておいてよく言うものだね」 思わず笑ってしまった。「残念だが、私にも事情があってね」「それは話し合いでは解決できない問題でありますか?」「さて、どうだろうね」 レオンハルトは肩を竦めた。 解決できそうな気もするが、父の判断力を信じて全てを失おうとしている真っ最中だ。 これで話し合いに応じて騙されたらそれこそ馬鹿だ。「……残念であります」「私も残念でならないよ」 ナイトレンジャーは楽しかった。 ああ、そうだ。 楽しかったのだ。 ああいう馬鹿な真似は生まれて初めての経験でとても楽しかった。 わくわくした。 まあ、それも昔の話だ。「そうじゃないであります」「何がだね?」「レオンハルト殿が残念なのであります」「私が、かね?」「レオンハルト殿は一周回って残念なのであります」「酷いことを言うね」「レオンハルト殿がしっかりしていればこんな事態には陥らなかったであります」「私のせいなのかい?」「そうであります!」「……」 レオンハルトは何も言い返せなかった。 フェイの言葉は事実なのだ。 沈黙が舞い降りる。「それで終わりかね?」「これで終わりであります」「では、始めよう」 レオンハルトは静かに剣を構えた。 最初に動いたのはミノだった。 ぶもーッ! と雄叫びを上げて突っ込んでくる。 光が走る。 黄色の――地を象徴する光が蛮族の戦化粧のようにミノの体を彩る。 スピードが上がる。 大型亜人は鈍重そうな外見に反して素早い。 それは体のサイズが違うからだ。 人間を相手にするつもりで戦っていると、あっと言う間に距離を詰められる。 レオンハルトは大型亜人と何度か手合わせをしたことがあるが――速い。 気が付くと、ミノは間近に迫っていた。 フェイの姿が見えない。 気配はするのでミノの陰に隠れているのだろう。 ここは距離を取るべきか。 レオンハルトは跳び退ろうとし、足首に影が絡み付いていることに気付いた。 『漆黒にして混沌を司る女神』の神威術だ。 剣で影を切断し、跳び退る。 ミノがポールハンマーを一閃させる。 レオンハルトは膝を屈めて攻撃を躱し、反撃に転じる。 いや、転じようとした。 その時、ミノの陰からフェイが現れる。 全身から黒い靄のようなものが立ち上っている。 神威術で身体能力と防御力を底上げしているのだろう。 構えは刺突。 狙いは首だ。 ミノはと言えばもうポールアクスを振りかぶっている。 フェイの攻撃が失敗した時の備えか。 なかなか見事な連携だが――。 レオンハルトはフェイに向かって跳んだ。 切っ先が目の前を通り過ぎる。 首筋が熱い。 躱したつもりだったが、掠ったようだ。 だが、脇に回り込み、フェイを盾にすることには成功した。 ミノの動きが鈍る。 このままフェイ諸共貫く、と体を捻る。 次の瞬間、地面が炸裂した。 最初はミノの刻印術かと思ったのだが――。「ぐはッ!」『ぐぁぁぁぁッ!』(ぶもッ!) 二人とも吹き飛ばされているので違ったようだ。 レオンハルトは背中から地面に叩き付けられ、すぐに立ち上がった。「ご、ごめんなさい!」「ぐ、グッジョブであります!」『ガンガンやって下せぇッ!』(ぶもッ!)「はい!」 ふざけているのかと言いたくなるが、ぐっと堪える。 レオンハルトは息を吐き、剣を構えた。 地面を蹴り、ミノと距離を詰める。 ぶもーッ! と雄叫びを上げ、ミノがポールアクスを振り下ろす。 頭上に防壁を展開、攻撃を受ける。「隙ありであります!」「隙などない!」 フェイの斬撃を剣で受け止める。 受け流そうと思ったのだが、できなかった。『風よ!』(ぶも!) 体が重くなる。 ミノがマジックアイテムを使ったのだ。「だりゃぁぁぁであります!」「ちぃッ!」 フェイが剣を押し込んできた。 舌打ちしながらも頭の芯は平静さを保っている。 押し込んできた勢いを利用してそのまま受け流す。 フェイの上半身が泳ぐ。 レオンハルトは剣を振り上げ、よろめいた。 フェイの横蹴りを胸に喰らったのだ。 剣での戦いに拘ると思ったのだが、体術を使ってくるとは意外だった。 不意に視界が翳る。 視線を上げると、ミノが宙に浮いていた。 目を見開く。 