LNCrawler

第11話:契約 後編

クロの戦記 異世界転移した僕が最強なのはベッドの上だけのようです — novelup.plus · All chapters

第11話:契約 後編

※ ああ、ここはハマル子爵領ではありませんのね、とセシリーはシーツを撫でる。 宛がわれた客室のベッドはハマル子爵領で使っているベッドに比べると、寝心地が悪い。 軍を辞めたとは言え、何も得なかった訳ではない。 セシリーは軍で図太さを得た。 その気になれば粗末なベッドでも眠れるし、粗食にも耐えられる。 セシリーが宛がわれた部屋は……当然ながら個室だ。 調度品は殆どなく、家具もシンプルな造りをしている。 貧乏たらしい部屋というのがセシリーの客室に関する感想だったが、実用という点では及第点だ。 それにしても、と時間が経過するにつれて思考が澄明さを増し、ふつふつと怒りが込み上げてくる。 やはり、あの男は成り上がり者の息子ですわ。 私が、ハマル子爵家の令嬢たる私を行儀見習いとして受け入れるのですから、跪いて感謝の意を表すべきでしょうに。 それを……チェンジ、とあの成り上がり者の息子はこともあろうにセシリーを要らないと言ったのだ。 おまけに給仕の真似事をさせるなど、成り上がり者の息子だけあり、行儀見習いという制度を理解していないに違いない。 行儀見習いとは婚姻と同じように家同士の関係を強化するために行われるものだ。 恐らく、兄はセシリーを第二婦人か、愛人に据えようと目論んでいるようだが。 全く、お兄様もお兄様ですわ。石と宝石の区別も付かないような人間に私を差し出すなんて、とセシリーは歯軋りをする。 けれど、ティリア皇女は分かっていらっしゃいましたわね。ひとまずはティリア皇女の傘下に入り、あの卑しい傭兵の息子を意のままに操ってみせますわ、とセシリーは暗い悦びを抱く。 その時、不意にセシリーは人が近づいてくる気配を感じた。 複数人ということしか分からないが、ズカズカと足音を立てているのだから、気配を隠すつもりはないのだろう。 念のため、とセシリーは枕元に忍ばせた短剣に手を伸ばす。 用心は大事だ。 用心を怠って傷物にされたら、自分の価値が下がってしまう。 ドカン! と扉が蹴破られ、「「焔舞!!」」 ド派手な炎が部屋を照らし、爆音が轟いた。「……!」 突然の暴挙にセシリーは短剣を握り締めたままベッドから転がり落ちた。 当然だ。下級とは言え、攻性魔術を室内でぶっ放された経験などない。「起きろ、起きろ! いつまで寝ている、このなんちゃってメイドが!」「虫にも劣るダメメイド……略して駄メイドがあたしらよりも遅く起きるとかありえないし!」 ポカンと呆気に取られているセシリーを無視して乱入した二人のメイド……鏡に映したようにそっくりなので、双子だろう……はひとしきり喚き終えると、訓練された兵士のように扉の両脇に控えた。 まず、部屋に入ってきたのはティリア皇女、次は三十を少し超えたくらいのメイドだった。 最後に入ってきたのもメイドだった。 年齢は十五歳くらいか。 色黒で、とにかく目付きが悪い。「お前はあっちだ」「へ~い」 指示されると、目付きの悪いメイドは眠たそうに欠伸を噛み殺しながら、セシリーの隣に移動する。「こ、これは何ですの?」「「焔舞!」」 ティリア皇女に近づいた途端、再び攻性魔術が火を噴いた。 セシリーは足を止め、ティリア皇女を見つめた。「メイド教育だ」「私は行儀見習いであって、メイドではありませんわ!」 セシリーが言うと、ティリア皇女は双子のエルフを手招きした。 三人で円陣を組み、「反論されたぞ。クロノから貰ったメモは……うぬ、罵倒の言葉しか書いてないぞ」「弱気になっちゃダメみたいな!」「ここは強気で押し切るしかないし!」「そ、そうだな」 コホンとティリア皇女は咳払いを一つ。「お前は……メイドだ。これからメイドになるべく教育を受ける」「私は行儀見習いですわ! 貴族として名誉ある待遇を求めますわ!」 はあ? と双子のエルフは嘲るように言った。「あたしらを盾にして逃げたくせに名誉とか笑わせるし」「つーか、売られたくせに名誉とか片腹痛いし」「私は売られていませんわ! 取り消しなさい!」 あ? と双子のエルフはセシリーに躙り寄った。「それ以上、近づいたら刺しますわよ!」「「上等だし!」」 双子のエルフに飛び掛かられ、セシリーは咄嗟に短剣を鞘から引き抜こうとした。「……っ!」 衝撃が走り、息が詰まる。 横にいた目付きの悪いメイドがセシリーの鳩尾を蹴り上げたのだ。「短剣、奪取!」「ひん剥いちゃうし!」 お、お止めなさい! という言葉の代わりに出たのはケヒュ、ケヒュという音だ。 セシリーは手足をばたつかせて抵抗したが、二対一だ。 寝間着を切り裂かれ、セシリーは胸を隠しながら双子のエルフを睨み付けた。「……まあ、丁度良いな」 ティリア皇女は背後に控えていたメイドから受け取った服をセシリーに向かって投げた。