第9話:夜襲
第9話:夜襲
※ 戦闘における戦死者は騎兵百、歩兵三百、弓兵百……重軽傷者を含めれば一個大隊に匹敵する損害を被ったことになる。 その殆どが敵騎兵によるものであり、近衛騎士以外の大隊長と副官クラスは半分に数を減らしている。 数字の上では絶望的って訳じゃないけど、とクロノは副官を伴いながら本陣の裏手を歩いていた。 本陣の後方に設置された野戦病院……解体した柵とテントを組み合わせた天幕が並んでいるだけだが……にはそれ以外の臭いを感じられなくなるほど濃密な血臭と耳を覆いたくなるような兵士の呻き声が満ちていた。 ベッドはない。兵士は地面に敷いた布の上に寝かされているのだ。 腕を失った者、足を失った者、腹を大きく切り裂かれて泣き叫ぶ者、同じように腹を裂かれながら黙って虚空を睨む者……野戦病院の空気は絶望に染まっている。 そんな絶望に抗うようにクロノがエラキス侯爵領から連れてきた医者達は患者の間を駆け回っていた。「……クロノ様」 両手を血に染めた医者はクロノを見るなり、申し訳なさそうに顔を伏せた。「僕は軽傷だから治療は必要ない。君は……亜人も、人間も、貴族も、平民も分け隔てなく治療するんだ。僕が、いや、君が守るべき命令はそれだけで良い」「申し訳ありません!」 そう言って、医者は自分の仕事をするためにクロノに背を向けた。『大将、肩は大丈夫なんで?』(ぶもぶも)「動かすと、グキグキ鳴るけど……多分、大丈夫」 肩を脱臼させたのも、力任せに嵌め込んだのもミノさんなのだが、ここは恨み言を呑み込むべきだろう。『……こめかみの傷も』「ハゲないか心配だ」 こめかみに触れると、パラパラと乾いた血が落ちた。 クロノは足下を確かめながら丘を登った。『大将、あっしらの陣地とズレてますぜ?』(ぶも?)「戦術会議に呼ばれてるから、こっちで良いんだよ」『今回の一件でようやく認められたってぇことですかい?』(ぶも?)「大隊長と副官が戦死して、落ち零れを遊ばせておく余裕がなくなったんだよ」『じゃ、あっしはクロノ様の代わりにみんなの様子を見て来るんで』(ぶも)「待って、待って!」 クロノは回り込んで、副官を呼び止めた。「僕の副官なんだから、ミノさんも戦術会議に参加してくれないと困るよ」『大将、あっしは亜人ですぜ?』(ぶも?)「僕は異世界人だよ?」 クロノは野営陣地に戻ろうとする副官を必死で説得した。『……分かりやした』(ぶも) 副官は疲れ果てたように頷いた。「戦術会議で夜襲を提案するつもりなんだけど、イケるかな?」『そりゃあ、こっちにゃ亜人が揃ってるんでやれと言われればやりますぜ』(ぶも~) けど、と副官はクロノを見下ろしながら言い淀んだ。『夜襲なんてマネをしたら、卑怯者呼ばわりされちまいやすぜ』(ぶもぶも)「それは構わないよ。僕が心配していたのは夜襲ができるかどうかだけだから」 夜襲が可能であれば実行するだけだ。『大将、あっしが言うのも何ですがね。貴族ってもんはもう少し誇りや面子にこだわるもんですぜ』(ぶも~)「僕は貴族の誇りってヤツが今一つ分からないんだよね」 いや、正々堂々と戦うことが貴族らしさというのは分かるし、貴族らしさのために命を賭けなければならないのも分かるつもりなのだが、どうしても感覚的に理解できないのである。「少しでも犠牲を減らすために知恵を絞って、それで貴族らしくないとか、卑怯者と呼ばれるんなら、受け容れるしかないね」『そこまで言い切られちまうと、いっそのこと清々しいですぜ』(ぶもぶも) クロノと副官は丘を登り、戦術会議が開かれている天幕に向かった。「何故、亜人が戦術会議に来ているのかね?」「ピスケ伯爵、彼は僕の副官です。それに戦術会議に亜人が参加してはならないという規則はなかったはずです」 詭弁以外の何物でもなかったが、ピスケ伯爵は舌打ちして黙り込んだ。 天幕の中ではレオンハルト、ピスケ伯爵、レオの墓で暴言を吐いた男、二人の男が机を囲むように立ち、その後ろには副官が控えている。 特に目を引いたのがピスケ伯爵の背後に立つ女騎士である。 年齢は軍学校を卒業してから何年も経っていないくらいだろう。 短く揃えられた金髪は皮脂で汚れ、塗れたように光っている。「諸君も知っての通り、我々は今日の戦闘で五百名の戦死者を出した。その中には大隊長が三名、副官が四名……戦死した副官の一人は私の部下なのだが……も含まれている」 ピスケ伯爵の後ろで女騎士が薄く微笑んだ。 上司が戦死したお陰で昇進できたのだから笑いたくもなるだろうが、もう少し場を弁えて欲しいものである。「隊長と副官が戦死した大隊は一時的に近衛騎士団預かりとして再編成し、レオンハルト殿の第一近衛騎士団と私の第十二近衛騎士団が入れ替わる形で配置し直す」「最善を尽くさせて頂く」 レオンハルトが宣言すると、誰もが安心したように息を吐いた。 隊の配置を変更するのは妥当な判断だ、とクロノも思う。「あの、これで戦術会議って終わりですか?」「クロノ殿、何か意見でも?」 レオンハルトが言うと、全員の視線がクロノに集中した。「……今日の戦闘の結果から部隊の再編成と配置変更をするのは分かるんですけど」「あら、レオンハルト様の実力を疑っていらっしゃいますの? レオンハルト様はパラティウム公爵家の嫡子にして比類なき剣と神威術の使い手ですわ。