まさか、ミノタウルスがフェイを跳び越えるとは――。『風よ!』(ぶも!)「神よ!」 振り下ろされたポールアクスが防壁を砕き、レオンハルトは咄嗟に剣で受け止める。 あまりの衝撃に体が軋んだ。 さらに地面から円錐状の岩が飛び出す。「ちぃッ!」 レオンハルトは渾身の力でポールアクスを押し返し、何とか横に逃れる。 神威術かと思ったが、シオンはきょとんとした顔をしている。 ということはミノの刻印術か。 ぶもーッ! とミノが雄叫びを上げる。 すると、刻印が強い光を放った。 ミノを中心にひび割れが生じ、全方位に向けて円錐状の岩が飛び出す。 しかも、外側に向かって広がっていく。「神よ!」 レオンハルトは防壁を展開しながら距離を取る。 視界の隅を何かが掠める。 確認する時間はない。 反射的に剣を構えた次の瞬間、甲高い音が響いた。 目の前にフェイがいた。 岩の陰に隠れて接近していたのだ。「お命頂戴であります!」「まだ、やれんよ!」 フェイが剣を押し込み、レオンハルトも負けじと力を込める。 不意に抵抗がなくなった。 レオンハルトが力を込めた瞬間を見計らい、フェイが反転したのだ。 まったく、嫌になる。「光よ!」「くッ!」 光がレオンハルトとフェイの間で炸裂する。 視界が翳り、地面を強く蹴る。 半瞬前までレオンハルトがいた場所にポールアクスが振り下ろされる。 これも刻印術の力か、石らしきものが背中を打つ。 さらに地面を蹴る。 逃げるためではない。 敵の弱点――シオンを殺すためだ。 彼女は力を使いこなせていない。 戦いの中で力を使いこなせるようになる前に始末した方が良い。「こ、来ないで下さい!」 シオンが叫ぶと、石柱が地面から飛び出した。 爆発にも似ている。 だが、この程度なら造作もなく避けられる。 あと数歩という所までシオンに迫る。 その時、怖気が走った。「神よ! 守りの奇跡をッ!」「神様、お願いしますッ!」 シオンから異質な空気が押し寄せる。 どう異質なのか分からないが、抗えなければ死ぬという予感があった。 幸いというべきか、神威術『神衣』はシオンの攻撃を防いでいた。 レオンハルトはそのまま距離を詰め、剣を突き出した。 剣が胸を貫き、シオンの体から力が抜ける。 シオンは俯き――。「……捕まえました」 ぞっとするような声音で言った。 剣を引き抜こうとするが、できなかった。 シオンが刃を握り締めていたのだ。 何をするつもりなのかはすぐに分かった。 刀身が錆び始めたのだ。 剣を引き抜こうと力を込めると、刀身が半ばから折れた。 レオンハルトは地面を蹴り、距離を取る。 げほげほ、とシオンは血を吐いた。 致命傷を与えたはずだが、死にそうに見えない。 それどころか、もう血が止まっている。 そこまでは良い。 神威術士ならば――特に治癒の力に優れた神を信仰するものであれば不可能ではない。「い、痛いです」 シオンは胸を押さえ、泣いているかのような声で言った。 だが、口元には笑みが浮かんでいた。「大丈夫でありますか?」『素人目にも大丈夫にゃ見えやせんぜ』(ぶも) フェイとミノがシオンを庇うように立つ。「今なら見逃してあげるでありますよ?」「そうしたい所だが、そうもいかなくてね」 レオンハルトは手を上げ、剣を見つめた。 刀身が半ばから失われているが――。「神よ、我が剣に祝福を」 神威術『祝聖刃』――剣が白い光に包まれ、光が刀身を形作る。 当然のことながら光には重みがないのでバランスが悪い。「この三人に勝つつもりでありますか?」「やってやれなくはないとも」 レオンハルトは軽く肩を竦めた。 敵は強いが、間違いなく勝てる。 まあ、楽勝という訳にはいかないだろうが。※ 先頭を走っていた敵神威術士が白い光を放つ粒子に変わる。 神威術の副作用――神に喰われたのだ。 それが切っ掛けになったように敵神威術士が一人、また一人と光の粒子に変わる。 その光景は美しく、悪夢的だった。 死は恐ろしいものだ。 それなのに、あんな風に死んでしまったら恐ろしさが薄れてしまう。 死が軽くなってしまう。 そう指摘しても彼らは反論してくるに違いない。 