「何ですの?」「エプロンドレスだ。着たくなければ着なくても良いぞ。その時は裸で過ごさせるが」 セシリーはティリア皇女を睨み付けた。 分かってくれていると思ったのは間違いだった。 いや、最初からティリア皇女はあの成り上がり者の味方なのだ。「ブラッド・ハマル子爵は恥を掻くだろうな。クロノにあれだけの譲歩をさせておきながら、妹は満足な仕事をできずに追い出されるんだからな。契約の見直しもあり得るんじゃないか?」 ゾクリと悪寒が背筋を這い上がる。 理由は分からない。「……分かりましたわ。すぐに着替えるので、出て行って下さらない?」 は? と双子のエルフは呆れたように聞き返した。「分かりましたわ」 怒りを堪え、セシリーはエプロンドレスに着替えた。「……一悶着あったが、まあ、良いだろう」 ティリア皇女は満足そうに言った。「自分の意思でエプロンドレスを着たことには違いないからな。これからメイド研修に入る訳だが……話し掛けられた時以外は口を開くな! 口から……」 ティリア皇女は紙の束に視線を落とし、困惑しているかのように視線を泳がせた。「返事は『はい』か、『いいえ』の二つだけだ!」「……」「へ~い」「返事は『はい』だ!」「「はい!」」 セシリーと目付きの悪いメイドが大きな声で返事をすると、ティリア皇女はこれまた満足そうに頷いた。「では、自己紹介だ。私は……私のことは良いな。お前達の研修はアリッサが担当する」「宜しくお願いします」 ティリア皇女の背後に控えていたメイド……アリッサは良く通る声で言った。「デネブとアリデッドは研修の補佐だ。そして、私は罵倒を担当する。研修中はアリッサを教官と呼べ、アリッサと自分以外のメイドに対しては先輩だ。私のことは……奥様と呼べ」「「はい、奥様!」」「……奥様か、素晴らしい響きだ」 興奮しているのか、ティリア皇女は頬を赤らめた。「良いか! 今のお前達はメイド未満……羽虫未満の存在だ! この世界で最も劣った生物だ! メイドとして扱われたければ試練を乗り越えろ!」「「はい、奥様!」」※ どんな仕打ちが待っているのか不安だったが、アリッサ……メイド長を務める彼女の研修は真っ当だった。 まず、教えられたのは心構えだった。 要は主人であるクロノに忠節を尽くし、不意の来客があろうとも迎えられるように侯爵邸の維持管理に努めることだ。 次に図を用いて屋敷の何処でメイドが働いているかを説明する。 文字を読めないヴェルナに対する配慮もあったのだろうが、図にすると、メイドが何処で、どんな仕事をしているのか分かり易い。 一通り説明し終えると、実践だ。 と言っても、説明を受けながら客人と擦れ違った時の作法や掃除の仕方、料理の運び方を練習するのだ。 剣術や体術に当て嵌めれば型稽古といった所だろう。 ああ、これならば、とセシリーは安堵した。 理由は自分でもよく分からない。 ……そう考えていた時期が私にもありましたわ。 セシリーは震える手でレオンハルトと名付けた箒を振った。 ティリア皇女の説明によれば箒は羽虫未満であるセシリーの恋人らしい。「どうした? 動きが止まって見えるぞ? グズグズするな! さっさと動け! 陽が暮れてしまうぞ! 昨夜と同じように私に食事をさせないつもりか?」「はい、奥様!」 侯爵邸の一角にセシリーの声が響き渡る。 メイド研修の場として選ばれたのは客間の一つだった。 掃除の行き届いた部屋だ。 箒で掃いても目に見えるゴミはない。 ティリア皇女の言葉は言い掛かりにも等しいのだ。「……ティリア皇女」「何だ?」 アリッサが何かに気づいたらしくティリア皇女に耳打ちをする。「尻を振ってダンスでも踊っているつもりか? それとも、男を誘っているのかっ?」「……っ!」 セシリーが睨み付けると、ティリア皇女は待っていましたと言わんばかりに笑った。「その反抗的な目は何だ? そうか、そんなに腰が振りたいのか? ならば存分に振らせてやるぞ! スクワットだ!」「うぇ、勘弁してくれよ!」 ビュッ! とティリア皇女は馬鞭を振るった。「返事は『はい、奥様』だ!」 セシリーとヴェルナは丁寧に箒を床に置き、頭の後ろで腕を組んだ。「デネブ、アリデッド、数えろ」「「い~ち、にぃ~……」」 セシリーとヴェルナがスクワットを始めると、ティリア皇女はゆっくりと歩き始めた。「……お前達は蛇蝎の如く私を忌み嫌うだろう。だが、お前達は私を憎んだ分だけ真のメイドに近づく。分かったか!」「「はい、奥様!」」「ふざけるな! 大声を出せ!」 辛うじて声を絞り出したが、ティリア皇女から返ってきたのは罵声だ。「「はい! 奥様っ!」」 セシリーは短時間で反抗的な態度を取ればペナルティーの腕立て伏せやスクワットが上乗せされると学んでいた。 従順に振る舞うことこそ、正しい対応なのだ。 だが、正しい対応をしていてもティリア皇女の罵倒は容赦なく降り注ぐ。