その実力は貴方の父君である 殺戮者 ( スローター ) クロードを凌駕するほどですのよ」 ピスケ伯爵の副官はレオンハルトを褒め称えた。 レオンハルトを引き合いにしてクロノを馬鹿にしているだけかも知れないが。「クロノ殿、私を信じてくれないだろうか?」「信じるとか、信じないとか、そういう感情的な話をしてるんじゃなくて」 どう話を切り出したものか、クロノは途方に暮れた。 レオンハルトが信頼されるだけの戦功を積んでいるのは分かるのだが。 まあ、開き直るしかないよね。「……僕は神聖アルゴ王国軍に対する夜襲を提案します」「何を考えていらっしゃいますの!」「そうだ! 夜襲など貴族の誇りはないのか!」「この卑怯者め!」 クロノが言うと、ピスケ伯爵の副官と二人の大隊長は身を乗り出して叫んだ。「亜人を率いていると、頭まで卑しくなるんだな」 最後のは腕を吊った大隊長……レオの死を汚した男だったが、クロノは辛うじて自制した。 もっとも、機会があったら必ず殺そうと決意を固めていたが。「僕は合理的な提案をしているだけです。確かに、レオンハルト殿ならば深紅の騎兵と互角に戦えるでしょう。けれど、指揮官は勝つためにありとあらゆる手を打つべきだと思います。少なくとも、僕はそのように父から教わりました」「ふむ、クロード殿の言葉ならば一理ある」 嘘である。クロノは養父から剣術の基礎を物理的に叩き込まれたくらいなのだが、そうと知らないレオンハルトは神妙そうに頷いた。「敵が策を弄しようとも、それを正面から打ち砕くのが貴族ですわ!」「そういう台詞は自分が矢面に立ってから言うべきだと思うな」 軽口を叩くと、ピスケ伯爵の副官は鬼のような形相でクロノを睨んだ。「成り上がり者の息子に貴族の何が分かるんですの?」「……分からないよ」「当然ですわ。爵位を与えられたと言っても、成り上がり者の、いいえ、卑しい傭兵の息子に貴族の誇りが理解できるはずありませんもの」 ピスケ伯爵の副官が視線を巡らせると、ピスケ伯爵とレオンハルト以外は追従の笑みと共に頷いた。「うん、僕は君の言う貴族の誇りってヤツが理解できない」 だからさ、とクロノは悪意たっぷりの笑みを浮かべた。「野戦病院で死にかけている兵士に今の演説を聞かせてやってくれないかな?」「な、何を仰ってますの?」「だから、腕や足を失った兵士に、腹を……内臓まで斬り裂かれて死を待つだけの兵士にさ。貴族の誇りってヤツを教えてやりなよ。被害を抑えて戦う方法があるけれど、私は貴族の誇りのために兵士を無駄死にさせますって」 クロノは自分の頬が引き攣るのを自覚しながら笑みを深めた。「そんなこと、意味がありませんわ!」「そうだね。死んでいく兵士にとって貴族の誇りなんて銅貨一枚の価値もない」 コン、コンとクロノは指先で机を叩いた。「要するに、僕は貴族の誇りなんて言葉を持ち出して指揮官としての義務を怠らないで欲しいだけなんだよ」 ああ、とクロノは何度も頷いた。「僕の部下にフェイって子がいるんだけど、君は彼女によく似てるね」「わ、わたくしの何処が馬糞女に似てると仰いますのっ?」「別に」 ヒステリックに喚く彼女を無視して、クロノはピスケ伯爵に視線を向けた。 ここでフェイの名前を出されるとは思わなかったのか、ピスケ伯爵は苦虫を噛み潰したような顔をしている。「エラキス侯爵、勝算はあるのかね?」「もちろんです。夜目の利く亜人で部隊を編成し、スムーズに連携するためにこれを使います」 ピスケ伯爵に尋ねられ、クロノは透明な球体……通信用のマジックアイテムを取り出した。「随分と用意周到なことだ」「夜襲の計画……そう呼べるほど大したものじゃありませんが、夜陰に紛れて敵の陣地に接近し、本隊が騒ぎを起こしている間に別働隊が糧秣を焼き払います」「ふん、糧秣がなければ戦闘を継続できないという訳か」「腹が減っては戦はできぬ。これって国も、時代も、世界すら問わない真実だと思いますよ」 不快そうに鼻を鳴らすピスケ伯爵にクロノは笑みを浮かべて答えた。「……チッ」 ピスケ伯爵は舌打ちし、苛立たしげに爪を噛んだ。 自己保身とか考えてるんだろうな、とクロノはピスケ伯爵を見つめた。「……この問題については議論の必要があるようだ。レオンハルト殿、エラキス侯爵とその副官以外の者は明日に備えて鋭気を養って欲しい」 人払い、それがピスケ伯爵の下した結論だった。「じょ、冗談じゃありませんわ! 夜襲なんて……っ!」「セシリー、私は鋭気を養えと言ったのだ。それとも、副官ではなく、厩舎の掃除係がお望みかね?」「命令に従いますわ!」 降格人事を示唆され、ピスケ伯爵の副官……セシリーはこれまた鬼のような形相を浮かべて天幕から出て行った。 他の大隊長も面白くなさそうだが、セシリーのように逆らうようなマネはしない。 レオンハルト、クロノ、副官のミノさんが残った天幕を見渡し、ピスケ伯爵はどっかりとイスに腰を下ろした。「エラキス侯爵、君の目から見て戦況はどうかね?」「ミノさん、どう?」『そこであっしに振るんですかい?』(ぶも?) 副官は驚いたように目を見開き、深々と溜息を吐いた。