信仰が証明されたのだ、と。 だが――。「……本当にそんなことをお望みみたいな?」 アリデッドは樹上に設置した櫓から戦場を見ながら呟いた。 神に喰われる。 神と一体化する。 どちらでも構わないが、あまり楽しくなさそうだ。 そんなことよりも美味しいものを食べて、遊ぶ方が楽しいと思う。 神官さんも『そっちの方が良い』と言っていたので間違いないはずだ。 何しろ、経験者だ。 神の未消化物と言ったらしょんぼりしてたので本心からだろう。 この戦いが終わったらお酒を奢ってあげよう。 お布施をするのもありかも知れない。 うおーッ! と声が上がる。 皇軍と帝国軍が激突したのだ。 今の所は五分。 しかし、時間が経てば皇軍が劣勢に追い込まれることだろう。 まあ、経験則的に――。「さて、親愛なる戦友諸君……準備はOKみたいな?」『はい』 籠手のマジックアイテムに呼びかけると、声が返ってきた。 矢の数は十分ある。 親征のように節約する必要はない。「あたしらの未来のために敵には死んでもらうみたいな!」『おうッ!』 アリデッドは帝国軍に向けて矢を放った。※ フェイ、ミノ、シオンの三人は強かった。 フェイは素晴らしい剣士だった。 あと五年もすれば帝国一の剣士になっていたことだろう。 ミノはフェイをよくサポートした。 自身も戦士として高い技量を持つが、それだけではない。 彼は視野が広かった。 戦闘そのものを俯瞰して見ているような節さえあった。 しかし、フェイとミノだけならば早々に決着が付いていたはずだ。 ここまで長引いたのはシオンの存在が大きかった。 何しろ、彼女は素人だ。 考えが非常に読み難い。 それが戦闘全体に影響を与えた。 素人の思い付きによって何度も劣勢を覆した。 だが、それも終わりだ。 レオンハルトは静かに息を吐き、三人を見つめた。 フェイとミノは息が上がり、シオンは今にも倒れそうだ。 そろそろ終わりにしよう、とレオンハルトは地面を蹴った。 狙いはミノだ。 刻印が明滅している。 つまり、限界が近い。 こちらの意図を察したのか、ミノはポールアクスを振り上げた。 しかし、その動きは精彩を欠いている。 鈍い感触が剣から伝わってくる。 剣がミノの胸を貫いたのだ。『た、大将……』(ぶも……)「なに、君はよく戦ったとも」『げほッ!』(ぶもッ!) 柄を捻ると、ミノは血を吐き出した。『ただでは……』(ぶも……)「死なせないであります!」 フェイが剣を振り下ろし、レオンハルトは後方に跳躍して躱した。 ミノがその場に頽れる。 致命傷だ。「シオン殿!」「分かりました!」「させんよ」 レオンハルトは神威術――光弾を放った。 光弾がシオンの膝を直撃する。 膝が拉げ、シオンが倒れる。「待っていて下さい。すぐに治します」 シオンは地面を這いながらミノの下に向かう。 自分の傷を治そうともせずに、だ。 それで彼女がすでに限界だと分かった。「さて、どうするかね? 今なら見逃しても構わないが?」「できない相談であります」 フェイはミノ達を庇うように立ち、剣を鞘に収めた。 そして、腰だめに構える。 黒い靄がフェイの体から立ち上がり、悪寒がレオンハルトの背筋を這い上がる。 切り札を使うつもりだろう。 レオンハルトは小さく息を吐き、自身の剣を見た。 刀身は半ばから失われている。 神威術で仮の刀身を形成しているが、これでは攻撃を受け切れまい。 仕方がない、とレオンハルトは剣を鞘に収めた。 フェイと同じように構える。 動揺が伝わってくる。「まさか、自分だけが特別だなんて思っていないだろうね?」「思っていないであります」 フェイはムッとしたように言った。 レオンハルトはフェイと睨み合う。 音が少しずつ遠ざかり、周囲の光景が色を失う。 白い、白いだけの世界でフェイと対峙する。 同時に、動く。 空気が煮込んだシチューのように纏わり付いてくる。 不快だ。 ただ、不快だ。 意識と肉体が噛み合っていない。 力ずくで二つを噛み合わせる。 こめかみに痛んだ。「神器――ッ!」「――召喚ッ!」「「抜剣ッ!」」 声が重なり、神器を抜く。 光と闇がぶつかり、音が戻る。 