「スピードが落ちているぞ! 生まれたばかりの子馬のマネでもしているつもりか!」「「いいえ、奥様ッ!」」 ティリア皇女は馬鞭を振り、 嗜虐的 ( サディスティック ) な笑みを浮かべた。「くふ、くふふ、私の使命は役立たずの排除だ。自分がクロノのために何をできるかを考えるのではなく、クロノが何をしてくれるか考えるような羽虫未満の役立たずを追い払うことだ」 ティリア皇女は感極まったように体を震わせた。「くふふ、羽虫未満の貴様らには名前など要らんな。私が相応しい名前をくれてやろう」 ビシッとティリア皇女は馬鞭の先端をセシリーに突き付けた。「お前のことを駄乳と呼んでやろう。無駄に栄養を胸に蓄え、無駄にデカい胸をしたお前に相応しい名前だ」 くふふ、とティリア皇女は堪えきれないというように笑う。「こ、この、だ、駄乳め。や、役立たずの駄乳めが。牛の方がミルクを出すだけ、マシだぞ。こ、この、だ、駄乳め」 ティリア皇女は俯き、「誰が駄乳だ! クロノォォォォッ! お前がして欲しいって言うから、したんじゃないか! 私は頑張ったんだ! 頑張ったんだぞ!」「姫様、落ち着いて!」「気をしっかり持って!」 オロロ~ン、オロロ~ンと嘆くティリア皇女を双子のエルフが左右から支えた。「……ぷ」「ぐぬっ!」 堪らず吹き出したヴェルナをティリア皇女は鬼のような形相で睨んだ。「お前の名前が決まったぞ」「……」 ティリア皇女はセシリーのそれよりも豊かな膨らみを強調するようで組んだ両腕で持ち上げた。「……まな板」「……っ!」 ヴェルナが表情を強張らせると、ティリア皇女は満足そうに頷いた。 自分で付けた名前が余程気に入ったのか、まな板、まな板と何度も繰り返した。「徹底的に可愛がってやるぞ! 泣いたり、笑ったりできなくしてやる! スクワット五十回追加だ! 立てなくなったら、腕立て伏せだ!」※ 深夜……思考は曖昧だった。 誰かに誘導されたのか、自分で歩いたのか、それさえも分からない。 いつの間にかセシリーは侯爵邸の地下にある部屋にいて、ベッドに倒れ込んでいた。 地下にあるだけあり、狭く陰鬱な部屋だった。 家具は薄汚れたベッドが二つ、その間には粗末なテーブルとイスが置かれている。 誰かが運んでくれたのだろう。 テーブルの上にはスープとパンが二人分置かれてた。 部屋の空気は埃と 黴 ( かび ) の臭いに汚染され、あれほど働いた後なのに食欲がない。 のろのろとセシリーとヴェルナは席に座り、機械的に食事を胃に流し込んだ。 冷えて固まった脂が唇にべったりと付着する。 その感触が不快だったが、こんな食事でも取らなければ体調を崩してハマル子爵領に追い返されてしまう。 食事を終え、セシリーは再びベッドに倒れ込んだ。 ヴェルナも似たような状態でベッドの上でぐんにゃりしている。「……こんなの、あんまりですわ」「研修が終わるまでの辛抱だろ」 セシリーが天井を見上げて呟くと、ヴェルナは呻くような口調で言った。「私は、貴族ですのよ?」「そうかよ。だったら、さっさと家に帰りゃ良いじゃねーか」「私が帰ったら、貴方が罰を受けるんじゃなくて?」 普段のセシリーならば武力を以てヴェルナの無礼な台詞に報いている所だが、もし、バレたら? という想いが暴力に訴えるのを躊躇わせた。「大した罰は受けねーよ、多分」 ボリボリと頭を掻き、ヴェルナは気怠そうに言った。「ま、逃げる所なんてねーしな。それに扱いは悪くなったけど、前いた所に比べりゃ、ここは天国だぜ。飯は出るし、寝床もある。希望すりゃ、文字の読み書きまで教えてくれるってんだからさ」「貴方がその気なら、協力して差し上げますわ。もちろん、逃亡後の生活については私が保証します」「……やめとく」 ヴェルナはセシリーに背を向けた。「何故ですの? 貴方のような貧民にとっては一生に一度あるか、ないかのチャンスですのよ?」 貧民は貧民である理由がある。 彼らは怠惰で、近視眼的だ。 だからこそ、救貧院のような場所で歪んだ性根を叩き直してあげなければならない。 少なくともセシリーはそう考えているし、多くの者もそう考えているだろう。「エラキス侯爵……クロノ様には仕事を世話して貰った恩があるんだよ。一度、会っただけのあたしにそんだけしてくれた人を裏切れねーだろ」 それに、とヴェルナは付け加える。「あたしを逃げる口実にしてるのが気に入らねーんだよ」「私を侮辱する気ですの、貧民風情が? 取り消しなさい!」「んだと、こら」 ヴェルナはベッドから降り、拳を構えた。「やる気か、テメェ?」「ハッ、貧民風情が貴族に楯突くと、どうなるか教えて差し上げますわ!」「上等だ、このアマ!」 言うが早いか、ヴェルナは拳を構えたまま突っ込んできた。 スクワットと腕立て伏せの影響が残っているためか、呆れるほど遅い。 身の程を教えて差し上げますわ、とセシリーはその場で拳を構えた。 