『……発言を許してもらえやすか?』(も~?)「まさか、亜人の言葉に耳を傾ける羽目になるとは……まあ、構わん。これだけの毒を盛られたのだ。少しくらい毒が追加されたくらいで差などない」 ピスケ伯爵は心の底から嫌そうな顔をして発言を促した。『あっしの目から見ても状況は芳しくありやせんね。今日の戦闘は勝ちやしたが、こっちは戦力を補充ができないってのに、相手は戦力の補充をし放題でさ。おまけに士気も低いとなりゃ、夜襲でも何でもして、さっさと街を攻め落とすしかありやせん』(ぶもぶも、ぶ~も)「僕もミノさんと同じ意見です」 副官が疑いの視線を向けるが、クロノは胸を張った。「レオンハルト殿は?」「この場を凌ぐというのであれば隊の配置換えで構わないが、目的を達成するためには臨機応変に対処するしかあるまい」 レオンハルトが夜襲に肯定的だと思っていなかったので、クロノは目を見開いた。「どうかしたのかね?」「いや、レオンハルト殿は貴族の誇りとか言い出すと思ってたから」「私一人が矢面に立つのならば最後まで意地を張り続けるのだがね。部下の命が掛かっている以上、それにも限度があるというだけの話だよ」 ピスケ伯爵は探るような視線でクロノを見つめた。「……私は貴族として夜襲を全面的に認める訳にはいかん。だが、行動を黙認することならできる」「つまり、勝手にやったことにしろと?」「それは些か都合が良すぎるのではないかね?」 クロノとレオンハルトが指摘すると、ピスケ伯爵は何も言い返せずに俯いた。 いや、物は考えようだ、とクロノは思い直した。「分かりました」「クロノ殿!」「おおっ、エラキス侯爵!」 レオンハルトは窘めるように、ピスケ伯爵は嬉しそうにクロノを呼んだ。「いや、無償じゃないですよ。作戦が成功した場合でも、失敗した場合でも負傷した部下に最高の治療と相応の報酬を約束して欲しいんです」「きゅ、宮廷貴族に過ぎない私に金など出せるか!」「嘘を吐いちゃダメだよ、ピスケ伯爵」 クロノが振り向くと、リオが天幕の外に立っていた。「な、何のことだか」「おや、ボクが知らないとでも思ってたのかい?」「分かった! 夜襲に参加する兵士に最高の治療と報酬を約束する!」 リオが朗らかな笑みを浮かべると、ピスケ伯爵は悲鳴じみた声を上げた。「ならば、このレオンハルトが証人になろう」「だったら、ボクも証人にならなきゃね」 二人の同僚に言質を取られ、ピスケ伯爵は力なく項垂れた。※ 細々とした内容を詰め、クロノは副官とリオを引き連れて部下の元に戻った。 食事を終え、部下達は焚き火を取り囲んで休憩中のようだ。 何やら、部下の人数が増えているような気がしてクロノは目を細めた。 細かな人数は分からないが、三割くらい部隊が大きくなっているような気がする。「ミノさん、こんなにボクの部下はいただろうか?」『大隊長と副官が死んで、そこにいた亜人が流れ込んだだけでさ』(ぶもぶも) 言われてみれば、粗末な装備の亜人がいるような気がする。『大将が休憩中に部下に声を掛ける姿を見てりゃ、普通はこっちに流れて来ますぜ』(ぶもぶも)「軍隊がこんな感じで良いのかな?」 クロノは首を傾げ、リオを見つめた。「リオも自分の騎士団を放置して良いの?」「副官に任せているから大丈夫さ。ああ、誤解しないで欲しいんだけど、副官はボクの家で執事として働いていてね。ボクが信用している数少ない人物なのさ。という訳で、ボクも夜襲に参加するよ」「……ミノさん、僕は天幕に荷物を取りに行くから百人隊長を招集、夜襲に参加するメンバーを選んでおいて。それから、鎧と剣、機工弓をリオに渡してね」 クロノは二人と別れ、自分の天幕に向かった。 大きな木箱から荷物を取り出して隅を突くと、ガコンと箱の底板が外れる。 そこにあったのは大量の金貨とワインの瓶だ。「……割れてなくて良かった」「何が割れてないんだい?」 瓶を手に取って振り向くと、女将がトレイを片手に立っていた。「ああ、女将か」「大金を持った貴族様にほっとした顔をされると、反応に困っちまうね。それにしても戦場に金貨を持ってくる必要なんてあったのかい?」「まあ、あって邪魔になるもんじゃないから」 クロノは金貨を一枚手に取り、親指で弾いた。「お金があれば敵地で物資を購入できるかも知れないし、部下が捕虜になった時に身代金を払えば解放してもらえるかも知れないしさ」「それだけ悲観的に物事を考えられるくせにあたしが盗むとは考えないのかい?」 クロノは金貨を指で弾き、「盗むつもりなの?」「そのつもりなら最初から声なんざ掛けないよ」 なるほどね、とクロノは底板を元の位置に戻して私物を箱に収めた。「で、晩飯はどうするんだい?」「ミノさんは?」「力ずくで食わせてきた所だよ。クロノ様も食わされたくなけりゃ、きちんと食べるんだね」 クロノはパンとスープを胃に流し込み、乱暴に口元を拭った。「もう少し手の込んだ料理を作ってやりたいんだけどね」「まあ、こればかりはね」 肩を竦め、クロノは天幕の外に出た。 部下の所に戻ると、副官、リオ、デネブ、アリデッド、リザド……レオの代わりに百人隊長に昇進した 人虎 ( ワータイガー ) のタイガがクロノを待っていた。 