まるで雷鳴のような轟音が響き渡る。 神器が弾けるが、姿勢を崩すには至らない。「はぁぁぁぁッ!」「おぉぉぉぉッ!」 裂帛の気合と共に神器を繰り出す。 轟音が響き、神器が弾かれる。 レオンハルトは即座に神器を繰り出す。 それはフェイも同じだ。 神器がぶつかり、弾かれ、再びぶつかる。 神の意志に操られているかのように加速していく。 白い光と黒い光が空間に軌跡を描く。 まるで空間が削られているかのようだ。 そんな思いが脳裏を掠めるが、些末事だ。 もっと速く、ただ速く、ひらすらに速く――。 視界が赤い。 口の中が血生臭い。 骨が軋み、筋肉が千切れる。 それでも、加速する。 己はそのための存在だとでも言うように。 残念ながら――人間は加速するためだけの存在ではない。 限界はある。「――けはッ!」 先に限界を迎えたのはフェイだった。 仰け反り、血を吐き出す。 千載一遇のチャンスだったが、レオンハルトも限界を迎えた。 俯き、血を吐き出す。「あ゛ぁぁぁぁッ!」「お゛ぉぉぉぉッ!」 力を振り絞り、神器を振るう。 フェイが剣を振り下ろし、レオンハルトは剣を振り上げる。 神器が衝突し、澄んだ音が響いた。 フェイの神器がガラスのように砕けたのだ。「……運命には勝てなかったでありますね」「……」 レオンハルトは無言で神器を振り下ろした。 血がしぶき、フェイは膝から崩れ落ちた。「フェイさん!」 ミノに覆い被さるようにしていたシオンが叫んだ。 殺すべきか放っておくべきか迷っていると――。「賊じゃッ!」「姫様を守るんじゃッ!」 しわがれた声が聞こえた。 声のした方を見ると、老人達がこちらに向かって駆けてくる所だった。 数は五十人くらいだろうか。 疲れているが、問題ない。「……ふぅぅぅ」「我が名はマンチャウゼン! ティリア皇女一の家来よ!」「一の家来は儂じゃ! このアロンソこそが一の家来よ!」 二人の老人――マンチャウゼンとアロンソは胸で押し合う。 まったく、鬱陶しい。「「いざ、尋常に勝負!」」 二人は武器を手に襲い掛かってきた。 哀れではあるが、真剣に応じるべきだろう。 レオンハルトは二人の間を通り抜けながら神器を一閃させる。 背後からドサッという音が響く。「マンチャウゼン! アロンソ!」「よくも二人を!」「いざ尋常に勝負、勝負!」 老人達が襲い掛かってくる。 もちろん、手加減などしない。 斬り捨て、斬り捨て、斬り捨てる。 普通の兵士ならば逃げる所だが、老人達は臆せずに向かってきた。 その表情は喜びに満ちていた。 笑いながら死ぬ。 微笑みながら逝く。 一体、何が彼らを駆り立てるのか。 少なくとも狂気に駆り立てられている訳ではないだろう。「皇女殿下万歳!」 最後の一人を斬り殺し、レオンハルトは空を見上げた。 分厚い雲が空を覆っている。 雨が降るかも知れない。「よくもまあ、殺しに殺したもんじゃのぅ」「……」 無言で声のした方を見ると、妙齢の美女がワインを飲んでいた。 喉が艶めかしく上下する。 確か、神官さんと呼ばれていたはずだ。 本能が危険だと訴えていたが、戦わずに済むという予感もあった。「貴方は戦わないのか?」「ワシはオブザーバーじゃから」 そう言って、笑う。「勝手にやっとれというのが本心じゃな」「そうか。それは助かる」 それは本心だった。 何百年生きているのか分からないが、戦わずに済むのならそれに越したことはない。 レオンハルトは足を踏み出し――。「じゃが……」「だが?」 足を止め、鸚鵡返しに呟いた。 その時だ。 背後から何者かにしがみつかれた。 肩越しに背後を見ると、老人の姿があった。 何事かと思っている間に腕を、脚を掴まれる。 俄には信じられない光景だった。 殺したはずの老人達が動いているのだから。 レオンハルトは神官さんを睨んだ。「オブザーバーではなかったのかね?」「そんなこと言ったかの?」 神官さんは小首を傾げた。 可愛いと評したい所だが、小憎たらしい。「まあ、酒代を出して貰ったからの」「そんなことで?」「大事なことじゃよ」 ワシにとっては、と神官さんはごにょごにょと言った。 