ヴェルナはセシリーの顔を目掛けて拳を繰り出す。 セシリーは身を屈めてヴェルナの拳を躱した。 本来の動きができればヴェルナの攻撃を潜り抜け、そのまま拳を叩き込めたのだが、疲労した体はセシリーのイメージに付いてこない。 呆れるほど鈍い体の反応に歯噛みしながら、セシリーは弧を描くような軌道で拳をヴェルナの脇腹に叩き込む。 ヴェルナの顔が苦悶に歪む。 だが、それだけだ。 疲労のせいで拳に威力がのらなかったのか、それとも、ヴェルナが頑丈なのか。 一発でダメならば、とセシリーがヴェルナの鳩尾に拳を叩き込んだ次の瞬間、肩に衝撃が走った。 ヴェルナが拳を振り下ろしたのだ。 距離を取るべきか、足を止めて打ち合うべきか、セシリーは逡巡する。「どうした、貴族様?」「……決めましたわ」 セシリーが拳を振り上げると、ヴェルナは上体を逸らした。 フェイントであるとも知らずに。 床を蹴り、セシリーは崩れ落ちるようにヴェルナに体当たり。 一緒に倒れるつもりはない。 いや、なかった。 セシリーが頭に激しい痛みを感じたのと床が近づいてきたのは同時だった。 ヴェルナが苦し紛れ……狙ってやったのかも知れないが……にセシリーの髪を掴んだのだ。 そう理解するのに十分な時間があった。 二人で床に倒れる。 セシリーが上で、ヴェルナが下だ。 このような状況では上にいる者が圧倒的優位に立つ。「……こ、この卑怯者!」「喧嘩に卑怯もクソもあるか!」 グイッとヴェルナはセシリーの髪を横に引く。 変な音が首からしたが、セシリーは構わずにヴェルナの顔に拳を振り下ろした。「クッ、腕の力が!」「言い訳は、聞かねえ!」 その日、セシリーとヴェルナは力尽きるまで殴り合った。※「……この羽虫未満共め」 セシリーがスクワットと腕立て伏せによる筋肉痛、喧嘩によるダメージ、睡眠不足による疲労感に苛まれる体を引き摺るようにして集合場所に辿り着くと、ティリア皇女は開口一番そんな言葉を口にした。 双子のエルフがいれば囃し立てただろうが、幸いにも二人の姿は見えない。「汚れた服を洗濯するという発想さえないのか?」 くふふ、とティリア皇女は笑った。「罰としてスクワットと腕立て伏せだ」「「はい、奥様」」 平坦な声で答えると、ティリア皇女は不愉快そうに眉根を寄せた。「声が小さいぞ! 腹から声を出せ!」「「はい! 奥様っ!」」 半ば自棄になって叫ぶと、ティリア皇女は自分の教育成果に満足したらしく満足そうに頷いた。 だが、セシリーとヴェルナがスクワットを始めると、ティリア皇女の表情は落胆に変わった。「……も、もう、ダメだ」「もうダメですわ」 先に音を上げたのはヴェルナだった。 ここまでやったのだから、とセシリーは余力を残して音を上げた。「ティリア皇女、二人とも体力の限界のように感じられますが?」「うむ、そうだな」 アリッサの指摘にティリア皇女は神妙な顔で頷いた。「這い蹲って床を磨け。この固い床を……」 ダンダンとティリア皇女は足で床を叩き、「この固い床をクロノだと考え、その意味もなくデカい胸と平坦な胸で磨くんだ。言うなれば奉仕だ。そう、胸で奉仕しろ」 セシリーはティリア皇女を睨んだ。ありったけの憎悪を込めて睨んでも、ティリア皇女は賛辞を受けているかのように誇らしげだ。「その胸は飾りか?」「……くっ」 ギリッと奥歯を噛み締め、セシリーは四つん這いになり、尻を突き上げて胸を床に擦り付けた。※「まあ、こんな物だろう。明日はきちんと服を洗っておけ」「「はい、奥様っ!」」 ティリア皇女とアリッサが出て行くのを見届け、セシリーとヴェルナはその場に崩れ落ちた。 半日以上も尻を突き上げるような姿勢を取り続けたせいで腰の感覚がない。「普通に仕事をしてりゃ、こんなに掛からねーのによ」 近くの壁に這い寄り、ヴェルナは壁を頼りに立ち上がった。 セシリーは床に座り込んだまま、ヴェルナを見送る。 昨夜、殴り合いをしたばかりなのに一緒に行動できるはずもない。 とは言え、いつまでも座っていられない。 こんな時に神威術が使えれば疲労を誤魔化せるのに、とセシリーは立ち上がる。 セシリーは地下にある部屋に向かい、その途中で足を止めた。 あの成り上がり者の息子とヴェルナの声が聞こえたからだ。 あの成り上がり者の息子はティリア皇女が何をしているか知っているはずだ。 いや、ここで呼び止められて理不尽な命令を下される可能性が高い。 あの男は成り上がり者の、薄汚い傭兵の息子なのだから。「……大変だったね」「ホント、勘弁して欲しいぜ。連帯責任とかさ。あたしは真面目に仕事をしてても、相方がヘマしたら意味ねーもん」 だが、セシリーの耳に届くあの男の声はひどく穏やかだ。 ベッドに誘うためとも考えられますわね。 あの男は女好きと聞く。 痩せた鶏のようなヴェルナでも抱いてみたいと思うのだろう。 セシリーは見つからないように廊下の角から二人の様子を覗き込んだ。 