クロノは少し離れた場所に整然と並ぶ部下達を見つめ、恐怖に足が震えるのを自覚しながらも胸を張った。「ミノさん、人選は?」『へい、あっしらミノタウルスは他の獣人に比べて夜目が利かないんで、ホルス隊は待機させやす。デネブとアリデッド、タイガは自分の隊を、リザドは温石のお陰で動けるってんで、荷車を引かないリザードマン三十四人と流れ込んできた五十名を合わせた隊の指揮をさせやす。あっしは新しく加わった獣人とエルフの混成部隊の指揮をするんで』(ぶもぶも)「混成部隊の内訳は?」『獣人が七十、エルフの弓兵が三十でさ』(ぶもぶも) 四百八十四人……これだけの人数で戦いを挑むなんて正気じゃないね、とクロノは引き攣った笑みを浮かべた。「……これから夜襲を仕掛けるんだけど、その前に」 クロノは近くにあった樽を転がして水をぶちまけ、泥濘と化した地面に飛び込んだ。 全身に泥を浴びて顔を上げると、「あの、クロノ様?」「ちょっと、頭が残念なことに」 デネブとアリデッドが憐れむような視線を向けていた。「なってないよ! これは全身に泥を塗して目立たなくしてるんだよ! みんなも泥で全身をコーティング! 手の空いてる連中は近くの枯れ草を刈って紐を準備! 時間は待ってくれないよ!」「ええ~、あたしらは別に……ぎゃっ!」 クロノは蟹挟みの要領で双子の片割れを泥に引きずり込んだ。「ちょ、ちょっと、胸、胸を掴まないで!」「割と胸があるね」 クロノの本気を悟ったのか、泥に引きずり込まれたくなかったのか、部下達はいそいそと泥で全身をコーティング、枯れ草でカモフラージュすると、枯れ草のオバケが整然と並ぶという光景が広がっていた。「……もう、これは親に見せられない姿だね」「斜面に身を隠しつつ、草に紛れて進むよ!」※「国境砦の援軍はなかったが、戦に不確定要素は付き物だ。敵に甚大な損害を与えたことを考えれば作戦は成功だったと言えるだろう」 葡萄酒 ( ワイン ) を傾ける神祇官を横目にイグニスの気分は落ち込む一方だった。 敵に甚大な損害を与えた代償に弓兵五百、歩兵五百、騎兵百を失っているのだ。 戦闘に耐えられない傷を負った者を含めれば被害は五割増になるだろうか。「明日の夕刻には補充の兵士が到着する手はずになっている」「……」 せめてもの救いは兵士の補充が容易なことだが、農民を兵士に仕立てている以上、税収が大幅に減ることを覚悟しなければならない。 イグニスは楽観的要素を並べ立てる神祇官から逃げるように天幕を後にした。「……やはり、部下が死ぬのは慣れんものだな」 自分が囮となり、斜面に隠れて接近した部下が敵本陣を襲撃する。 途中までは上手くいっていた。 いや、上手くいかなくても百人も部下を失うはずがないと考えていた。 だが、蓋を開けてみれば百騎の重騎兵は全滅した。「帝国が新しく開発した魔術か?」 板金鎧 ( プレートメイル ) を貫通する魔術……そんな物が開発されていたら、戦争のあり方が一変する。 その変化に対応できなければ神聖アルゴ王国はケフェウス帝国に滅ぼされるか、属国にされるだろう。「いや、明日の戦闘に勝ってから考えるべきだな」 イグニスは自分の天幕に向かった。※ 神聖アルゴ王国軍の野営陣地は丘陵地帯に突きだした森に隣接するように設けられていた。「案外、見つからないね」「……こんな格好をさせられて、あっさりと見つけられたら目も当てられないんじゃないかな? おまけに這い蹲って敵陣に近づくなんて、これはボクの知っている戦争じゃないね」「数百年後はこれが世界標準になるから大丈夫だよ。多分、僕らは世界の最先端を突っ走っている」 敵陣まで百メートル弱……見張りの兵士が歩き回っているが、練度が低いのか、偽装が上手くいっているのか、こちらに気づきもしない。「で、どうするんだい?」「僕とリオ、ミノさん、リザド、タイガは敵陣に突っ込む。デネブとアリデッドは森に潜んで、ひたすら敵を狙い撃つ。デネブ、アリデッド、所定の位置に着いたか?」『しょ、所定の位置って?』『裏手の森に辿り着けたけど?』 デネブとアリデッドの困惑したような声が通信用マジック・アイテムから響いた。「デネブ、アリデッド……合図をしたら、見張りの兵士を射殺せ。その後、僕らは大声を上げて敵陣に突っ込むから、デネブとアリデッドの部隊は森から本隊を援護。敵と戦う時は常に複数で、炎の魔術が使える者は手当たり次第に火を付けろ。ただし、女と負傷者に手は出さないこと」「おやおや、随分とお優しいことで」「女を殺そうとしたら敵が死にもの狂いで反撃してくるかもしれないし、負傷者はいるだけで治療やら何やらで敵の負担になるからだよ」「前言撤回、クロノは悪魔の類だね」 クロノが言うと、リオは引き攣った笑みを浮かべた。 地面に伏せたまま、クロノは舌で唇を湿らせた。「……今だ!」『『了解!』』 デネブとアリデッドの声が響き、高速で飛来した矢が見張りの兵士の頭を貫いた。少し視線を傾けると、矢で射抜かれた見張りの兵士がゆっくりと倒れる所だった。『行……って、大将!』「行くぞ、僕に続け! うらぁぁぁぁぁぁぁっ!」 クロノは剣を抜き放ち、敵陣に向かって走った。『た、大将、生き急ぎすぎですぜ!』(ぶも~っ!)『……走る』『走るでござる!』