レオンハルトは視線を落とし、老人が何かを握り締めていることに気付いた。 それはマジックアイテムだ。「儂らと一緒に死んでくれ!」「ティリア皇女万歳!」「神よッ!」 次の瞬間、紅蓮の炎が視界を埋め尽くした。※ 背後から爆音が轟き、レイラは首を窄めた。 クロノの身に何かあったのではないか。 そんな不安が胸を過ぎる。 クロノの下に駆けつけたいという気持ちを唇を噛み締めて堪える。 自分が行っても役に立てない。 むしろ、足手纏いになる。 それに指揮を託されたのだ。 なのに、どうして信頼を裏切ることができるだろう。 レイラは戦場を見つめた。 左翼では皇軍歩兵と帝国軍の騎士が激しくやり合っている。 辛うじて凌いでいるというべきか。 皇軍兵士は――第十三近衛騎士団は誰にも負けないという自負がある。 だが、それは敵も同じだろう。 気持ちで勝てるのなら苦労しない。 今、帝国軍を押し止めていられるのもアリデッド達が支援してくれているからだ。 もっと圧力を緩めたい。 そうすれば自分達は勝てる。「……どうすれば」 レイラは親指の爪を噛み、あることに気付いた。 義勇兵だ。 敵が左翼に集中しているため中央を固める義勇兵は手が空いている。 問題は同士討ちにならないかだ。 義勇兵の技量は拙い。 狙い撃つなど夢のまた夢だ。 その時、ポツリと雨が降ってきた。 反射的に空を見上げ――。「角度を付けて撃てば!」 レイラは思わず叫んだ。 どうして、こんな簡単なことに思い至れなかったのだろう。「義勇兵第一、第五、第七分隊は左翼に移動して下さい!」 レイラは籠手の通信用マジックアイテムに向かって叫んだ。※「……雨か」 レオンハルトは冷たい感触に目を開いた。 雨がパラパラと降っていた。 浅く呼吸を繰り返して体を起こす。 どうやら体は無事なようだ。 咄嗟に使った神威術が爆発の衝撃を緩和してくれた。 どうにか立ち上がり、視線を巡らせる。 辺りには死体が散らばっているが、神官さんの姿はない。 逃げたのか、興味を失ったのか。 まあ、邪魔をしないのであれば構わないか。 それに人間でなくなった者の意図を読もうとしても仕方がない。「……さて」 レオンハルトは神器を手に歩き出す。 頭痛がする。 吐き気が止まらない。 体中が熱い。 音がくぐもって聞こえる。 視界が暗い。 血の臭いと味しかしない。 しばらくすると天幕が見えてきた。 その前にいるのはクロノとローブを着た女性だった。 フードを目深に被っているので顔は見えない。 ティリア皇女と言われればそんな気がした。 クロノがゆっくりとこちらに近づいてくる。 十歩ほど距離を置き、立ち止まる。「……話し合いは無理かな?」「何を言うかと思えばその姿で話し合いかね?」 レオンハルトは失笑した。 クロノの体は刻印に彩られ、表情は険しい。 要するに戦意に満ち溢れているのだ。「駄目で元々って言葉があるからね、レオンハルト」「君らしいね、クロノ」 クロノが剣を構え、レオンハルトは神器を構えた。 雨が激しさを増し、クロノが動いた。 いや、レオンハルトが動けなかっただけか。 何しろ、満身創痍だ。 動けなくても仕方がない。 クロノはこちらの事情などお構いなしに詰め寄り、剣を振り下ろしてきた。 神器で受けるが、よろける。 クロノは畳みかけるように攻撃を仕掛けてきた。 こちらは受けるだけで精一杯だ。 受けるたびに体が軋む。 だが、それだけだ。 呼吸を整えて回復に専念する。 攻撃を受け、攻撃を受け、攻撃を受け――強烈な一撃で吹き飛ばされる。 レオンハルトは静かに息を吐くが、クロノの呼吸は乱れている。 さて、次はこちらが攻める番だ。 もちろん、口にはしない。 地面を蹴り、一気に距離を詰める。 すると、驚いたのか、クロノは目を見開いた。 神器を振り下ろす。 甲高い音が響き、クロノがよろめいた。 チャンス――だろうか。 嫌な予感に突き動かされ、レオンハルトは距離を取った。 半瞬遅れて、小さな爆発が起きた。 クロノが隠し持っていたマジックアイテムを使ったのだろう。 まったく、油断も隙もあったものではない。 クロノがニヤリと笑う。 