あの男は……穏やかな表情でヴェルナと話していた。「もう少しの辛抱だよ」「そりゃ、そうだけどさ。つか、あの女が来たせいで、あたしが割を食ってんじゃんよ」「悪いね。責任感を学ばせるためには二人一組になった方が良いと思ったんだけど」「別に、良いけどさ」 ヴェルナは照れ臭そうに頭を掻いた。「セシリーの足りない部分をヴェルナが補ってくれると嬉しいな。仕事についてアドバイスするとかでも良いからさ」「けどなぁ、あいつ、人の話を聞きそうにないじゃん。貴族が貧民に教えを請うなど、プライドが許しませんわ、とか良いそうじゃん」「はは、上手い上手い」 ヴェルナが言うと、クロノは楽しげに笑った。 何ですの、あの男は? あんなに穏やかな、優しそうな顔をして……なんて、不愉快な男、とセシリーは奥歯を噛み締めた。 気配を感じて振り向くと、フェイが立っていた。 フェイは困ったように頬を掻いた。 セシリーは俯き、エプロンドレスを握り締めた。 ラベンダーの匂いがフェイから漂ってくる。 香料か、香料を練り込んだ石鹸を使った後なのだろう。 洗濯したばかりなのか、着ている服には汚れ一つない。 セシリーのエプロンドレスは汚れ、汗の臭いもひどい。「何か言ったら、どうですの?」「……」 フェイは答えに窮したように押し黙った。「いい気味だと笑えば宜しいんじゃなくて? 貴方を『馬糞女』と馬鹿にし続けた私がこの有様ですわ! それとも、私には嘲笑う価値もありませんのっ?」 セシリーは感情を爆発させ、フェイに詰め寄った。 だが、フェイは一歩も動かずにセシリーを見つめた。「……どうして」 痛いほどの沈黙の後、フェイは小さく呟いた。「どうして、こんなことになってしまったのでありますかね?」「知りませんわ!」 フェイが誰のことを言っているのか、セシリーは理解できない。 セシリーの現状についてかも知れないし、セシリーとフェイの関係のことかも知れない。 セシリーは行儀見習いという名の人質だ。 しかも、兄が押し付けるように差し出した望まれない人質だ。 女として求められればまだしも救いようがあったかも知れない。 そうであればあの男を見下してやれたのだ。 けれど、セシリーは女としての価値を否定された。 面と向かって、しかも、交渉を決裂させることも厭わないと強い覚悟で。 今のフェイは第十三近衛騎士団の騎兵隊副隊長だ。 しかも、あの男に女として求められているとさえ聞く。 成り上がり者の息子に股を開いて今の地位に就いた。 いや、活躍の場さえ与えればフェイは近衛騎士団の中でも最精鋭と評される第一近衛騎士団にも、第二近衛騎士団にも、所属できるだけの実力があったのだ。「もう、行くであります」「……」 呼び止めようと思ったが、フェイを呼び止める言葉は出て来なかった。 セシリーは拳を握り締めた。 眼球の奥が痺れてる。 口を開いたら泣き出してしまいそうだった。 地下の部屋に戻ると、昨日と同じようにスープが置かれていた。 ヴェルナは料理に手を付けず、イスに座っていた。「遅かったな。まあ、座れや」「……」 あの男と話したことが嬉しかったのか、ヴェルナはセシリーを苛つかせるほど機嫌が良かった。「うん、まあ、何だ。あたしが、じゃなくて、あたしも悪かったよ」「……」 セシリーは無言でスープを啜り、指で千切ったパンを口に運ぶ。「いや、あのさ……もうちょっと効率的に仕事しね? 慣れてないだったら、あたしが色々と教えるしさ」「少し黙って下さらない?」「お、おう、黙るぜ」 食事を終える。 いつの間にか部屋の片隅には大きなタライと水瓶が置かれていた。 これで服を洗えと言うことだろう。「なあ、話の続きなんだけど」「止めて下さらない。今日は疲れてるんですの」 早く服を洗って眠りたい。 セシリーはエプロンドレスを脱ぎ、ベッドに投げる。 水瓶からタライに水を移し、エプロンドレスを投げ入れる。「いやいや、今じゃないとダメなんだって。何なら、服を洗いながらでも良いからさ」「静かにして下さらない?」 セシリーが言うと、ヴェルナは不愉快そうに眉根を寄せた。「止めた! クロノ様が言うから、面倒を見てやろうと思ったのに」「面倒を見て欲しいなんて頼んでいませんわ!」「そーかよ! お前のことなんか知るか!」 吐き捨てると、ヴェルナはベッドに横になった。 もう話したくないと言わんばかりに背を向けて、だ。 セシリーは背を丸めてエプロンドレスを洗った。 座学で洗い方を教わっていたが、コツがあるのか、生地を擦り合わせるように洗っても汚れが全く落ちない。 このままでは明日もスクワットと腕立て伏せを強要される。 焦りと苛立ち、惨めさが募る。 多少はマシというレベルに汚れを落とし、セシリーはベッドに潜り込み、声を殺して泣いた。※ 翌日、セシリーはエプロンドレスを見て目を見開いた。 エプロンドレスの汚れが落ちていたのだ。 反射的に横を見ると、ヴェルナが不機嫌そうな表情を浮かべていた。