(がう)「いや、もう、理解を超えてるね」 ぶも~っ! シャーッ! ゴオォォォォッ! ウラーッ! と部下の叫び声が圧力を伴ってクロノの背を押す。 ようやく声に気づいたのか、天幕から寝ぼけ眼の兵士が出てくる。 全力で走るクロノの隣をタイガが通り過ぎた。 次々と部下に追い抜かれ、あっという間にクロノは先頭集団から脱落した。 リザド隊に追い抜かれないようにするだけで精一杯だ。 運動能力の差を噛み締めたその時、タイガが大剣を振り下ろした。 亜人の膂力で振り下ろされた大剣は敵兵の右肩から鳩尾までを切断、『炎よ!』(がぅっ!) 膨れ上がった炎が兵士の体を二つに引き裂いた。「敵襲! 敵……グギャッ!」 必死に叫ぶ敵兵の頭が落ちる。 タイガの一撃で首を切断されたのだ。 だが、敵兵の命を賭けた行為は無駄にならなかった。 異変を察知した敵兵が天幕から出てきたのだ。 そこに獣人達が雪崩れ込んだ。 鎧も身に付けていない敵兵は獣人達にとって格好の獲物だった。 クロノが辿り着いた時、敵陣の一角は死体で埋まっていた。『大将、肝を冷やしましたぜ』(ぶも~)「ごめん」 クロノは何となく居心地の悪さを感じて剣を鞘に収めた。『予定通り、火を付けろ!』(ぶも~)「 焔舞 ( ほむらまい ) !」「炎弾乱舞!」 副官の命令に従い、二人のエルフが炎の魔術を放った。 一つは派手な音と炎を撒き散らす魔術、もう一つは無数の炎を標的にぶつける魔術だ。「風が欲しいね」「 旋舞 ( つむじまい ) !」 クロノが呟くと、エルフの女性……デネブとアリデッドと話していた女性だ……が魔術を使った。 旋風が炎を煽り、火の粉が天高く舞い上がる。「ありがとう」「……いえ」 クロノが耳を撫でると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。「さて、敵陣を突っ切って森まで急ぐよ」 クロノ達は一丸となって敵陣を駆けた。 時間が経つにつれ、敵兵は冷静さ……鎧を身に付ける程度の判断力を取り戻しつつあったが、それは全体の半数程度だ。 残る半数は呆けたように立ち尽くしたり、逃げ惑うだけだった。『大将、おかしくありやせんか?』(ぶもぶも)「誘われてるのかな?」 副官は混成部隊を指揮しながら十人ばかりの敵兵を屠っている。 タイガ隊とリザド隊は五百人以上の敵を殺しているのだが、部下から死者が出たという報告は受けていない。 わざとクロノ達を誘い込んで、退路を断つ。 そんな想像が脳裏を掠めるが、策を弄している割に敵の動きはグダグダだ。「試してみよう」『どうするんで?』(ぶもぶも)「敵は糧秣を狙っているぞ! 糧秣を守れ!」「敵は糧秣を狙っているぞ!」「急げ! 守りを固めるんだ!」 クロノが副官の陰に隠れて叫ぶと、呼応するように敵兵が叫んだ。「どうも、僕らみたいに通信手段を持ってないみたいだね。デネブ、アリデッド、敵が糧秣を守りに移動してるから狙い撃って。それから、伝令っぽいヤツも念のため」『言われなくても撃ってるし!』『つーか、遮蔽物が多くて狙いづらいし!』 デネブとアリデッドの殺気だった声が響く。「敵は混乱してるっぽいけど、注意深く突っ走れ!」『了解でござる』(がお)『……了解』 目的を敵の殺傷から撤退に切り替え、クロノ達は森を目指した。 だが、そこで獣人族……種族による運動能力の差と他所の大隊の兵士を連れてきたことが裏目に出た。 一塊になって突き進んでいたはずなのに、いつの間にか縦に長く伸びていたのだ。 元からいる部下は充実した装備と練度の高さで持ち堪えられたが、新しく部下になった亜人は違う。 最初に脱落したのは一人のリザードマンだった。 彼は横合いから飛び出してきた無数の槍に胸を貫かれて絶命した。 どうやら、敵は真っ正面から阻むのではなく、物陰から攻撃して本隊を分断する方針に切り替えたようだ。 この戦術は地味ながらも非常に効果的だった。 一人、また、一人と部下になったばかりの亜人が倒れていく。 敵と味方の死体の脇を駆け抜けながら、クロノは自分の見通しの甘さに首を掻き切りたい衝動に駆られた。 夜襲をすれば部下の犠牲を少なくできる。 そう判断した結果、死ななくて済む部下を死に追いやってしまった。「デネブ、アリデッド! 援護は!」『さっきから必死にやってるけど!』『敵の数が多すぎるんだってば!』「だったら、撤退状況は!』『タイガ隊とリザド隊が踏ん張ってる! けど、けど!』『どんどん敵が来るし、遮蔽物に隠れられて狙い撃てないし!』 クソ、泣き言なんて聞きたくないのに! とクロノは心の中で吐き捨て、リオがいることを思い出した。「リオ! リオはそっちにいるか!」『……ここにいる』(しゅー)「代われ!」『やあ、クロノ! こっちはこっちで大変だけど、そっちはどうだい!』 怒鳴りつけるようにリザドに命令すると、お気楽な感じでリオが答えた。「リオは敵陣を抜けて、デネブ、アリデッド隊と合流! 神威術で敵が潜んでそうな所を吹き飛ばして!」『分かったよ! ボクが抜ける分、少しキツくなるけど……生き延びておくれよ』「縁起でもないことを……ひぃぃっ!」 横から飛び出した槍をクロノがブリッジで躱すと、副官がポールアクスを振り下ろして敵兵の頭をかち割った。