まだマジックアイテムを隠し持っているのか。 それとも、他に手があるのか。「……いかんな」 レオンハルトは小さく頭を振った。 術中に嵌まっている。 焦るなと自分に言い聞かせ、深呼吸を繰り返す。 体力の回復を図りながら戦う。 無茶も、無理もしない。 レオンハルトは静かに神器を構えた。 クロノが突っ込んでくる。 先程までとは違う制御された動きだ。 その分、読みやすい。 振り下ろされた剣を、横薙ぎの斬撃を体捌きで躱す。 躱せないものは受け流す。 だが、剣にばかり気を取られてはいけない。 魔術、刻印術、マジックアイテム――どんな手を使ってくるのか分からない。 足に絡み付こうとした影を斬り、指で弾いたマジックアイテムを躱す。 長剣を弾き、突き出された短剣を躱す。 躱し、受け流し、体力が回復してきたので反撃する。 繰り返している内に攻守が逆転する。 やがて、クロノが防戦一方になる。 まだ何かあるのではないかという不安が湧き上がる。 だが、ここで仕留めなければいけないような気もした。 距離を詰め、掬い上げるような一撃を放つ。 クロノは跳び退ったが、切っ先が首筋を掠めた。 血が飛び散るが、浅い。 しかし、これでクロノに切り札がないことが明らかになった。 レオンハルトが足を踏み出した瞬間、右目に痛みが走った。 首飾りだ。 紐の切れた首飾りが目に当たったのだ。 痛みに動きが鈍り、クロノの体を彩る刻印が眩い光を放つ。 どうする? 右の視界が閉ざされている。 攻撃は右から来る。 クロノの攻撃は?「チッ!」 レオンハルトは舌打ちし、神器を振り下ろした。 右の視界は閉ざされているが、クロノが驚いたような表情を浮かべていることは分かる。 限界に達したのか、クロノの体が沈み込む。 その時、クロノの左腕が見えた。 皮一枚で繋がっている左腕が――。 レオンハルトは勝利を確信した。※ 負けた、とクロノは思った。 勝つためにミノを、フェイを、シオンを、マンチャウゼン達を犠牲にした。 消耗させ、上手く追い詰めた。 にもかかわらず、逆転された。 駄目だった。 首飾りが――リザドの牙がレオンハルトの視界を奪うという幸運に恵まれてもだ。 だが、良くやった。 レオンハルトを追い詰めたのだ。 それだけでも十分ではないか。 あとは皆に全てを任せよう。 奇妙な充足感に包まれたまま膝を屈しかけたその時、声が聞こえた。 もう良いのかい? それは優しい声だった。 もう良いと言えば『そうだね』と頷いてくれそうな声だ。 この声に甘えたい。 縋り付きたい。 だが、それは――クロノは足に力を込めた。 良い訳がない。 良い訳がない。 ここまで犠牲を重ねて、自分がこんな簡単に諦めて良いはずがない。 殺した人達、死んでいった部下のためにも諦める訳にはいかない。「……良い訳」 クロノは言葉を紡いだ。※「良い訳あるか! 馬鹿野郎ッ!」 クロノが叫んだ次の瞬間、右の視界が一瞬だけ白く染まった。 予想外の一撃だった。 左腕は皮一枚でしか繋がっていなかったはずだ。 それなのに、どうして攻撃できるのか。 レオンハルトはよろよろと後退り、尻餅をついた。 驚愕に目を見開く。 左腕が繋がっていた。「……良い訳あるか」 クロノは吐き捨てるように言い、ゆっくりと右目を開けた。 緑色の光が溢れる。 それは神の力――『翠にして流転を司る神』の力だ。 光が渦を巻く。 神威術を使う時、神の力は術者から立ち上る。 だが、クロノは違った。 周囲の空間から光が溢れ、クロノを取り巻いていた。 レオンハルトは光の中にリオ・ケイロン伯爵の姿を見た。 駄目だよ、駄目駄目。クロノは殺させないよ。 そんな声が聞こえてくるようだった。「……リオ・ケイロン」 レオンハルトは震える脚で立ち上がった。「死んでもクロノに執着するのか」「……リオは」 クロノがぽつりと呟く。「リオは死んだ」「それが見えないのか? それはリオ・ケイロンの力だ! 死んで、神と同化して……それでもなお、お前に執着しているというのに!」「リオは死んだんだ」 クロノは同じ言葉を繰り返した。「……けど、一緒にいくよ」 クロノが駆ける。 