「……何だよ」「お礼は、言いませんわ」 ヴェルナは舌打ちを一つ。「お礼が言われたくてやった訳じゃねーから良いけど。洗濯一つできないんなら、相談しろよ。汚れが落ちてなかったぜ」「私は教わった通りに洗濯しましたわ!」 ハッ、とヴェルナは笑う。「あの汚れは手で洗っただけじゃ落ちねーよ。洗濯板と石鹸を使わねーと」「洗濯板?」 タライと水瓶の近くを見ると、板が置かれていた。 長方形の凹凸が付いた板だ。 同じ物を見た記憶がない。「そんなことは教わってませんわ」「そりゃあ、初歩の初歩しか教わってねーもん。洗濯板だって、最近になって使われ始めたものみたいだしさ」 ボリボリとヴェルナは頭を掻いた。「ったく、イヤらしいよな。多分、洗濯板と石鹸を置いてなかったのはワザとだ。あたし達を試したんだよ。さっさと飯を食って仕事に行こうぜ」「わ、分かりましたわ」 五歳も年下の子どもに力を借りなければ洗濯一つこなせないなんて、ひどく情けない気分だった。 セシリーはエプロンドレスに着替え、席に着いて朝食を食べた。 スープとパン、いつもと変わらないメニューだ。 食事を終え、集合場所に行くと、ティリア皇女は残念そうな顔をしていた。 ティリア皇女の後に控えるアリッサは何処か嬉しそうだ。 仕事を始めると、ますますティリア皇女は残念そうな顔をした。 アリッサがティリア皇女に耳打ちするよりも早くヴェルナが注意したからだ。 もう少しテキパキ動けだの、二人で固まっても仕方ねーからあっちを掃けだの、一人じゃ家具を持ち上げられないから協力するだの、遠慮の欠片もなかったが、アリッサの反応を見る限り、ヴェルナの注意は的確なようだった。「むぅ、つまらんな」「せめて、建前を仰って下さい」 本音を漏らすティリア皇女をアリッサが窘める。「『罵り帳』が必要なくなってしまったぞ。まだ、半分も残っているのに」「協力して働けるようになったのですから、喜ばしいことです」 むぅ、とティリア皇女は不満そうに唇を尖らせた。「アリッサから見て、及第点か?」「まだ、研修は必要と考えます」 ティリア皇女は『罵り帳』をアリッサに渡した。「後は任せたぞ」「どちらに?」「剣術の訓練だ。二人に付き合って訓練の手を抜いてしまったからな」 そう言い残し、ティリア皇女は部屋から出て行った。「ティリア皇女は出て行かれましたが、厳しく監督させて頂きます。今日は効率的に仕事をして温かな夕食を食べられるようにしましょう」「「はい、教官殿っ!」」 セシリーとヴェルナが叫ぶと、アリッサは苦笑いを浮かべた。※ 効率的に、と言うアリッサの言葉に偽りはなかった。 長くメイドとして働いているだけあり、アリッサの指示は的確だった。 初日のセシリーであれば反抗的な台詞の一つも吐いただろうが、ティリア皇女がアレだったせいか、アリッサの指示や注意を素直に受け容れることができた。 また、ちょっとしたことで誉めてくれるのも嬉しい。 他のメイドと同じように昼食を取り、午後の仕事に励む。 そして、夕方……今日の仕事は執務室の掃除で終わる。「旦那様、掃除に参りました」 返事がないのを了承と受け取ったのだろう。 アリッサは執務室の扉を開け、するりと入室する。 ヴェルナに続き、セシリーが部屋に入ると、あの男は机に向かって仕事をしていた。「お疲れ様」「これが私の仕事ですから」 どんな嫌がらせをされるのか、とセシリーは身構えたが、意外にもあの男からは何もされなかった。 ただし、セシリーには全く話し掛けてこなかったが、アリッサとヴェルナにはやたらと話し掛けていた。 今日の天気はどうだの、侯爵邸の状態はどうだの、街の様子はどうだの、困っていることはないかだの、鬱陶しいほどだ。 アリッサも、ヴェルナも掃除をしながら答える。 成り上がり者の新貴族とは言え、仕事をしながら返答をするのは無礼だとセシリーは感じたが、成り上がり者の息子は……クロノは気にしていないようだった。 質問を聞き漏らされても、しばらくしてから思い出したように同じ質問をする。 他の部屋の倍の時間を掛けて掃除を終え、退室しようとした時、「ああ、セシリーはここに残って」 と呼び止められた。 アリッサとヴェルナが出て行った後、セシリーはクロノと対峙した。「……仕事の調子はどう?」「何を白々しい」「ティリアは失敗したのかな?」 セシリーが吐き捨てると、クロノはつまらなそうに頬杖を突いた。「お生憎様、あの程度で私の心は折れませんわ」「そうみたいだね。逃げ帰ってくれると、ありがたかったんだけど……」 それが本心ですのね、とセシリーはクロノを睨み付けた。 恐らく、昨夜の件はヴェルナを気持ちよく働かせるための方便だったのだろう。「正直、ここまで頑張るとは思わなかったよ」「そう考えているのなら、もう少し嬉しそうな顔をした方が宜しいんじゃなくて」 セシリーは皮肉を返した。 クロノの言葉は賛辞ではなく、自分の予想が外れたことに対する落胆だ。 