『大将、油断しないで下せえ! 夜襲が成功しても大将が死んじまったら、あっしらの敗北でさ』(ぶも~)「さ、最初から油断なんてしてない!」 クロノは無様に地面を転がりながら敵の槍を躱し、奇声を上げながらでたらめに剣を振り回した。 ろくすっぽ刃も合わせずに振り下ろしたせいで、撲殺に近い状態……頭が変形し、眼球が飛び出してしまったが、クロノは小便を漏らしそうになりながら走り続けた。 それから間もなく、クロノはリオの言葉の意味を実感した。 横から飛び出してくる敵の数が増え、倒れる部下の数が増えたのだ。 そこにはゴルディ特製の鎧を着た部下も含まれている。 どうやら、リオはクロノが見ていない所で大活躍していたらしい。『大将!』(ぶも!)「分かってる! けど、リオを信じるしかない! リオは……ビッチっぽいフリをしてるけど、最高の女だ!」『お、男ですぜ!』(ぶも~!) クロノと副官が半ばパニック状態で喚いていると、笛の音のような音が響いた。 緑の光が少し離れた場所にある天幕に突き刺さり、光が炸裂した。 まるで戦争映画のワンシーンのように敵兵が多量の土砂と共に天高く舞い上がった。 グシャと地面に叩きつけられた敵兵はぴくりとも動かない。 目と鼻、耳から血を垂れ流して死んでいた。『ビッチはないんじゃないかな?』「リオ最高! 愛してる!」『いや、良いけどね』 リオの援護によって戦況は一変した。 何しろ、物陰に潜んでいる敵兵をリオが神威術で根こそぎ吹き飛ばしてくれるのだ。『こっちでござる!』(がうっ!) タイガが敵兵を切り倒しながら、クロノに向かって叫んだ。 森は目と鼻の先だ。 思いっきり駆け抜ければ十秒と掛からずに安全な場所に逃げられる。『大将!』 副官の叫びにクロノが振り向くと、エルフが敵兵に行く手を阻まれていた。 クロノが耳を撫でたエルフだ。 彼女はクロノを見つめ、諦めるように視線を逸らした。 まるでエルフのために命を賭けるはずがないと確信しているかのように。「……っ!」 クロノは走った。森ではなく、エルフに向かって。 馬鹿なことをしていると思う。 それでも、それ以外に自分を信じてくれた部下に報いる術をクロノは知らなかった。「天柩神楽!」 漆黒の球体が敵兵の頭を消滅させる。 けれど、安心はできない。 まだ、敵は三人もいるのだ。 クロノは敵兵の背中に短剣を突き立てる。 助けに来ると思っていなかったのか、残る二人は驚いたように目を見開いた。 クロノは脊椎を破壊されて小便と大便を垂れ流す敵兵を二人に突き飛ばした。 二人が反射的に戦友を抱き留めた隙にクロノは長剣で敵兵の首を刺し貫く。「炎弾乱舞!」 炎の塊が生き残った敵兵を包み込んだ。松明のように燃え上がった敵兵は地面を転げ回り、しばらくして動きを止めた。 クロノは煙を上げる敵の首筋に剣を突き立てて止めを刺すと、エルフに向かって手を差し伸べた。 お陰で助かったよ。 そんな台詞を吐こうとした瞬間、クロノは強烈な力で地面に引きずり倒されていた。 副官がクロノを庇うように地面に伏せたのだ。 そして、クロノは炎がエルフを飲み込む光景を見た。 悲鳴すら焼き尽くされ、彼女は身を捩るように倒れた。「ミノさん、離せ! まだ、まだ、助けられる!」『間に合いやせん! あの娘は死んだんで、死んじまったんで!』(ぶもぉぉっ!) あ、と手から力が抜けた。 どうして? どうして、こんなに僕は弱い? 異世界から召喚されるのは特別な力を持った人間じゃないのか? どうして、剣も、魔術も、まともに使えない? どうして、女の子一人すら守りきれない?「こんな所で再会するとはな」 天幕の影から男が姿を現した。 年齢は三十を過ぎたくらい。 顔に見覚えはないが、熱風に揺れる右袖が彼の正体を雄弁に物語る。 去年の五月、神聖アルゴ王国軍を率いていた男だ。『大将、あっしが時間を稼ぎやす』(ぶも)「いや、ここは貴族として引く訳にはいかない」 驚く副官を押し退け、クロノは隻腕の男と対峙した。「夜襲を仕掛けた男の言葉とは思えんな。私の名前はイグニス、イグニス・フォマルハウトだ」「僕はクロノ……まあ、これで十分でしょ」「違いない」 イグニスは愉快そうに笑い、剣を抜いた。「神よ、我が剣に祝福を!」 イグニスの剣が深紅の光に包まれる。 『祝聖刃』……信仰する神の力を刃に纏わせる神威術だ。 『真紅にして破壊を司る神』の加護を受けた刃は 板金鎧 ( プレートメイル ) を容易く溶かし切る。「抜かないのか? それとも、その瓶で戦うつもりか?」「故郷の習慣でね」 クロノは栓を抜き、興味深そうにこちらを見つめるイグニスに瓶を放り投げた。「子ども騙しか」 イグニスは緩やかな放物線を描いて飛ぶ瓶を空中で叩き切った。 変化はすぐに起きた。 イグニスに降り注いだ液体が燃え上がったのだ。「ぐ、あ……くお、目が、何を、何をした!」 クロノは短剣を拾い上げ、顔を押さえて苦悶するイグニスに体当たりを仕掛けた。「がっ!」 脇腹に深々と短剣を突き立てると、イグニスの顔が苦悶に歪んだ。 並の相手なら、ここで戦意を喪失している。 だが、イグニスは並の相手ではなかった。 クロノの首を掴み、左腕一本で吊り上げたのだ。