リオの力によるものか、刻印が眩く輝いている。「速い! だが――」「おぉぉぉぉぉぉッ!」 クロノが雄叫びを上げた。 獅子の如き迫力に体が竦んだ。 クロノが拳を繰り出し、レオンハルトは咄嗟に神器で受け止めた。 神器を砕ける訳がない、と笑った。 次の瞬間、ガラスの割れるような音共に神器が砕け散った。「馬鹿な! 神の――」「あぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」 拳が顔面に突き刺さり、レオンハルトは吹き飛ばされた。 頭から地面に叩き付けられ、それでも勢いは死なずに二度、三度と地面を転がる。 ようやく止まり、レオンハルトは自分の頭が付いていることを確認した。 頭が存在していることにホッと息を吐く。 破城槌に直撃されたような凄まじい一撃だった。「……立たねば」 立たないと死ぬ、と自分を叱咤しながら立ち上がる。 レオンハルトはクロノを見つめ――。「……ああ」 思わず声を漏らした。 レオンハルトはクロノの背後――緑と黒の光の向こうに死者を見た。 エルフがいた。 獅子の獣人がいた。 ミノタウルスがいた。 リザードマンがいた。 リオ・ケイロンが――数多の死者がクロノの背後にいた。「……ああ」 再び声を漏らす。 自分の全てを投げ出し、この偉大な王に縋りたいと思った。 こんな時でなければそうしていただろう。 いや、今もそうしたくて堪らないのだ。「私にとて守るものはある」 レオンハルトは抗うように言葉を紡いだが、自分でも薄ら寒くなるほど空虚だった。 家を守りたいと思った。 だが、それは何のためだ。 気分で判断する父親のためか、そんな父親に煽動される親戚か。 歴史を、財を守りたいだけなのか。「あぁぁぁぁッ!」 クロノが拳を繰り出し、またもやレオンハルトは吹き飛ばされた。 自分が守ろうとしていたものは何の力も与えてくれない。 自身が価値を見出していないからだ。 それでも、立ち上がる。 何故だ。 何のために。「……リーラ」 ポツリと呟く。 ああ、そうだ。 リーラ、リーラがいる。 父が貧農から買った娘。 自分に与えられた娘。「……私にも守るものはある」 改めて呟くと、全身が熱くなった。 体から白い光が立ち上る。「私は……まだ戦える」 レオンハルトは拳を握り締めた。※ ベアは木の陰から戦場を見つめていた。 戦闘が開始されてからかなり立つが、皇軍兵士は未だに戦線を維持していた。 帝国軍――第一近衛騎士団は壊滅しているにもかかわらずだ。 だが、戦線が崩壊するのは時間の問題だろう。 敵はまだまだいる。「……仕方がねぇな」 ベアは頭を掻いた。 指揮官のレイラは機転が利くが、兵に死を命じるような冷徹さはない。 ならば自己判断で動くべきだろう。 これから自分の判断で死地に赴く。 そう考えると、足が震えた。 歴戦の傭兵が情けないと思うが、命令ならば諦めが付くのだ。「まあ、でも、シフが売り付けちまったからな」 自分達――諸部族連合はクロノとその領地を守るために死ぬ。 仕方がない。 契約は絶対だ。 少なくとも絶対に守るという姿勢を見せなければならない。 まったく、傭兵とは因果な商売だ。「……諸部族連合の傭兵に告ぐ」 ベアは籠手の通信用マジックアイテム――その先にいる同胞に呼びかけた。「俺達はこれから死ぬ気で攻撃を仕掛ける。覚悟は良いな?」『おうッ!』 頼もしい声が返ってくる。「行くぞ! 諸部族連合ッ!」『突撃でござる!』(がう!) 走り出した直後、ベアは虎の獣人――タイガに追い抜かれた。「お前らも死ぬ気か?」『死ぬ気はないでござる!』(がう!)「まあ、そうか」 ベアは走りながら籠手の通信用マジックアイテムに呼びかけた。「修正だ! 死ぬ気で勝つぞ!」『おーッ!』 通信用マジックアイテムから声が響き、ベアは仲間と共に敵兵に襲い掛かった。※ ごん、ごんと衝撃が断続的に生じる。 何事かと思って目を開けると、レオンハルトは馬乗りになったクロノに殴られていた。「……ああ」 そうだ。自分達は戦っていたのだ。 体が鉛のように重い。 力が入らない。 全身全霊の力を込めて体を捻り、クロノを泥の海に叩き落とす。 