この男の予想を覆してやった。 それだけで晴れやかな気分になる。 もちろん、これから先も有象無象の嫌がらせを仕掛けてくるだろうが、そのたびに落胆させてやれば良いだけだ。「話はお終いですの? 用が済んだのならば退室させて頂きますわ」「まあ、頑張って」 言われなくても、とセシリーはクロノに背を向けた。 クロノが次に口を開いたのはセシリーがドアノブに手を掛けた時だった。「……これからも劣等感を刺激されることはあるだろうけど、ね」 セシリーは動きを止め、ゆっくりと振り返った。 先程と同じようにクロノは頬杖を突いていた。「この私が劣等感?」 ドクドクドクと心臓が早鐘のように鼓動する。 鈍器で殴られたような衝撃が頭を揺らしている。「取り消しなさい!」 セシリーが叫ぶと、クロノは邪悪な笑みを浮かべた。「そんなに取り乱さなくても分か……いや、想像できるよ」「何を、ですの?」 戯れ言だ。 この男は揺さぶりを掛けようとしているのだ。 セシリーは旧貴族であるハマル家の令嬢にして、元第十二近衛騎士団の副団長なのだ。 剣術も、馬術も高いレベルで習得している。 そんな自分の何処に劣等感を抱く要素があると言うのか。 怒るべきだ。 これ以上の暴言を許してはいけない。 だと言うのにセシリーは言葉を発することができなかった。 見ている。 見られている。 たった一つの目でセシリーを見ている。 いや、見られていたのだ。 初めて出会った時から、クロノはセシリーを見ていた。 観察していた。 何を見ていたのか、何を見られていたのか。 それは恐怖だ。 何を見られていたのか分からないという恐怖だ。 クロノは立ち上がり、恐怖を煽るようにゆっくりとセシリーとの距離を詰める。 クロノから目を逸らせない。 一歩、二歩と後退り、壁がセシリーの行く手を塞いだ。 弾けるようにセシリーはドアノブに手を伸ばした。 セシリーの手首をクロノが優しく掴む。「努力を怠らず、そこそこの実力と成果を得たけれど、どんなに頑張っても、天才に及ばない」「お、お黙りなさい」 惨めったらしいほど声が震えていた。 ザクザクとクロノの言葉は見えない刃となってセシリーの心を切り刻む。 努力をして成果は得た。 けれど、フェイのような剣術の天才に、兄のような馬術の天才に及ばなかった。 決して越えられない才能の壁、それでも、立場に相応しい成果を求められる。「だから、評価を下される前に逃げたんだ。次の所でなら? 無理だよ。自分が変わらないのに場所だけ変えても意味がない」 クロノの口調は優しかった。 だが、まるで睦言のように優しげな声音がセシリーの心を抉る。 逃げた。 逃げ出した。 副官として相応しい成果が出せないと分かってしまったから。 第十二近衛騎士団からも、ガウルの元からも逃げ出した。「だったら、違うことで? それもありかも知れないけど、分かってるんでしょ? 分かってるんだよね?」「離しなさい!」 振り払おうとしたが、クロノは手を離さない。 クロノに手を引かれ、セシリーは扉に押し付けられる。 セシリーは俯いた。 目を合わせられない。 彼の瞳に決定的な破綻を見出してしまいそうで怖かったのだ。 今ならば自分を誤魔化せる。 クロノはセシリーの心臓を指差した。「別の場所に行っても、違うことをしても、貴族であることに縋っても、他人を見下しても……劣等感からは逃げようがないよ。自分なんだからね」 それで終わった。目を逸らし、逃げ続けていたものに捕まった。 クロノは興味を失ったようにセシリーの手首から手を離した。※ あの男を黙らせなければ。 口封じのために殺す? できない。 そんなことをしたら貴族としての名誉まで失ってしまう。 ハマル子爵領に逃げる? 逃げ帰れば人質すら満足にこなせない無能と兄に思われてしまう。 今、考えていることさえ見透かされているのかも知れない。 侮っていた。 薄汚い傭兵の息子だと、自分と同じ、いや、自分未満の才能しか持ち合わせていない凡人だと侮っていた。 あの男は凡人だ。 才能の限界を知る、恐らくは自分と同じように劣等感を抱えていた人間だ。 だからこそ、セシリーの弱さを理解する。 セシリーの行動を観察し、自分の経験と照らし合わせて心の奥底に隠していた事実を引き摺り出してしまう。 どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば……、とセシリーはベッドの中で自問を続けた。※「そう言えば、あの訓練ってさ」「うん?」 午後の茶会……ティリアが食堂で香茶を飲んでいる時にクロノが来ただけの話だ。 付き合ってくれるのならば習慣にしても良いと思うのだが、クロノは仕事を途中で抜け出すのは悪いことだと考えている節があり、実現しそうにない。「ああ、あの訓練がどうしたんだ?」