クロの戦記ifその2:ティリア・エンド
クロの戦記ifその2:ティリア・エンド
帝国暦四三四年二月中旬朝――覚醒は息苦しさを伴っていた。 六十秒しか息の止められない男がギリギリまで水底に留まり、それから水面を目指すような息苦しさだ。 当然というべきか、クロノにそんな経験はない。 自分の限界に挑戦する命知らずな冒険野郎ではないのだ。 そんなことを考えて笑う。 命知らずな冒険野郎ではないが、死線は何度も潜ってきた。 どれも生還する可能性は低かった。 その中でもレオンハルトとの戦いは別格だ。 別働隊が帝都を攻略するまで戦場に押し止めなければ皇軍に勝利はない。 にもかかわらず、自分の命と引き替えにしても足止めの目処すら立たなかった。 自分を含めた数多の命を磨り潰す前提の作戦でも時間稼ぎが精々だった。 相打ち同然の状況に持っていけたのは奇跡にも等しい出来事だった。 もちろん、それは奇跡などではない。 だが、それでも、自分達は奇跡を――現実味のない可能性を引き寄せたのだと思いたくなる。 それはさておき、自分の命のみならず他人の命まで懸けたことを考えれば命知らずな冒険野郎の方がよほどまともに違いない。 だから、この息苦しさは当然というような気もする。 やがて、嘘のように息苦しさがなくなり、クロノは目を覚ました。 ぼんやりと天蓋を眺める。 そこはクロノに寝室としてあてがわれたアルフィルク城の一室――かつてラマル五世が使っていた部屋だった。 右を見て、左を見て、また天蓋を見上げる。 強い既視感を覚えた。「坊ちゃま、無視はいけません」「そうじゃぞ。いくらワシらが人生経験豊富といっても限度がある」 右からマイラの声が、左から神官さんの声が響いた。 小さく溜息を吐く。 二人ともいい歳、もとい、人生経験豊富なのにどうして子どもっぽいのだろう。 というか、息苦しさは二人が原因なのではないかとさえ思った。「どうして、二人が僕のベッドに寝てるんですか?」「奥様がお呼びでしたので、こっそり忍ばせて頂きました」「酒はないかとほっつき歩いていたらマイラを見かけてな。面白そうだったから一緒にベッドに忍んでみたんじゃ」 マイラはしれっと、神官さんは笑いを堪えているかのような口調で答えた。「ティリアは何か言ってた?」「いえ、何も……。強いていえばそろそろ仕事を手伝って欲しいとのことです」「何もじゃないよ、それ」 クロノは深々と溜息を吐いた。 あと、と続ける。「その言い方だと僕が仕事をサボってるみたいだよ」「まさか、お主――仕事をしているのか?」「まさかって、普通にしてますよ」 クロノはちょっとだけムッとして答えた。 すると、マイラが体を起こした。 ややあって、神官さんが体を起こす。「神官様、坊ちゃまは会議に同席したり、部下の方の見舞いに行ったり、帝都を見回ったり、苦情を聞いたり、それはそれは忙しく活動していらっしゃいます」「うむ、ワシが悪かった。お主、すごく働いとるの。駄目じゃぞ。そんなに働いたら。もっと人生をエンジョイしなければ」「どうしろと」 さてと、とクロノは小さく呟く。「……マイラ」「何でしょう?」「そろそろ、放して下さい」「何を放せばよいのでしょう?」「手を……」「手を何から放せば?」「……マイラ」「分かりました」 もう一度名前を呼ぶと、マイラは渋々という感じで手を放した。「しかし、安心しました」「一応聞くけど、何に安心したの?」「レオンハルト様と死闘を繰り広げたので心配していましたが、坊ちゃまはとても元気でいらっしゃいます。これならば私も期待できます」 ふふふ、とマイラが笑い、クロノは深々と溜息を吐いた。※ マイラが扉を叩く。 ティリアが仕事をする執務室の扉だ。 しばらくして、入れ! という声が響いた。 マイラが扉を開けて中に入り、クロノもその後に続く。 ティリアは机に向かっていた。 カリカリという音が響いているので書類に署名をしているのだろう。 『だろう』というのは机に置かれた書類の山のせいで手元が見えないからだ。 カリカリという音が止み、ティリアが顔を上げる。 何故だろう。 落ち着かない気分になる。「クロノ、前に……」「分かった」 ティリアが囁くような声音で言い、クロノは足を踏み出した。 執務室の中程まで行くと、背後からバタンという音が響いた。 扉を閉める音だ。 肩越しに背後を見ると、マイラが扉の前に立っていた。「何か?」「……何でもないよ」 クロノはやや間を置いて答えた。 絶対に逃がさない。 そんな強い意思を感じる。 国政に携わった経験がないが、自分なりに仕事をしている。 そのつもりだったが、自分なりに頑張っているでは駄目だったようだ。 どんな無茶振りをされるのだろう。 足が震える。「遅かったな」「寝汗を拭いてて」「そうか」 ティリアが優しげな表情で頷き、立ち上がった。 ゆっくりとこちらに近づいてくる。 心臓の鼓動が速まる。 ティリアはクロノの前で立ち止まり、可愛らしく小首を傾げた。「どうした? 汗を掻いているぞ?」「ちょっと暑いのかも知れない」「そうか?」 ティリアは訝しげな表情を浮かべ、天井を見上げた。 天井を見上げて暑さが分かるのかと思ったが、口にはしない。「それで、そろそろ仕事を手伝って欲しいとのことですが……」「どうして、丁寧な言葉使いなんだ?」「いや、何となく……」「まあ、いい。だが、その前に言っておくことがある」 ティリアは口を閉ざし、咳払いをした。「実は……。妊娠した」「――ぐぼッ!」 クロノはその場に膝を屈した。 ティリアの拳がストマックを打ち抜いたのだ。 軽く咳き込みながら顔を上げる。「お前の子だぞ?」「ま、まま、まだ何も言ってないんですが?」「そうだったな。妊娠して気が立っているのかも知れない」 ティリアはにっこりと笑うと跪いた。 優しくクロノの肩に触れる。「結婚するぞ。答えは『はい』だけだ」「はい、分かりました。結婚して下さい」「よかった。これで皇配として仕事ができるな。まあ、いずれは……」 ティリアは意味深な笑みを浮かべ、指先でクロノの顎に触れた。 そして、唇を近づけてきた。