馬乗りになろうとすると、蹴りが飛んできた。 痛みは感じない。 全身が熱く、叩かれても何かが当たっている感覚があるだけだ。 一体、どれくらい殴り合ったのだろう。 分からない。 分からないが、少なくとも殴り合いを始めた時は土砂降りではなかった。 ゴボゴボと音がした。 クロノが泥の海で溺死しかけていた。 ああ、これは楽で良い。 そんなことを考えていると――。「――ッ!」 レオンハルトは顔を上げ、泥水を吐き出した。 自分でも気付かない内に意識を失い、溺死しかけた。 何ということだろう。 いつの間にかクロノが立ち上がっていた。 レオンハルトは残った体力を総動員して立ち上がる。 勝ちたい。 そんな思いが脳裏を掠める。 ああ、そうだ。 勝ちたい。 勝ちたい。 クロノに勝ちたいのだ。 勝てれば、きっと、最高の気分に違いない。 だというのにクロノはレオンハルトとは逆の方に行ってしまう。 ああ、行くな。 頼むから。 戦ってくれ、と体当たりをする。 二人して地面に倒れる。 クロノは進もうとし、レオンハルトはしがみつく。 意識が途切れる。 再び意識を取り戻すと、ズボンを抱き締めていた。 クロノは、と視線を巡らせる。 彼はパンツ一丁で地面を這っていた。 頼む、待ってくれと地面を這う。 その時、ティリア皇女が跪き、クロノを抱き締めた。「もう良いんだよ!」 何が良いものか。決着は付いていない。 だが、言葉を発することはできなかった。「あたし達の、クロノ様の勝ちだよ!」 ティリア皇女はフードを脱いだ。 その下にあったのはティリア皇女とは似ても似つかぬ容貌だ。 見覚えがある。 確か、女将と呼ばれていた。「クロノ様は勝ったんだ!」 女将が東の方角を指差し、レオンハルトは振り返った。 すると、東の空に光の柱が立っていた。「……ああ、そういうことか」 レオンハルトは全てを理解し、その場に突っ伏した。 陽動だったのだ。 帝国軍を引き付けている間に別働隊が城を攻め落とす計画だったのだろう。「……ああ、そうか」 レオンハルトは力なく頭を垂れた。 自分は帝国の切り札として警戒されていたが、倒すべき敵とは認識されていなかった。 だから、クロノは逃げたのだ。「……そうか」 涙が零れ落ちた。 自分の思いは一方的なものに過ぎず、さらには敗北した。 倒すべき敵と認識してくれていればまだしも救われたのに。 何と言う惨めさ。 何と言う屈辱。 これが裏切りの代償だった。「ちょいと、感傷に浸ってないで敗北を宣言しちゃくれませんかね?」「――ッ!」 顔を上げると、女将がマジックアイテムを差し出してきた。 マジックアイテムを手に取り――。「第一近衛騎士団団長のレオンハルトだ。帝国軍はすぐに戦闘を停止せよ。繰り返す、帝国軍はすぐに戦闘を停止せよ」 レオンハルトは友軍に呼びかけた。※『繰り返す。帝国軍はすぐに戦闘を停止せよ』「戦場に何を仕込んでやがるんだ」 レオンハルトの声が四方から響き、ロイは顔を顰めた。「ロイ殿、どうしますか?」「どうって、おしまいだよおしまい」 リチャードの言葉にロイは視線を巡らせた。 兵士達は手を止めてしまっている。「命令は――」「城は落ちてるさ」 肩越しに背後を見ると、東の空に光の柱が立っていた。 神々しい、神威術の光だ。 多分、ティリア皇女の力だろう。 何となく、そんな気がした。「……真面目に戦ったんだがな」 ロイは光の柱を見つめながらぼやいた。 真面目に戦ったが、反乱軍にとっては一局面でしかなかったのだ。 口惜しいが、完敗だ。「アルヘナ殿は分かっていたのでしょうか?」「さあ、な」 正直、アルヘナがこの展開を予想していたとは思えない。 思えないが――。「ここは、アイツは凄いヤツだったで纏めておくべきじゃねーの?」「そうですね。それが一番ですね」「で、これからどうするんだ?」「田舎に帰ります」 リチャードはきっぱりとした口調で言った。「即答しやがったな」「悩んだんですけどね」「まあ、達者でな」「まだ、帰りませんよ。事後処理が済んでからです」 リチャードがムッとしたように言い、ロイは笑った。