「有名な『えいが』……まあ、物語が元ネタなんだけど、作中で訓練に耐えきれなかった訓練兵の一人が精神に異常を来して教官を殺した後で自殺するんだよね~」「……おまっ! どうして、そんな大事なことを言わないんだ!」 思わず、ティリアは叫んだ。 あの訓練方法はクロノの世界で有名で、クロフォード男爵領のメイドも使っているとしか聞かされていないのだから。「いや、聞かれなかったし」「あんな説明のされ方で誰が聞くんだ!」 ティリアは剣を握り締め、周囲の気配を探った。 ついでに神威術『活性』で聴覚を強化する。 足音が近づいて来たな。 一人、いや、二人か、とティリアは剣の柄に手を添える。 ガチャリと扉が開き、二人のメイド……ヴェルナとセシリーが食堂に入室する。「掃除しに来たんだけど、使ってたのかよ」「ヴェルナさん。その物言いは旦那様と奥様に失礼ですわ」「お、おう」 柔らかな口調でセシリーに窘められ、ヴェルナは面食らったように返事をした。「ヴェルナ、ヴェルナ」「まな板は止めたのかよ」 ティリアが手招きをすると、ヴェルナは不承不承という感じで近づいてきた。「セシリーはどうしたんだ?」「知らね。最近、独り言を言うようになったと思ってたんだけど……今朝、起きたら、こんなになってた。まあ、良いんじゃね。仕事はテキパキこなしてるし、注意すると、素直に従ってくれるしさ」 精神に異常を来して、というクロノの言葉がティリアに重くのし掛かる。「あ~、セシリー、セシリー?」「何ですの、奥様?」 ティリアは油断なく剣の柄に触れながら、セシリーに呼びかけた。「ん、何だ、私のことを恨んでいないかと思ってな」「私が奥様を恨む訳ありませんわ。むしろ、感謝してますの。傲慢な私に謙虚さを教えてくれたんですもの。何だか、生まれ変わった気分ですわ。太陽が眩しいですわ」 手を翳し、セシリーは眩しそうに目を細めた。「……ヤベェ」「いや、好都合なんじゃないか?」 こういう異常ならば歓迎すべきだろう。 まあ、ヴェルナは虫でも見るような目でセシリーを見ているが。「いやいや、むしろ、ヤベェよ。頭の中が残念なことになってるじゃねーか」「問題ない。ブラッド・ハマル子爵は感謝してくれるぞ、多分」「しねーよ、感謝。何処の世界に自分の妹の頭が残念なことになって感謝する兄貴がいるんだよ」「逆に考えるんだ。今までのセシリーこそが残念で、今のセシリーが普通なんだ。ブラッド・ハマル子爵に問い質されても、最初からこうだったと言い張るぞ、私は。だから、お前も私は知らぬ存ぜぬを貫き通せ。職を失いたくないだろ?」「そりゃあ、そうだけどさ。悪化したら、どうするんだよ」「それはその時に考えよう」 ティリアは震える手でカップを口元に運んだ。「お前も飲むか? ペパーミントには鎮静作用がある」「お、おう」「おかしな奥様とヴェルナさん」 クスクスと笑うセシリーからティリアは目を背けた。 ヴェルナは沈痛な表情を浮かべている。「セシリー、ちょっと」「何ですの、旦那様?」 セシリーは柔らかな微笑みを浮かべてクロノに歩み寄る。 その柔らかな微笑みがティリアには狂気の産物に見えて仕方がない。「少し雰囲気が変わったね?」「ええ、旦那様と奥様のお陰ですわ」 クロノは邪悪な笑みを浮かべ、セシリーの尻を触った。「ダメですわ、旦那様」「ふふ、良い反応だね。今夜、僕の部屋に来ない?」「クロノ!」 バンバンと机を叩き、ティリアは抗議する。「あら、奥様が怖い顔で睨んでますわ」「うん、怖いね。けど、来るんでしょ? 来てくれたら……」 セシリーはクロノの口元に耳を寄せた。 何を言ったのか、セシリーの穏やかな微笑みは凍り付いた。 バシッ! という音が響いた。 セシリーが平手でクロノの頬を叩いたのだ。「こ、この成り上がり者! 薄汚い傭兵の息子風情が、わ、私にそんなことをして許されると思っていらっしゃいますのっ!」 ピュ~ルリとそんな音が聞こえたような気がした。 セシリーは気まずそうにティリアとヴェルナを見た。「慣れない演技、ご苦労様」「演技だと分かっているのなら、その手をお離しなさい!」 どうやら、クロノは叩かれてもセシリーの尻から手を離さなかったようだ。「演技?」 ヴェルナが声を裏返らせると、セシリーは気まずそうに顔を背けた。「従順なフリをして自分の立場を強化しようと考えてたんじゃないの? けど、甘い、蕩けるように甘い。僕は蹴られた恨みを子々孫々まで語り継ぐ覚悟だ」 相変わらず、クロノは人としての器が小さい。「不愉快ですわ!」「お~い、仕事をどうするんだよ」 荒々しい足取りで食堂を出て行くセシリーをヴェルナが追い掛ける。「クロノ、セシリーが本当に残念なことになってたら、どうするつもりだったんだ?」「美味しく頂きます」「演技を貫き通したら、どうするつもりだったんだ?」「美味しく頂きます」 どちらに転んでも美味しく頂いていたのか、とティリアはクロノを見つめた。 クロノがセシリーに何を言ったのか興味はあったが、ティリアは尋ねなかった。