「こ、この卑怯者が! 貴族の誇りはどうした!」「そんなもの、犬に食わせた!」「……っ!」 脇腹に突き立った短剣を捻ると、イグニスの力が緩んだ。 その隙にクロノはイグニスから逃れ、地面を転がりながら叫んだ。「ミノさん!」 ポールアクスを構え、副官が叫び声を上げてイグニスに向かって走る。「神よ!」『風よ!』(ぶも!) 赤い障壁がイグニスを守るように展開するが、副官はポールアクスをフルスイング。 均衡は一瞬。 ポールアクスは赤い障壁を打ち破り、イグニスを人形のように吹き飛ばした。 追い打ちを掛けるように放たれた風の刃がイグニスの体をズタズタに引き裂く。 地面に叩きつけられ、イグニスは動かない。「ミノさん、逃げるよ」『大将、さっきのあれは?』 副官は走りながらクロノに尋ねた。「あれ?」『瓶に入ってたあれでさ』(ぶも)「あれは単なるアルコール。余ったビールやワインを使って作ったんだよ」 アルコール? と副官は不思議そうに首を傾げた。「何人、 殺 ( や ) られた?」『……十人』(シュー)『二十人でござる』(がお)『あっしの隊はさっきのエルフだけでさ』(ぶも) クロノは森に飛び込むと、すぐに自軍の損害を確認した。 最初からリオを森に待機させておけば、入念に打ち合わせをしておけば、きちんと隊の編成を考えていれば、もう少し力があれば、と自分の見通しの甘さと無力さに後悔の念ばかりが湧き上がる。『大将、どうするんで?』(ぶも?)「……撤退するのもありだと思うけど、もう一つやってみたいことがあるんだよね」 そう言って、クロノは笑った。※ 覚醒は唐突だった。イグニスはベッドから飛び起きると、全身を苛む激痛に声もなく悶絶した。「ここは?」「野戦病院です。昨夜の襲撃者は糧秣に火を付けたりしましたが、医者や負傷者には手を出さなかったんです」「夜襲は、敵は、どうなった!」 イグニスは医者の制止を振り切って外に飛び出し、言葉を失った。 天幕が三分の一以上焼かれ、野戦病院の周辺は負傷者で溢れていたからだ。「い、イグニス将軍!」「お前か!」 男は古参兵だった。去年、イグニスと共にケフェウス帝国に攻め込み、最前線から帰還した歴戦の勇士だった。 その彼がイグニスの前で跪き、子どものように泣いていた。「……い、イグニス将軍、我々は……俺は何と戦わされているんですか?」「泣いているだけでは分からん」 イグニスが説明を求めると、彼は鼻水を啜りながら昨夜の出来事を話し始めた。 昨夜、あれから亜人どもは森の中に逃げ込んだらしい。 しばらくは何もなかった。 何度も攻め込んでくるはずがないだろう、と誰もが思っていた。 そして、悪夢は唐突に幕を開けた。 まず、見張りの兵士が足を射貫かれた。 男は射られた仲間を助けようとしたが、助けられなかった。 足を射貫かれたのだ。 男は無様に地面を這って天幕の影に逃れ、全てを目撃する羽目になった。 動けなくなった兵士は何度も、何度も矢で射抜かれた。 まるで嬲るように急所を外してだ。 駆け寄った者は例外なく射貫かれ、殺されるか、次の標的にされた。 やがて、誰も動けなくなった。 見捨てたくなどなかった。 だが、敵の矢は盾をも貫くのだ。「……仲間を、見捨てたのか」「仕方がなかったんです! 森に、潜んでいる敵を倒そうと、したヤツらもいたけど」 男は震える指を死体に向けた。 イグニスは死体に被せられた布を掴み、息を呑んだ。 猛獣に食い散らかされたように死体が損壊していた。 内臓がなかった。 口の中に眼球が詰められ、胸板には冒涜的な文章が刻まれていた。 狂っている。 恐らく、あの男が……隻眼の男が命令したに違いない。 何だ? あの男は何だ? 神聖アルゴ王国に、兵士に個人的な恨みでもあるのか? 分からない。 いや、あんなモノを理解できるはずがない。 理解して良いはずがない。 あんなモノを理解してしまったら、終わってしまう。 イグニスは呆然と立ち尽くすしかなかった。※ ピスケ伯爵……ベティル・ピスケは騎士の家系に生まれた。 領地はなく、古くから帝国に仕えていることだけが取り柄の家系である。 若かりし頃のベティルは剣の力で家を盛り立てようと修行に明け暮れた。 努力を積み重ねれば報われると信じていたのである。 そんなことを十年も信じていたのだから、若かったとしか言いようがない。 近衛騎士となったベティルは上官に媚びることを厭わなかった。 派閥があれば派閥に属し、別の派閥に乗り換えることにも抵抗はなかった。 全ては少しでも自分の地位を高めるために。 ベティルが今のようになったことに理由はない。 親友や恋人に裏切られたこともなければ、上官に捨て駒にされたこともない。 そこそこの家系出身の妻とそれなりに幸せな生活を営んでいるので、順風満帆な人生を送っているのではないか、と自分でも思う。 強いて理由を挙げるとすれば、現実を理解できる程度に歳を取ったということなのだろう。 今にして思えばフェイ・ムリファインに対する仕打ちは度が過ぎていたと思う。 努力を積み重ねれば報われると信じている姿が昔の自分と重なって辛かったと言えばそうなのだろうが……まあ、今更である。「……エラキス侯爵は上手くやったのか?」 結局、ベティルは部隊の配置を換えなかった。 正しくはアルフォートがレオンハルトを近くに置きたがったせいで配置を換えられなかったのだ。 その気持ちは分からなくもないが、あの騎兵と戦わなければならない自分のことを考えて欲しい。 敵兵の数は昨日に比べて減っているようだが、エラキス侯爵が戻っていないので、夜襲が成功したか分からない。「ええい! 撃ち方止め! 私に続け!」 半ば自棄になって馬を走らせると、二百騎あまりの騎兵が追従する。 かなり遅れて、他の騎兵が動いた。 ベティルは泣きそうだった。 集団で突撃してこそ 騎乗突撃 ( ランスチャージ ) が真価を発揮するのにそれすらも期待できないのだ。 それでも、馬を止めれば狙い撃たれてしまう。 ベティルは必死に馬を走らせるしかなかった。 斜面を駆け上がり、あることにベティルは気づいた。 敵兵がベティルを見ていないのだ。 わずかに視線を巡らせると、敵兵の視線の先に異様な集団が立っていた。 端的に言えば、草のバケモノだ。 草のバケモノ……その一匹が剣を掲げて走り出すと、他のバケモノも鬨の声を上げて走り出した。 もう頭がおかしいとしか思えない光景である。 だが、「あ、亜人どもだ!」「クソッ、あ、悪魔どもめ! あれだけ殺して、殺したりないのか!」「ぎ、ぎひゃ!」 横殴りの雨のように矢が敵兵に突き刺さる。 なるほど、とベティルは納得した。 突っ込んできたのは中央にいた草のバケモノ……あれがエラキス侯爵なのだろう……だけで弓兵はかなり離れた位置に布陣している。 同士討ちを避けるためにあのような配置にしているのだろう。 それにしても、信じられない威力の弓だった。 水平に矢を放って鎧を貫通するほどの威力があるのだ。「に、逃げろ!」「ひぃぃぃっ!」「バケモノめ、俺達が何をしたってんだ!」 一人が武器を手放すと、後は総崩れだった。「突っ込むぞ! ただし、草のバケモノは殺すな! あれは味方だ!」 ベティルは逃げる敵兵に安心して突っ込んだ。※ 戦闘とも呼べない一方的な殺戮が終わり、ベティルはアルフォートに戦果を報告した。「す、凄い、凄いよ! ピスケ伯爵!」「ありがたき幸せ」 ベティルはアルフォートに跪き、必死で無表情を取り繕った。 夜襲をすると決断しただけで多大な戦果を上げ、部下から尊敬の眼差しを向けられているのだから、アルフォートの前でなければ笑い転げている所だ。「あ、アルフィルクに戻ったら、褒美……領地を持てるようにアルコル宰相に話してみるよ」「ほ、本当ですか!」 待てよ、とベティルはすぐに思い直した。 アルフォートが領地をくれると言っても、今の彼はラマル五世の庶子に過ぎない。 皇帝になるかも知れないが、やり手のアルコル宰相が簡単にアルフォートを皇帝にするはずがない。 もちろん、アルフォートが領地を与えると言ってしまった以上、可能な限り努力はしてくれるだろうが、下手をすれば新貴族のように未開の地を押しつけられかねない。 そもそも、領地を与えられてもベティルには開拓に協力してくれるような部下や使用人はいないのである。 莫大な収益を得られるかも知れないが、想像を絶するほどに困窮するかも知れない。 今の生活に不満はないし、夜襲に参加した亜人どもの治療費と報酬まで支払わなければならないのだから、そんな博打を打つ気になれない。 誰も損をしない落とし所はないか、と必死に考えた末、ベティルは素晴らしいアイディアを思いついた。「恐れながら、アルフォート様。詳しくは申し上げられませんが、此度の戦果はエラキス侯爵の尽力があればこそ……故に領地はエラキス侯爵に与えて下さい」「わ、分かった」 ベティルは内心ほくそ笑んだ。これでエラキス侯爵とした約束の一つを果たしたことになるし、アルフォートの心証も良くなったからだ。※ 敵が撤収したのを見計らい、クロノは一部の部下を引き連れて敵の陣地だった場所を訪れた。 目的は死んだ部下の遺体を埋葬するためだ。 もっとも、一人で全員分の墓穴を掘ることなんてできないので、クロノにできるのは瞼を閉じてやり、手を組ませてやる程度のことだった。 三十一人分の墓を前にクロノは呆然と立ち尽くしていた。 寝不足のせいか、全く頭が働かない。『大将、大丈夫ですかい?』(ぶもぶも?)「……大丈夫だよ。それよりも、みんなは?」『へい、行軍は明日からってんで休ませてやす。まあ、少しばかり大将を怖がっているように見えますがね』(ぶもぶも)「まあ、そうだよね」 クロノは溜息を吐いた。 昨夜、クロノは弓兵に敵の狙撃を命じた。 映画でよくある戦術だ。 それだけではなく、死者を冒涜するようなマネさえした。「……僕は狂ってるのかも知れないね」 クロノは自分が正気だと思えなかった。 人を殺す瞬間、躊躇いはする。 けれど、人を殺しても罪悪感を覚えない。 ただ、鉛のような疲労感だけが残る。 このまま人を殺し続ければ罪悪感を抱くようになるのだろうか。 ある日、唐突に罪の意識が芽生えるのだろうか。『……大将?』(ぶも)「大丈夫だよ。僕は卑怯者と罵られても、みんなから怖がられても、大丈夫なんだ。どんな残酷なマネだって平気でできる。それで、一人でも部下を死なせずに済むんなら」 大丈夫、とクロノは呟き続けた。